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小さな幸せと果てなき想い

 翌日、舞花は卵の焼ける良い音に夢から現に意識が帰る。ふわぁと大きな欠伸を一つ。ゆっくりとベッドから足を下ろす。時刻は午前六時半、まだまだ家を出るには余裕の時間だ。棚に置かれた鏡の前で軽く髪をと梳してから、ダイニングに向かう。いい匂いも漂ってくる。

「兄さんおはよ!」

「おはよ。調子はどうだ?」

 舞花は思い出したように額を押さえる。全く持って、平熱だ。頭痛もしない、だるくもない、健康そのもの。

「大丈夫そうだな、安心した」

 佐々木は安堵したのかふっと笑った。舞花もつられて微笑む。

「ご心配おかけしました。ありがとう兄さん」

「昨日も言ってたけどな、どう致しまして。朝飯、机に置いてあるのでいいか?弁当ももうすぐ出来るから」

 佐々木は慣れた手つきで卵焼きを均等に切り分け弁当箱に詰めていく。他にもサラダや野菜肉炒め、ウィンナーが綺麗に並べられていく。

「ごめんね、明日は私が作るよ。一応お世話になってる身なのに何もしないんじゃ悪いからね」

「おお、頼んだ」

 舞花は任せなさいとピースして朝食を取り始めた。

「ごちそうさま。洗い物は私がするよ」

「いや、学校に行く準備終わってないだろ。今日は俺がやるよ」

「ごめんね」

 手を合わせて軽く頭を下げると舞花は小走りで部屋に駆け込んだ。部屋を見回し、一瞬考えてポンと手を打つ。制服どこだ?

「兄さん! 私の制服知らない?」

「それならそこの窓際に干してある。もう乾いただろ」

「ありがとう!」

 制服を手に取りまた部屋に戻る。ブラウスはクローゼットから出す。数分で着替え洗面所に移動し、歯磨きをする。顔も洗ってさっぱりさせる。ポニーテールもバッチリだ。

 舞花はダイニングでお弁当を包む。そんな舞花の姿を捉え佐々木は微かな違和感を感じた。何か足りない。

 何だ、決定的な何かがない。なんだ……あっ。佐々木は思い出すと舞花に尋ねた。

「今日は頭にリボンしないんだな。いつもヒラヒラの付けてるだろ?」

 舞花は急に話しかけられ驚いたのか、肩がピクッと跳ねる。

「あ、あぁこれは、昨日切られちゃってね」

 それを聞いて瞬時に何があったのか理解したのか、佐々木は少し深刻な面持ちになる。確かに昨日舞花を発見したときは髪が解けていた。

「悪い」

「何謝ってるの? 私は兄さん達が来てくれたから助かったんだよ。髪留めはまた買えばいいし」

「そうか」

 佐々木の表情はまだ暗い。知っていたのだ、あの髪留めは舞花のお母さんが贈ったもので舞花が大切にしていたことを。両親を亡くし、大切ものを無くし、舞花はどれほど傷ついているのか。この笑顔は、どれほど無理して作っているのか。真の笑顔をまた見ることは出来るのか。

 今、仮面の裏ではどれほど泣いているのだろうか。

 それは佐々木にも見当がつかなかった。そうであるとしか、分からなかった。また、そう深く思い悩む佐々木自身も辛いのだろう。

 ふと佐々木は驚いたような顔になる。

「あれ? そういえばお前、兄さん"達"が来てくれたからって言ったか?」

「うん。何か変だった?」

「いや、知ってたんだなと思って」

 確かに、舞花は武藤と会う前にもう気を失ってたはずだ。なぜ佐々木以外にも来ていたと知っているのだ。

「あぁそれは、兄さんに背負われてる時一瞬だけ意識が戻ってね、微かに目を開けると隣りに誰かいたから」

「俺が背負ってたことも気付いてたんだな」

「それはまぁ感覚で。あんなに安心して眠れるのは兄さんの車と背中くらいかなぁと……」

 舞花は佐々木から視線を逸らし、頬をかいた。照れているようだ。

「まだまだお子様だな、舞花は」

 佐々木がくすっと笑い、舞花はムッとして噛み付いた。

「うるさい! そんなことより、隣りにいたのって誰なの?」

「何だ、分からなかったのか」

「予想はついてるけど確証がないだけだよ」

「予想っていうのは? 間違ってもいいから言ってみろ」

 なぜか佐々木は先生口調で尋ねる。まぁ本業が教師なら仕方ないかもしれないが舞花は少し不満げだ。

「間違っても笑わないでよ。……一斗、だったんじゃない」

「どうしてそう思う」

「えっと、部活中に私の失踪に気付いて探しに来るとしたら、連れてくるなら一斗かなって」

「流石舞花といったところか、お見事、正解だ」

 相変わらず先生口調の佐々木に舞花は心の中で首を捻る。佐々木が残念そうなのは気のせいだろうか、それとも答えられたのが不満なだけ?

「そろそろ家出るぞ。用意は?」

「オッケーですよ。先生」

 二人は揃って玄関を出た。

 真っ黒でストレートの綺麗な髪、切れ長の目、雰囲気……どれもそっくりな二人。しかし今は、互いに気持ちが交錯し混ざりあいすれ違う。結び付くには、後何時(なんどき)か。




「舞花、俺はお前を待っていたぞ!」

 教室に入った途端、舞花は春樹に腕を掴まれた。その腕を上下に振られる。

「またこの時期が来たか。春樹、それが人にものを頼む態度? って何回言わせれば分かる。私言ってるよね、テスト一週間になると毎回毎回……」

「悪い、いやすみませんでした! 俺に勉強を教えて下さい」

 春樹は慌てて腕を離しきっちり九十度に頭を下げた。舞花はやれやれといった風に息を吐く。

「今回は私もあんま勉強してないから良いアドバイス出来るか分かんないよ。それでも?」

「全然いい、お願いします」

 春樹の面倒をみるということは……自動的に千里もか、とは思うものの口には出さないのが舞花の優しさだ。

 それにしても、テストのことなんてすっかり忘れていた。色々あったから仕方ないか。それに、一人で勉強しても手につかなさそうだし。やっぱ一人になると考えちゃうからなぁ。もう割り切ったと思ったのに、辛いものは辛いな。

「舞花、何ぼーっとしてんだ。珍しい」

 その声で現実に引き戻される。いけない、みんなの前では平然としてなきゃ、と思っているのは事情を知っている者が見たら明白だ。

「そういえば、朝千里が変なこと言ってたけど、お前どうかしたのか?」

「変なことって?」

「体は大丈夫かなとかなんとか、舞花のこと心配してた」

 あぁ千里言ってないのか。あの子なりの気遣いなのかな、春樹には言ってもよかったのに。

「うんまぁ、昨日色々あってさ。今日の朝一緒に行けなかったのもそんなわけで、また後で詳しく話すよ。今は、勉強でしょ」

「それもそうだな。あぁ早く夏休みにならないかな……」

「夏休みはほとんど毎日部活だねー」

 さり気ない舞花の一言に春樹が苦い顔をする。

「なにその顔、春樹は部活嫌なの? 部活に来れば千里にも会えるのに」

「バカッ、ちげぇよ。ああ部活楽しみだなー」

「合宿もお忘れなく」

 舞花はニッコリ笑顔でそう言い残しさっさと自分の席に戻る。小説を開いてパラパラ捲り、無意識に溜め息をついた。

 そういえば、この小説の主人公は大切な友達を目の前で亡くすんだよな、と思い不意に頭の中をある人の顔が過ぎ去った。

「一斗……」

「何かようか?」

「……えっ、いつの間にそこにいたの。ビックリさせないでよ」

 舞花が見ると、すでに隣席には一斗が座っていた。ぼーっとしていた舞花は気付かなかったようだ。

「別に驚かすつもりはない。というか、お前が先に俺の名前を呼んだんだろ。気付いてないのか?」

 舞花はうそ……と呟いて思考を巡らせる。そして思い出す。

「私声に出してたんだ、うわぁ恥ずかしい」

 どうやら知らなかったようだ、自分が一斗の名を呼んでいたことを。舞花は頭を抱えて机に突っ伏した。腕の隙間から少しだけ覗く顔が赤いのは気のせいではなさそうだ。

「珍しいな、舞花が無意識に言葉を発したり俺がいることに気付かなかったり」

「うるさい、本に夢中だったのよ。私だって常に周りの気を感じてるわけじゃないの」

「本、読んでなかっただろ。捲ってただけ」

「ち、違うわよ! 速読よ!」

「お前は熟読派だろ」

「えっとそれは……もう読み終わった本だから簡単に内容を確認しようかと」

「そんなこと本当はしないだろ」

「……この本が伝えたいことを自分なりに思索してた」

「で? 真偽の程は」

 舞花は余計に小さくなる。顔はもう見えないが、ふてているのは一目瞭然だ。小さな声が聞こえる。

「半分ほんとで半分嘘」

 一斗ははぁと息を吐く。

「ほんとの部分は例えばどこだ」

「内容を思い出してたとこ」

「ほとんど嘘じゃないか」

 舞花は黙り込む。少し震えているのは悔しさからか怒りからか。ゆっくりと顔を上げ一斗を睨む。

「うるっさいわね……私が嘘吐いちゃいけないって誰が決めたの!? 大体、口げんかなら私に勝てると思ってるんだろうけど、今回はたまたま油断してたからよ。普段だったらこうはいかないから、分かった?」

