第三章(1)
「おい、大泉。起きろ。起きろって」
そう声をかけられた俺は、ゆっくりと顔を上げ、目をこする。
壁掛け時計を見ると、既に十二時を何分か過ぎていた。
どうやら昼休みのチャイムにも気付かないくらい深く眠っていたらしい。
普段はできる限り授業中に居眠りをしないよう努力しているのだが、今日ばかりは睡魔に勝つことができなかった。
それも仕方ない。
結局俺は昨晩、あの後一時間近く、黒峰と通話をしていたのだ。
最初のうちは彼女の話を静かに聞き、それを拙い言葉で慰めていた。
その話が終わった後も彼女は通話を切ろうとせず、なんでもない話題に俺を付き合わせた。
彼女が今日試奏したエフェクターという道具について、最近よく目にするお笑い芸人について、好きな漫画について、昼間にも話した俺ガイルについて……。
一方的に彼女が話すこともあれば、俺が話の主導権を取ることもあり、お互いに盛り上がって好き放題語り合ったりもした。
そうしているうちに、次第に彼女の声色はスマホ越しでも分かるくらいはっきりと明るさを取り戻していった。
最後は普段とほとんど変わらぬトーンで「また明日ね。おやすみ」と告げて、ようやく彼女は通話を切った。
それから俺はチューナーのアプリをダウンロードし、ギターの練習を再開したのだが、先ほどまでの会話が脳裏にチラついて、全く集中することができなかった。
結局十分ほどでそれ以上弾くことを諦めた俺は、シャワーを浴びてから早々に床に就いた。
体はギターを長時間担いでいたせいで消耗しきっていたし、脳も今日新たに覚えたことで疲れきっていた。
しかし、俺の頭の中では、彼女の打ち明け話と泣き声が延々と巡り続けていて、なかなか寝付くことができなかった。
時計の針が三時を示したところまでは覚えているが、その後は浅い眠りと覚醒を繰り返した。
六時半に目覚ましが鳴った頃には、かえって寝る前より疲れているようにすら感じられた。
よほどこのままサボって寝ていようかとも考えたが、そんなことをしたら「また明日」と言ってくれた黒峰を裏切ることになる。
鉛のように感じる体を無理矢理ベッドから引き剥がした俺は、昨日より重く感じられるギターを背負い登校した。
一、二時限目は辛うじて意識を保つことができたものの、それ以降の記憶が曖昧だ。
午前中最後の三限はもはやなんの科目だったかすら思い出せないレベルだ。
机上に教科書すら出ていないところを見ると、どうやら二限後の休み時間に力尽きたらしい。
学校でここまで見事な寝落ちをしたのは初めてだ。
俺は声のしたほうに目線を向ける。
そこに立っていたのは遠藤だ。
出席番号順で俺の前の席に座っている彼は、俺がクラス内である程度会話をする機会を持つ数少ない知り合いである。
サッカー部の彼は普段はスクールカースト上位グループの中にいることが多いものの、たまに俺にも話題を振ってくれる、気さくな奴だ。
しかしその遠藤が俺に何の用だろうか?
「悪い、どうした?」
「お前に客だよ。呼んでくれって頼まれたんだ」
そう言って、彼は教室の出入り口に視線を移す。
俺もそれに合わせて目を向けると、そこにはアンナが立っていた。
窓際のこの席からだと表情までは読み取れないものの、肩幅に足を開いて腕組みをしているその様子を見るに、楽しい要件ではなさそうだ。
サンキュ、と遠藤に礼を言って、俺は席を立った。
俺は凝り固まった体をほぐすようにしながら、ゆっくりとアンナに近づいた。
「昨日、あの後何かあった? それとも、アンタが何かしたの?」
挨拶もなしに、唐突にアンナはそう口にする。
俺を見据える彼女の瞳からは、敵意と疑惑がありありと感じられた。
「黒峰に会ったのか?」
「質問を質問で返さないでよ。……今朝ね、昇降口でセンパイを見かけたから挨拶したんだけどさ。いつも通りを装ってたけど、今朝のセンパイ、いつもより明らかにファンデが濃かったのよ」
「は? ファンデ?」
アンナの言わんとしていることが理解できず、俺が間抜けに訊き返すと、彼女は大きなため息を吐いた。
「あれたぶん、顔色を隠してた。泣き腫らしたかクマができたか、もしかしたら両方かもしれない。だからひょっとして、昨日アンタと行動してたのに何か原因があるんじゃないかと思って」
「なるほど、大した観察眼だな。まるで探偵だ。廊下にコナン君でも隠れてるのか?」
俺が茶化すと、彼女は俺を睨みつける目に一層力を込めてくる。俺は肩をすくめ、首を振った。
「……俺は何もしてないし、俺と一緒の時には何もなかった」
