第三章(3)
「それじゃ、カオルちゃんもあんまり時間ないみたいだし、早速今日のレッスンを始めよっか」
カオルちゃんとの談笑がひと段落ついたところで、黒峰はそう提案してくる。
俺としてもこれ以上話のダシに使われるのは勘弁してほしかったから、素直にその提案に乗った。
「ああ、頼む。でも昨日の夜はあんま練習できなかったから、まだパワーコードは怪しいぞ」
「あー……うん。そうだよね。でも大丈夫、今日教えることはひとつだけだから」
わずかに憂いを感じさせるような表情で黒峰は言う。
恐らく俺が練習できなかった理由が自分にあると思っているのだろう。
余計なことを言ってしまったな、と俺は悔やんだ。
「それじゃ、アタシも用意するわね。ちょっと待っててちょーだい」
そう言うとカオルちゃんは、机や椅子が積まれた部室の奥から何かを持ってきた。それは、ひとつのドラムだった。
「あれ、それだけなのか? なんかドラムってもっとゴチャゴチャしてるイメージだけど」
「ドラムセットは音楽室にしかないのよ。これはアタシの私物。そのうちちゃんとしたセットを買うためにバイトしてるのよ」
敬語を使わないように気をつけながら口にした俺の質問に、カオルちゃんは申し訳なさそうにそう答えた。
やっぱりどのパートにせよ、少なからず金はかかるものなんだな。
「大変なんだな、楽器をやるって」
「好きでやってることだから、それほど苦じゃないわよ。それに家にはエレドラのセットがあるから、練習するぶんには困らないしね」
なんでもなさそうにカオルちゃんは言うが、それでもやっぱりすげーなと思う。
黒峰もそうだが、好きなことに一直線になるって、なかなか難しいもんな。
「ダイダイ、スネアだけだとショボいなとか思ってるでしょ?」
そう言って黒峰は俺たちの会話に割り込んできた。
目には何故か得意げな色が浮かんでいる。
「いや、ショボいとまでは思ってないけど。でも確かに、セットに比べると迫力がないというか、寂しいとは思ったかな」
「カオルちゃんをナメちゃダメだよ。カオルちゃん、あれやって見せてあげてよ」
そう促されたカオルちゃんは「いいわよぉ」と言いながら左手をスネアドラムの上に掲げる。
そして軽くひと呼吸してから、演奏を始めた。
タン……タン……タン……タン……
タンタンタンタンタンタンタンタン
ダカダカダカダカダカダカダカダカ
ズダダダダダダダダダダダダダダダッ
最初は軽めの力でゆっくりと、そしてだんだんと強く速くスネアドラムを叩くカオルちゃんを見て、俺は唖然とした表情を浮かべた。
口を半開きにしたまま、閉じることができない。
それは音だけ聴くぶんには、どこでも聴けるような連打でしかない。
しかしカオルちゃんは、この目にも留まらぬ連打を、左手だけで行なっているのだ。
「すごいでしょ、アレ」
自慢げな笑みを浮かべながら黒峰が言う。
それを聞いたカオルちゃんは手を止めて「そんなことないわよぉ」と謙遜した。
「いや、確かにすげぇけど……どうなってんだ、今の? なんで片手であんなに速く叩けるんだ?」
「今のは〈グラビティブラスト〉って技術だよ。手を振り下ろす時に一回、振り上げる時にもう一回叩くことで、一振りで二回ドラムを叩くテクニックなの。慣れれば割と簡単らしいけど、これだけ安定したリズムと強さで叩けるカオルちゃんは凄いよ」
俺の質問に黒峰はそう答えてくれる。
しかし俺はその説明を聞いても、全くそれを理解できないでいた。
振り上げる時にもドラムを叩く?
なんで上向きに手を動かしてるのに叩くことができるんだ?
