2・ホワイトハート男爵家の事情
前中後編で終わる予定でしたが、終わりそうにないので番号を振らせて頂きました。よろしくお願いします。
「では、御父上の為にお金を用立てようとしていたのですか」
「はい。お恥ずかしい話ですが…」
「何と健気な…! 私で良ければ、是非お力になりましょう!」
感動に打ち震えている兄を横目に、ルークは白目を剥きそうになっている。
一体、どうしてこうなった。
彼の心情はこれに尽きる。
目の前の状況を口で説明するならば、貴族令嬢が商家へ結構な金額の貸し入れを申し込み、それを商会の主が受け入れた。
これを聞いた人はこう想像するだろう。
か弱く美しい貴族令嬢が父親の借金の為、商家へお金を用立てて欲しいと頼み込み、それを器の大きな慈悲深い商会の主が憐れんで受け入れたのだと。何て素晴らしい美談だろう。
だが、実際にその現場を見れば、まるで違う事は一目瞭然だった。
貸し入れを申し込んだ貴族令嬢、ティアナ・ホワイトハートは、ふくよかで優し気な容姿をしているが、決して人目を惹くような美人ではない。
更に、その申し出を受け入れたのが若くしてブラックベール商会を取り仕切る、鬼畜と悪名高い大商人マルコ・ブラックベールだ。
実際にその光景を見たルークは恐ろしさに震えた。
艶めかしい黒髪を掻き上げ、美しい琥珀色の目を細め、労わる様な優しい微笑みを浮かべているマルコは、女性が見れば卒倒する者が出そうなほど麗しい。
あいにく、マイペースな目の前の令嬢にはまるで効果はないようだが、彼の弟であるルークはその笑顔を見て即座に警戒した。
兄が何か企んでいるのは間違いない。マルコ・ブラックベールとはそういう男なのだ。彼が理由もなく優しくしてくれる事など兄弟でも一度もないのだから。
ただ、唯一分からないのは彼の目的だった。彼女には兄に支払えるだけの対価がないのだ。
ルークが兄のマルコから任されている店舗は質屋を兼業している。
現在兄と話しているティアナは、これでお金を貸して貰えないかと、担保として数少ない私物を持ってきていた。
それが目的かと一瞬考えたが、何度見てみても彼女の持ち物に値打ち物はない。物が悪い訳ではなく、寧ろ良い物ではあるのだが、高価なものではなかった。
これは兄程の目利きではないルークにも一目瞭然だ。これを兄が欲しがる筈がない。って、おい兄、物欲しそうに彼女の私物を見るな。値打ちはない物なんだから。
だが、そうなると兄の目的が分からない。
…いや、実際には本人から申告され、現在進行形で頭を過る理由がある訳だが、それをルークは信じられないでいた。
「………だって、ありえないだろ…」
貴族嫌いで有名な兄が。
女など煩わしいと言って遠ざける兄が。
唯一愛しているのはお金だけの守銭奴が。
まさかティアナ嬢に一目惚れするなんて!!
「ないないない! それだけは絶対ない!」
「おい、ルーク。何を一人で騒いでいるんだ」
思わず頭を抱えるルークに呆れたような兄の声が掛かる。
慌てて顔をあげれば、何故か兄はティアナの手を握りながら立ち上がっていた。いや、どさくさに紛れて何やってるんだ、アンタは。手が早いにも程がある。女嫌いじゃなかったのか。
「私はティアナさんと一緒に出掛けてくる。留守を頼んだぞ」
「え、いやいやちょっと待って! どこ行くの? 何で手を握ってるの? いつの間にティアナさん呼びなの? 突っ込みどころが多すぎて捌き切れない!」
ルークが再び頭を抱える中、兄は淡々と答えた。
「詳しい状況を聞くためにホワイトハート男爵家へ行ってくる。私は男爵家の場所を知らないので連れて行ってもらう為に手を繋いでいる。ティアナさん呼びはティアナさんから許可を頂いた」
「意味が分からないよ兄さん! 特に二つ目!」
子供じゃないのだから連れて行ってもらう為に手を繋ぐのは無理がありすぎるだろう。
それに本人が許したとしても、平民が出会って間もない男爵令嬢をさん付けするものどうかと思った。普通は様付けだろう。場合によっては名前で呼ぶのさえ、不敬に当たる。
お互い身分に拘らない人間だし、兄も公の場では猫を被るだろうから問題はないのかもしれない。