「その言い方だと、アンタと別れた後に何かあったってことを知ってるみたいだけど?」
そう言われて、俺は不用意な自分の言い回しを後悔した。
コイツ、随分鋭いな。
俺は彼女から視線を外し、廊下の窓越しに見える空を眺めた。
重々しい雲が一面に広がっていて、あまり気持ちのいい天気とはいえない。
「例え俺が何か知っていたとしても、黒峰の許可もなく、それを他人に話したりはしねぇよ。そんなのはフェアじゃない」
俺はそう宣言する。
黒峰だって、俺のことを少なからず信頼してくれていたから、あの打ち明け話をしてくれたのだろう。
だとしたら、それを俺がペラペラと口外するなんて論外だ。
「……心配なのよ、センパイのこと」
絞り出すようにアンナは言う。
普段からこれくらいしおらしければいいんだけどな。
「部室で直接訊けばいいだろ」
「今日は私、すぐに生徒会に行かなきゃいけないのよ。かと言って電話やメールでするような話でもないし……」
彼女としても葛藤があるようだ。
俺は彼女に視線を戻し、ふっ、と小さな笑みを浮かべた。
「電話でもメールでもいいだろ。黒峰なら、お前が心配してることをすぐに察して、嬉しく感じると思うぞ。コソコソと俺に訊くよりも、そのほうが黒峰は喜ぶだろ」
それを聞いたアンナは、目をぱちくりとさせてこちらを見てくる。
「そ、そうかな……。ダイスケ、アンタたまには良いこと言うわね」
「ふん、調子のいい奴」
俺はそう言って苦笑いを浮かべる。
彼女も肩の力が抜けたようで、少し表情が柔らかくなっていた。
「いいわ、とりあえずアンタの言うことを信じてあげる。今晩私から連絡してみるよ」
「そうしてやってくれ。黒峰としても、男の俺より、同性のアンナの方が話しやすいこともあるだろうしな」
そう告げてから、俺は踵を返した。
これで話は終わりだろう。
早く購買に行かないと、安い品から順に無くなってしまうからな。
「……ねぇ、ダイスケ」
数歩進んだ後、彼女は再び俺に声をかけてきた。
俺は何も言わずに、視線だけを彼女に向ける。
「私がいない時は、アンタも少しセンパイを気にかけてあげて。センパイ、しっかりしてるように見えて、結構危なっかしいトコあるからさ」
「……善処するよ」
それだけ言うと、俺は再び自分の机に向けて歩み始める。
財布を鞄の中に入れっぱなしだったからだ。
背後からはパタパタと小走りに駆けていく足音が聞こえる。
彼女も自分の教室に帰ったのだろう。
「なぁ大泉、お前いつから安斎さんと知り合いになったんだ?」
席に戻ると、遠藤がそんなことを訊いてきた。
確かに俺が女子と話してる姿なんてそうそう見られるものじゃないから、気になったのだろう。
「おとといだよ。新入生歓迎会のことで、まぁ色々あってさ」
嘘はついていない。
一から順を追って説明するのが面倒だったから、詳細を省いただけだ。
それを聞いた彼は、納得したようなしていないような、微妙な表情を浮かべている。
「ふぅん。でもびっくりしたぜ、あの安斎さんがいきなり『ダイスケいる?』なんて訊いてきたもんだからさ」
「あの? 有名なのか、アイツ?」
遠藤くらい交友関係が広ければ、他クラスの女子のことも多少は知っているのかもしれないが、それにしても言い回しが妙だ。
つーかアンナの奴、俺のこと名前で呼び出したのかよ。
事情を知らない奴が聞いたら勘違いされちゃうだろ。
絶対俺の苗字覚えてないな、アイツ。
「お前はあんまり興味ないのかもしれないけどさ。安斎さんってウチの学年じゃ五本の指に入るくらい可愛い子だから、男子の間じゃ結構人気だぞ。まぁ、男嫌いって噂があって、実際に何人か告白してバッサリ断られてるらしいんだけどな」
そうなのか、と俺は呟く。
確かにアンナは外見だけなら男受けが良さそうな気もする。
初対面でいきなりドロップキックを喰らった俺としては、いい印象なんて微塵もないけど。
「それにしても、歓迎会ねぇ。そのギターと関係あるのか?」
そう言って、遠藤は俺の机の横に立て掛けられているギターに目をやった。
机と壁の間に挟むようにして置いていたからあまり目立たないものの、彼としては気になっていたのだろう。
「まぁ、そうだな」
「まさかお前がギターを始めるとはな。モテ男アピールでもするつもりか?」
俺は苦笑しながら「そんなんじゃねぇよ」と否定した。
しかし遠藤は訳知り顔で「まぁ、頑張れよ」なんて声をかけてくる。
どうにも何か邪推をしているようだ。
俺は小さく乾いた笑い声をあげてから、鞄から財布を取り出し、購買に向かった。
いつものサンドイッチ、まだ残ってるといいんだけどな。
♫