てかグラビティブラストってなんだよそのネーミング。
どこのバトル漫画の必殺技だよ。
中二病かよ。
「〈ワンハンドロール〉って呼んでちょうだいよぉ、アカネちゃん。グラビティブラストじゃカワイくないじゃない」
そう言ってカオルちゃんはムスっとした表情を浮かべる。
確かにグラビティブラストなんて名前は仰々しすぎるとは思うけど、ワンハンドロールって呼び方が可愛いとも思えないんだが。
おそらくカオルちゃんにはカオルちゃんのこだわりがあるのだろう。
「まーまー、どっちでもいいじゃん。それより次は、右手も合わせてよ」
黒峰に催促されて、カオルちゃんは不満げな表情ながらも演奏を再開した。
左手はさっきと同じくグラビティブラストだが、先ほどまでと違いただ連打するのではなく、緩急をつけたリズムでスネアを打つ。
そして新たに加わった右手は、スネアの縁のところを叩くようにして、カンッカンッという音を出している。
右手が加わったことによる効果は一目瞭然だった。
左手だけの時とは比べものにならないくらいの、ウネリのようなものさえ感じる迫力のあるリズムがそこにはあった。
右手と左手が相互に補いあい、協調しあうことによって生まれるその音は、とてもじゃないけどスネアドラムひとつで成り立っているとは信じられないくらいの立体感に溢れる演奏に仕上がっていた。
しばらく独奏を披露したカオルちゃんは、最後に両手で思い切りスネアをダダンッと叩き、手を止めた。
顔には先ほどとは打って変わって満足げな表情がある。
ドラムを叩いたことで気が晴れたのだろう。
俺はまたしても、無意識に拍手をしていた。
そして思わず「すごいな……」と呟いた。
「ありがと、ダイスケちゃん。まぁ欲を言えば、せめてキックとハットがあれば、もうちょっとカッコがつくんだけどねぇ」
「ん? キック? ハット?」
聞きなれない言葉を俺はそのまま繰り返す。
蹴りと帽子、と頭の中で翻訳するが、全く要領を得ない。
「キックはバスドラムのことだよ。セットの足元にある大きいドラムね。ハットはハイハットっていうシンバルの一種で……えーと、ほら、どら焼きみたいに二枚重なったシンバル見たことないかな? アレだよアレ」
黒峰の説明を聞いて、ようやく俺は理解した。
しかし楽器の例えがどら焼きってどうよ……という考えが一瞬脳裏をよぎったが、そもそもどら焼きの銅鑼って打楽器だったことを思い出した。
もういっそどら焼きはハイハット焼きに改名した方がいいと思うよ。
「つーか、音楽の用語って別名があるものが多すぎやしないか? 覚えるだけでひと苦労なんだけど」
俺は思わずそうボヤく。
昨日のセーハといい、今日のグラビティブラストといい、なんでこんなに違う呼び名が多いんだ。
「あー、それは仕方ないんだよ。国が違えば呼び方が違ったりするし、時代によっても変わってくるし、正式名称が長いから略称の方が浸透してたりすることもあるし……。まぁあんまり細かいこと気にしない。そのうち自然と覚えるから」
少し困ったように黒峰は言う。
しかしなんともややこしい話だ。
「そんなもんなのか? まぁ、そう言ってもらえると気楽でいいけど」
「そうそう。なんなら用語は全部忘れちゃってもいいから」
「……いや、忘れちゃダメだろ」
なんでもなさそうに言う黒峰に、俺はそうツッコミを入れた。
すると彼女は人差し指を立てて振りながら、わざとらしく「ちっちっちっ」と呟く。
「分かってないなぁ。ダイダイがここに来てるのはあくまでギターを弾けるようになるためでしょ? べつに音楽用語を勉強しに来てるわけじゃないじゃん」
「そりゃまぁ、そうだけどさ」
「私としても用語を使わざるを得ない時は説明するけど、その全部を覚えようとする必要はないんだよ。本当に重要な用語は繰り返し使うことになるし、そういう用語はいつの間にか頭の中に残るものだからさ」
ふぅむ、と俺は相槌を打つ。
なんとなく釈然としないが、まぁ黒峰がそう言うのならその通りなのかもしれない。
俺としても覚えることが少なくて済むなら、それに越したことはないしな。
「ねぇアカネちゃん、そろそろレッスンに入りましょうよぉ」