第一章(2)
それは——歌だった。
透き通るような歌声が、ギターの音とともに俺の鼓膜を揺らす。
不思議な感覚だった。
もしかしたら、生でギターの音を聴くのは初めてかもしれない。
弾き語りなんて言わずもがなだ。
俺は、図書室内へ通じるドアから手を離し、音楽室の方へと向き直った。
なんとなく、もう少しこのまま聴いていたい、そう思ったのだ。
聴こえてくる曲は、聴き覚えのないものだった。
無意識に思ったのは、その曲は優しいながらも、どこか物悲しいというか、切ないというか、寂しさを滲ませているように聴こえる、ということだ。
でもそういった暗い感情が支配的なわけではなく、むしろ全体としては爽やかにすら聴こえなくもない……そんな感じだ。
不思議な魅力のある曲だ。
俺はベランダの柵に寄りかかるようにしながら、その歌を聴いた。
音楽室にいるであろうその歌い手は、どこまでも滑らかに歌声を紡いでいく。
こんなところにリスナーがいるとは考えてもいないだろう。
そう思うと盗み聞きをしているような気もしてきたが、聴くのをやめようとは思わなかった。
最後まで聴いていたい、自然とそう思っている自分がいた。
やがてその歌は三回目のサビを迎え、それを歌い終えると短いギターの後奏が聴こえ、最後にジャカジャンッ! と軽く掻き鳴らすような音が響いて、演奏は終わった。
俺は無意識に、小さく拍手をしていた。
初めて生で聴いた弾き語りは、なんかこう、生々しくて、綺麗で……凄かった。
ギターを弾くだけでも難しいだろうに、それをしながら歌うなんてスゲーな、と思ったのだ。
ひとしきり拍手をした後、今度こそ俺は室内に戻ろうと踵を返した。
その時だ。
「……聴いてた?」
予想外の声に、三たび音楽室の方へと顔を向けると……そこには、身を乗り出すように窓から顔を出した女の子の姿があった。
腰まで届きそうな長い黒髪に、透き通るような黒い瞳。
その眼は少し恥ずかしげに、困ったような表情を浮かべていた。
「あ……ゴメン。ここで飯食ってたら聴こえてきたもんだから、つい、ね」
彼女は小さく「あちゃ〜……」と呟くと、顔を引っ込めてしまった。
悪気はなかったにしても、申し訳ないことをしてしまったな。
俺はポリポリと頭を掻きながら、図書室の中へと戻った。
さすがに身体も冷えてきたし、もうこれ以上外にいる理由もなかったからだ。
残りの時間は寝て過ごすか。
そう考えながらいつもの席に座ると同時に、ガラガラッという音とともに図書室入口のドアが開いた。
そこに立っていたのは、先ほどの女の子だった。
彼女はサッと室内を見渡し、俺が座っているのを見つけると……ゆっくりと近付いてきた。
えっ、なにこの状況。そんなに聴かれたのが気に障ったのか?
