第一章(3)
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午後の授業は、ほとんど上の空だった。
それも当然だろう。
健全な男子高校生が先輩の可愛い女の子にあんな意味深な言葉を投げかけられたら、他ごとになんて意識が向くわけがない。
俺は緊張の真顔と下卑た笑みを交互に繰り返す変質者一歩手前の状態になっていたので、気持ちうつむき加減になったうえで教科書を立てて顔を隠し、クラスメイトに悟られないよう努めた。
それでも無意識に俺のオトコノコが元気になってきたりして……授業の合間の休憩時間に席を立つことができなかったりもした。
我ながら情けない……。
教師に不審な視線を投げかけられつつも、無事に授業は終了した。
ホームルームが終わると同時に俺は教室を後にする。
タイミングよく俺のオトコノコが落ち着きを取り戻してくれていたのも助かった。
俺は特別棟に向かう前に、トイレに寄った。
気持ちを落ち着けるために小便を済ませ、手を洗う。
そしてそのまま鏡を見つめると、俺は自分の身だしなみをチェックしていった。
鏡に映るのは、いつも通りの冴えない俺だ。
目付きが悪いのは今更どうしようもないが、手を入れられるところは手を入れよう。
俺は曲がったネクタイを直し、シャツの裾を限界までズボンに押し込み、ブレザーの襟の具合を正した。
ワックスがあれば付け直したいところだったが、俺のワックスは基本的に自宅の洗面所に置きっぱなしだ。
俺は諦めて軽く湿った手で髪型を整えた。
……よしっ、まぁこんなもんだろう。
仕上げに俺は両手で水をすくい、五回ほど口をすすいだ。
ワックスだけでなく、これからは携帯歯ブラシも持ち歩くようにしたほうがいいかもしれないな。
そんなことを考えながら、俺は丹念に口中を清めた。
最後に三回ほどうがいをして、トイレから出た。少なくともこれで、いくらかマシになったはずだ。
俺は大股で特別棟に向けて歩き始めた。
緊張して左右の手と足が一緒に前に出そうになるので、俺は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
はやる気持ちからやや前かがみというか猫背になっていたので、はたから見ると俺の姿は機嫌の悪い不良のように映ったかもしれない。
三階建ての特別棟は、一階と二階が大きな用具を必要としない文化系の部室としてあてがわれ、三階は校内備品の保管室……と言えば聞こえはいいが、要は物置きとして使われていた。
教師の手伝いで一度だけ訪れたことがあったが、その時入った教室には所狭しと古い机や椅子、教材などが押し込められていたのを覚えている。
一、二階はまだしも、三階は特に用がなければわざわざ人が訪れることはないような場所だ。
その階段を登っていくと、二階以降は明らかに積み上がった埃の層が厚くなっていることが容易に見てとれた。
そんなふうにしてだんだんと人気が遠のいていくのに比例して、俺の胸中は際限なしに高鳴っていった。
階段を登る自分の足音よりも、心臓の音のほうが大きく響いて聴こえてくるような錯覚をするほどだ。
そりゃそうだろう。
あんな目で見つめられ、思わせぶりなセリフを呟かれ、こんなに人目につかないところに案内されたとなると……緊張しないわけがない。
なぜ見ず知らずの俺にあんなことを言ったのかは理解しかねるが、案外マジで彼女は俺に一目惚れとかしたのかもしれない。
あるいは彼女は時々こうして、気に入った男子を誘っていたりするビッチなのかもしれない……。
どちらにしても漫画のような展開だ。
Rが付く付かないの差はあるけれど。
高校に入ったら自然とカノジョのひとりやふたりできるものだと信じていたのに、そんな気配すらなく高校生活一年目が終わろうとしていると思っていたら、ようやく俺にもお鉢が回ってきたらしい。
じっと耐えてきた甲斐があったというものだ。
そんなことを考えながら階段を登っていると、不意に明るい日差しが俺の目を焼いた。
どうやら屋上に続く扉の窓から、こちらに向けて光が射し込んでいるようだ。
反射的に手をかざして光を遮り、薄眼を開けてその扉の方を見やると——
——そこには、既に彼女が……黒峰茜がいた。