「はいはい分かってるよ。で、いつもは油断していない舞花が今日に限って油断していたわけは?」

「一斗には関係ない」

「俺の名前を呼んどきながら?」

「それとこれとは話が違う」

「違わないだろ」

 その時二人の肩に同時に手が乗った。見るとそこには春樹がいる。

「どうしたんだ? お前らが喧嘩なんて珍しいな、なにかあったか?」

「春樹には関係ない」

 二人同時に言われ春樹は半泣きでその場に丸くなった。舞花は慌てて春樹を慰める。

「ごめん春樹、そんなつもりで言ったんじゃなくて、ごめんね! 喧嘩は、そのー私が読んでた小説に出てきた人が一斗に似てて、思わず一斗の名前呼んじゃって、それでまぁ言い争いになっちゃって。春樹は悪くないから泣くなぁ」

 舞花はしおれている春樹の頭を撫でた。そして一斗を見る。

「理由はそんなわけだから、くだらなさすぎて言えなかったの」

 一斗は何も言わない。そんな一斗は無視してまた春樹に視線を戻す。

「春樹、勉強教えてあげるから元気だしな。よぉーし特別に何か一つ言うこと聞いてやろう」

「ほんとか!!」

 舞花はしまったと思った。可愛くて小さなものを見るとつい甘やかしてしまう癖が出てしまったのだ。

「はぁー、悔しいけど仕方ない。一つだけだよ」

「おう。テスト終わってすぐの家庭学習日、買い物に付き合ってくれ」

「買い物? あぁ千里の誕生日プレゼントね。そういえばテスト終わった翌週の休日が誕生日か。それはもう家庭学習日しか買いに行けないよなぁ」

 舞花は一人で納得し苦笑する。

「去年も一緒に行ったよね、いい加減自分で買ってみたら? 千里の好きなものとか大体分かってるでしょ。それに、彼氏から貰ったものは何でも嬉しいものよ」

 あぁやっぱり春樹と千里は付き合っているのか。とそんなことはさておき、春樹がさっき以上にしおれている。

「そうかもしれないけど……一人で女らしいもの買いに行くのって凄く勇気いるんだよ! いてくれるだけでいいからさー」

「分かった分かった。今回は私が言うこと聞いてあげるって言っちゃったからしかたないけど、来年は頑張ってよ? 色々アドバイスしてあげるからさ」

「ありがとうございます!」

 春樹はキラキラとした瞳で舞花を崇める。そんな春樹の視線をかわして舞花は呟く。

「また男装かぁ……それも面白いからいいかな」

「えっ、またお前男装するのかよ。目立つからやめて欲しいんだけど」

「女のままの方が目立つと思うよ。それに、もしこの学校の人に見られたら色々面倒じゃない。春樹も変な噂立つの嫌でしょ?」

「それもそうか。けどお前、また逆ナンされたり……」

「するかもね」

 舞花はあっさりと肯定して微笑んだ。そんな舞花に春樹は少しおののいて、こいつはこういう奴だと思い返す。

「あ、予鈴鳴る。席戻った方がいいよ」

「そうだな……今日から勉強教えてくれよ。部活もテスト休みだし」

「分かってるって。私掃除当番だから図書室のいつもの場所とっといてよ」

「了解」

 軽く手を振って自席に春樹は戻っていった。すぐに予鈴が鳴って佐々木が教室に入って来る。教師の顔だ。

 舞花は佐々木を見て無意識に溜め息を吐くのだった。




 放課後、掃除が終わるとすぐに舞花は図書館へ向かった。特別に凄いわけではないが中々に立派な佐倉高校の図書館には机と椅子も沢山あり、テスト前になると多くの生徒がここに集まる。舞花もそのうちの一人だった。

「お待たせ、春樹に千里。少しは問題解いた?」

「あ、舞花ちゃん、掃除お疲れ様。私は今、問題集の提出範囲やってるところ。春樹君は?」

「……俺もそのはず、けど全く分かんない」

 春樹は人差し指と中指を器用に使ってシャーペンを回しながら数学の問題集と睨めっこしている。

「どれどれ……ああこれは少し難しいかも。私もこれには頭使ったからね」

 春樹の隣りに座り、問題集を覗き込む。

「でも春樹にしてはここまでよくやったね」

「前の補習で舞花と先生に教えて貰ったところだったからなんとか」

「へー、偉い偉い。これだけ出来れば後は気付くか気付かないかなんだけどな、取りあえずヒントあげるよ」

 舞花は春樹の問題集に自分のシャーペンで少し言葉を付け足す。すると春樹は目を丸くした。

「もう分かるでしょ? 後は自力で頑張りな。もし答え見ても分かんなかったら呼んで。千里も、遠慮しないで分からないことがあったら聞いてね」

「うん、ありがとう舞花ちゃん」

 笑顔の千里に舞花も笑顔で答え、鞄から英語の問題集を引っ張り出して自らも問題を解き始める。

 舞花のペンはスラスラとノートの上を滑り、達者な筆記体が刻まれていく。その顔は真剣そのもので、視線はノートと問題集を一定間隔で行き来する。舞花の集中力は凄かった。

 何分経った頃だろうか。舞花はいつの間にか勉強する教科を社会に変え、ノートをまとめていた。

 一息つこうと顔を上げると、そこには申し訳なさそうに舞花を見つめる瞳があった。

「千里、どうした? 何か質問?」

「うん、ごめんね。舞花ちゃんも勉強しなくちゃなのに、迷惑だよね」

「何言ってるの。気にしないで、私は好きで教えてるんだから。それに、今はこうしてる方が楽だから」

 最後の方は話しているというより呟きに近く空に消えた。千里と春樹はその言葉の意味を直感していたが、敢えて触れようとはしなかった。舞花も触れられたいとは思っていないはずだ。

 すーすー、舞花の隣から気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。

 ……ん、寝息?

「春樹、千里は頑張ってるのにお前というやつは」

 舞花は肘で春樹の脇腹を鋭く突いた。うっと鈍い呻き声が春樹の口から漏れる。

「なにすんだよ舞花、痛いじゃないか」

「あんたが図書館で眠るからいけないんだろ。分かんないところあるなら聞くよって言ってるじゃない」

「あ、いやぁ、取りあえず数学のノルマは終わったからちょっと休憩って思って」

 舞花は春樹の肩に手を乗せて首を振った。千里も困った笑顔を見せている。全く、といった感じだろう。

「春樹、千里を見習いなさい。千里は休憩しないで次のやるべきことをやっているでしょう? 別に休憩するなとは言わないけど一時間くらいは集中しな。そんなんじゃテスト中もたないよ」

「……はい、すみませんでした」

 春樹はしおれてしまい、そんな春樹を見兼ねて舞花は仕方ないなぁと呟いた。

「春樹、今から図書館の閉館時間まで勉強を頑張ったら特別に今私がまとめているノート貸してあげる。どう、良い条件だと思わない?」

 春樹は急に元気になって勉強を始めた。素直と言えば素直だが、単純と言えば単純だ。舞花は苦笑し千里に向き直った。

「それで、千里は何の質問?」

「あ、私は、英語が聞きたくて」

「どれどれ……」

 そんなこんなで舞花は二人に色々なことを教えつつ、自分もしっかりと勉強を進めた。

『館内の生徒にお知らせします。後十分で図書館は閉館します。まだ手続きの終わっていない本を持っている人は、至急カウンターに来て下さい。まもなくー』

 館内放送が流れ、生徒はそれぞれに片付けを始めた。舞花も教科書から顔を上げる。

「もうこんな時間か、二人とも出来た?」

「舞花! 俺は頑張ったぞ、だから」

「はいはい、約束のもの。あんたが唯一点数の取れる社会をより分かりやすくより完結にまとめてみました。これを理解すれば満点は無理でもイイとこいけると思うよ」

「ありがとうございます。舞花様様だな」

 満足そうに舞花のノートを鞄にしまった春樹はあることに気がついた。

「千里、元気ないな。どうかしたのか?」

「いやその……テストに自信が持てなくて、大丈夫かなって凄く不安になっちゃって」

 千里はさらに俯き今にも泣き出しそうだ。どうしようかと春樹が慌てる中、舞花は冷静に千里を見つめる。

「千里、自信がないのは誰だって同じよ。私だって不安で一杯。けどね、だからといって俯いたり、泣き言を並べても何も変わらないの。私達はテストで良い点を取りたい、ならどうする? 勉強をするしかないでしょ。なんだってそうよ。練習しなきゃ何も出来ないんだから、今やれることを力一杯やる。それでも悔しい思いをしたなら次頑張るしかない。ね?」

