蔦の回想
星空の下。
音も無く夜の海に揺れる小舟の船底の上で。
茨姫は、海彦から目を逸らしながら真っ暗な波を見ていた。
◇
星空の下。
鬼の島で。崖の上から海を見ながら。
蔦姫は自分が子供だった頃のことを思い出していた。
初めて海彦に会ったときのことを。
あれは嵐の夜だった。
「嵐じゃ。轟々と心地よい風じゃ。散歩に行こう、イバラ」
「嵐じゃ。轟々と心地よい風じゃ。散歩に行こう、ツタ」
あの頃の二人は、今よりもっとそっくりだった。お互いが同じようにしゃべって振る舞って、それがただ無性に嬉しく楽しかった。まるで自分が二人いるよう。楽しい自分が二人いるよう。
お揃いの袖の無い動きやすい短衣だけを羽織って、それが強風にばたばたと音を立てることにけらけらと笑いながら、人間ならば家にこもって身を縮めるであろう嵐の闇夜に外輪山の森と岩場を駆け回った。木々がひっきりなしに風を受けてたわむ悲鳴のような音や狭い岩の間を風が通り抜けて発する泣き声のような音もまた楽しかった。
島の外側の崖から海を覗いたとき、たまたま偶然に、島の外から流れ着いていた小舟を見つけた。
そしてそこで惨めな濡れ鼠のように身を縮めながら、荒れ狂う波に揺られる小舟をどうにか縄で岸に結ぼうとしている人間の少年、海彦を。
数日続いた嵐の間。双子の鬼姫は人間の少年海彦を自分たちが遊び場にしていた近場の洞窟に案内して匿った。
大人の鬼たちには秘密で。好奇心から。
家から持ち出した食料を運んでは、それを一緒に食べつつ物珍しい島の外の話を一日中聞いた。最初は憔悴し怖がっていた海彦の側も、二人にどうやら害意はないと知れると、落ち着いた様子で会話をするようになった。
変化の少ない鬼の島に突然訪れた、本当に楽しい数日間だった。
だが。
嵐が過ぎて海の波が緩やかになると、海彦はすぐに帰り支度を始めた。
海彦には急いで帰りたい理由があった。島に流れ着く原因となった嵐の際、彼は一緒に漁に出ていた父親と離ればなれになっていた。海に落ちた父親と生きて再会することは難しいと理解していて、嵐に翻弄された小舟の中でさんざん泣いて気持ちの折り合いもつけたと語ってはいたが、それでも一縷の望みは捨てきれないようだった。自分の村に帰れば父親の消息が分かるかもしれない。そうでなくとも、自分が生きていることと父親のことを親戚や村人に伝えるため早く戻りたい。そう言っていた。
一人の鬼の姫は言った。
「帰ってしまうのか。残念じゃな。仕方ないわな」
けれど。
もう一人の鬼の姫は言った。
「帰ってしまうのか。嫌じゃ、嫌じゃ。ずっとここにいよう」
多分それが、双子の二人が初めてお互いをはっきり別の自分と感じるようになった瞬間だった。
一人は、海彦が帰ることを納得した。寂しいけど、仕方がないと。
もう一人は、我慢できなかった。子供らしい傲慢さと癇癪で、彼を手元に置いておきたがった。
崖の下の狭い岩場につないでいた小舟のところに行こうとする海彦に追いすがり、手を取り、そしてそれを振りほどこうとした彼をそのまま力任せに引っ張った。衝動に任せて。
鬼の力で、人間の少年の体は棒きれのように振り回された。
もう片方の鬼の姫は。
それを見ていた。
自分とそっくりな片割れの娘が、人間の少年の片腕を、まるで子供が虫を弄んで振り回した結果そのままに無惨に失わせてしまったのを。
片腕を無くして地面に投げ捨てられる形になった海彦の顔が、一瞬で恐怖と痛みにひどく歪んだのを。
海彦の腕をもぎとった鬼の娘は、数瞬の間、自分のしたことを理解できていなかったようだった。自分が手に持っている腕がなぜ海彦の胴体とつながっていないのかと、不思議そうにその引きちぎれた箇所を見ていた。
それから。
海彦の悲鳴が響いて。
自分のしたことが取り返しのつかないことなのだとようやく気づいて。
彼女は言った。
「ち、違う、違うんじゃ、こんなつもりじゃ……」
しかしそんな言葉で何が変わるはずもなく。
海彦の悲鳴と嗚咽が続いた。
もう片方の鬼の姫は、しばらくもう一人と一緒に呆然としていた。
だが片割れよりは先に我を取り戻し、痛みに身を丸めてのたうち回る海彦に駆け寄った。
彼女は、海彦を自分の双子の片割れから遠ざけるべきだと思った。
彼女は肩口から血を流し続ける海彦の体をかつぎ、彼が乗ってきた小舟まで運んでその上へ降ろした。岸に結びつけていた縄をほどいて押し出すと小舟は波に乗り、静かに、しかし確実に島から離れていった。
双子の片割れの鬼の姫は呆然と、ただそれを見送っていた。海彦からもぎとった腕を大事そうに抱えたままで。
それから六年ほど経つまで、海彦が戻ってくることはなかった。