第二章(2)
「あれ、まだ黒峰は来てないのか……」
教室の中は、昨日俺が帰った時のままだった。
部屋の真ん中あたりに、俺が弦を切ってしまったギターが置かれている。
そのギターを見ると、俺はキュッと胸が締まるような思いがした。
黒峰は気にしなくていいとは言ったが、それでも俺が壊してしまったことに違いはない。
これって、簡単に直せるものなのだろうか……。
そんなことを考えながら、俺は昨日と同じ椅子に腰を降ろす。
昨日の復習でブラッシングをやろうかとも思ったが、弦の切れたギターを弾いてもいいものか判断しかねた。
弦は一本しか切れていないのだから、ブラッシングを練習するくらいなら問題なさそうだとも思ったのだが……例えば自動車なんかは、四つのタイヤの一つでもパンクしたら、それ以上走らせるのは得策ではない。
もしかしたらギターにも同じようなことが言えるかもしれないと考えた俺は、伸ばしかけた手を引っ込めた。
結局俺は黒峰が来るまで、音楽を聴いて時間を潰すことにした。
俺は鞄からブルートゥース接続の折りたたみ式オンイヤーヘッドフォンを取り出し、スマホと連携させてから装着した。
何を聴こうか悩んだ末、俺はアニソンを集めたプレイリストの中から【春擬き】を選んだ。
ぼっち高校生の聖典とも呼べる傑作ライトノベル『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』のアニメ第二期のオープニングテーマソングだ。
端的に言って神曲である。
原作の雰囲気を余すところなく表現した素晴らしい歌詞に、それをしっとりと、それでいて力強く歌い上げるやなぎなぎさんの歌唱力は、何度聴いても鳥肌ものだ。
アニメの二期テーマソングって、どうしても一期のそれと比較してしまって良し悪しを語りがちだけど、この曲は俺ガイル二期に完璧にマッチしていて、ケチのつけようがない。
一期の【ユキトキ】と合わせて、俺ガイルの世界観を見事に音楽に昇華させることに成功した、文句なしの名曲だ。
俺はスマホに表示されるこの曲のジャケットイラストを、原作六巻の表紙絵に差し替えていた。
マフラーを巻いた雪ノ下雪乃のイラストが、アニメ第二期の内容にとても良く合っているように思えたからだ。
……原作の内容的には、六巻はアニメ第一期の範囲だけれど、そこはまぁ大目に見て欲しい。
俺はこの曲が本当に好きだった。
嬉しい時、悲しい時、気分がいい時、落ち込んだ時、元気な時、眠たい時、特になんでもない時……。
ありとあらゆる時に繰り返し繰り返し聴いた。
だから何を聴こうか悩んだ時は、自然とこの曲を選んでしまうことが多かった。
聴いているうちに鼻歌を呟いてしまうこともしょっちゅうだ。
俺はスマホに視線を落とし、そこに表示される雪ノ下雪乃を眺めた。
真一文字に結んだ口、わずかに見下ろすような目線、肩からズレ落ちかけている鞄、その鞄にちょこんとくっついた猫のキーホルダー……全てが最高のイラストだった。
ゆきのんを生み出してくれた渡航先生ありがとう……ぽんかん先生ありがとう……。
曲がクライマックスに近付くにつれ、自然とそんなことを思う。
ずいぶん集中してしまっていたらしい。
だから、手の中にあるスマホを取り上げられるまで、誰かが教室に入ってきたことに気がつかなかった。
慌ててヘッドフォンを外し、顔を上げると、そこには黒峰茜とアンナがいた。
ヤバい、いつの間にコイツら部室に入ってきたんだ。
黒峰に持っていかれたスマホには、ゆきのんのイラストが表示されたままだ。
このままでは、俺の隠れオタ趣味が露呈してしま——
「おっすー、ダイダイ。いやー、声かけたんだけど反応がなかったからさ。……ダイダイって、こういう子がタイプなの?」