 千里はゆっくりと顔を上げ頷く。その目にはもう迷いはない。不安と恐怖で一杯だけれど、その分頑張るぞという勇気も溢れている。

 凄い……春樹は思った。俺がうだうだしてる間に舞花はあれだけの言葉を考え述べ、千里を勇気づけた。綺麗事や慰めなんかではなく真実をありのまま伝え、それでも勇気を与えた。力強いまなざしと、説得力のある言葉で。

 俺には出来ない。どう頑張っても不可能なことを舞花は意図も簡単にこなして見せる。これはそこら周の男子が惚れるわけだ、と納得し、けど俺は違うと首を振った。俺は、舞花みたいにはなれないけど、それでも俺なりに千里を守るんだ。

「さ、早く図書館を出ましょ。司書さんに怒られちゃうよ」

「そうだな。千里、帰ろう」

 春樹は千里に手を差し出す。何の迷いもなく千里はその手を取った。

「なんだ、ちゃんと彼氏の顔になってるじゃない。安心安心」

「からかうなよ舞花」

「からかってなんかないわよ。ただ本当に、嬉しいだけだよ」

 三人は揃って図書館を出る。春樹と千里が校門に向かうのを舞花は見送った。

「今日は私、自転車じゃないからさ。先生まってなきゃいけないから」

「そうだったね、残念。明日は一緒に行けるの?」

 千里に問われて舞花はニッコリと微笑んだ。そしてもちろんと頷く。

「じゃあまたな舞花、明日もよろしく」

「うん。明日古典の小テストあること忘れてないよね?」

「あっ……何でもっと早く教えてくれないんだよ!」

「やっぱ忘れてたんだ」

 春樹が舞花に噛み付くのを見て千里はくすっと笑った。もうさっきのように不安げではない。

「くそぉ、絶対に良い点取ってやる」

「頑張れー、応援してるよ。じゃあまた、まだ明るいから大丈夫だと思うけど気をつけて帰ってね」

 舞花は春樹の言葉をサラッと流し、千里に向かって手を振った。千里もまたねと言って振り返し、春樹はふんっと逆を向き歩き出す。千里が小走りで春樹を追いかけ、少ししてから春樹が振り返らずに片手を上げた。

「仲が良いなぁあの二人は。もう私がしてあげられることはなさそうね」

 二人が見えなくなるまで見送った後、くるりと方向を変えて職員室に向かった。

「失礼します。佐々木先生はいらっしゃいますか?」

 職員室のドアを潜ると、中には数人の先生方が机に向かって何やら仕事をしていた。テスト前だからどの先生も忙しいのだろう。仕事が終わるとさっさと家に帰っていく。佐々木もパソコンに向かってせわしなくキーボードを叩いていた。

 邪魔しちゃ悪いよな、と様子を伺っていると、背中から声がかかった。

「どうしました? 伊乃上さん」

 振り返るとそこには白衣を着た松島が立っていた。舞花は慌てて頭を下げる。

「すみません! 気付かなくて。えっと、佐々木先生を待っているんです」

「ああ佐々木先生ね。ちょっと待っていて下さい、呼んであげますよ」

 松島は一歩踏みだしかけて、舞花を振り向く。

「そういえば、もう体調は大丈夫ですか?」

「あ、はい。お陰様で……元気一杯です」

「それはよかった」

 松島は再び歩きだし佐々木の元へ行き、少し言葉を交わすと佐々木が立ち上がり舞花の方へ来た。

「悪いな、後少しで仕事が片付くんだ。ちょっと待っててくれないか」

「分かった。エレベーターホールにいるよ」

「ああ、すまん」

 佐々木は舞花に手を合わせて軽く頭を下げると、早足に自席に戻ってまたキーボードを叩き始めた。舞花もさっさと職員室を出て少し廊下を歩き、エレベーターの前にある空間に幾つか並べられた椅子の一つに腰掛けた。

 鞄から英単語帳を取り出しペラペラと捲る。時折指を動かして確かめたりもしている。よくこんなところで集中出来るものだ。気温だって、空調管理が行き届いた室内に比べると少し高い。舞花の頬を汗が伝った。だがそんなことおかまいなしに舞花は単語を覚えページを捲る。

 数十分後。太陽も段々と西に沈みかけ辺りが暗くなり始めた時、舞花はふと顔を上げた。目には佐々木が映る。

「お疲れ様、仕事終わった?」

「なんとかな。悪かったな待たせて」

「ううん、全然平然。早く帰ろう」

 単語帳を鞄に丁寧にしまい立ち上がた。前髪から水滴が散る。佐々木は少し怪訝な顔をした。

「舞花、凄い汗だぞ」

「え、うそ、全然気が付かなかった。ほんとだすごい汗」

 ハンカチを取り出し軽く額を拭う。

「凄い集中力だな。普通は汗かいてたら気になるぞ」

「そんなことないって。私なんかまだまだだよ」

 舞花がへへっと笑って歩きだすのに佐々木はついていきながらも心底驚いていた。舞花は昔から集中力がすごかったが、最近は特に良いことに気付いていたのだ。それは教師としても顧問としてもとても嬉しいことなのだが……。

 佐々木は苦虫を噛み潰す。

 これはもしかしたら、不味い方向に向かっているのではないか。ここのところ急速に集中力が上がったのは、もしかしたら舞花の両親の死が関係しているのでは。もし別のことを一生懸命頑張ることによって両親のことを考えまいとしていたてしたら。

 ……かなりやばい。

 佐々木の額を汗が伝う。決して暑いからではない、むしろ寒いくらいだ。

「佐々木先生、何怖い顔して突っ立ってるの? 早く帰ろうよ」

 舞花の明るい声に佐々木は深い思想の海から引き戻される。

「悪い、ちょっと疲れてるのかもしれない」

「この時期の先生はみんな大変そうだからね。家ではゆっくりした方がいいよ」

「そうだな、そうするよ」

 ああ今だけは、この愛しい声に、縋っていたい。




「舞花ー、風呂空いたぞ……舞花?」

 佐々木は風呂から上がり、ダイニングにいる舞花に声を掛けたが返事が返ってこない。少し怪訝に思いながらダイニングに入ると、そこには図書館にいた時よりも真剣な表情で勉強をする舞花がいた。周りの音が耳には入らないくらい集中しているようだ。何やら難しい問題を解いている。

 佐々木は邪魔をしないようにそっと近付き、見守った。きりがつくまで待つようだ。少しして舞花はペンを置き、伸びをした。

「んーやっと終わったぁ。あれ、兄さん! いつの間にそこにいたの」

 舞花は佐々木と目が合い、半ば驚きながらもそう尋ねる。本当に全く気付いていなかったようだ。

「少し前から、随分と集中してたみたいだから邪魔しちゃ悪いと思ってな。風呂、入れよ」

「あ、うん。了解」

 手際よく勉強用具を片付ける舞花を見て、佐々木はそれにしても、と口を開く。

「お前、よくそんなに勉強出来るな。普段から予習復習は欠かさないし、今日は図書館でも勉強してきたんだろ。そんなにすることあるか?」

 舞花は振り返って恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうなんだけどね。図書館では春樹や千里に勉強を教えながらだし、なんか……不安でさ。千里に向かって立派なこと言った手前、自分も頑張らなくちゃって。というか、あれは自分自信に言い聞かせてたんじゃないかって今更ながら思って。あ、あれって言っても兄さんはその場にいなかったから知らないか。とにかく、今は勉強していたいというか、してないとどこかそわそわしちゃって。それに」

 舞花はそこで一回言葉を切った。姿勢を正し、真っ直ぐに佐々木を見つめる。挑むような、そんな瞳。

「それに?」

 佐々木は続きを促した。

「それに私、負けたくない人がいるんだ。そいつには、何がなんでも負けたくない。勝りたいとは思わない、けど……負けたくないんだ。あれ? 何か矛盾したこと言ってるかな私」

 はにかみながら視線を佐々木から外した舞花の肩に、そっと両手を置いて顔を覗き込む。

「にい……さん?」

 いつになく真剣な眼差しの佐々木に少し焦りながら、舞花は佐々木の視線を受け止めた。それが最後、逃れられない。

「その、負けたくない奴って……武藤か?」

 どくん、と胸が高鳴る。ときめきではない。じゃあ何? 恐れ?

