第一話「空穿つ少女」(1)
花見大悟とその少女、中原樹治が出会ったのは教師と生徒としてだった。
「……チュウゲンのジュチ? チンギスハンの息子の?」
「あ、それキハル。ナカハラ、キハル」
肌は雪のように、白く、柔らかそうで、それでいて凛とした張りがある。ストレートセミロングの髪は、少しだけ赤茶けていて、後の辺りを編み込んでいる。
小顔で、眉は手を入れた様子もないのに細い。灰色がかった瞳の光は強く、大悟の、いわゆる「死んだ魚のような」それとは、比べ物にならないほど明るい。
だが外見的にはともかく、内面にはこれといって特徴のない優等生。
理想的な、明るい良い子。
だが、その認識はすぐに大きく打ち砕かれて、本当の出会いが待っていたのは、その三日後、ぼちぼちと本格的な授業が始まってからのことだった。
昼休み。
予鈴も鳴り、ぼちぼちと学生が校舎に戻っていく中、一人小柄な学生が、ポツリと立ち止まっていた。
それが、中原樹治だった。
「おい、もう休み終わるぞ」
と、声をかけると、切羽詰まった様子で振り向いた。
人の美醜にさほど頓着しない大悟でも、普段は見せない切なげな表情に、ぐっと息を飲んだ。
「あっ、あんた、えーと担任の」
「担任の名前忘れんな。大悟だ。花見大悟」
「あ、そうだった。大悟」
「呼び捨てんな!」
あれ、とキハルが突き出した指先に、樹齢十数年、高さ十メートルはあろうかという桜の樹が見える。
咲き誇る桜の樹上、そこからか細い鳴き声が聞こえてきた。
「猫か」
「うん。のぼったは良いものの、ってヤツみたいだ」
か細くミャー、ミャーと繰り返すその小動物を不憫に思ったのも束の間、
「しょーもな」
と吐き捨て、
「ほら授業始まるぞ」
と促す。だが、
ぐいっ
先んじて戻ろうとした大悟のスーツがそのキハルによって掴まれた。
「一緒に助けるよ、大悟」
まるで大悟の言葉が聞こえなかったように、美少女は強い決意を両目に滲ませて言った。
「ほら、ちょっと力貸すだけ、ね」
「貸すったって……」
流石にてっぺんには上らなかったようだが、それでも猫のかじりつく枝と自分たちとは、三メートル以上隔たりがある。
力だろうと肩だろうと、貸したところで届くようには思えなかったし、わざわざそこまで尽くしてやる義理もなかった。
「……はっ、お断りだ。やるなら一人でやってろ」
そう言い捨ててその場を離れようとした。
「大悟」
と呼ばれ、
「だから呼び捨てにっ……!」
と振り返ると、
「校長先生」
ニッコリ笑って、キハルは正面を指差した。
「こっこれは校長先生! いえあの、これはですねっ!?」
社会人としての性に悲しさか、大悟は本人の姿を確認もせず、反射的に頭を垂れた。
その権力に屈したその背に、
とっ
と、重みがかかった。
大した重圧ではなく、小鳥が何かが、気まぐれに留まったような、一瞬の負荷だった。
だが、どれだけ軽けれど大悟にとっては予想だにしなかった衝撃だった。
「のぉあ!?」
思わずつんのめる大悟の頭上、空中へと舞い上がるキハルの姿があった。
スカートのまくれ上がった白い股が、陽光を照りつける。
小柄な体躯が、尋常ならざる飛距離と、速度と、滞空時間で木の幹に目掛けて行くその様は、
――まるで、ほんとに空でも飛んでるみたいな
と、大悟を呆気にとらせるほどだった。
やがて幹に張り付いた彼女は、わずかな出っ張りや若枝を頼りに、二、三拍子で、駆け上り、猫が助けを求める桜花の中へと身を埋めた。
開いた口が塞がらない大悟の目の前に、毛玉を抱きかかえた少女が足音も立てずに降り立つのに一分も必要としなかった。
「うん。ざっと済みたり」
「済みたり、じゃねーだろっ! 人を踏んづけておいて!」
よく見ずとも校長などいないことは明らかで、十も年下の小娘に欺かれたことに対することも手伝って、大悟は声を荒げて怒鳴りつけた。
だがそれにも怯まず、彼女はにへへ、と白い八重歯を見せて受け流した。
「ごめんごめん。ちょうど良い背中だったからさ。でもちゃんと靴脱いで上ったし、跡にはなってないだろ?」
そして「良かったなー」などと助けた相手に意見を求めると、当の猫も人語を理解するかのように、にゃあと鳴いてすり寄った。
朱色の首輪がついているから飼い猫だろう。
ゆえに懐くのか、それともキハルの可愛らしさに畜生でも当てられたのか、
「にへへへ」
甘える猫に嬉しそうに頬を寄せるキハルを見て、大悟も毒気を抜かれて脱力した。
そんな二人と一匹背後で、本鈴が鳴り響いた。
……二人の本当の邂逅は、まずウソから始まった。