——終わった。
完全にバレてる。
アンナに至っては黒峰の後ろから俺のスマホを覗き見た後、俺の方を一瞥して「……キモッ」とか吐き捨てるように呟いている。
この一年間、誰にもバレないようひた隠しにしてきた努力が、完全に水泡と帰した。
「お、おっす、黒峰……。いや、タイプというかなんというか、確かにゆきのんは可愛いし、最高に魅力的なキャラだと思うけど、性格はかなりクセがあるし、なによりかなり重い過去みたいなのも見え隠れしてるから、彼女にしたいとか思うには俺なんかには荷が勝ちすぎてるというかなんというか……」
あ、ダメだこれ。
少しでも言い訳しようとした結果、泥沼にハマるパターンだ。
アンナは明らかにドン引きしてるらしく、黒峰の背後に隠れるようにしてこちらに嫌悪の視線を送ってきた。
黒峰はというと「ふぅ〜ん……」とか言いながらニヤニヤとした表情を浮かべて俺の方を見つめてくる。
あぁ、死にたい……。
「……ってか、ダイダイってなんだよ。俺のこと?」
何とか話題を逸らそうと、俺は先ほどの黒峰の発言に焦点を当てる。
「うん、そう。大泉大介だからダイダイ。いつまでも大泉くんって呼ぶのもアレだなーって思って、考えてきたんだよ。いい感じでしょ?」
自信満々といった面持ちで彼女はそう言うが……。
彼女のネーミングセンスは大丈夫なのだろうか。
普通にダイスケじゃダメだったのだろうか。
そんなことを考えながらため息をついていると、彼女は再び俺のスマホに視線を戻した。
「あっ。ねぇねぇ、この女の子、ちょっと私に似てない? いやー照れるなー」
冗談めいて、彼女はそんなことを言う。
それを聞いた俺は、再び顔を引きつらせた。
確かに黒峰の言わんとしていることは分かる。
実際に、顔や体のパーツだけを比較すると、黒峰茜と雪ノ下雪乃には少なからず共通点があった。
腰まで伸ばした黒髪、綺麗に整った顔立ち、華奢そうな体の線、慎ましやかな胸部……。
ゆきのんより黒峰のほうがややあどけないというか子供っぽいが、それでも確かに似ていると言えば似ていた。
性格は大違いというか、真反対といってもいいくらいだけれど。
「まぁ確かに、見た目だけは似てるかもだけどさ……」
渋々と俺は認める。
変に否定するより、いっそ肯定してしまったほうが楽だと考えたのだ。
客観的に見れば似てるのは事実だし……。
「はぁ? 先輩をこんなアニメキャラと一緒にしないでよ。キモッ。こんな訳の分からない絵より、先輩の方がはるかに可愛いし、綺麗だし、魅力的だっての。むしろ比べるのがおこがましいレベルだし」
そう口にするのはアンナだ。
ファンに聞かれたら夜道で刺されかねないレベルの暴言である。
かくいう俺も額に青筋が浮かび上がるのをありありと感じた。
そもそもそれはアニメ絵じゃなくて原作絵だぞ、と訂正を挟みたくなるが、ここでそんな言い争いをしても間違いなく不毛だと考え、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
この話題を振ってきた黒峰はというと、俺とアンナのやり取りがまたツボに入ったらしく、顔を逸らして口に手を当てて肩を震わせていた。
コイツもほんと、大概いい性格してんな……。
「あー……面白い。ごめんねダイダイ、アンナったら思ったことは何でも口に出しちゃう子だからさ。ほら、アンナもそんなにムキにならないで、ね?」
ひとしきり笑い終えたあと、黒峰はそう言って場を取り持とうとしてくれる。
アンナも「先輩がそういうなら……」と、その矛を納める。
俺としても、これ以上の揉め事は御免被りたいと思ってたから、これでひと段落だ……。
「ところでダイダイ、私もこの曲聴いてみたいんだけど」