 舞花は暴れる心臓を何とか押さえ付ける。

「うん。その通り、だよ」

 舞花が言い終わる前に佐々木はきつく舞花を抱き締めた。

「ちょっ、兄さん?! どうしたのいきなり」

「覚えてるか? 昨日の約束」

「えっと、キスのことかな」

「あぁ。今更取り消すとかないからな」

 舞花の返事も聞かずにそのまま壁に押しつけてキスをする。抵抗する隙も考える間も与えない。捕まえ押さえ込み飲み込んでゆく。狙った獲物は絶対に捕らえる。その姿、まるで狼。そういえば昔佐々木は‘漆黒の狼’と呼ばれていたらしい。だが、今はそんなこと関係ないのかもしれない。

「にいさん……どうしたの、急にこんな、んっ」

 話そうとする舞花の口を塞ぐ。熱い、頬が火照る、あてられる。鼓動が押さえきれない。思考が閉ざされて、兄さんでいっぱいになる。

「……分からないか」

 ほんの少しだけ口を離して尋ねる。荒れる息を整えながら尋ね返す。

「なに……を?」

「俺がこんなことをした訳だよ。聡い舞花だ、勘づいてるんじゃないか」

 黙り込む。そうだ、何となく分かっていた。けど、どうしよう。嬉しいとか思ってる自分がいる。

「一斗の、こと?」

「そうだ、情けないけど悔しいよ。お前の中が今、あいつでいっぱいなんて」

「違う。私は兄さんのことが好き」

 反射で言葉が飛び出す。考える必要なんてない。

「そうだな。けど……」

 耳元に口を近付けた。息遣いを肌で感じる。

「お前があいつのことで一生懸命になるのが悔しい」

 とくん。一際大きく胸を打つ。

「それは……ごめんなさい。けど私も、負けるのは悔しいの」

「そうだな。なら今だけは、俺のことを考えていてくれ」

「私はいつも兄さんのことを考えている。いや、違う、私嘘吐いてた。一斗に負けたくないっていうのもほんとだけど、兄さんに追いつきたいって気持ちもあったの。それに何より、お母さんとお父さんのこと、考えたくなかったんだ。だからお願い、今は兄さんのこと、考えさせて。兄さんでいっぱいにして。逃げてる訳じゃない、ただ今は、あの二人のことを考えたくないの。辛いの。もう少し、向き合うのには時間が欲しい。だから……うぅん違う。兄さんは埋め合わせなんかじゃない。純真に、兄さんを感じていたいから、兄さんが好きだから、兄さんを」

 首筋を佐々木の唇が滑る。舞花は佐々木の着ている服をきつく握り締める。

「よかった」

 あっけなく、いとも容易くすり抜けて佐々木は舞花から離れた。舞花はその場にしゃがみ込み頬を一筋の涙で濡らす。もう彼は、いつもの彼に戻ってしまっていた。

「いや……離れちゃいや! 兄さん気付いてたんでしょ? 私が二人のことを考えないようにしてるって、だからこんなことを」

 ふわり、と佐々木の手が頭に乗った。温かい。心の底から落ち着く。

「半々……いや、四分の三と四分の一くらいかな。武藤に嫉妬したのも嘘じゃないし、俺に両親のことで悩んでるのを教えてくれなかったこともある。けど、よかった。舞花の中で俺の存在が支えてになってくれたなら、それでよかった。勉強頑張れよ、また一位取る気なんだろ? 武藤なんかに負けるな。おっと、これは教師としては失言だな。内緒だぞ」

 人差し指を口許にあて優しく微笑む佐々木に、舞花もまた微笑んだ。

「兄さん……ありがとう、元気出たよ。私、しばらくは現実に向き合えないかもしれない、逃げてばかりかもしれない、それでもいいかな? 私、兄さんに縋ってばかりで、そんなんでもいいかな?」

 ポンポンと二回頭を叩かれた。小さい頃も、よくやられたなと思い出す。

「当たり前だろ。いつでも縋ってこい、ぶつかってこい。お前は俺の、大切な」

「大切な?」

「大切な人だからな」

 舞花はくすっと笑って佐々木の顔を見た。

「どうせなら、彼女とか好きな人って言って欲しかったな」

「うるせぇ! 後一年半、それだけ待て。そしたら言ってやっても良い」

「意地悪だなぁ、兄さんは」

「これは俺なりのけじめだ」

「はいはい。じゃあ私お風呂入ってくるよ。兄さんもあんまり無理して仕事しないでよ、体壊したら許さないから」

 一時、されどこの二人には貴重な時間。互いの思いを隠さずに話し、打ち溶け合う。縺れる糸が、ほんの一瞬真っ直ぐに伸びる。

 後で恥ずかしい思いをしても、それはお互い様。良い思い出にはなっても、深い後悔には決してならない。

 そう、大切なんだ。




 長かったテスト週間が過ぎ、四日間に及ぶテストも終わりを告げるベルが鳴った。

「春樹、どうだった? 私が言ってたこと当たったでしょ」

 ニッコリ笑顔で春樹の席までやってきたのは勿論舞花だ。それとは対照的にやつれた顔の春樹は机にへたれこんでいる。

「あれ、元気ないね。やっとテスト終わったのに」

「やっとテスト終わったから元気がないんだよ。疲れたぁ」

「それで、手応えはあった? 私が教えたところが結構出たはずだけど」

 春樹はゆっくりと体を起こし親指を立てた。

「おぉ、それは何とか出来たぜ。だから追試は免れるはず」

「それはよかった。どうせなら平均は絶対に超えるとか言って欲しかったけどまぁいいや」

「俺にそこまで要求しないでくれ。それより、お前はどうだったんだ?」

 舞花は急に苦い顔に変わる。少し考えた後、首を振った。

「はっきり言って微妙、いつもより手応え感じなかった。どの教科も全問埋めたけど、満点は無理かな。よくて九割、悪くて七割って感じ。一位は狙えなかったかなぁ」

 最後にチラッと一斗の方を見て、また視線を春樹に戻す。嫌なことは忘れようと言わんばかりに苦しい笑顔で話を無理やり変えた。

「それより、明日のこと忘れてないでしょうね?」

「あ、あぁ。よろしく頼むよ」

「春樹も考えるんだからね。私ばかりに頼ってちゃ駄目だよ」

 舞花は表情が強張る春樹の肩を軽く叩いた。

「何緊張してんの。大好きな千里のためにプレゼントを買ってあげるんでしょ。もっと堂々としてなさい。彼氏君」

「か、からかうなよ!」

「そうそう、そのくらいの勢いでいかなきゃ。緊張してーなんて春樹らしくもない」

 春樹は真剣な顔で何かを自分に言い聞かせ、大きく頷いた。決心がついたらしい。そこまで大それたことをするわけでもないのに、と半ば呆れつつ舞花は春樹を見守った。

「そうだよな、緊張なんて俺らしくないよな」

「剣道の試合前はもう少し緊張感を持って貰いたいところだけどね」

 サラッと痛いところを突かれ悔しそうに頬を引きつらせた春樹だが、言い返そうとはしなかった。自分でもさっきのようになるのはらしくないと分かっていたし、舞花がいつもの調子を取り戻させてくれたことにも気付いたからだ。

「席座れー。ST始めるぞ」

 春樹にとっては良いタイミングで佐々木が教室に入ってきたので、舞花はじぁあまたと自席に戻った。舞花が去るのを横目で見送りながら春樹ははぁと溜め息を吐く。

 やっぱり舞花は凄い、俺が元気ないのを見透かして声をかけてくれたんだからな。しかも、いつもの調子が出るよう自然と話を振ってくれた。何度もそうやって助けられた。そんなことに気付き始めたのは最近なんだけどな、と春樹は思い苦笑する。意識してやってんのか無意識にやってんのか知らないけど、とにかく俺には出来ない。凄い、としか言い様がないよな。本人には絶対に言えないけど、尊敬するよ。

「テストは明後日に全教科返却される。明日は家庭学習日って名前の休日だ、間違えて学校くるなよ。それと、テストの復習をしとくように。まぁしないだろうけど、せめて捨てずにとっとけよ」

 佐々木の良く通る声で春樹は我に帰った。まだ机の上にシャーペンやら消しゴムやら問題用紙やらを出したままだということに気付き慌てて片付ける。

「今週末はもう終業式だ。夏休み、遊ぶのもいいが宿題を忘れるなよ。それにお前らはもう高二だ、受験なんかまだまだとか言ってられないからな。来年の今は遊びなんて望めないと思え。部活とかで学校に来る人もいると思うが、教室は汚すなよ。後、くれぐれも外で問題を起こすな。以上」