それにしても、短い時間でこれだけ好き勝手に振る舞っているにも拘らず、兄は平然としている。この人の面の皮の厚さは最早城壁レベルだ。
しかも、答えるだけ答えたら義務は果たしたとばかりに、さっさと出ていこうとする。我が道を行き過ぎるだろう。
「ちょっと待ってってば!」
「何だ?」
慌てて呼び止めたルークを嫌そうに振り返った兄は、それまでの蕩ける様な笑顔を消して不機嫌そうな顔をしている。今、舌打ちしてきたんですけど。
「心配だから僕もついていくよ」
「来るな。邪魔だ」
「まぁ、ルークさんも一緒に来て下さるの? 益々心強いわ」
「ですよね、ティアナさん! さっさと来い、ルーク」
「態度が違い過ぎるだろ!」
★★★★★
突然、ホワイトハート男爵家へと訪ねて行ったブラックベールの兄弟に、出迎えた男爵は目を白黒させながらも歓迎してくれた。
元々、男爵家はブラックベール商会の得意先であった事もあるだろう。
因みに、ブラックベール商会と取引しているのは男爵家だけではない。
実際にはこの国のほぼ全ての貴族が取引しているのだが、それが後ろ暗いものであったり、平民と表立った繋がりを持ちたくないという貴族が多く、表立った付き合いのある貴族は男爵家を含めごく少数である。
そんな事情もあり、マルコ程ではないが、ルークも都合のいい時ばかり利用しようとする貴族を好きになれなかった。
だが、そんな事情故に、表立って誠実に友好関係を築こうとするホワイトハート男爵家の印象はとても良い。それこそ、兄に内緒で手を貸そうと思うくらいに。
男爵自らによって客間へと案内されたマルコとルークは、ソファーに腰かけながら男爵の話を聞くことにした。その際、ティアナはお茶を淹れる為に席を立っている。
「本日は我が家の為にご足労をお掛けして申し訳ありませんでした。まさか、ブラックベール商会の会長自らおいでいただけるとは思わず、碌なお持て成しも出来ませんがお寛ぎください」
「いいえ、どうぞお構いなく」
格下である平民の商人にも丁寧な礼を取る男爵に、マルコは鷹揚に頷いた。
ルークはそれを横目に見て、兄が男爵に良い印象を持ったことに気付く。
そもそも相手は金を借りる立場なのだから、貸してくれる相手に対して丁寧に接するのは当たり前だ。
だが、一般的に貴族にこの当たり前は通じない。貸して貰うではなく、借りてやるという認識なのだ。頭など下げるものはほぼいない。
そう言った対応を取った貴族は大抵マルコに痛い目に合わされるのだが、男爵は彼に気に入られたようなのでその心配はないだろう。
尤も、男爵以前に男爵の娘であるティアナが兄に気に入られているようなので、最初からその心配はなかったかもしれない。
…いやしかし、この兄の事だ。気に入らなかったら、彼女の父親だとしても容赦せず排除した可能性がある。そう思えば、彼女の父が彼女同様の善人であることは非常に幸運な事だった。
「借金があるとお聞きしましたが、如何ほどのものなのかお伺いしても宜しいでしょうか?」
にこやかにマルコがそう尋ねれば、男爵は沈んだ顔で答える。
その金額を聞いた途端、マルコは僅かに眉を寄せ、ルークは目を見開いた。
ティアナが借りたいと言っていた金額の百倍以上あり、ルークは知らないがこの国の国家予算一年分はある金額だったのだ。貴族はおろか、王族でもこの金額を用意するのは至難の業だろう。
どうしてこの善良な男爵がそんな金額の借金などを負ったのか。
妻に先立たれた男爵の家族は娘のティアナのみであり、二人とも散財するようなタイプではない。その生活は庶民並みに慎ましやかだ。現にお茶を淹れる侍女すらいない程、男爵家は清貧を貫いていた。
ルークが疑問に思う事を、マルコは持ち前の話術で男爵から聞き出していく。
苦渋に満ちた男爵からの説明を聞いたルークは思わず眉を吊り上げ、マルコは笑顔を消した。
結論から言えば、男爵が借金を負う事になった切っ掛けは男爵自身では無く、全く別の所にあったのだ。
彼が負った借金は、数年前に国を襲った災害から始まる。
恐ろしい豪雨により、男爵家の領地では収穫間近だった作物が軒並み流されてしまい、領民は家を失った上、日々の生活すらままならない状況になった。
