エピローグ
件名:盤古片捕殺計画の顛末
表題まで書いて、大悟の指は止まった。人の気配を感じ、端末をほつれの生じたポケットへとしまい込む。
「死屍累々だな」
おおよそ日常の挨拶とはほど遠いあいさつと共に、そして唐突に男は現れた。
一八〇を超えていない、やや貧相な体躯の男は大ぶりのコートを鎧っている。だが、その分厚さ大きさに阻まれることなく表出する、強烈な威圧感。
――十神戒音。
直属の上司の登場に、大悟は無意識のうちに身構えた。後ずさる足が、破壊されて落下した『桃李』のシリンダーにかちりと当たった。
手にはめ込んでいるのは、ガレキにまみれて倒れ伏す射場重藤から取り上げた、黄金の盤龍鱗。
それをぎゅっと握りしめ、大悟は戒音を正視した。
男の背後では、すでに撤去と人員物資の回収、搬出作業が始まっていた。
その慌ただしい状況の中で、大悟は消え入りそうな声を振り絞った。
「……死傷者は、ゼロです。奇跡的にも」
「報告は受けている。言葉のアヤだ」
つまらなさげに鼻を鳴らした戒音は、一瞬大悟の右手首に視線を移した。
ぴくり、とひとりでに指が動く。一瞬の力みは、戒音の注視がなくなったと同時に解けた。
「『桃李』はどうした?」
「……『司空』との戦闘で再起不能となりました。護衛のため、『黄老』は射場重藤より拝借しましたが」
「で、その『司空』は」
大悟は地面に視線を落とした。
紺色の衣に包まれた、一本の細い右腕。戦闘の後残された、キハルの利き腕。それによって、無言で上司に自らの成果を報告した。
上司は不敵な笑みを向けて側近、小山田純に何かを囁いた。
主人の耳語に深々と礼した中年は、執事然とした立ち振る舞いでそれを拾い上げて立ち去った。
「……お前にとっては大金星だな」
「……恐れ入ります」
「もっとも、オレらにとっちゃ無駄骨も良いところだが」
ついでのように吐き捨てられた賛辞の後に、事も無げに信じられないことを言われた。
「それは、どういう」
乾いた声、震える唇。硬直する全身。
棒立ちする大悟の背にぐるりの回り込み、やや粘性のある調子で、戒音は言った。
「本部が命じたのは、盤古片の牽制と、それを口実としたスリースターの勢力圏内への乗り込み、百地傘下であるのを良いことに甘い汁を吸うクソ虫どもの制圧だけだ。怪物を倒せ、なんて命令は出しちゃいねぇよ? 重藤にはそもそも無理だ」
「は……っ!? し、で、でも射場のヤツは!」
問いかける大悟の傍らで、タンカで射場重藤が運ばれていく。うめき声をあげる部下を冷たく睨みながら、戒音は答えた。
「独断専行だな。おおかた、出した被害を上回る手土産欲しさに命令をでっちあげたんだろ。……あれの悪い癖だ。追い込まれると周囲を巻き込んで大事にしたがる」
大悟は、しばらく言葉が出せずにいた。口から、いや頭の中でさえ、感情を形にできずにいる。
「そもそも、これだけ大立ち回りして死亡者ゼロとなれば『司空』に人類への敵意なしと認めざるを得ないだろ。敵意がないなら別にあえて敵対する必要はない。……今のところは、な」
戒音の言葉も、どこか遠い。
怒れば良いのか、脱力感に襲われてその場にヒザでもつけば良いのか。
自らが悪感情を向ける相手は、すんでのところで搬送されてしまった。
やり場のない心を握力に変えて、肩の震えに転じる。
「……じゃあ、なんだったんですか?」
「は?」
「なんだっったんだっ……一体、この戦いは!? 私がしたことは、最初っから全部空回りで、徒労で……そんな程度の理由で……っ」
大悟の背の真後ろで、ぴたりと足音が止まった。
それも束の間、つかつかと、近寄る気配がして、
「さぁ、なんだったんだろうな? 意味なんてないんじゃないか」
ことさら煽るように、背後の男が囁いた。
「……っ!」
反射的に、左腕を男目がけて全力で振った。
だが振り返った先に戒音の姿はなかった。空を切った拳の横でひょろりと上体を揺らしながら、百地家全体に辣腕を振るうその男は肩をすぼめてみせた。