 軍隊の教官かと思うような切れのある命令口調の佐々木に、当初は教室中がビクビクしていたものだが、今ではもうすっかり慣れてしまい普通に聞き入れている。しかし一度(ひとたび)おしゃべりなんかしようものなら、ダイヤモンドすら射抜くような鋭い視線でひと睨みだ。誰もがそれを理解し、静かに佐々木の話を聞いている。他クラスには真面目で大人しいという印象を受けがちだが、決してそういう訳ではないのだ。

 佐々木がSTを終え教室を出ると、たちまちクラスは騒然となった。あちこちからどこに遊びに行く? レポートの宿題一緒にやろ! 部活頑張ろう等と楽しげな声が聞こえてくる。

 春樹も席を立って一斗と舞花がいる方へ向かった。

「なぁお二人さん。今日って部活あるっけ?」

 春樹が尋ねると舞花より先に一斗が口を開いた。

「先生はいらっしゃらないけど、あるにはある」

「てことは、一斗が仕切るのか」

「一斗頑張れ、私は陰で応援しているよ」

 我関せずとばかりにそう言った舞花を一斗は軽く睨んだ。

「お前もやるんだ。副部長だろ、俺にばっか任せるな」

「えー私もですか、部長酷いですぅ」

「そんなに俺を怒らせたいか? 良いだろう、舞花には素振り千本やってもらう」

 あからさまに嫌な顔をして、舞花は大人しく頭を下げた。

「すみませんでした。私もメニューを考えます」

 と、一人呑気な春樹が呟いた。

「お前ら大変だなぁー」

「お前もだよ!」

 鋭い突っ込みが二人から飛び、春樹は呆気にとられた。

「え、俺も?」

「無論。あんたは佐倉高剣道部二年エース高津春樹なんだから。たとえ何の役職に就いてなくとも、先生がいなければメニューを考える。当たり前でしょ」

「舞花の言う通りだな。まあ、それだけ良く分かっていて自分だけ逃れようと考えていたのも、おかしな話だよな。佐倉高剣道部二年女子エース伊乃上舞花さん?」

「うっ……きついなぁうちの部長兼エースは」

 舞花はうなだれて机に突っ伏し一斗を見上げた。そんなことはお構いなしと一斗は話を続ける。

「今日は一時から部活だけど、俺らは三十分前に道場集合な。忘れるなよ」

「了解」

 春樹が気前良く返事をするので、舞花も体を起こして右手をあげた。

「了解です、部長」

 その後三人は別れそれぞれに昼食をとり、約束の時間にはしっかり集まった。その中には千里もいたが、春樹と一緒に来るだろうなと予想はしていたので誰も気に止めなかった。




 メニューは四人で話し合い、それを実行した。特に大きな問題もなく、無事、部活は終わりその日は幕を閉じようてしていた。

「ただいま、舞花」

 夕刻、佐々木が家に帰ると、すでに帰宅していたらしい舞花が夕飯を作っているのか、良い匂いが漂ってきた。

「おかえりなさい、兄さん。お疲れ様。もうすぐ夕飯出来るから待ってて」

 その言葉どおり、佐々木が手洗いうがいを済ませ着替え終わった頃には完成していた。

「私も部活やってきた帰りだから大したもの作れなかったけど、味は悪くないと思うよ」

 そう言ってダイニングに並んだのは幾つかの皿に盛り分けられたパスタだった。

「奥からミート、クリーム、和風、ボンゴレね。後は簡単なサラダを一品、これで足りるかな? 肉とかメインの料理にしようかとも思ったけど、ちょっときついかなって。それより栄養もあって色々な食材が食べられる方がいいかな、とこんな献立になりました」

「すげー、舞花ってこんなに料理出来たんだな」

「多少手探りな部分もあったけどね」

 佐々木が座っている隣りに舞花も腰を落ちつけ、手を合わせていただきますをする。

「これは美味いな」

 満更でもなさそうにそう言ってパスタを食べてくれる佐々木に、舞花は心の中で感謝した。嬉しかったのだ。自分の作ったものでこんなに喜んで貰えたのが。

 四十分後、テーブルの上には空になったお皿が残っていた。全て二人で完食したのだ。舞花は開いたお皿を幾つか重ねてキッチンに運ぼうとした。

「洗い物も私がするから兄さんは休んで。どうせ今日中に採点終わらせてきたんでしょ? 明日も、私は出かけるけど兄さんは家でゆっくりしててよ」

「ふん。言うようになったなお前も」

「これでも兄さんが心配なんです。倒れたりしたら私許さないから」

「はいはい、分かってますよ」

 舞花の頭にポンと手の平が乗った。そして何かを差し出される。

「これは?」

「開けてみれば分かる。別にトラップなんか仕掛けてないから安心しろ」

 舞花は言われるがまま可愛く包装された包みをそっと開いた。中から綺麗な薄水色のスカーフ状リボンが現れる。

「素敵……これどうしたの?」

「この前、所用でスーパーに行ったんだが、たまたま雑貨屋の近くを通ってな。お前の好きそうな色のリボンだったから似合うと思って。前のは切られちまったし、変わりにとは言わないけど、気に入ったなら着けてくれ。プレゼントだ」

「兄さんありがとう! 凄く嬉しい」

 舞花は子供の頃のように佐々木に抱き付いた。キラキラ輝かせた瞳を佐々木に向けニッコリと微笑む。

「ありがとう、一生大切にする。このリボンは今日から私の宝物よ」

「そんなに嬉しかったか?」

 舞花のあまりの喜びように佐々木は少し戸惑っているようだ。

「勿論よ。だって兄さんが私に似合うと思って買ってくれたんでしょ? 最高よ!」

 リボンは薄水色で無地だったが、端の方に少しだけ模様があった。舞い散る薄いピンクの花びら。これはきっと桜だ。春生まれの舞花の、名前の由来だった。

「兄さんって案外センスいいよね」

 そう呟いた舞花に、案外とか言うなと突っ込みながら、自分が赤くなっていることに気付き視線を外した。

「兄さん、もしかして照れてる?」

「うるせぇ! 気に入ったんなら良かったよ。早くお前の髪についてるところを見たいもんだな」

 そう言って舞花のポニーテールを指で梳いた。こんなにも長いのに、どこもにも引っ掛からない。さらりと指は抜けた。良く手入れされている証だ。

「そうだ! 兄さん、ちょっと待っててね」

 舞花は佐々木から離れると手にはしっかりとリボンを持って洗面所に消えた。少しして戻ってくる。

「どう兄さん。似合うかな?」

 舞花は佐々木の前でくるりと一回転して微笑んだ。頭の上ではリボンが踊っている。舞花の美しい黒髪にはおとなしめのリボンだったが、あまり派手なタイプではない彼女にはとても良く似合っていた。舞花が動くと時折薄桃の花びらが覗き揺れる。

「凄く良い、似合ってる、可愛いよ舞花」

 在り来たりなことしか言えない、しかしそれだけで充分だった。両手を広げる佐々木に舞花は躊躇いなく飛び込んだ。そのまま抱き上げられる。

「俺にはちょっと勿体ないかもな」

「何言ってるの、狼さん。私をこんなにも虜にしたのは貴方でしょう? ちゃんと責任取ってよね」

「ははは、言うようになったなぁお姫様は」

「あら、狼さんこそノリが良くなったわね」

 佐々木はそっと舞花を床に下ろすと前髪を分けておでこに軽くキスをした。

「お陰様で。王子じゃなくて狼ってのが妙にしっくりくるな」

「私が姫ってのはちょっとおかしくない? どちらかというと侍的ななにかじゃ」

 佐々木はいや違うとかぶりを振った。

「女王様だろ。あれだけの女子と男子を従えて」

「従えてない、従えてないからね! それは兄さんの勘違いだから」

「なんだ違うのか? けどま、色んな奴から慕われてるのは事実だろ」

「うぅ、私は何もしてないのに、何でなんだろ」

 頭を押さえた舞花に佐々木はまぁいいじゃないかと肩を叩く。

「人望があるんだろうよ。それと、お前には人を引きつける何かがあるんだ」

「兄さんみたいな?」

「俺はそんな大したものねぇよ」

 嘘だなと舞花は首を捻る。兄さんこそ昔は沢山の人を従えていたくせに。

「舞花、何か勘違いしてないか? 高校生の時、俺についてきてた奴等は別に俺のことをを慕ってたわけじゃなくて、むしろ恐れてたからな。喧嘩したい盛りの馬鹿どもがあの頃強かった俺の力に庇護されながら暴れたかっただけだろうよ。だから」

「そんな言い方、ないと思う」

 舞花はムッとして口を開いた。その瞳には、僅かながらも悲しみの色が籠っていた。

「確かに、兄さんのことを恐いと思ってる人もいたかもしれない、皆が守られてたのも本当。だけど、それだけじゃなかったよ。兄さんのこと大切だって、尊敬してるって言ってる人も沢山いたもん」

