序章
もしかしたら俺たちは、よく知っていると思い込んでいるものですら、本質的には理解していないのかもしれない。
いや、むしろそれは当たり前のことなのだろう。
例えば漫画を読んでいるとしよう。
そこに描かれるドラマティックなストーリーと、それを彩る魅力的な絵……。
ページの右上から左下へ、シンプルなルールに則ってそれを読めば、そこからはまるで映画でも見ているかのような錯覚すら覚えることも少なくない。
ただの静止画の連続のはずなのに、それを読んでいる間は、そんなことは認識の外へ追いやられ、それが動画作品であるかのように感じてしまう。
よくできた漫画には、そういうチカラがあると思う。
でも、いったい何が俺にそう思わせるのか。
それを説明することはひどく難しい。
コマ割りだとかセリフ割りだとか、そういった作者の数知れない創意工夫の積み重ねの結果なのだろうとは想像できるけど、それを順序立てて論理的に解説することは、少なくとも俺にはできない。
なぜだろうか。
たぶんそれは、俺が漫画を描いたことがないからだ。
いや、より正確に言うならば、俺が真剣に漫画を描こうとしたことがないからだ。
今よりずっと子供の頃、俺だって漫画家という職業に憧れたことはあった。
小学生の頃、俺は授業中に先生の目を盗んでは、ノートにちょっとした漫画を描いていたりもした。
担任の先生とか同級生とかがやらかした失敗を、そのままネタとして拝借して四コマ漫画風に仕立てて描いたのだ。
それをクラスメイトに読ませては、面白い面白いと笑いあったりしていた。
そういうことをするのは俺だけじゃなくて、クラスに何人かはそういう奴らがいた。
だから俺たちはそれぞれが描いた漫画を回し読みしては、バカみたいに笑っていた。
それが楽しかったのは間違いない。
実際それは俺にとってはいい思い出のひとつだ。
しかしそれは所詮、身内ノリの身内ネタだからこそ面白いと感じていたに過ぎなかった。
ある日たまたまそれを別のクラスの友人に読ませたことがあったのだが、そいつはピクリとも笑わなかった。
そいつは読み終わるとすぐに、今週号の何々って漫画雑誌は読んだか、と話題を変えてきた。
俺の描いたクラスメイトにしか理解できない漫画よりも、プロが描いた漫画について話したかったわけだ。
そりゃもちろん俺だって、自分の漫画がプロのそれより面白いと思ってたわけじゃないけれど、実際に自分の漫画について何の感想ももらえないというのはひどく悲しかったのを覚えている。
それからだんだんと、俺がノートに漫画を描く頻度は落ちていって……気付くと今まで同じように漫画を描いていたクラスメイトも、描くのをやめてしまっていた。
結局は俺の漫画家に対する憧れも、小学生にありがちな、一時の流行りに過ぎなかったわけだ。
そのようにして、俺は漫画を描くのをやめた。
もし、あのまま挫折せずに漫画を描き続けていたら……。
ノートの端なんかではなく、原稿用紙やペイントツールを使って、本格的に漫画を描こうと努力していたら……。
きっと今の俺とは、漫画に対する理解が桁違いに変わっていただろう。
限られたページ数の中で、いかにして読者を惹き込ませるか、いかにしてキャラクターを際立たせるか、いかにしてストーリーに説得力を持たせるか……。
そういう観点から漫画というひとつの芸術作品を鑑賞できる視点を、俺は得られていたのではないか。
本気で、身を削る思いで、何かにのめり込んでいたら、全く別の視点から、それを俯瞰して見ることができるようになっていたのではないか。
そう思うと、俺はいたたまれなくなった。
あの時あんなに憧れた漫画家という仕事についてですらこんな調子では、結局俺は何に対しても消費者的視点でしか物事を測れないのではないか、そう思わずにはいられなかった。
そりゃそうだ、当たり前だ、所詮俺はプロじゃない。
与えられたものを、与えられただけ享受して、それに満足する人生……それが当然だと思うようになっていた。
別にこれは漫画に限った話ではない。
例えばプロ野球やプロサッカーの中継をテレビで見ていたとしよう。
ただの素人は点が入ったか入らなかったでしか、そのプレイを評価できないかもしれない。
しかし本気で、全力で、全身全霊をかけて野球やサッカーに取り組んできた人間が見たら、その得点のチャンスに至るまでのありとあらゆるプレイの積み重ねを評価できるかもしれない。
他にも例えば食事をする時、ただ提供されたものを食べるだけの人間は自分の好みでしか料理の良し悪しを評価できなくても、調理に理解のある人間なら、その料理が作られる過程まで考慮したうえで評価をすることができるかもしれない。
何かに真剣に取り組んだことがあるかないかで、物事を見る視点が変わってくるんだ。
もちろんこれは俺の勝手な思い込みで、実際には受け手側からの視点だけでも、思慮深い観察眼でもって物事を捉えることができる人間はたくさんいるだろう。
でもそういう人は、全く別のジャンルで何かに全力で取り組んだ経験があるからこそ、それを応用して緻密な洞察を可能にしているのではないだろうか。
俺はそう思うんだ。
俺は今まで、そういう経験をしてこなかった。
授業では与えられた課題を淡々とこなすだけ。
スポーツは自分にできる範囲で無理なく動くだけ。
遊びは仲間内で流行っているものを、それに合わせて一緒に遊ぶだけ。
そこには主体性がなく、積極性がなく、熱意がなかった。
それが、この高校一年の終わりの春に、変わった。
きっかけはたまたまのものだった。
俺はその時にはすでに自分の揺るぎないまでの消費者的生き方を諦めとともに肯定しつつあったし、そんな自分をむしろ自分らしいとすら思っていた。
負け犬根性もここまでいくと大したものだ。
この物語は俺の高一の春の三月十三日から、一ヶ月後の四月十日までを綴ったものだ。
ここまでの俺の自分語りを読んで嫌気がさした奴は、黙ってもっと別の楽しそうなことに目を向けたほうがいい。
今の世の中、娯楽は腐るほどある。
その中でわざわざ自分の好みでないものに時間をかける必要なんてどこにもないし、俺としてもそんなことは望んでいない。
これを読むにせよ読まないにせよ、数時間後にはお互いにハッピーな気分でありたいものだ。
そのほうが限りある人生を有意義に使えるというものだ。
だけど、ここまでの俺の語りを読んで、少しでも共感のような心の震えを覚えた奴は……その人生の数時間を、どんな役に立つかもわからない俺の経験談に割いてくれたら嬉しい。
ここには奇跡も救いも赦しもない。
あるのはどこまでも、どこまでも平凡な現実の積み重ねだ。
でも、だからこそ表現できる説得力があるんじゃないか、俺はそう信じている。
長々と語りすぎた。
少しでもお互いにフェアであるために、結論から言おう。
——これは、音楽の知識なんて一切なかった俺が、ギタリストとしてステージに立つ……そんな、どこの高校にでもある物語だ。