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第四章(2)

「……なぁ、黒峰。お前の左手、見せてもらえるか?」

「む、なんだよぉ突然。ダイダイのエッチ」

「いや、今はそういうのいいから」


 軽口でごまかそうとする黒峰だったが、俺はそれを軽くあしらいつつ彼女の左手を取った。

 抵抗するそぶりもなかったのでその手を眼前まで引き寄せて、俺は先ほどの違和感が間違っていなかったことを知った。


 黒峰の手は、俺なんて比べものにならないくらい、荒れに荒れていた。

 厚く硬くなった指先の皮がめくれあがり、痛々しく赤く染まった薄皮が覗いている。

 細く華奢な女の子の手には不釣り合いなくらい、その指先はボロボロだった。


「先に自分でやっておいて言うのもなんだけど、こうやって手を見られるのってちょっと恥ずかしいね」


 あはは、と笑いながら黒峰は言う。

 しかし俺は自分が目にした事実に、言葉を失っていた。


 それは何もケガのことだけではない。

 黒峰だって高校二年、華の十七歳だ。

 爪でも伸ばしてマニキュアでも塗って、オシャレのひとつでもしたいはずだ。

 しかし彼女の爪は深爪一歩手前といったところまで短く切り揃えられていた。

 ギターを始める前の俺には分からなかっただろうけれど、今なら理解できる。

 彼女はギターを弾くために、爪を伸ばすことができないのだ。


 俺自身、ここ数週間で爪を切る頻度が明らかに増えた。

 爪が長いと、弦をうまく押さえられないことに気付いたからだ。

 もちろん男である俺の爪が短いことは全く不自然なことではないが、女の子にとっては必ずしもそうではないことは容易に想像できた。


 それに気付いた俺は、今度は黒峰の服装に目がいった。

 彼女の私服を見るのは初めてだったが、シンプルにまとめられたそのコーディネイトは快活な彼女によく似合っている。

 しかし改めてよく見ると、それがあまり高価なものではないのではないかということが予想できた。

 丁寧アイロンが当てられているし、着こなしもきちんとしているのは間違いない。

 しかし細部に目をやると、所々に誤魔化しようのないほつれやヨレ、色落ちがあることに気付かないわけにはいかなかった。

 あるいはそういった要素も込みでロックなファッションと言えないこともないのかもしれないが、恐らく事実は違うはずだ。

 彼女はたぶん、衣服に費やす小遣いも、音楽のために費やしているのだと、俺は直感的に思った。


 いくら彼女がバイトをしているとは言っても、高校生が自由にできる金なんてたかが知れている。

 彼女はその多くを……あるいはほとんどを、ギターやバンド活動に捧げてきたのだろう。

 彼女が犠牲にした数多の物事に釣り合うだけの演奏を、俺はできていただろうか。

 答えは当然ノーだ。

 俺は自分自身が情けなくて、惨めで、頭をかきむしって叫び出したい衝動に駆られた。

 もっと、もっともっと、もっともっともっと、練習に練習を重ねてくるべきだった。

 そう思うと、俺は後悔してもしきれなかった。


「……俺、絶対に今よりもっと上手くなるから。本番までに、今までの倍、いや三倍は練習してくる」


 絞り出すように、俺はそう口にした。

 陳腐で安っぽい台詞だとは自分でも分かっていたが、この感情をなんとか言葉にしないと気が済まなかったのだ。


「お、やる気満々だね! ……でも、あんまり無理はしちゃダメだよ。本番も手の痛みで演奏に集中できなかったら、それこそ本末転倒だから。コンディションを整えるのも大切だよ」

「いや、そうは言っても、このままじゃヤバいのは間違いないだろ。なんとかカタチにするためには、練習量を増やすしか……」


 黒峰が俺を気遣ってくれるのは嬉しいが、それに甘えていられる状況ではないだろう。

 しかし彼女は俺の懸念などどこ吹く風といった様子で、ケロリとした表情を浮かべている。


「もちろん練習は程々に続けてもらいたいけど、それだけじゃダメだよ。闇雲に練習するだけじゃ効果も薄いしね」

「じゃあ、どうすればいいんだよ?」

「そうだね。まず今回の問題……自分の音が聴こえないっていうのは、、割と簡単に解決できると思うよ」


 なんでもなさそうに黒峰はそう口にする。

 それを聞いた俺の口からは「……は?」と間の抜けた声が漏れた。


「ダイダイが自分の音をうまく聞き取れなかったのは、ダイダイの立ってた位置が悪かったんだよ」

「立ってた位置?」


 黒峰の指摘を受けて、俺は自分がスタジオ内でどこに立っていたかを思い返す。

 当然ながらアンプの正面だ。それが間違っていたというのか?


「エレキギター初心者に多いケースなんだけどね、立つ場所がアンプに近過ぎるんだよ。演奏に自信がなかったり、少しでも自分の音をよく聴こうという意識が働いて、無意識にアンプに張り付くような位置に陣取っちゃうんだよね」

「あ、あぁ。確かに俺もそんな感じだったけど……」

「でも、それがよくないんだよ。床に直置きしてるアンプのスピーカーって、大きいものでも腰くらいまでしか高さがないでしょ? そんなアンプにギリギリまで近づいたら、そのギタリストの耳の位置はどこに来ると思う?」


 黒峰の言葉に従って、俺はその構図を想像してみる。答えはすぐに出た。


「……スピーカーの上、だな」

「そう。スピーカーは基本的に前方に向かって音を飛ばすから、そんな上のところに耳があったらまっすぐ音が届かず、足元を通り過ぎていっちゃうんだよ。それに対して他のメンバーの音は一直線にダイダイの耳に向かってくるから、自分のギターの音なんて簡単に掻き消されちゃうってわけ」

「そういうことだったのか……」


 黒峰の説明を聞いて、俺はどっと脱力した。

 俺の耳がおかしかったのではなく、もっと単純な理由があったことに安心して気が抜けたのだ。

 そして原因が分かれば、対策のしようもある。


「それじゃ、次からはもっとアンプから離れるようにすればいいってわけだな」

「そうだね。それともうひとつ、提案があるの。ダイダイ、ちょっとギターを出してくれる?」

「え? あぁ、いいけど……」


 黒峰に促されるままに、俺は借りているストラトキャスターをケースから取り出して、ゆっくりとテーブルの上に置いた。

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