 佐々木は必死に訴える舞花に目を丸くした。何でそんなこと知ってるんだ、という顔をしている。そんな佐々木を見て舞花はしまったと口をつぐむ。

「お前それを誰から聞いた?」

「……内緒」

「いいから言え」

 じろりと睨まれ舞花は渋々白状する。

「えっと、確か副リーダーだった人から」

「あの馬鹿っ、あれほど舞花には余計なことしゃべるなって言っといたのに……口が軽すぎる」

「あっ、違うの兄さん。あの時は私が色々聞いてたの。だからあの人は悪くない」

 慌てる舞花に、佐々木はわざと大きな溜め息を吐いた。

「舞花は優しすぎるんだよ。誰かに何か聞かれて色々喋ってしまう奴を口が軽いって言うんだ。だからあいつが悪い。ま、変なことを聞き出そうとしたお前も多少は悪いがな」

「……ごめんなさい。けど、あの人のこと怒らないであげて。本当に兄さんのこと慕ってたんだよ、あの人は。勿論他の人も。でも兄さんが怒るからこのことは秘密だよってあの人が言ったんだ。どうして? 兄さんは慕われるのが嫌なの? 兄さんだって仲間が大変な時は助けに行ってたじゃない」

 佐々木はそっと舞花の唇に人差し指を添えた。

「お前が言いたいことは良く分かった。今回は舞花に免じて、あいつのことも怒らないでおくよ。だからそんなに、必死になるな」

 佐々木の声音がどこか慈悲を含んだものに変わった。唇に添えていた指が今度は優しく目元を拭う。

「お前少し幼くなったんじゃないか? 必死になって目に涙溜めるなんて昔のお前そっくりだ」

 カッと赤くなったのが自身でも良く分かった。恥ずかしい、それ以上の言葉が見つからない。

「結局俺らは、似た者同士なのかもな」

 そう言って二回頭を叩き去っていく佐々木の後ろ姿を唖然と見つめながら、叩かれたところを手で触れてみる。痛みは一切ない。まるでふわふわな綿が降ってきたかのように優しくそっと叩く佐々木の手の平は、いつも温かく、全身を包み込まれたかのように安心した。

「似た者同士……か」

 そうかもしれない。

 見た目も、オーラも、人望があるところも、気が強いところも似ている。そしてお互い負けず嫌いだったりする。

「けどま、決定的に違うところも、あるんだよな」

 私は、兄さんみたいに真の意味で強くなれない。追いつこうと必死に手を伸ばすけれど、その手はいつも空を切る。私はまだまだ弱い。大事なところで目を背けてしまう。逃げてしまう、けど。

「今はそれでも……いいんだよね」

 胸に手を当てて、そう呟いた。自分自身に言い聞かせる。今はまだこれでいい。焦るな、少しずつ、前に進もう。




 翌朝、舞花は早くから何やらごそごそとクローゼットを漁っていた。そんな舞花を不思議に思ったのか佐々木が声をかけた。

「何してるんだ?」

「わっ、ビックリした。おはよう兄さん」

「あぁ、おはよ。それで、朝から何やってんだ?」

 佐々木はクローゼットを指差した。それを見て舞花は苦笑い。

「これは、たいしたことじゃないんだけどね……」

 今日誰と何をしに行くのか、男装する訳を簡単に説明する。

「それで、男装できる服はないかと探してたのか」

「うん。下はジーパンでいけると思うけど、上がね。Tシャツの上にチェックのシャツを羽織ろうと思ったんだけどどうしても女物だと格好良くならなくて、どうしようかなと」

 舞花の話を聞いて佐々木は少し考える。何かに思い至ったのか口を開いた。

「俺のでよければ貸すぞ。結構大きいかもしれないけど上着なら平気だろう」

「いいの! ありがとう」

 すぐに佐々木は目的のものを持ってきてくれる。確かに、舞花が持っていたものより男らしく、服のラインもしっかりしている。

「それとTシャツも。お前のだと、どんな柄でも女らしくなるだろ。俺の使ったほうがいいと思うぜ。どうせやるなら、徹底したほうが面白いだろ」

 ニヤリと口元を緩める佐々木に舞花もなにか企んでいる微笑みを返す。

「サンキュー兄さん、精一杯男になりきってやるよ」

「おぉ、頑張れ。けどまぁ、間違っても女に連れて行かれないようにしろよ。舞花は元が綺麗な顔してるんだから男装したら女にモテるだろうな。あ、男装しなくても既にモテてるか」

「兄さん! からかわないでよ。女数人に拉致られるほどやわな体してないし、というかそこまで格好良くはなれないでしょ。徹底はするけど、どんだけ頑張ってもやっぱり、男に見えればいいかなって程度になっちゃうって」

「それはどうかな。取り敢えずやってみたらどうだ? 案外予想以上の自分ができるかもしれないぜ」

 佐々木は笑って部屋から出ていき、舞花も佐々木から借りた服に着替え始めた。

 着替えが終わると次は髪だ。長い髪を隠すにはやはりあれしかない。舞花は洗面場に移動すると長い黒髪を一つにまとめた。そして上手に丸めて団子にする。これに帽子をかぶればなんとかなるはずだ。ふと何かに思い至ったのか部屋を移動すると、舞花はクローゼットの隅の方にかけてあるベルトの中から一本とってジーパンに通した。先の余ったところをわざと垂らしてTシャツから覗くようにする。そして机の上に置いてあった鍔付きの帽子を、髪の毛が入るよう丁寧にかぶって部屋を飛びだした。

「兄さんどう? 男に見えるかな?」

 舞花がダイニングで朝食を摂っている佐々木に笑顔で尋ねると、佐々木は苦笑した。

「そんな笑顔で言われてもな、元気な少女にしか見えないぜ。もっと男らしく振舞わないと」

「確かに、それもそうだね」

 舞花は大きく深呼吸をすると表情を一変させる。

「兄さん。これで男らしくなっただろ?」

 格好良く決めてみせる舞花をまじましと見つめ、そして頷いた。

「お前意外と俺の服似合うな。格好いいぜ」

「そこかよ! いま表情とかそういう話ししてたよな? いきなり服装に話変えるなよ」

 舞花が男口調のまま噛み付いてきたのを見て佐々木は喉の奥をくくっと鳴らした。笑いをこらえようとしているのだろうが、全く堪えきれていない。

「何で笑ってんだよ」

「悪い悪い。ちゃんと男らしくなってんなと思って。口調とか表情とかうまいじゃないか」

「試したな?」

「だから悪かったって」

 佐々木はまだ笑っている。そんな彼を見ていたら自分も笑えてきのかハハハハと声を上げた。

「私、男役向いてるかも」

「だな、舞花なら上手く演じられるんじゃないか? 男よりも」

「かもね」

 しばらく二人とも笑っていた。そして互いに笑いが収まってきた頃に舞花は腕時計を確認した。もちろんはめ方は左の甲側に文字盤が来るようにした男性がよくするものだ。文字盤といっても、色々な機能が備わった味気ないデジタル時計だが。

「おっと、もうこんな時間か。私もう行くね、夕方の七時前には帰ってくるようにするよ」

 舞花は黒い男向けのスポーツブランドの肩掛け鞄を提げて玄関でスニーカーを履く。

「気をつけて行ってこいよ」

 玄関まで佐々木は見送りに行く。舞花はもう外に出るところで、最後に手を振った。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 最後の一音を言い終わってすぐ、扉はガチャりと音を立てて閉まった。

「友達のため、か」

 舞花は佐々木に今日出かける訳を説明する際、春樹のためにね、とそう言った。佐々木はその言葉が頭からずっと離れないでいた。

「自分のことだけでも大変なのに、舞花はいつでも大切な友達のことを気にかけてるんだな。たく、どんだけ強いんだよ。俺は、お前のことで一杯だって言うのに……くそっ。どんどん手の届かないところに行っちまうようだ。そんなに慌てなくても、俺はいつでもここに居るのにな。なんでこう俺は弱いんだろう。舞花を支えてやれるような強い奴になりてぇよ」

 壁に軽くもたれかかる。天井を仰いで、深い溜息をつく。

「舞花、お前はどれだけのものを背負っているんだ? 昔から強かったのは知ってる、誰よりも。けどな……俺は何もかもを背負い込もうとする舞花を見てるのが辛いんだよ」

 こんなだから、舞花は何も話してくれない、それは分かっている。俺じゃ頼りないことも。だけど、少しくらい俺にも分けてくれよ。無理する舞花を見ているだけなんて辛すぎる。

 力ばっか強くても意味ないじゃないか。大切な人に無理させてばかり、支えてあげられないのでは意味ないじゃないか。

 ああなんて。

「俺はなんて弱いんだろう」

 ゆっくりと、壁に背中を伝わせて床に座り込む。片方の膝を立て腕を乗せる。もう片方は前に投げ出す。膝に乗せた腕にさらに頭を乗せて、溜息とも深呼吸ともつかぬ長い息を吐き、彼はそのまま動こうとはしなかった。