「そう怒るな。射場家は厳罰に処す。お前にも、相応の対価はくれてやるさ」
「対価? ……金でもくれるってんですか」
「いやいや、そういう直接的なものはやれねぇな。何しろ被害がデカ過ぎる」
「じゃあ、いったい」
すれ違いざま、戒音の手が大悟の右手をつかんだ。
常人離れした力が、手首の装置ごと大悟の腕を抵抗する間もなくねじり上げる。
黄金色のそれを隔てて大悟の横顔を睨みながら、戒音は声を低めて言った。
「今回は見逃してやる……が、二度目があると思うなよ?」
――果たしてそれは、『誰』に向けた言葉だったのか。
様々な心因から背を冷汗で濡らす大悟の目に、朝焼けと、それを背負う戒音の姿が焼き付いていた。
…………
その場に取り残された大悟は、一人同胞たちが去っていった後をずっと睨んでいた。
すでにいない戒音の去り際の光景が、幻影としてその場に残っていた。
やがてそれがうっすらと輪郭を失って立ち消える。代わりにカタカタと、手首の装備が小刻みに鳴り始めた。
「……」
大悟は深いため息をついた。苦渋からでなく、安堵の心地で。
その内の盤古片が入った容器を一本、引き抜いた。
地面に叩きつける。粉々に割れたそこから、白く分厚い雲が立ち上り、四肢を、胴体を形作る。色づき、緑青の衣の武僧姿の『司空・夏雲』が顕現し、それが解かれた後には、 中原キハルの表面上は清楚な顔立ちが現れた。
「ぷはーっ! 肩凝ったー! ん? いや肩なかったから、この表現はおかしいのか?」
……彼女がにぇへへ、と笑うたびに、言葉を交わすたびに、どうしてこうも脱力するのか。
「さっきの腕とかもだが、お前なんでもアリだな」
「人間その気になればなんでもできるって! 大悟も試してみる?」
「できるかバカ! つーか、お前死傷者ゼロってぜったい手抜いてただろ!? 私と戦ってる時も結構余裕だったんだろっ」
「そりゃまぁ、全部受け入れる器量って、相手より格上じゃないとさ」
「私は格下か!? そう言ったなっ!」
「じょーだんだって。……素は結構子どもっぽいな、この人。いやわかってたけど」
「二歳児に言われたかないわ!」
詰め寄る大悟はキハルに適当にいなされた。そしてまたため息をつく。今度は心底からの呆れから。
「で、これもう帰って良いの?」
「良いの、って……まぁ、当分は戦わないって言質はたしかにとったがな」
あるいは、と大悟は戒音の目つきを思い出す。
――あいつ、ひょっとしたら全部見破ってたんじゃないのか?
これまでの経緯の真相も、一度キハルを盤古片に変えて盤龍鱗の中へ隠したトリックも。
「見逃してやる」
「二度目があると思うな」
あれは、大悟にでなくその手首の装置にいたキハルに向けられた言葉じゃなかったのか?
――とすれば、また何かがこじれて敵対することがあれば……その時私は……
今からその「万が一」を考えると、どこまでも深く落ちていくような気分にさせられる。
その心理に追従するように下がっていく頭を、
「ほーら、また暗い」
と、キハルの二本の指が支えて押し上げる。
大悟が正気に戻って抵抗するよりも早く、その手を強く握りしめる。自らの額を、彼の胸板にぽてりと預けた。
「大丈夫だよ」
「?」
「もし今までのことが誰かにとって意味がなくても、大悟が嘘だと言っても、だったら大悟がそれを意味のある、ホントのことにこれからしていけば良いから。俺と大悟は、ここから始まるんだよ」
大悟とキハルの隙間を、温かな風が過ぎていく。美しい花弁を孕んだそれが淀んだものをすくい出して、取り払って、季節の移り目と共に、また新しい風の通り道を生み出した。
「だから帰ろう? 大悟」
「……あぁ」
大悟は満面の笑みで、はっきりと強く頷いた。
自分の胸の中で、少女の笑みの形が変わったのが分かる。
もし自分とキハル、人と神との進む道と終着点が違っていても、今その道は、きっと交差しているから。
彼女の手を握り返し、見上げた先には雲一つ無い朝日が顔を出していた。
――すべては、ウソから始まった。