第二話「人生の楽しみ方」(4)
「さって、それじゃあ……」
猫のようにググー、と背を反らしたキハルの表情が、にわかに変化した。
「キハル……?」
一転して険しい横顔を見せる彼女に、大悟は訝しげに声をかける。
だがキハルには、大悟の困惑は無視された。彼の目前を横切り、
「殺気がする」
と低く呟き、フェンスに手をかけた。
大悟もその意図を図りかねながらも、それに倣ってフェンス越しの風景を見た。
学園の真正面に、少女がいる。
閉じた正門の向こう側、直立している。
この五色の生徒ではない。
その身にまとうセーラー服は、学生というよりも、本物の水兵に近い。
流石に顔までは見えないが、腕組み両脚を広げ仁王立ち。これだけで傲岸不遜な顔つきが思い描かれるようだった。
すでに、予鈴間近。
だと言うのに、その奇異な少女の出現と存在感が、校舎外の生徒の足を止めた。
その少女は、左手首に何かをはめていた。
深緑色の筒のような、太い腕輪状のもの。
遠目に見ようとわかる。記憶にあるそれは、大悟自身にとっても、キハルにとっても、忘れられようはずがない。
前の夜の、あの赤面緑衣の甲殻が、脳裏にチラつく。
「あれはっ!?」
「間違いない。……また、あいつらが来た」
リボルバーが開いて展開する。
シリンダーにも弾丸にも似た小さな円筒が、その弾倉に挿入され、格納されると、彼女の全身に劇的な変化が起きた。
その腕から流体の金属のようなものが手首の先から全身まで、くまなく覆い包んでいく。
顔が覆われる瞬間、眼下の女は……嗤っているように見えた。
やがてその大部分は変色し、変形し、武器を形作り、メタリックな外見を形成していった。その過程は、キハルが衣を纏う時と酷似していた。
オレンジ色を基調とした、鎧姿へと変身する。
虎をかたどる顔面。そうした野獣を想起させる鋭い足爪。肩関節から背中にかけて、燕の両翼と尾に似た厚手の布が保護している。
分厚い外骨格に守られた腕部の先には、その魁偉な風貌に相応の、長柄の獲物。
のたうつ蛇のように湾曲した刃が、白日の下で不気味な輝きを見せていた。
『おらあああああぁっ!』
それは、はるか先の屋上にいる自分たちの肌さえ震わせる。大音声と、斬撃だった。
少女だったモノが肩から一気に振りかざした蛇の矛は、いかなる原理か、そのまま大きく伸びた。三十メートル近く成長した刃先は正門を、校舎を、もろともに袈裟懸けに斬りつけた。
大きく傷をつけられた本校舎から、一瞬遅れた悲鳴と断末魔。
大悟たちの耳にも、その悲痛さと恐怖の程が届いた。
『おらぁ! 〈司空〉ゥア! はやく出てこいッ! でなきゃこいつら皆殺しにしちまうぞぉ!』
甲高くも品性のない恫喝は、ほんとうにあの少女から出されたものなのか。
呆れるよりも先に、『司空』……すなわちキハルを狙いながらも見境無しの暴走に怒りを覚える。
「好き放題してくれるもんだ」
苦々しげに呟いた大悟の隣で、
「よいしょ」
……と、キハルが当たり前のようにフェンスに足をかけていた。
「待て待て待て!」
と、その襟を後からひっ捕まえると「なんだよ?」と不満げに振り返る。
「一応聞いとく。……何する気だ?」
「何って、あいつをどうにかしないと」
「バカか!? わざわざあんな危ない奴の前に出かけるってのか!?」
「でもこうしなきゃ校舎にも、生徒にも被害が出る。俺があいつを引きつけるから、その間に大悟は避難誘導を」
……ずいぶんと、あっさり言ってくれるものだと思った。
顔をしかめる大悟に「あ」と。一度地面に下り直した少女はにへへっと笑う。
「大丈夫! 大悟も、みんなも俺が守るって」
「そういうことじゃねーだろ!」
怒鳴り返され、驚くキハルの肩を、大悟はためらいなく掴んだ。
肩胛骨が片手で掴めてしまえるほどに、華奢な身体。そんなもので、彼女はあの異形の獣と戦おうと言うのか。一人、無茶をして。
「お前、言ったばっかだろ!? 『今を全力で楽しむ』って! 自分の身を危険にさらすことが、楽しいことだってのか!?」
「でも、俺が招いた厄介は、俺がケリつけないと」
「あんなもんお前の責任でもなんでもないだうがっ」
あんなクソ共のせいで、この少女はせっかく手に入れた学生生活も、家族という幸福も、手放さなければならないかもしれない。
昼休憩中に時間を削ってネコを助け、大悟が人質にされた時も、少女はためらいなくその身を敵の要求通りにさらしていた。
それを、この少女はなんとも思わないのだろうか?
――どうして、そこまでする? どうして、どうして、どうして……?
やりきれない感情を握り拳の内に沈める。
深呼吸し、語気を沈める。
「……逃げたって、誰もお前を責めやしない。誰もお前があれを連れてきたことも、戦える力があることも知らないはずだろ。私だって目を瞑る。……だから、良いんだ。逃げてくれ。頼む」
一呼吸置くと、完全に気持ちが落ち着いた。
そして冷静になった彼は、手の中の感触がなくなっていた。
ふと目の前に視線を戻せば、
「よいしょ、よいしょ」
と、キハルはまたしてもフェンスに指を絡めている。
ガシャガシャと、その半ばまで上っているのが見えた。
「うおぉぉぉぉぉい!」
「もー、なに?」
「聞けよ、聞け聞いてよ、聞いぃーけえぇーよ! ヒトの話を!」
ダンダンダンと床に手を叩きつける大悟。その制止は、まったく虚しいものだった。
「ほっと」
少女は無視してフェンス側の向こうに降り立つ。
「大悟」
「あぁ?」
「人生の楽しみ方を知ってる?」
だが、教師を呼ぶその声は、甘やかで優しいものだった。
戸惑う大悟を振り返り、少女は白い歯を見せ、にぇへへ、という感じに笑んだ。
「自分がしたいことを全力ですること、だよ」
次の瞬間には、キハルの姿は消えていた。
慌てて大悟がフェンスの際まで駆けると、少女が落下していくのが見えた。紺碧の分厚い衣が彼女を覆う。常人なら手足が吹き飛ぶその高さから、難なく降り立つ。異形となった少女二人が、相対するのが見えた。
「……バカ共がっ……」
大悟は下唇を噛み、拳で金網を叩いた。
スーツのポケットの中にある端末が、震動で着信を伝える。
花見大悟は、確認することなく一方的に切った。