第三話「己を知るために」(5)
進めば進むほど、人と文明から遠のいていくのが分かった。
ろくに舗装もされていない土と石剥き出しの山道を、未熟なドライビングテクニックで苦労して進む。
そんな大悟のライトバンは、キハルにとってジェットコースターに匹敵するスリル満点の乗り物であったらしい。
「わー」とか「きゃー」とか、ある種の可愛らしさのある叫声は、大悟のプライドをいたく傷つけたようだった。バックミラー越しの大悟の目元は、梅干しを噛んだかのように険しかった。
目標の近辺にたどり着く。標高千メートルにもなる式守山の、ちょうどふもとが事故現場が最終目的だが、そこまでは近づけない
当初は大学の研究チームやレスキュー隊が何度か踏み入ったそうだが、それぞれ原因調査としても救助活動としても、かんばしい成果は得られなかったとのことだ。
「……とりあえず、行けるところまで行ってみるか」
その封鎖されているエリアの入り口まで来た時、大悟の表情が訝しげに曇った。
「どうした?」
「いや……フェンスが」
後部座席から身を乗り出したキハルに、大悟はゆっくりと指を持ち上げた。
その指とフロントガランの向こうには、有刺鉄線の金網が設けられていた。
銀色に、攻撃的に輝くそれの中央にはくりぬかれ、スチール製と思われる扉が取り付けられていた。
その扉が、だらしなくポッカリと、半開きになっていた。
厳重に、かつ頑強に施錠されていた形跡はある。それでも今は、通過が可能となっている。
エンジンを止め、降りた大悟はそのままキハルに目配せした。
入るか、入らざるべきか。知るべきなのか秘めておくべきなのか。それはお前に任すと、選択肢を委ねられる。
――そうじゃない。元々これは俺が見るかどうかを決めるべきことだった。大悟は、あくまで手伝ってくれてるだけだ。
そしてその答えは、二年前にすでに定まっていたことだった。
キハルは車から降り立った。
そのまま大悟の横を素通りしようとする。「おい」というぞんざいな呼び声が、フェンスを超えようとした足を止めた。
「お前、怖くないのか。自分を知るということが」
「俺、怖くないよ?」
「なんで」
「どんな真実が待ってたとしても、なんか俺、自分をすぐ変えられるほど器用じゃない気がするっ! 中原キハルは、きっとどんなことがあったとしてもキハルって人間でしかないんだよ」
まっすぐ、ありのままの心情を言葉にする。対する大悟の方が複雑そうに顔を歪めたまま、
「……それが、お前の根底を覆すものだったとしても、か?」
と尋ね返した。
あまりに大悟が真剣に尋ねてくるものだから、キハルも腕組みして、一考してみる。
しかしどれだけ考えを巡らせても、
「うん。無理! 俺は俺を捨てられない!」
……という、結論に至る。
「そうだなぁ。もし、それでも事実がショックだったら……大悟に甘える! ギュー、とか、チュー、とかして良い?」
「ギューは、辛うじて良いっ。だけどチューは止めろ! 社会的に私を殺す気か!? 殺る気だなっ!?」
「冗談だって! っていうか俺のことなのに、大悟が暗くなってどうすんの。で、大悟はどうする?」
「……行く。こうなりゃ意地だ。最後まで見届けてやる」
にへへ、と顔を笑みで崩し、大悟の手を引く。
ったく、と教師は毒づく。それでも共に歩み始めた大悟は、しょうがなさそうに苦笑していた。
だがキハルには、その横顔がどこか無理をしているように思えてならなかった。
…………
山への道は、そこに至るまでは穏やかな道のりとなっていた。
正規ルートからは外れているとは言え、元は観光資源、さらに時代をさかのぼれば、交通の要衝として重宝されていた土地だ。
その道には雑草こそ生えているものの、その下には鉄の網、あるいはムシロで整備された形跡があった。道幅も、二人並んで歩くには苦がない程度に拡張されている。
坂を百メートルばかり進むと、件の現場、開けた旧化石発掘場に出た。
だが、まず大悟の言語と思考の能力を奪ったのは、すべてが矛盾にまみれた、異常な光景だった。
百花繚乱。
キハルたちの目の前に広がるのは、事故現場の、凄惨な爪痕ではなかった。
桜が舞い散る。
黒々とした枝葉の先からは、花弁が切り離された先から、ありえない速さと勢いで、吹きこぼれるように再び花をつける。
紫陽花が膨らむ。
その根元にはこんこんと水が湧き出ていた。地下から汲み上げているかのように、澄んだ豊かな水が、ちょっとした泉を作り出している。