勿論、国からの補助金は出る事になったが、何せ国中が災害に見舞われた為、復興は王都から近い領地から行われ、国境近くの男爵家の領地は後回しにされてしまったのだ。
かなりの飢餓者を出したこの大災害時、多くの貴族が国からの助けを待つだけだったのに対して、男爵家は少しでも早く領民を助ける為、直ぐに家財を売り払い、領地の運営費用も含め、ほぼ全ての財産を投げ打って領民を助けた。
領民だけでなく、近隣の領地の者にも出来る限り手を差し伸べた男爵家は、自身が食べるもの精一杯になってしまうほどだったが、そのお陰で、ホワイトハート男爵領は一人の飢餓者も出すことなく、大災害を乗り切ることが出来たのだ。
この後、遅れていた補助金が出れば失った財を取り戻し、領地の運営費用も戻る筈だったのだが、一人の餓死者も出ていないという事で、被害は少ないのだろうと補助金はかなりの額を削られてしまった。普段ならともかく、非常時故に碌な確認も行われず、男爵家は見過ごされてしまったのだ。
挙句に、男爵家の上役であった伯爵家が、自分の所の方が被害が大きいと言い出し、その少ない補助金すら奪ってしまったのである。
男爵家の財産はともかく、領地の運営費用がなければ、折角災害から逃れた領民がまた飢えてしまう。
大災害の被害は余りにも大きく、領民たちにはまだ助けが必要だ。
途方に暮れた時、助けの手を差し伸べたのが、上役であった伯爵家だったという。
伯爵家は運営費用を貸す代わりに、貸した金を返し終わるまで男爵領の収穫の三割を渡すように言ってきた。
その時はどこの領地も災害後の厳しい状況で、他に助けてくれる所などなく、借りた運営費用は少なくないが、決して返せない金額ではなかったから、男爵は断腸の思いで資金を借り受けたのだ。
だが、この判断が間違いだったと気付くのは一年後の事だった。
数年で返せるはずだった借金は一年後、倍に膨れ上がっていたのだ。
伯爵が用意した借用書類は巧妙に作られており、収穫状況は関係なく、最高収穫時の三割常に伯爵に納めるようになっていた。その量に達しない時には、その分を借金に上乗せされるように設定されており、気が付けば借金は途方もないほど膨れ上がってしまっていたという。
「…いやいやいや。おかしいですよね? そもそも男爵様が借りたお金って、伯爵様が奪っていった男爵家への補助金でしょう?」
「嵌められたようですね」
ルークが顔を引き攣らせると同時に、マルコがバッサリと切り捨てる。
男爵は情けない顔をしてわずかに微笑んだ。
彼も分かっているのだ。分かっていても、もう動けなくなってしまったのだろう。
「私が愚かだという事は重々承知の上です」
「正直者が馬鹿を見る典型ですね」
「兄さん!」
「ははは、これは手厳しい」
男爵は力なく笑った。
マルコはルークが咎めるのを聞き流し、淡々と言う。
「他の貴族と同じように領民など放って置けば良かったのです。ましてや近隣の領民など貴方には何の義務もない。貴方が助けずとも、国が助けてくれる。そもそも相手は天災です。貴方が何も出来なくとも、領民も諦めたでしょう。貴方がやった事は自己満足に過ぎない」
「兄さん、失礼でしょう!」
「いえ、いいのです。仰る通り、私がやった事はただの自己満足ですから」
けれど、と男爵は真っ直ぐマルコを見た。
「私は後悔しておりません。私は貴族の中でも最も位の低い男爵ですが、ホワイトハート男爵領の領主です。領民を守る責任がある。何度あの時に戻ろうとも、苦境に立たされた領民を見て見ぬふりなどしたくはありませんから」
はっきり言い切る男爵に、マルコは言う。
「でも、それで結果的に貴方も男爵家も窮地に立たされている。馬鹿馬鹿しい事だ」
「兄さん、いい加減にして!」
ルークが止めるのも利かず、マルコは口角を上げた。
「―――だが、自分の信念を曲げられない、そういう馬鹿は嫌いじゃありません。男爵家が負った負債は私が出しましょう。勿論、全額です」
「え」
マルコは何でもない事の様にそう言い放ち、男爵とルークの目が大きく見開かれる。
「え、あの、マルコ殿、全額とは…」
「全額は全額です。この程度の端金ならブラックベール商会を介する必要もない。私の私財から出せます」
