第一章(6)
「じゃ、私が弾いてばっかじゃ仕方ないから、キミも弾いてみようか! ふたりで合わせよう!」
はいこれピックね、と言いながら、彼女は薄い三角形のプラスチック片を渡してくる。
俺は手を伸ばしてそれを受け取るが……なんか今、すごい無茶振りをされたような気がする。
「いや、だから俺、ギターなんて弾いたことないって……」
「へーきへーき。ギターってすごく簡単な楽器だから、すぐ弾けるよ」
そう彼女は言うものの、さっきの演奏を見た直後に、ギターが簡単なんて全く信じられない。
だって左手とかめっちゃ複雑にせわしなく動いてたよ? あんなんすぐできるもんなの? どう考えても無理ゲーじゃね?
眉間にシワを寄せてどうしたもんかと固まっている俺に気付いて、彼女は言葉を続けた。
「あー、うん。ギターが簡単ってのはちょっと言葉が悪かったかな。例えば私がさっき弾いたみたいなのは、私が高校入って二年間ギターを続けてきたから弾けるようになったんだし。それに私より上手い人なんて世界中に山ほどいるから、極めようとしたらかなり大変かな、うん」
「……やっぱそうだよな。いや、当たり前なんだろうけど」
「でも、ね。それでもやっぱりギターは簡単だよ。より正確に言うと『ギターは、それっぽく聞こえるレベルの演奏をするぶんには、凄く簡単』って感じかな」
彼女はそう言うが、俺にはいまいちその意図が掴めない。
それっぽく聞こえるレベルの演奏って、いったいどんなもんなんだ?
「案ずるより産むが易し、だよ。まずは私がやることを真似してみて」
分かった、と答えて、俺はギターを構える。
彼女は俺に見えやすいように右手をこちらに向けて、ピックの握り方を教えてくれる。
尖った部分が弦に当たるように、中心よりやや上を親指の腹と人差し指の側面で挟む。
握る力加減は弾いてるうちに覚えてくるから、とりあえず今は弦を弾いた時にピックを落とさないようにだけ注意すればいいそうだ。
「そうそう、そんな感じ。じゃあ次は左手ね。自然な感じに四指を伸ばして。そしたら六本全ての弦に触れるように軽くネックを握って……。あっダメ、そんなに強く握ったら音が鳴っちゃう」
「は? 音が鳴ったらダメなのか? これからギター弾くんだろ?」
「慌てないで。今教えてるのは〈ミュート〉という技術の一種なんだよ。これは要は音を鳴らさないための技術なんだけど……。これすごく、すんごく、すっっっっごく重要な技術だから、最初の最初に教えておきたいの」
音を鳴らさない技術が重要……?
楽器って、いかにして音を鳴らすかが重要なんじゃないのか。
俺の中にある演奏のイメージからはかけ離れた概念だから、完全に理解の範疇を超えている。
わけが分からん。
「まぁ、それがいかに重要かについてはおいおいね。ギターを弾いてるうちに嫌でも分かってくるだろうし」
「あ、あぁ」
「じゃあ続けるよ。こんな感じで左手で全ての弦が鳴らないように軽く触れたら、こうやって右手を上から下に振り下ろす!」
彼女のギターが繋がったアンプから、ジャッ、という音が鳴る。
……ん?
「え……、こんだけ?」
思わず率直な言葉が漏れる。
だって今の音、全く伸びも無いし、そもそもはっきりとした音程らしきものも無かったぞ?
「そう、こんだけ。まぁとりあえずやってみなよ」
彼女に促され、俺は同じように右手を振り下ろす。
ジャッという音が鳴るが、それと同時にヒィィィィン……って感じの謎の余韻も一緒に鳴ってしまう。
「あれ、なんか違う……」
「あー、左手が触れてる場所が悪いんだね。5フレット、7フレット、12フレットの真上はそういう音になりやすいから気をつけて。あとできるだけ四指全てを使って、可能な限り多くの面積を弦に触れさせるイメージでね」
フレットという新出単語が出てきたが、文脈的に恐らくギターの左手で握る部分(彼女はさっきネックと言った)にある平行に並んだ無数の金属のことだろう。
胴体の部分に近付くにつれて間隔が狭まっていて、パッと見ただけでも二十を超えるくらいありそうだ。
分かった、と返事をして、俺は左手の位置を少しずらす。
それと同時に左手の指の腹に意識を集中し、できるだけ多く弦に触れられるように調整する。
「はーい、じゃあテイクツーいってみよう!」
彼女の言葉を合図に、俺は再び右手を振る。
今度は彼女と同じような、ジャッ、という歯切れの良い音が出た。
「おっけーおっけーエクセレント! 良い感じのブラッシングだよ! あ、そうそう、今みたいに、左手で弦をミュートした状態で複数の弦を〈ピッキング〉することを〈ブラッシング〉って言うんだよ。これも超頻出テクニックだから」
「そうなのか……。ってかさっきから初めて聞く単語ばっかりで脳の処理が追いつかないんだけど。えーっとなんだ、ミュートと、ピッキングと、ブラッシング?」
「そうそう。これでもうキミはギターを弾くうえで重要極まりない技術を三つもマスターしたわけだよ。いやぁ、若いのは成長が早いなぁ、関心関心」
芝居がかった口調で彼女が言うので、一ヶ月しか違わないだろ、とツッコミを入れてやる。
そうだった! とわざとらしく自分の額を叩く彼女の仕草が滑稽で、俺は笑ってしまった。
彼女も俺の様子を見て、一緒に笑ってくれる。
「じゃあ次いこうか。やることはおんなじブラッシングだけど、今度はこんな感じで……下から上に振り上げるような感じでピッキングしてみて」
そう言いながら、彼女はジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッと四回音を鳴らす。
俺もそれを真似てピッキングしてみるが、彼女のように等間隔で鳴らすことができず、少しモタついた感じになってしまった。
「う……難しいなコレ」
「すぐに慣れるから。はいじゃあ次。ダウンピッキングとアップピッキングを交互に繰り返す!」
ジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャッ、と八回音が鳴る。
俺もすぐにそれに倣うが、やはりリズムが安定しない。
さっき彼女は俺がピッキングをマスターしたとか言ってたけど、とてもじゃないけどマスターというには程遠いような……。
しかしそんなことはお構いなしに、彼女は次の課題を出す。
今度はさっきのリズムを倍の速度でやるとのことだ。
彼女が弾くとジャカジャカジャカジャカジャカジャカジャカジャカ、とこれまたピタリとリズムが揃うが、俺はといえばつっかえつっかえのヨレヨレのリズムになってしまう。
「いや、やっぱかなり難しいぞコレ……」
思わず弱音が漏れる。
しかし彼女は全く気にしていないようだ。
むしろこれで当然、といったような面持ちをしている。
「リズムを維持するのって、難しいからね。でもこれが安定するようになると、聴き手に与える印象が桁違いに良くなるから。こればっかりは反復練習あるのみだね」
励ますように、彼女はそう言ってくれる。
もしかしたら、いやたぶんきっと、これは彼女も通った道なのかもしれない。
だからこそその難しさが分かるし、適切なアドバイスができるのだろう。
なんとなくそんな気がした。
そしてそう思うと、あまり情けないことばかり言ってられないな、という気持ちになってくる。
よっしゃ、と声を上げ、俺は気合いを入れ直した。
「お、やる気だねー、いいねーいいねー。じゃあ今度は、私が先に弾くから、それに続いて同じリズムを弾いてみて。しばらく続けていくよ!」
「分かった、やってみる」
そうして俺の即席物真似コーナーが始まった。