溶けたメッセージボトル
あとになって思うと、あのひとが亡くなったときも雪の日だった。
誰もいない1LK程度のアパートを掃除していると、窓のほうから白い粒がゆっくり舞い降りる光景が広がっていた。いつのまに降っていたのだろう。砂糖をまぶしたような地面を見ると、つい先ほどのことだとわかった。
──ぼくは、雪が始まるところが見たいんだよね。
そう、あのひとが言っていたことを思い出す。彼は前の客で、ただの会社員。趣味が雪の研究であるらしかった。わたしは家政婦として雇われて、家事だの掃除だの洗濯だのをしているだけで、それ以上のことは詳しくない。月・水・金曜日の、週に三回ばかりの付き合いでしかなかったのだ。
しかし、それでも研究道具で散らかった部屋を掃除するたびに、彼の雪への情熱がうかがえる。顕微鏡はもちろん、虫眼鏡やシャーレ、ガラス瓶までさまざまな器物が、さして広くもない、ひとつの部屋を占拠しているのだ。おまけに研究用の冷凍庫まであるときた。大したものだと思う。わたしは家政婦仕事をやるだけやったら、疲れて家で寝た切りになってしまうので、それだけ熱中できる趣味があるということに素直に驚くと同時に、理解に苦しんだ。わたしが大学を卒業しなかったことも大きいかもしれない。こんなことをして楽しんでいるのは、お金持ちの道楽だと決め込んでいたのだ。
だが、お客様の趣味嗜好に首を突っ込むのは野暮だった。実際初めて彼の家に上がったとき、研究用具は手を触れないよう厳しく言いつけられていた。だからわたしは部屋の掃除こそすれ、机の周囲には触ったことすらない。ただ、いつも散らかっているなあぐらいにしか思っていなかった。
彼は三十歳ほどの男性で、ひとり暮らしのようだった。かつては妻がいたらしいが、すぐに別れたらしい。「いまどき流行らないお見合いだったんだ」と彼は眼鏡越しに笑っていた。両親の強い薦めを断れずに結婚したが、性格や趣味が合わなくてすぐ離婚を決意したのだった。「つまらないことで喧嘩したよ。靴下を裏返したまま洗濯かごに入れるな、とか、部屋の角はきちんと掃除機を掛けろ、とか。まあだいたいはぼくががさつだからいけないんだけど、どうにも好きなことに熱心になっちゃうから、すぐ忘れちゃうんだ」
「そのころから、雪の研究を?」と、その時わたしは質問した。彼は首を振った。
「いいや。もとは砂粒を研究していたんだ。小さいものに目がなくてねえ」
「はあ」
「こう、つぶさに観ると、どれもきれいなんだよ。結晶みたいできらきらしていてねえ」
とにかく変なひとだった。
「では、どうして雪に?」
「簡単な話だよ。砂に飽きたからさ」
「はあ」
「だから、ぼくは研究者には向いていないんだろうなあ。面白いと思ったらなんでも取り組むけど、飽きるのも早くて。ああいうのって、じっくり腰を据えてやってるひとが偉いと思う。国家予算とか使うならなおさらだ。ぼくにはそんな勇気も、図々しさもないから、自分で稼いだお金で、ひっそりやるんだよ」
そういう彼の表情は、どこか寂しそうでもあった。まるで自分がなれなかった人生の面影を、雪や砂の結晶の中に投影しているかのようだった。
「だったら、研究者になればよかったのに」と思わずわたしはつぶやいてしまう。言った途端、やってしまったと後悔した。前の職場でも思ったことを口にして台無しになったのだ。しかし彼は笑った。「そうだね、その通りだよ」と言ったっきりだった。
それ以来、彼は仕事中にわたしに、雪の研究について語るようになった。唐突にわたしをさん付けで呼びかけたかと思うと、顕微鏡の方にまで手招きして「ちょっときて、みてください」と言ったのだ。きらきらした少年の瞳だった。心の敷居が低くなったのだろうか。
言われた通りに覗き込むと、そこには水晶細工のような透明な菱形の先端が、ズームアップして映し出されているのがわかった。それがちょうど花びらのように中心に根ざして、等間隔に、均整に六角形を象っている。
「わあ、きれい」と思わず呟くと、彼は得意げに「でしょう、でしょう!」と答えた。その堂々らしい態度を、わたしは滑稽だと思った。別にきれいなのはあなたじゃないでしょうに。けれどもその子供っぽい楽しげな表情に対してあえて水を差すのは良心が咎めた。あくまで相手はお客様なのだから、気持ち良い関係が築けるのであれば、別に害はないはずだ。息抜き程度の雑談だと思えば、むしろちょうど良い、退屈なときに流すクラシック音楽のようなものだった。
