第一章(10)
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どれくらいの時間、俺と彼女は見つめ合っていただろうか。
お互いに次の言葉が出てこない。
嫌な沈黙ではなかったけれど、それでもやっぱり少しばかり気まずい。
カーテン越しに射し込む西日はすっかり朱に染まっていて、下校時刻が迫っていることが伺えた。
「……そろそろ、帰るか」
「そうだね。すっかり長く付き合わせちゃったね、ゴメンゴメン」
ようやく絞り出した俺の提案に、彼女は軽口を叩くように賛成する。
抱えたままになっていた俺のギターを受け取ると、彼女はそれをスタンドに立て掛けてくれた。
それを見届けてから、俺は席を立とうとする。
「よっ、と。……ッ!? うおおぉっ!?」
「……えっ、ちょっ!?」
立ち上がった瞬間、右足から力が抜けた。
俺は思わず倒れこむようにして……彼女を、押し倒していた。
右足が、完全に痺れてしまっていたのだ。
考えてみれば当然だ。
三キロもある木の塊が長時間乗っかっていたのだ、こうなるのも仕方ないだろう。
俺が慌てて状況を説明すると、彼女は「プッ……」と吹き出した。
「プフッ……ギター初心者あるあるだね。慣れてくると痺れることもなくなるんだけど……クッ、ククッ……」
言いながら、彼女は笑いを噛み殺している。
俺はといえば右足の痺れでいっぱいいっぱいになっていたが、彼女が笑っているのを見ているとなんだか自分でもおかしくなってきてしまい、苦笑いを浮かべる。
しばらくの間俺たちは、床の上でクスクスと笑い合っていた。
その時、唐突に教室のドアが勢いよく開いた。
「せんぱ〜い、遅くなっちゃってすみません〜♡ 新年度のイベントの打ち合わせで生徒会の方が長引いちゃ……って……」
その瞬間、空気が凍りついた。
ドアの方を見やると、そこには明るい茶髪をツインテールに纏めた女の子が立ちすくんでいた。
俺と黒峰はといえば、いまだ床の上で俺が押し倒した格好のままで……。
……あれ、これマズくね?
一瞬の空白の後、ツインテールの女の子がこちらに歩み寄ってきた。
最初はゆっくりだったその歩調は一歩また一歩と速くなり、最終的には全力疾走と呼べるレベルまで加速し……そして彼女は、跳んだ。
「先輩になにしてくれてんだ!? このクソ下郎があああああああああああ!!!!!!!」
「ぐぶふぉあああああアアアアアアア!?」
それは、美しいまでに完璧な低空ドロップキックだった。
助走の勢いを一パーセントも殺さず、体を一直線に伸ばし、体重の全てを乗せて放たれたそのドロップキックは、見事に俺の脇腹に突き刺さった。
俺は叫び声をあげながら吹っ飛ばされる。
進行方向に先ほど置いたギターがなかったことだけが不幸中の幸いだ。
「先輩、大丈夫ですか!? あのド外道変態クズ野郎に変なことされませんでしたか!? あぁ、やっぱり生徒会なんてほっぽりだして、早くこっちに来ていれば……ッ」
「だ、だいじょーぶ。大丈夫だから落ち着いて、アンナ」
腹部から湧き上がる苦痛に見悶えして床を転がる俺のことなんて気にもとめずに、アンナと呼ばれた女子は取り乱してまくし立てる。
黒峰はそんな彼女を落ち着かせようと、立ち上がって頭を撫でてやっている。
うー、と不満そうにしていたアンナだが、黒峰に撫でられ続けているうちにだんだんと平静さを取り戻していった。
彼女は黒峰にそっと抱きつき、黒峰もそれを受け入れる。
……こいつら、人が激痛に苛まれてる横で、なに百合フィールド展開してやがるんだ。
眼福じゃねぇかチクショウ。
腹部の痛みがだいぶ落ち着いた頃に、彼女らもやっとハグをやめた。
アンナはまるで道端の汚物でも見るように俺を一瞥した後、黒峰に質問をした。
「ところで先輩、あの強姦魔はいったいどこのどいつですか。なんでこの部屋に部外者がいるんですか。カオルちゃんは今日は来てないんですか」
……この女、口が悪過ぎやしねぇか。
そりゃ確かにさっきのは俺に落ち度があるが、いくらなんでも強姦魔って……。
「カオルちゃんは今日は来れないってメールがきたよ。急にバイトが入っちゃったんだって。彼は大泉大介くん。ギターに興味があったみたいだから、ちょっとレッスンしてあげてたの。さっきのは、大泉くんの足が痺れて転んじゃっただけだよ」
黒峰はそう答えるが、アンナの方は疑いの視線をこちらにぶつけてくる。
確かに黒峰の言ったことは正しいけど、俺がここに来た理由は割と下心アリアリだったので、アンナの視線はそれを見透かしているのではないかと思えてしまう。
俺はそれを悟られないように、こそりと目線を落とした。
「そうですか……。でも、もうこんな人気のないところで男とふたりっきりになるなんてやめてくださいね。男なんてみんな性欲を持て余したケダモノなんですから。何かあってからじゃ遅いんですよ」
渋々といった様子で納得した後、アンナは黒峰に忠告する。
こいつ、男のことをなんだと思ってるんだ……。
それを聞いた黒峰は、んーっ、と顎に手を当てながらうなる。
どうしたものか、と困っているかのような様子だ。
彼女の方を見やると、その口元には、何度目か分からない、何か企んでいるような例の小悪魔的笑みが浮かんでいた。
「それはちょっと難しいかな。大泉くんにはこの軽音楽部の助っ人メンバーとして、来月の新入生歓迎会でギターを弾いてもらおうと思ってるから。だからしばらくは、私がつきっきりで教えてあげるつもりだよ」
「「はぁっ!?」」
——思わずアンナと被ってしまった驚きの声が、暗くなりつつある教室にこだました。
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第一章はここまでです。