「舞花―、悪いな待たせて。……て、お前誰」

 待ち合わせの時間に少し遅れてやってきた春樹は、男装した舞花をみて唖然とする。そんな春樹を舞花は軽く睨んだ。

「失礼だな。どこからどう見ても井乃上舞花だろ。それとも何か? 春樹は友達の顔を忘れるくらい馬鹿だったのか?」

「あ、本当だ。その声は舞花だ」

 声って……と多少呆れつつ舞花はある建物を指差した。

「もう分かると思うけど、あそこが今日行くところだ」

「へー、そうだったのか。こんなものが二つ隣の駅付近にあったなんて知らなかった」

「だろうな。だから今日はここに待ち合わせたんだ。ちなみに、あそこには映画館もあるからデートに使える。覚えとけよ」

 舞花がなんの気なしに言った言葉に春樹は目を輝かせた。

「お前、いいやつだな」

「え、こういう時俺はどういう反応すればいいんだ」

 いきなりのことに舞花は驚いて半歩下がった。しかし春樹のキラキラした目はまだおってくる。

「俺、舞花が友達で本当によかった。千里と付き合えたのも舞花のおかげだし、剣道も強くなれたし……中々勝てないけど。あとそれに、勉強だって」

 とぶつぶつ言っている春樹の頭に舞花は拳を振り下ろした。もういい恥ずかしいからやめろという顔をしている。

「いって、本気で殴らなくてもいいだろ」

「残念ながら本気じゃない。後、春樹が俺に感謝してるのは十分わかったからここでそれを連ねないでくれ、頼むから」

 確かにさっきから二人は通行人にちらちらと見られていた。舞花はそれがたまらなく嫌なのだろう。

「すまん、調子乗った」

「まぁ悪気はない、というか俺も嬉しくなかったわけではないから許すけど、どうも俺らは目立つらしい」

 もはやちらちらではなく思い切り見ている人まで発生する始末だ。

「早く行こう。変に目立って厄介なことに巻き込まれるのはごめんだ」

「そうだな、俺も舞花に賛成」

 二人がショッピングセンターに向かって歩き始めたときだ。不意に後方から声をかけられた。

「あの、すみません!」

 振り返るとそこには可愛い大学生らしき女性が二人いた。

「どうかしましたか?」

 舞花が男モードのまま尋ねると、一人の女性は顔を真っ赤にしてもう一人に倒れ込んだ。そしてすぐ体制を立て直すと声を弾ませながら話しかけてきた。

「すみませんいきなり。もしよろしければ一緒に遊びに行きませんか? 少しでいいんです、時間があったら……」

 これはいわゆる逆ナンなのかと心の中で自問しながら、舞花は苦笑する。

 待って、本当に女の人釣れちゃったよ。私これでも女だよ? 何も嬉しくない、というか私が好きなのはあの人だけだし。いや今はそんなこと考えてる場合じゃない。生憎今の私の連れは使えないやつだし、ここは私がどうにかしないと。

 舞花は一歩前に出た。

「すみません。俺の連れ、彼女いるんですよ。だからそういうのダメなんです。それに、傷つかないでくださいね。俺、というか私、実は女なんです。今わけあって男装してるんです」

 女性二人から笑顔が消えた。呆然としている。やはり男装は刺激が強すぎたか。それもそうか、思い切って逆ナンしたら女でしたなんて、考えたくもないだろう。

「えっと、冗談ですよね」

 一人が声を震わせながら尋ねた。

「本当です。いま帽子をとって長い髪を見せてあげたいのですが、それはちょっとできなくて。すみません」

「あの、お綺麗ですね」

 もう一人が苦し紛れにそう言って笑った。しかし顔は引きつっている。

「ありがとうございます。お嬢様方も、とてもお綺麗ですよ」

 最高の舞花スマイルに女性二人はぷしゅーと音を立ててその場に膝をついた。よし、今のうちに。舞花は後ろにいる春樹の腕を掴み、早足でその場を立ち去った。

「お前すごいな。女って言った後年上女性二人を落とすことができるなんて」

 春樹は呑気にそんなことを言った。舞花は複雑な心境だった。

「うるさい、私だってびっくりだよ。というかショック。ていうかなに? お嬢様方って、私一体どんなキャラよ。あぁ忘れたい、こんなのは私ではない、いや、私が私でなくなる……」

 黒いオーラを放ちながら舞花は一直線にショッピングセンターを目指して歩をすすめる。いつの間にか春樹の腕は開放していた。春樹も舞花になにか声をかけてやるべきかと迷っていたが、結局何も言わないまま二人はショッピングセンターの自動ドアを潜った。

「ところで、春樹は千里に何を買ってあげたいのか大体の検討はついてるのか?」

 ショッピングセンターに入ってすぐ、舞花は春樹に尋ねた。黒いオーラは消えていて、いつもの自然な笑顔が戻ってきていた。対照的に春樹は困り顔だ。

「その表情から察するに、何も考えてなかっただろ。仕方ない、女の子が好きそうなお店を取り敢えず見てまわるか。何か良いのあったらしっかりメモするんだぜ。お店の名前とどんな商品か。本当は商品の外見とか絵で書いとくと良いんだけど、春樹にそこまでの画力は求めてないから、特徴とか柄とかを細かく記しときな。分かったか?」

「おう……」

 いまいち気の乗らない返事に舞花は怪訝な顔をする。

「どうしたんだ、元気ないな。緊張して気分が優れないわけでもあるまいし、調子悪いのか?」

「いや、俺は平気なんだけど……舞花がさっきのことでだいぶダメージ受けてたみたいだし大丈夫かなと思って」

「何のこと?」

 舞花は意味がわからないといったように首を捻った。春樹は唖然としつつもなんとか言葉を繋いだ。

「何って、逆ナンのことだよ。確かに隠していたいのは分かるけど、かと言って無理して笑ってんのも辛いだろう……ひっ」

「全く春樹は、何を言ってるのか俺にはさっぱりだよ。そんなことより、早く誕プレ買いに行こうぜ。は・る・き・く・ん」

 その時春樹は悟った。隠してるんじゃない、消したんだと。舞花は女性に声をかけられたところから早足で立ち去るまでも自らの過去を無かったことにしたんだ。それほどまでに認めたくないのだ、あの時自らがとった行動を。

 それに何より……怖い。舞花の笑顔が怖い。オラーは放っていないけれど春樹を見る舞花の笑顔は一ミリも笑ってはいなかった。代わりにものすごい威圧を感じる。春樹は何も気づかないふりをして、もうこの話には触れないでおこうと固く決心した。

「あ、ああそうだな、すまん。まずはどこに行くんだ?」

 舞花は満足そうに頷いて答える。

「二階だ。一階にはお目当てのものは無いだろうからな」

「了解」

 二人は近くにあった階段を使い二階に上がる。舞花の誘導でひとつのお店の前についた。

「ここはどちらかというと可愛い系統の物を売ってるお店だ。取り敢えず入るぞ」

「待って、心の準備が……」

「何言ってんだ。そんなんじゃ何にも買えないぜ」

 無理やり背中を押して店内に入れ、文房具類が置かれているコーナーに強制連行する。

「ここからは春樹が頑張りな。千里に似合いそうで使えるものがいい。筆箱はNGだぜ、彼女高校生になってから買い換えたばかりだから。他にも色々コーナーを見て回れよ。後、良いと思ったからっていきなり買うなよ。取り敢えずメモだ、分かったな」

「おう! 色々ありがとな」

「何を今更」

 舞花は軽く手を振って春樹と一時別れる。一緒にいてやってもいいが、そうすると春樹はなんでも聞いてくるだろう。それを見越してのことだろう。自分で考えなければ意味がないから。

 春樹もやっと勇気が出たのか、積極的に商品を見て回っている。

 数十分して春樹は舞花の元に行き、店を出た。まだ何も買っていないようだ。二人は再び移動して、また違う店に入った。今度はおしゃれな雰囲気のお店だ。また同じように二人は別れ、数十分して店を出る。