彼女は俺の席の横まで来ると、腕を組んでこちらを見つめてくる。
その表情は怒っているというのではなさそうだけど、なんとなくこちらに非があるように思えて、俺は居心地が悪くなってきた。
「盗み聞きってのは感心しないなぁ、キミ」
「悪かったって。ごめ……あっ、すみません……」
俺は咄嗟に言い直す。
というのも、彼女の視線を避けようと足元に目をやったら、彼女が履いているスリッパが青色だということに気付いたからだ。
この学校では、学年によってスリッパの色が違うのだ。
俺たち一年は深めの緑、二年は明るい青、三年はくすんだ赤色。
もうすぐ年度が変わると、今度は新しい一年が赤のスリッパを履くことになる。
目の前に立つ彼女が年上っぽく見えなかったからついタメ口で話しちゃったけど、失敗したな、コレ……。
「ふぅん……。まぁ、別に怒ってるわけじゃないからいいんだけどね」
そう言うと彼女は、当然のように俺の隣の席に腰掛けた。
……えっ、いやだからどういう状況だよこれ。
慣れないシチュエーションに、俺は軽く混乱してしまう。
「で、どうだった? 私の歌」
彼女は両肘を机に置き、両手のひらの上に顎を乗せ、こちらを見つめてくる。
口元にはうっすらと、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「え? どう……って?」
俺の頭はいまだ混迷のなかにあり、そんな間の抜けた返しをしてしまった。
「聴いてたんでしょ、私が歌ってたの。それがどんなふうに聴こえたかな、どんなふうに感じたかなって、気になってね」
なるほど、感想を求められてるのね。
しかし突然そんな質問をされても、俺としては返答に困ってしまう。
俺には音楽の素養なんてこれっぽっちもないのだ。
どんな感想を述べるのが適切なのか、まったく見当がつかない。
えぇっと……と俺が戸惑っていると、彼女が助け舟を出してくれる。
「別に難しいことを言わなくてもいいよ。素直に、感じたとおりの言葉で話してくれると嬉しいんだけど」
そう彼女は言うが、それが難しいんだよな……。
うまく表現できるか分からないが、あまり待たせても失礼なので、俺は考えをまとめながら言葉を選び始める。
「なんていうか……カッコよかった、です。歌もすごく綺麗だったし、しかもギターを弾きながらなんて、器用だなって……そう、思いました」
むぅ、我ながら小学生みたいな感想しか出てこないのはちょっと情けないな。彼女はこれで満足してくれるだろうか……。
「嬉しいこと言ってくれるね、キミ」
そう言うと、彼女は右手を伸ばして、俺の左肩を軽く押してくる。
照れ隠しだろうか、少しこそばゆい。
「全然気の利いたこと言えなくて、すみません」
「そんなことないよ。ギタリストにとって『カッコいい』ってのは、最高の褒め言葉だよ」
彼女はそう言うと、満面の笑みを浮かべた。
なんつーか、こんな近くでそんな笑顔を向けられると、思わずドキリとしてしまうからやめてほしい。
しかし改めて間近で彼女を見ると……可愛いな、この先輩。
身長はそれほど高くない。
たぶん一五〇センチを少し超えるくらいか。
顔は小さく、肩幅も狭い。
隣に座っているのを見るだけでも、その華奢とも言える身体つきが伺えた。
制服はきちんと整えて着こなしていて、崩れているところはどこにもない。
なんとなくギターとか弾く人って着崩したようなファッションをするイメージがあったけれど、彼女にそれは当てはまらないようだ。
流れるようにさらさらとした黒髪を、小さく目立たないヘアピンで留めていて、着こなしと相まってまるでクラス委員か生徒会役員のような雰囲気すら感じる。
しかし笑みを浮かべた彼女の表情からは、どこか小悪魔的な趣きも伺えた。
その絶妙なアンバランス感が、より一層彼女を魅力的に見せているようにすら思える。
その透き通った瞳は、俺自身が映り込んで見えそうな気さえして……なんとなく、考えてることを見透かされているような、どこか落ち着かない感覚を覚えた。
「キミ、名前は? 何月生まれ?」
唐突に、彼女はそんなことを訊いてくる。
お、これはもしかして逆ナンってやつか?