ところが、彼は次第に専門的なことばかり語るようになってきた。気を許しすぎたのかもしれない。やれ中谷宇吉郎がどうのとか、デカルトやケプラーの話なんてされたらわたしはお手上げだった。聞いたところでちんぷんかんぷんなのだった。そういうわからないことが多くて辛くなったので、わたしはとうとう「話し相手になるんだったらサービス料を頂きますよ」ときつく言ってしまった。
すると冬に枯れたまま伸びる草のようにしおれて、その週は会話がなくなった。またやらかしたな、そろそろ契約を切られてしまうだろうか、とやきもきしていると、翌週月曜日の掃除中に、わたしの名前が書かれたラベルの瓶に、樋口一葉が丸まって入っているのを見つけた。なんとなしに取り出すと、「拾ったことにしておいてください」と殴り書きのような文面が添えてあった。
とにかくこのおかげで、わたしは彼の話し相手としての追加サービスまでする羽目になったのだ。
研究についての雑談は、仕事中に行われた。当然だった。契約外ではあるが、代金は支払われていたわけなのだから、とにかくわたしは掃除や洗濯、調理の合間に、なんとなしに始まる会話に相槌を打ったり、感想を述べたりする。質問をするとより一層相手は喜んで、ウキウキした顔で雪の面白さ、深さを語るのだった。その多くは全然わたしの理解を超えていたのだけれど、彼自身の孤独が、静かにしんみりと降り続ける雪に惹かれるのだけはよくわかった。
「そろそろ雪に飽きたんじゃないですか」とある日皮肉交じりに言ってみた。初めての仕事から半年ほど経って、わたしも彼もけっこうなれなれしくなっていた。
「いや、それが全然飽きないんだ」と彼は答えながら、冷凍庫から瓶を取り出していた。「雪ってすぐに溶けるし、同じものに出会わないんだ。どれを見てもいつも新しくて、それが楽しいんだよ」
「あら、そうですか」
「うん。それでねえ、古今東西の詩人が雪を謳うのもよくわかるようになったんだ。よく和歌とかでも言うだろう? 鈴木牧之の『北越雪譜』では、雪に風情を感じるのは都会人の呑気さだっていうけれど、やっぱり雪は奥深くて面白いと思うんだ」
こういうまくしたてには慣れていたけれど、改めてちゃんと聞くと、不思議な響きを帯びるようになった。子供の頃のあこがれを焼きなおしたら、きっとこんな風になるのだろうか。そして、わたしは彼の行動に対する無意識な嫌悪が、実のところ嫉妬に過ぎないことに気づいた。
わたしは夢やあこがれを持ったことがなかった。実家が貧しくて、いつも家事手伝わされてばかりいた。早くに両親が離婚して、母親がパートに行っている間にご飯や掃除をする役ばかり引き受けた。そうこうしているうちに高校の卒業すら危うくなって、ギリギリのところで許してもらったら、あとは就職するしかない現実が待っていた。
むろん、そんなわたしにろくなクチなどなかった。本屋のアルバイトやコンビニの店員、ファミレスのウェイトレスなどをふらふらとしながら、自分を探していた。どこでもうまくいかず、半年か一年で辞めざるを得なかった。おかげで職歴ばかり伸びていったが、スキルや経験としてはあまりなっていない。
ときおりニュースで好景気や就職活動に勤しむ若者のことを見る。だけどそんなものはわたしとは縁のない話だった。 テレビはいつも普通のひとのことを報道しているつもりでいるらしいが、そこでいう普通とは、大学に通って、勉強ができて、夢を持っているひとのことだった。だとするとわたしは普通ではないのだ。仲間はずれなのだ。そう思うことがなんだかすごく悲しくて、辛くなって、最初からできないことだと踏ん切りを付けなければ、やってられなかった。
そんなことを思い出した。だから、わたしはあのひとのことが嫌いだったのかもしれない。だけど、同時にあのひとが見聞きしたことが、面白いと思っていた。嫌いだけど、面白い。不思議なことだけど、このふたつは、両立するのだった。
「ねえ、」とある日わたしは彼に尋ねた。夏の気だるい昼下がりだった。珍しくわたしのほうから話しかけたのだ。「論文とか、発表しないんですか?」
「えっ?」
「いや、大学で研究しないのはよく知ってるんですが、せっかくいろいろやってるんだから、論文なりレポートなり、何か発表するに足りるものがあったって、いいんじゃないかなと思って」
彼は寂しそうに微笑むと、答えた。
「いやあ、特にこれといった新発見なんて、ないんだよ。ぼくは趣味で、過去の偉人が見つけたものを見つめ直しているだけでね」
このときの彼の顔を、どう形容したら良かっただろう。それはまるで理想と現実のあいだに引き裂かれたものの表情をしていた。言い訳でも探し求めるように目が泳ぎ、雪に触れ続けた繊細な指が心臓をわし掴みにするようにぎゅっと胸の前で握られている。わたしは一瞬心臓に何かの発作でも起きたのかとひやっとしたが、彼がため息をひとつしたので、杞憂に終わった。