楓の樹が伸びる。
熟した色の紅葉が、焔にも似て盛り、はらはらと落ちていくそれが、その根下を染め上げていた。
椿の首に、淡い雪が降り積もる。
土の汚れも交じ入らない純正の白が、真紅の大輪を絹衣となって包む。
四季の、自然の道理を完全に無視した風光明媚の数々が、乱雑に切り貼りしたシーンかのように現実に存在している。順序や法則なんて、ないに等しい。
視覚だけじゃない。
一歩踏み入るごとに、形容しがたい、甘い未知の香りが濃くなっていく。
空気が、その温度が、風の流れが流転していく。
この百メートル四方の空間には、命や森羅万象をデザインし、配分する神が不在だった。
あふれる生命があるがままに、矛先を失ったままに吹き荒れて、零れて、満ち満ちていく。
「……」
美しさというよりは、異常さに圧倒され、大悟は閉口する。それでも少女と草花との関わりを、いやでも想像しなくてはならなかった。
彼女も、中原キハル自身がそうだったろう。
ほほぉ、と気の抜けるような反応はいつものことだが、その調子をわずかな戸惑いと真剣さが引き締めていた。
「……お前がここで気がついた時も、こうだったのか?」
「いやぁ、あの時はいっぱいいっぱいだったしなぁ。裸だったし」
「裸は関係ないだろ」
彼女の視線の先をたどる。
神の乱心としか言いようがない世界の奥に、不自然に隆起した岩壁があった。
中央には大きな溝があった。
その溝に沿って、季節感も種類もまばらな草花が、細く別れた五条の先端まで埋め尽くしていた。
それはあたかも、緑の巨人の手形のようだった。
「……なにか、思い出したことは」
と、熱心に『手』に視線を送る少女に、恐る恐る聞いてみる。
だがキハルは、大悟の声には反応しなかった。
「お、おい」
と焦りの声を上げる彼に、
「ん?」
……うきうきと椿をもいで髪に乗っけてみせる、少女の姿があった。
しきりに小首を傾げてみせる彼女は、どこを切っても中原キハルとしか言いようがない。
「ザ・花乙女! ……なんか、しっくり来ないなぁ」
「ぶって良いか?」
「いやいや、しっくり来ないっていうのはさ」
と、珍しく低いトーンと落とし気味とテンションで、それでもサッパリとして笑顔は絶やさず、キハルは語った。
「確かに、肌で懐かしさっていうのかな。郷愁的なものは、この花とかを通して感じるんだ。でも、やっぱ俺は、ウチで弁当作りの手伝いしたり、こうして大悟とだべってる方が、よっぽど落ち着くっ」
「……」
ルーツなんて関係がない、とは言わない。タイムマシンが存在するわけでもなし、過去や経緯はもう覆ることはない。
それを含めて、どういう自分で、これからどうなりたいのか。それが大事と、何度も伝えられた。
――この『課外授業』で教えられたのは、生徒よりむしろ、自分の方だった。
だが、と大悟は心の中で呟いた。その心の独語には、苦い響きが含まれている。
携帯を見る。時間に余裕がないことを悟り、早口で言った。
「……特に思い当たるものがないなら、さっさと山下りるか」
「そうだね、怪しいところも特になさそうだし」
「いや不自然だらけだろ!? つーか、なんで頭に花載せてんだお前はっ!?」
「オシャレだろ?」
「ジャージが勝負服なバカ娘が、オシャレを語んなっ! もし毒があったら」
「それら自体は一般的な日本産の植物ですよ、毒素の類は検出されませんでした」
大悟は背後から聞こえてきた声に、小さく舌打ちして振り返った。
男の声ではない。溌剌とした、張りと若さのある少女の声だ。
山とふもとを繋ぐ出入り口。そこに、一人の女の影が伸びていた。
……髪の先から爪先まで、分厚い装甲を身につけた姿。人間と素直に呼べる気がしなかったし、キハルに対する害意は明らかだった。
『すでに危険要因は排除し、接収してしかるべき研究機関に譲渡しましたので』
左手には短槍。石突きに羽飾り。むしろそれは、槍というよりバリスタの矢を想起させる。
右手には剣。蒼く輝く光沢をたたえ、わずかに湾曲した刃は、遠目に見ればしなる弓弦にも見えるだろう。
彼女のくびれた腰から上下に広がる白いプレートは、龍の鱗のようで、顔のモノアイが冷たく冴え冴えと、二人を標的として捉えていた。
『そして貴方はここの土に還るんです、盤古片。……あたしによって、《常山》によって、そして百地家によって』