やれやれ、モテる男は辛いぜ……。
いや、彼女どころか友達もロクにいない俺に限ってそんなことないのは分かりきってるんだけどね。
ははっ……はぁ。
ひとしきり勝手に浮かれたうえに落ち込んだ後、俺は彼女の質問に答えた。
大泉大介、四月十五日生まれ、一年C組、よろしくお願いします。
彼女はふんふんとうなずいた後、自分の自己紹介を始めた。
「私は二年A組の黒峰茜。誕生日は三月二十日だよ。なんとなーくそんな気はしたんだけど、やっぱりね」
そんな気はした? 何のことだ。彼女の発言の意図が掴めない。
「えっと、それはどういう……?」
「いやさ、実質私たち、誕生日一ヶ月くらいしか違わないじゃん? だから別に敬語じゃなくて、タメ口でいいよ?」
彼女は気軽そうに、そう言ってのける。
あまり敬語で話されるのが好きではないのかもしれないけれど……。
「そう言われても、知り合ったばかりの先輩の女性にいきなりタメ口ってのは、少しハードルが高いかな、と思います」
えーっ、と彼女は小さめに非難の声をあげる。
しかし言葉尻のイントネーションとは対照的に、目は笑ったままだ。
というか、どこかニヤついてるような感じだ。
俺はその目線を避けるようにして、少しだけ残ったいちごオレをすする。
「私がいいって言ってるんだからいいじゃんか。それともアレかな、あんまり女の子に慣れてないのかな……? ……キミ、童貞?」
ブフッーーーーーー!? エッホ、ゲホッ、グェホ……。
俺は思いっきりいちごオレを吹き出してしまった。
幸い彼女から目を逸らして正面を向いていたから、彼女にかかるようなことはなかったが……。
「初対面の男にいきなり訊くようなコトじゃないだろソレ……ッゲフ……」
いちごオレがぶちまけられた机を拭くためにポケットからティッシュを取り出しながら、俺は恨みがましく言う。
俺の様子を見ていた彼女はといえば、俺の隣で大爆笑だ。思いっきり咳き込んだから俺は少し涙目になっていたが、それに気付いた彼女はさらに笑い声を大きくした。
「アハハハハッ! ハハッ、ハハッ……はぁ、はぁ……大泉くん、面白いね……プフッ……」
笑いを堪えながら彼女は言うが……まったく堪えられてないところを見ると、相当ツボに入ったのかもしれない。
こっちとしてはいきなりデリケートなことをあまりにド直球に訊かれたのだから、少しは怒ってもよさそうなものだが、彼女の笑う様を見ていると怒る気も失せてしまった。
これが野郎だったら間違いなく一度は頭をはたいてるところだが、女の子ってのはズルいね、もう。
「ったく……。静かな昼休みが台無しだ……」
俺はそう独りごちた。
時計を見やれば、残りはあと十分ほどだ。
そろそろ教室に戻って午後の授業の準備をしなければならない。
「ごめんってば。あー面白かった……。って、もうこんな時間か。私もそろそろ戻ろっかな」
そう言うと、彼女はゆっくりと席を立った。
そのまま立ち去るかと思ったが、顎に手を当てて何か考え事をしているようだ。
最初は真顔でどこか真剣そうだったが、何かを思いついたのか口元に先ほどと同じ小悪魔的な笑みが浮かんだ。
彼女は座っている俺の左肩に両手を置き、俺の耳元にその柔らかそうな唇を近付け……囁いた。
「ねぇ……。今のこと、興味ある……?」
「……は? ……えっ?」
間の抜けた声を出しながら、俺は眼球だけを動かして、彼女の方を見やる。
心なしか、彼女の目元は少し潤み、頰はわずかに赤みを帯びているような……。
「もし興味があるなら、今日の放課後、特別棟の屋上に来て。……一緒に楽しいこと、しよ?」
そう言うと、彼女は俺の体から離れ、小走りで出口まで駆けていってしまった。
俺はといえば、あまりの急展開に脳が完全にフリーズしてしまい、言葉が出てこない。
出口に辿り着いた彼女は、今一度俺の方を振り返り……お互いに目があったことを確認すると、小さな声で言う。
「敬語はもう、ナシだからね……。さっきみたいに、気軽に、ね?」
それだけ言い残すと、彼女はそそくさと図書室を出ていってしまった。
俺はといえば、脳どころか体全体が驚きで麻痺してしまっていて……午後の授業の予鈴が鳴ってようやく体が動くようになり、急ぎ自分の教室に戻ったのだった。
♫