「でも、あなたが見た世界なんでしょう? いつも楽しそうに話していることを、そのまま文章にすればいいと思うんです」
「……どうして、そう思うんだい?」
「どうもこうも。学のない家政婦よりは、もっと良い聞き手がいるんじゃないかな、と」
なんだかわたしは、話していて自分のつっけんどんな物言いに虚しさを覚えるようになった。きっと彼には彼なりの理由があるんだろう。それを知らないで、思ったことをそのまま言ってしまうのは、やっぱり失礼だったのかもしれない。
その考えがよぎるほどの沈黙が流れたあと、彼は大きくため息を吐いて、本棚のほうに向かった。それからしばらくすると、研究雑誌を束にして持ってきた。学会の名が刻まれた誌面だった。ページをめくると、彼の話した内容とほとんど同じものが、理路整然とした筋立ての言葉で記述されているのがわかる。形式張っていて、専門用語がちょっとわからなかったが、題名や写真で、それが以前聞いた話と似ているとわかったのだ。
「これが、本当に研究しているひとの文章なんだよ。ぼくはそんなに勉強してないから、そこに関わる資格が、ないんだ」
わたしはこのひと言の裏側に、彼の今までの努力と熱意と、その喪失を読み取った。ところがその途端に、急に自分の中で抑えきれない気持ちが噴き上がった。
「ふざけないで」と、もう言った時には遅かった。「自分が好きなことをするのに、資格も何もないでしょう? あなたはただ、誰かに批判されるのが怖くて、『趣味』って言い訳をしているだけ」
わたしはそこまでまくし立てると、一回ため息を吐いた。彼はきょとんとした目でこちらを見ていたけど、もうどうでもよかった。
「わたしは、あなたの過去は知らない。知ろうというつもりもない。けど、あなたがやってることは、誰にも譲れないほど大事なものだっていうことぐらいは、わかりますよ。それをどうして諦めるんですか。どうしてそう、やすやすと投げ出せるんですか」
「それは……」しかし彼は言葉を一旦止めてから、深呼吸をした。「そうだなあ。やっぱり、そう、思われるんだよな」
ここまできて、わたしはようやく自分が怒っていることに気がついた。どうして怒っているのかわからない。ただ、急に冷や水を浴びたように冷静になった。むしろ寒々しく背筋が凍りつき、頭がガンガンと痛くなった。
「ごめんなさい」と、ひとまず言った。だが彼は、落ち込んだままだった。どうしようもなくて、気まずい五分間が流れた。どうにか取り戻そうとして、掃除を再開しようとしたけれども、その時ついに彼が口を開いた。
「今日はもう、帰っていいよ。今まで、ありがとう」
ああ、ついにやってしまった。仏の顔も三度までなのだ。
こうして契約が切れて、わたしはまたフリーになってしまった。またやらかしたんだな、て派遣サービスの社員は呆れたのようにわたしを見下していたけど、どうでもよかった。それよりも気になっていたのは、なんで自分が怒ってしまったのか、ということについてだった。
けれども、その疑問は夏が終わり、秋が来るにつれてだんだんとどうでも良いことになってしまった。わたしは相変わらず家政婦の仕事で次の勤め先を獲得し、そちらに通い始めていた。そっちもひとり暮らしの素っ気ない男性で、感情のこもらない話し方をしていたので、とても話しやすかった。代わりに会話が全くなくなったので、わたしは心を持たないロボットのような日々を過ごすことになったのだ。
そんな退屈な日常に沈むと、ときおりわたしは雪の研究に勤しんでいた彼を思い出す。冬になって、寒くなっていたからかもしれない。おまけに連日で雪が降っていた。けっこう積もっていたのだ。きっとあのひとなら小学生のようにはしゃぐだろうな、と思った。もう終わったことなんだ、と改めて感じた。その一方で、なんて冷たい人間なんだろう、とわたしは自分にあきれた。あきれながら、わたしの内側に思った以上に彼の面影が残っていることに驚いていたのだった。
ふいに後悔が襲った。酷いことをしたな、と思った。きっと過去に色んなことがあって、挫折したんじゃないか。だからああして細々と研究をするしかなかったんじゃないか。そんな背景を全部無視して、わたしはいっときの感情で踏み潰してしまったのだ。
──もう一度、謝るべきだ。
そう思ったときには、行動は早かった。仕事を早退し、近所のスーパーに行って、小一時間ほど悩んで茶菓子を買って、それから記憶を頼りにあのひとのアパートに向かった。幸いにして記憶の通り、同じ場所に彼の部屋はあった。