「あの額を個人的に出せるのですか!」
ギョッとしている男爵にマルコは軽く頷いた後、口を開いた。
「ただし、条件があります」
ほら、やっぱり来た。そう思ったのはルークだけではないだろう。
どれほど気に入っていようとも、兄が『タダ』で人助けをする筈がないのだ。
男爵も顔に緊張を滲ませている。
「条件、ですか? しかし、我が男爵家には、貴方に差し上げられるようなものは何もありません」
「いえ、ある筈ですよ。とっておきのものが」
兄はそう言って、ニコリと笑った。
「男爵、私は貴方の美しいお嬢さん―――ティアナさんが欲しいのです」
「そんな!」
男爵は思わず腰を上げる。
「ティアナを借金の形に寄こせと仰るのですか! それだけは了承できません! 申し訳ないが、この話はなかったことに…!」
「いえいえ、とんでもない。男爵は何か誤解をしておられるようですね。私は貴方に許して頂きたいのです」
「許すとは一体…!」
困惑する男爵に、マルコは微笑んだ。
「どうか私がティアナさんに求婚する事をお許し下さい」
「…それは、どういう事ですかな?」
「私は一目でティアナさんに心を奪われてしまったのです」
「ご冗談を」
男爵の目には強い警戒が浮かんでいる。
彼は娘を愛していた。だが、彼にとっては世界で一番可愛く愛しい娘が、一目惚れされる様な美貌を持っているとは思っていない。
ましてや、相手がこの目を見張る様な美丈夫では、信じられなくても当然だった。
「勿論、彼女に無理強いなど決してしませんし、ティアナさんが私を拒絶しても、借金の肩代わりの件はそのままでいいです。ですから、お願いします」
「…一つお聞きしたい。娘はとても気立てのいい子だが、お世辞にも美しい訳ではない。貴方は娘の一体どこに惹かれたのですか?」
疑わし気にそう尋ねる男爵に、マルコは即答する。
「全部です」
「え」
「ティアナさんの全てに惹かれたのです。あの可愛らしいお顔も、愛らしい仕草も、思わず撫でたくなるような栗色の髪も、ずっと見ていたくなるような翡翠色の目も全て愛おしい。温かで柔らかな手もずっと握っていたくなりますし、柔らかな笑顔を見ているだけで天にも昇る心地がするのです」
「え、え…」
「彼女は稀有な存在です。周りもお義父様ですらお気づきになっておられないようですが、見るものが見れば彼女が特別であることなど直ぐに分かるでしょう。彼女の持つ清廉な魂の輝きはあの愛らしい外見では隠し通せない。寧ろ、あんなに愛らしくては隠す気がないのではないかと思いますけどね!」
目を輝かせ、鼻息も荒くそう言い切ったマルコに、男爵は唖然としている。
ルークは別の意味で白目を剥きそうになった。どさくさに紛れて男爵を『お義父様』呼ばわりしているのも気になるが、魂の輝きとか何故分かる。まさか兄は本当に悪魔なのではないか。…もしそうでも全く驚かないが。
「ですから、どうか私に求婚の許可を!」
「…わ、分かりました。ただし、ティアナが拒否したら、決して無理強いはしないで頂きたい」
「勿論ですとも! 約束します!」
マルコが嬉しそうに頷いた時、お茶を淹れに出ていたティアナが戻って来る。
「お菓子を作っておりまして、少し遅くなってしまいましたわ。随分盛り上がっているようですけれど、何か楽しいお話でもなさっていたの?」
「ティアナさん!」
マルコは微笑むティアナの傍まで行き、そっとその手を握って跪いた。
「ティアナさん、私は貴女に心奪われてしまいました。どうか、私と結婚してください!」
「今言うの!?」
出逢ってからまだ半日も経っておらず、今さっき男爵から求婚の許可をもらったばかりなのに早すぎる。
ルークが兄の暴走にポカンとしていると、ティアナが戸惑ったように男爵を見た。
「お父様…」
「お前の好きにしなさい」
そう言って苦笑を浮かべた男爵を見た後、ティアナは真っ直ぐマルコを見つめる。
「ありがとうございます。マルコ様。とても嬉しいですわ」
「では…!」
マルコは顔を輝かせるが、そう言った後、彼女は困ったように笑う。
「でも、ごめんなさい。―――私には婚約者がいるのです。だから、ごめんなさい」
彼女はどこか苦しそうにそう言って、ゆっくりとマルコに頭を下げた。