第三話「己を知るために」(4)
「……昼前にはついてる予定だったのにもうこんな時間か」
「うん。こんな時間だ」
駅前に戻ってきた時には、鉄柱の上の時計は十二時を指していた。
長針と短針が重なるのに合わせて、機械仕掛けの尼僧像が、鳥を象ったような錫杖片手に、悪趣味な舞いを踊る。
なんとも言えない不毛さと共に、それに対するコメントを控え、大悟は隣に並ぶキハルを見た。
「昼飯、何食いたい?」
「カレーうどん!」
「ぶっ飛ばすぞお前」
そこまで自分の予定と彼女のセンスに過度な期待をしていなかった大悟は、すでに下調べは済ませてあった。
商店街の入り口手前にある、フランス風居酒屋の、テラスに陣取る。
そこではランチタイムには一般人向けの定食が振る舞われている。一枚のプレートの上に、牛肉の赤ワイン煮込みとやらと、白身魚のフライと、芋の甘露煮、ポテトサラダ。それにトマトスープとおかわり自由のドリップコーヒーもしくは紅茶がつく。
キハルにはそっくりそのまま注文させ、自身はグラタンを注文した。
本当にそれを幸福そうに堪能するキハルに対し、大悟はもくもくとマカロニをついばんでいた。
――失敗した。
彼が憮然としている理由は、周囲の数メート範囲にあった。問答無用で幸せオーラを振りまくカップルどもに、彼は本気で辟易していた。そしてそんな連中と同様に見られることが居心地が悪かった。
「これ、おいしー! トレボーン!」
だから、楽しげに声を弾ませる少女にも、そぞろな生返事をしてしまう。
舌打ちして意識を完全にキハルに戻した時、
「にへへー」
と笑み綻ぶ彼女の顔が至近にあった。「なんだよ」と目を逸らして、驚きと気恥ずかしさを隠す。
「なんだか、お兄ちゃんができたみたいだ」
「お兄ちゃん、ね……」
恋人だとか言われないだけマシなのか、それとも異性と認識されていない我が身の不甲斐なさを呪うべきなのか。悲喜こもごもの歪な表情のまま、大悟の顔は強ばっていた。
「妹は一人でたくさんなんだけどな」
今度は、キハルが驚き、目を皿のようにする。
肌が触れあうような間合いで凝視される重圧を、大悟は持て余して顔をそむけた。
「な、なんだよ」
「俺、大悟のこと初めて聞いた気がするっ」
「は?」
「だって、大悟さ。なんにも語らないじゃない」
「必要がなかっただろ? 聞かれもしなかったし、謎度で言うならお前の方が上だ」
「俺はもっと知りたい!」
皮肉の色なく、悪意の響きなく、少女はまっすぐ過ぎるほどに言い切った。
打算も、欲もなくて、好奇心と包み隠さない好意だけが輝いている。
「大悟のことをもっともーっといっぱい知って、で、それからもっともーっと、大悟のことを好きになりたい!」
清水を思わせるほどに、澄んだ目。曇りのない笑顔。大悟は見たことも、向けられた覚えもなかった。……自分とは、無縁のものだと思っていたもの。
「自分の過去より、他人の過去を気にかけるか? フツー」
「え? 自分のことだって興味あるよ。だからこうしてデートしてるんじゃないの」
「デート言うなッ! ……わかったわかった。で? 何が知りたい?」
「じゃあっ、じゃあさ! 大悟は、なんで今の仕事をしようと思ったの」
……ぴくり、と。
思わず反射的に動いた眉を、額を押さえつけるように隠した。
一瞬、周囲の声はぼやけて消えて、目の前のキハルの像が大きくブレた。遅れて、軽い頭痛が襲ってきた。
痛む頭を揉みほぐすようにしながら、大悟は俯き加減に答えた。
「……コネだよ」
「へ?」
「高校出た後、遠い親戚に誘われた。なんで、どこで私のことを知ったかは分からん。だが、大学を出たら家業の手伝いをするように命ぜられた。教員免許もそいつに言われてとった」
「大悟は将来の夢とかは?」
「あるわけねーだろ。こんなつまらねー人間に」
大悟はそう自重して首を振った。
「……実家との折り合いも悪かった。優秀な妹と比べられてあーだこーだ言われるのにもうんざりしてた。家出りゃ少しはこんなイヤな人間にもやりたいことが見つかるのかもしれないって、そう思っていた」
……だが、実際はどうだった?
上役に媚びへつらい、奴らの言うことに理不尽と矛盾を覚えながらも、それでも力と智恵を尽くしてこなしていくしかない。
失敗したら集団ぐるみで非難され、成功しようとそれは誰にでもできる、当然のことだった。
辞めようにも、家族の手前、そして出て行った意地、何より周囲の環境に組み込まれて、逃げ出すことさえできなかった。
……死んでいくのが分かった。
生きながらえているんじゃなくて、己の心身が疲弊して、死につつあるのを自覚する毎日だった。
この生活が、本当にやりたいことだったとしたら、それもまた違った見方ができただろうか? 充足は、得られただろうか?
「……な? 聞いてもしょーもない理由だっただろ?」
何故、『今の仕事』をしているのか? というキハルの問いに、大悟はそう締めくくった。
苦く、辛く、重い嘲りと共に。
何かを期待して尋ねたキハルの浅はかさを嗤い、語るだに薄っぺらい自身を蔑む。
こうしている今だって、どこかに沈んで、誰かが遠のいて、離れていくという実感がついて回っている。
「でも俺は、そんな大悟だから、会えたんだよ?」
顔が、誰に命ぜられるまでもなく持ち上がった。
正面には、そっと目を閉じコツン、と額に額を触れさせる、中原キハルの姿があった。
「そういう生き方をしてきた大悟だから、五色に入って、俺に勉強を教えてくれた。いっぱい助けてくれたし、こうして楽しくお話もできるんだ。……良いことも悪いことも含めて、何かが一つでも欠けてたって、そうはいかなかったよ」
「……っ」
「大悟と俺がこうして出会って、話してること。それ自体が特別なことなんだよ」
にへへ、と邪気なく笑う少女に、大悟はしばし脱力した。小刻みに揺れる指先に、辛うじて力を込めて額を押し返す。
それから言葉もなく、静かに顔を覆った。ひとりでに繰り返される浅い呼吸が、肺を絶えず震えさせた。
彼女のすべてが、見えない泥の中で生きてきた彼には眩しすぎた。直視に耐えることができないでいる。
「……そろそろ出るぞ」
心の波立ちが収まった頃合いに、大悟は立ち上がって会計に向かう。
サイフの中には、車の免許証や保険証が入っている。
どれも、自らの身分を証明するのに必要なものではある。それでも、真実自分の正体を明らかにするものは少ないものだと、彼は痛感していた。
――それでも、あいつは……
大悟は無防備に自分についてくるキハルを見返した。
過去がなかろうと、人ならざる身になろうとも。
彼女はどこまで行っても中原キハルとしか、表現できない存在だった。