溺れる茨
直後。
一つきりの目玉を妖刀で切りつけられた海坊主が、悲鳴をあげて、巨大な体躯を打ち震わせた。
夜闇の中、蛸足触手が暴れ回りながら本体へと引き戻された。さらに巨大な本体を急速に沈めて海に身を隠そうとするのに併せて、周囲で大質量の海水が激しくうねり、続いて中心へと勢いよく流れ込んだ。
小舟が、一瞬で大きく傾いた。
!
「ぬわわっ!?」
海彦が持つ刀の妖気に気を取られていた茨姫は、盛大に傾斜する自分の足場に慌てた。
たたらを踏んで体勢を確保しようとした。
失うとまずい櫂はどうにか、足で踏んづけて押さえたまま。
海彦の声が聞こえた。
「茨姫、つかまれ!」
顔を向けるといつの間にか、この一瞬ですぐ近くまで戻ってきたようだ。やはり人ではありえない脚力で、沈みゆく海坊主の頭を足場に跳ねて一足跳びでこの小舟まで。
天上の乾いた星の光とはひどく対比的な、海坊主の体液に濡れて光る抜き身の妖刀を持ったままで。
妖しを斬り捨てるための刀を持って。
鬼さえも切り捨てるであろう刀を持って。
いや。
きっとそのため以外の何物でもない刀を持って。
ひっ。
茨姫は思わず、身をすくませた。
足で踏んづけて押さえていた櫂が、ほとんど直角にまで傾いた小舟の中で、茨姫の足下から抜けて重力と傾斜と波の勢いに任せて滑り出た。
慌ててそちらに意識を向けた茨姫の耳に、海彦の声が聞こえた。
「捨て置け! つかまれ!」
再び海彦に顔を向けた。
海彦に。
愛して止まぬ海彦に。
動けなかった。
鬼である茨姫が。
ただの弱い人間のはずの海彦を前にして。
妖刀を持つ愛しい海彦を前にして。
恐怖と混乱で。
海彦はそんな茨姫の様子を瞬時に見て取ると、腕を伸ばした。
もし隻腕でなければ、もう片方の手を伸ばして茨姫を掴んだだろう。だが彼には腕が一本しかなく、その手は茨姫の身をすくませる刀を持っていた。彼女を捕まえることはできなかった。彼女を安心させることはできなかった。
だからだろう。
彼は、茨姫のすぐ足下、傾く船底に深々と刀を突き立てた。
そして刀の柄を隻腕でがっしりと握ったまま、体を茨姫に、肩から突進するようにして預けた。
茨姫は思わず、それを受け止めた。
海上で盛大に傾いていた小舟は元の位置に戻ることはできず、そのまま横転した。
っ!?
ごぼがぼごばがぼっ!
天地逆転した小舟の下で海水を飲んでしまいながら、茨姫はそれでも海彦に強く抱きついた。ただでさえ動きにくい小袿が急速に水を吸って、重く体にまとわりついた。もし海彦に抱きつく手を離してしまったら、その重さで泳げもせずに海の底に沈んでいってしまうだろう。
海坊主が海中へ沈むことで発生した強烈な水流が、二人をさらにも引き離そうとしていた。お互いからも、小舟からも。
夜の水中で視界はほとんど見えなかったが、抱きついて回した自分の手から、異様なほどに盛り上がった海彦の肩口の筋肉が感じられた。
この水流の中、船底に突き立てた刀を握る隻腕だけで二人を支える海彦の力。
おそらく。
それもやはり、尋常の人のものではありえないだろう。
どのくらい経ったか。
呼吸もできず溺れてほとんど手放しかけた意識の中で、茨姫はようやく水流が落ち着いたのに気づいた。
海彦が船底に刺さったままの妖刀から手を離し、逆さになった小舟の下から星空の下の海面へと茨姫を連れ出してくれた。胃の腑からも、肺の腑からも、飲み込んでしまっていた海水が途端に耐えきれず逆流した。気持ち悪かった。頭も激しく痛んだ。
上下逆転した船底に体を預けて、時折思い出したように襲ってくるひどい吐き気に苛まれながら、しばらく体力の回復を待った。
それから。
海彦を見た。
海彦は茨姫が休んでいる間に船底から妖刀を抜き、既に回収して鞘に納めていた。今の海彦は、普通の人間に見えた。普通の、脆弱な、鬼に会えば本来ひとたまりもない人間に。
その刀はなんじゃ?
と、茨姫は聞きたかった。
なんでそんなもんを持っとる。なんで何も話とくれんかった。
と、聞きたかった。
けれど。
心に一度こびりついた恐怖が邪魔をして、言葉が出てこなかった。