第三章(2)
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午後の授業でも、睡魔との闘いは連敗記録を更新することになった。
一度教師に教科書で頭をはたかれたが、一瞬の覚醒の後、俺は再びまどろみの中に沈み込んでいった。
教師としても慣れっこなのか、それ以上の追求がなかったのが救いだった。
ホームルームが終わり、俺はギターを担いで部室に向けて歩き始めた。
足取りは重い。
睡眠不足なのは言うまでもないが、昨晩の件を思い出すと、黒峰とどんな顔をして会えばいいのか分からなかったからだ。
思考が堂々巡りを続けている間に、あっという間に部室に着いてしまった。
扉を開けるのがためらわれたが、俺は意を決して取っ手に添えた右手に力を入れた。
「あら〜、いらっしゃい! アナタがダイスケちゃんね。アカネちゃんから話は聞いてるわ。ようこそ、軽音楽部へ!」
俺が部室に入ると同時に、そんな言葉が飛び込んできた。
声の主の方へと視線を向けると——そこには、身長百八十センチメートルをゆうに超える男の姿があった。
「……は?」
俺は慌てて室内を見渡した。
もしかしたら入る部屋を間違えたかもしれないと思ったからだ。
黒峰の姿はない。
しかし部屋の中央には、昨日までと同じように小さなアンプが置かれている。
その隣にある椅子の数が一脚増えているものの、間違いなく軽音楽部の部室だ。
俺が戸惑っているのに気付いて、その巨漢は言葉を続けた。
「あらやだ、挨拶が遅れちゃったわね。アタシは二年の乗正房薫よ。呼びにくい苗字だから、みんなには『カオルちゃん』って呼んでもらってるわ。この部でドラムを叩いてるのよ。ヨロシクね」
そう言って彼は自己紹介をしてくれるが……俺は脳の処理が追いつかない。
俺は軽く深呼吸した後、改めて声の主を足元から観察する。
スリッパは彼の言葉通り青色だ。
制服の手入れはピシリとしていて、変なシワやヨレは一切ない。
ジャケットのボタンは外されていて、そこから小さなハートをあしらったタイピンが覗いている。
髪型は耳がすっぽり隠れるくらいのセミロング。顔立ちはかなり整っているが、目元や頰の色付きから、薄く化粧をしていることが見てとれた。
そして全身どこを見ても目に付く、冬制服の上からでも分かるくらいパツパツに主張する筋肉……。
本当にこの偉丈夫が、黒峰とアンナが口にしていたカオルちゃん、なのか?
「よ、よろしくお願いします……。えぇと、乗正房先輩は……男性、ですよね?」
思わずオブラートに包むことも忘れて、直球でそう確認してしまう。
乗正房先輩は「カオルちゃんって呼んでったら」と言ってから、視線を遠く窓の外へ投げた。
「……アタシはね、生まれついての性別になんてキョーミないの。アタシがどう生きるかはアタシが決める。だからアタシは、ただアタシなの。男とか女とか、そんな野暮なことは聞かないでっ」
キッパリとした口調で乗正——カオルちゃんは言うが、俺は全くわけが分からない。
つーかこの部には変人しか集まらないのか?
俺が次の言葉を探してうろたえていると、ガラガラッと部室のドアが開く音が響いた。
振り返ってそちらを見ると、昨日と同じギターケースを背負った黒峰が立っていた。
「おっすー。あ、今日はカオルちゃんもいるんだ。バイトは大丈夫なの? 水曜は来れないことが多いじゃん」
そう口にする黒峰の様子は、昨晩の出来事なんてなかったかのように普段通りだ。
涙の跡なんて全く分からない。
あるいはこれがアンナが言っていたファンデーションの効果なのかもしれない。
しかし俺には、多少化粧が厚いか薄いかという違いなんて分からなかった。
そして当たり前といえば当たり前だが、黒峰はこの状況に全く動じていない……というか普通にこの男を名前で呼んでいる。
やはり彼女が言っていたカオルちゃんとは、今俺の目の前にいるマッチョマンのことのようだ。
「はぁ〜いアカネちゃん、おひさ。今日もバイトはあるんだけど、早くダイスケちゃんに会ってみたかったから、店長に頼んでシフトを一時間遅らせてもらったのよ。おととい急なヘルプで入ったから、今日は融通してくれたの。だから少しだけならセッションもできるわよ」
意気揚々とカオルちゃんは言う。
それを聞いた黒峰は嬉しそうに表情を綻ばせるが、俺としてはカオルちゃんの言葉をスルーすることができなかった。
「お、俺に会ってみたくてって、どういうことですか?」
「やだ、もう。アカネちゃんと同じで、アタシにも敬語は使わなくていいわよ。もうバンドメンバーなんだから、堅苦しいのはナシにしましょ」
そう言いながら、カオルちゃんは俺にウインクを投げかけてくる。
俺は本能的に鳥肌が立った。
なんつー破壊力のあるウインクだ。
「アカネちゃんが新しいメンバーを連れてきたって言うから、どんな子なのか気になっちゃったのよ。アカネちゃんったら、ずいぶんカワイイ子を見つけたじゃない」
「あ、カオルちゃんもそう思う? ダイダイってよく見ると可愛い顔立ちしてるよね」
和気あいあいといった感じでふたりは俺のことを話しているが、当の俺は引きつった表情筋を元に戻すことができずにいた。
もうすぐ高二になる男を捕まえて可愛いとか言わないでくれ、頼むから。
しかも黒峰だけならまだ百歩譲って流せても、カオルちゃんが言うとマジでシャレにならん。
「それじゃ、カオルちゃんもあんまり時間ないみたいだし、早速今日のレッスンを始めよっか」