だが、部屋には鍵が掛かったままだった。
「あれ」とわたしが呟くと、お知り合いですか? 背後から声を掛けられた。振り返ったら大家さんと思しきひとが、その部屋にはもう誰もいないんだよ、と言ったのだ。「どうしてですか?」とわたしが尋ねると、死んだんだ、というのが答えだった。
全く唐突なできごとだった。そりゃ驚いて当然のことで、彼も死ぬ気はなかったのだろう。なにせ死因が交通事故による全身打撲だ。雪の日のスリップのせいだというが、なんて虚しいものだろう。あれほど生き生きと語っていた彼が、あっけなく死んでしまうとは、神さまなんているならひどく残酷な存在だと、呪わずにはいられない。
しかし正直に言うと、むしろホッとしていた。てっきりあの日のひと言で、思い悩んで自殺してしまったんじゃないかと考えていたのだ。だが表向きにそう言うことはできなかった。しどろもどろとしていると、大家さんが鍵を貸してくれたので、ただわたしはなんとなしに、彼の部屋に入っていった。
アパートの一室は、相変わらず散らかっていた。洗濯物が溜まったかごに、立て掛けられたまま仕舞われないお皿や、汚れが目立つキッチンシンク。研究室に至っては、冷凍庫が開けっ放しだった。わたしはそれを見つけると、あわてて閉めた。中の雪は溶けていた。まるで彼の死を追いかけて消えてしまったかのようだった。
わたしは落ち着かなくなって、周囲を見回した。まるで夢から覚めたようだった。ただ散らかっている。ただ汚い部屋しか、この目には映らない。わたしは早く掃除しなきゃ、と思った。どうしようもない気持ちが溢れてきてばかりで、整理がつかなくなっていた。だから掃除でもしなければ、あの頃のあの日常が戻ってこないのだと思っていた。
そしてとりあえずデスク周りに手を付けて、わたしは樋口一葉が入ったガラス瓶を発見した。中を開けると、やはりメッセージが入っている。「拾ったことにおいてください」と、いつも通りのことばが、入っている。いったいいつのものだろう? わたしがいなくなったのは夏の日のことだった。それからさらに半年は経っている。そのままにしておいたのか? それとも研究に逃避して掃除を忘れてしまったのだろうか?
ところが、この考えはデスクの傍にある紙くずの山に打ち砕かれた。泥まみれの雪溜まりみたいなその紙は、ワードで作成された書きかけレポートだったのだ。題名は、『雪の研究──雪の始まりについての考察』。雪花の結晶の画像がいくつか添付され、読むに耐えない下手くそな日本語が羅列したその紙面には、昔彼から聞いた話ほど楽しく興味深い内容は十分の一だって残っていなかったが、それでも懸命な情熱を感じた。もう少しことばを選べばいいのに、どうして小難しい用語を使って、引用ばかりするんだろう。思わずわたしは読み込んで、細かいところに笑ってしまった。
そしてわたしの視線は最後の一文に釘付けになった。なぜならそこには、論文ともレポートとも異なる、詩のような独白が残されていたのである。
──私の心は雪に囚われるあまり、氷になっていたのかもしれない。だが書いていて、私はやっぱり雪を知りたいのだと思った。好きなのだ。そしてそれをわかる過程に、かつて少年時代の情熱が蘇るのを自覚したのだった。
だから、今回私がレポートを書くきっかけになったある女性に対して、この文章を捧げたいと思う。自分の幼さのせいで、いまはどこにいるか、もうわからないが。謝ろうと思ってもどうしようもないのだ。しかし、あなたのおかげで書く決心が湧いたのだ。その点に関して、私はありがとうと伝えたかった。私が忘れてしまった大切なことを、思い出させてくれたのだから。
どうかこのことばが、書くことを通じて届いていることを、切実に願うばかりである。
その時、わたしは自分の頬に熱い液体が流れるのを感じた。涙だと気づいても、どうにもならなかった。ただ思ったのは、わたしの涙は、雪の結晶のようにきれいにはならないんだな、という寂しい気持ちだけだった。
涙で汚れたレポートは、そのままにしておいた。わたしは瓶から一葉を取り出すと、充血した目を拭って部屋を出る。するといつのまにか外が雨になって、しとしとと積もった雪を溶かしている場面に出くわした。もう全てが忘れ去られようとしているのだった。
だから、わたしはあの部屋にメッセージを残しておいた。「拾ったことにしておいてください」と。
数日後、遺族か誰かがあの空き瓶からどんなメッセージを拾ったのかは、一年経ったいまでも、わたしは知らないままだった。