 それを何度も繰り返し、もうショッピングセンターに入っている全ての雑貨屋を見て回ったんじゃないかと思ったときに、舞花は春樹をフードコートに連れて行った。

「春樹、大丈夫か? 少し無理させずぎたかな」

 舞花は空いていた席に座り机に倒れこんだ春樹を見て申し訳なさそうに呟いた。それを聞いて、春樹は机に突っ伏したまま片手を上げてそんなことはないと手を振った。

 舞花はその手に自動販売機で買ったコーラを握らせる。

「疲れただろ、俺のおごりだから遠慮せずに飲め」

 ゆっくりと顔を上げて自分が握っているものが何か確かめる。

「これ新作! ずっと飲んでみたかったやつだ」

 春樹はガバっと起き上がって缶を握り締める。さっきまでの疲れ果てた表情が一瞬にして輝きを放つ。

「これ良いのか!」

「あぁ、僕は炭酸苦手だからコーラとか飲めないから」

 そう言って舞花は口に運んだ缶には、黒の背景に金の文字で格好よく‘BkackCoffee’と書かれている。春樹の視線に気づいて舞花は缶から口を離した。

「どうかしたか?」

「あ、いや。苦くないのか? ブラックって無糖だろ」

「そうだな。苦いのが美味しいんじゃないのか?」

「俺に聞かれても……。俺は炭酸が好きだし」

 春樹は缶に手を添えてそっと蓋を開ける。プシュッと音を立ててジュースに溶けていた二酸化炭素が弾け中身が少し溢れ出す。何事もなかったかのように泡が落ち着くと春樹は缶を煽った。

「うん、美味い!」

 春樹が満面の笑みでコーラを飲む姿を、今度は舞花が見つめていた。どうも納得がいかないという顔をしている。

「春樹、逆に質問していい」

「なんだ? お前が俺に何か尋ねるなんて珍しいな」

「確かに。けどこれは、俺にはどうも理解しかねることなんだよ。炭酸ジュースって、具体的にどんなとこが美味しいの? 炭酸って飲む時痛いじゃんか」

「そこがいいんだろ。何というか……シュワシュワしてさ」

「春樹に聞いた俺が馬鹿だった。そうだよな、春樹だもんそう答えるよな」

「お前さり気なく酷いこと言うよな」

 肩を落とす春樹をよそに舞花はあっさりと違う方向へ話を変えた。

「それよりさ、お腹空いてない? 折角ここまで来たんだから昼食摂ろうぜ」

「俺のこと完全にスルーしたな……まぁいいや。俺も腹減ってるし、そうしますか」

「うん。俺が席番してるから先行ってこいよ」

「サンキュー」

 春樹から順に昼食を買って食べる。春樹は高校生男子らしく牛丼大盛りを食したが、舞花は対照的にたこ焼き一舟と小食だ。疑問に思ったかのか、春樹がそれだけで足りるのかと尋ねると、舞花は曖昧に笑ってまぁねと答えた。本人も春樹も気付いていないだろうが、その一言だけはいつもの口調に戻っていた。




「ふぅ……ごちそうさま。食器返してくるついでにそのゴミ捨てといてやるよ」

「まじか、サンシュー」

 珍しく春樹が気を利かせて、たこ焼きが乗っていた笹舟やその他ゴミを捨ててくれる。本人はあくまで食器を返すついでと言うが、ついでにしてはゴミ箱と牛丼屋には距離がある気がする。それに気付いて、何も言わず素直に言葉に甘える舞花の方が、二枚も三枚も上手だが、春樹がそんなことを知る術はない。

「ここからが一番の試練だぜ」

 春樹が席に戻った直後、舞花はそう切り出した。舞花の真剣な顔に、春樹もごくりと唾を飲み込む。

「ズバリ聞く。春樹が今まで色々なお店を見て回って、これだ! って思う物は何かあったか?」

 春樹は視線を机に落としてゆっくりと首を振った。

「そうか……。そういえば、春樹と千里って付き合い始めて何年目?」

「えっと、俺が中二の時からだから……いちにい」

「今年で四年目だな。確か告白したのが千里の誕生日だったよな、俺がそうしろって言った気がする」

「あぁ……あの時はお世話になりました」

「感謝するのはまだ早いだろ。まだしばらくキューピット役をやらなきゃいけない気がするよ」

 苦笑する舞花に春樹は手を合わせて頼みますと頭を下げた。

「いいよ、俺も二人には笑ってて欲しいからな。っと、いけない、話が脱線した。四年目か……アクセサリーとかプレゼントしたことある?」

「いや……何というか、まだ早い気がして。千里は案外鈍感だから気付かないかもしれないけど、俺はやっぱ気にするし」

「アクセサリーをあげるってことはその相手を自分のものにしておきたいってことだもんな。けど、そのままうだうだ悩んでて結局いつまでもアクセサリーをあげられなかったらどうする? それこそ最悪だ」

「うん……」

「よし、決まりだな。今年の誕プレはアクセサリーだ」

「……えっ、いきなりか!」

 相当驚いたのだろう。春樹が舞花の方に思い切り身を乗り出したので、それに驚き舞花は身を引いた。すぐに春樹は腰を落ち着けたが、舞花はしばらく身を引いていた。

「悪い、そんな獣を見るような目で俺を凝視するな。何かすごく傷つくから」

「あっ、あぁ……」

 舞花も椅子に座り直し、また真剣な顔で春樹に向き直った。

「驚かせて悪かった。別にいきなりってわけじゃないんだ、まずはアクセサリー系統の何かをプレゼントしようってだけで、まさかそんなに取り乱すとは思わなかった。大切……なんだな、千里のこと。じゃなきゃそんなふうにはならない」

「まぁ、な。無理やりどうこうしようとか、あいつの生活を何かで縛るようなことはしたくない。それより、アクセサリー系統の物って、具体的に何があるんだ?」

 そこで舞花はパチンと指を鳴らした。何か凄く良い考えがあるのだろう。焦らして焦らして、口を開いた。

「指輪。といっても、本当に指にはめるんじゃまんまアクセサリーだから、ちょっと工夫します」

「つまり?」

「キーホルダーにするの。ラッキーなことに、ここには手芸屋さんもあることだし、バッチリよ」

「えっ、でもどうやって……」

「私を誰だと思ってるの? 私に任せとけば大丈夫よ。それとも何? 信用できないとか」

 春樹は真逆と首を振った。本当に舞花には絶大な信頼をおいているのだ。そんな春樹の様子に舞花はニッコリと微笑んで、しかしそれはすぐに後悔の顔に変わる。

「ヤバッ、女口調になってた。あぁーやってしまった」

 ガクッと肩を落とす舞花に、春樹はまぁまぁと苦笑いだ。

「大丈夫だろ、誰も聞いてないって。ここやけに空いてるし」

「うん。そうだよな、きっと大丈夫だ。おねえとかオカマって思われてない、大丈夫!」

 自分で自分を励まし何とか立ち直った舞花だが、春樹は内心で、心配なのはそこかよと突っ込んでいた。

「そういえば、サラっと流しかけたけど、本当にここ空いてんな。フードコートってもっと混みあうもんじゃないのか」

「あぁ確かに。けどまぁ、今日って平日だし。普通の学校は今日も授業か何かあるだろ、俺らがたまたま家庭学習日なだけで。しかも今もう二時過ぎだしな、昼食には少し遅い時間だろ」

「ああなるほど。って俺、午前中に結構な時間お店見て回ってたんだな!」

「俺が付き合ってやったのも忘れんなよ」

 舞花が素早く突っ込むので、慌ててすまんと手を会わせる。

「にしても……プレゼントをアクセサリーにすると決めるんなら、俺の午前中は無駄だったのかな」

 ううんと唸った春樹に舞花は馬鹿と投げ捨てる。

「何言ってんだお前は? 無駄なわけないだろ。それとも、今日お前が午前中色々なお店を回って、千里のことを思い、何をプレゼントしたら良いか考えた時間は無駄だったって言うのか? 要はな、何をあげるかあげないかじゃないんだ。その物に込められた相手に対する自分の想いの大きさなんだよ。つまり、今日お前が千里のことを考えて午前中を送っていたなら、それはそれで充分なんだ。半日ずっと一人の人を考え続けるなんてこと出来るもんじゃないしな。だから無駄じゃない。安心しろ。それによ、お前の午前中が無駄なら俺の午前中まで無駄みたいじゃないか。俺はな、春樹が千里のために何かしようとするのを手伝えたならそれだけで満足だ」

「そうだよな。うん、そうだった。悪い、変なこと言って。自分で気付かなくちゃいけないことなのに、いつも舞花の言葉を聞いて気付かされる。いつまでも受身じゃダメだ、自発的にならないと、って思うのに中々上手くいかない。情けないな、俺」

 その言葉を聞いて舞花は安堵の笑みを浮かべた。

「なぁんだ、ちゃんと気付いてるじゃん。俺はさり気なく春樹に教えていた、そのさり気なくに気付いてたんなら、今はそれで良いさ。大切なことって、自分では気付かないもんさ。っと、そろそろ行くぜ」

「行くって……?」

「まぁついてこいよ。良い店があるんだ」

 舞花はスッと立ち上がって階段の方に向かう。その背中を追う春樹に、ふっとある記憶が過ぎった。いや、こういうのを思い出と言うのかもしれない。

 あれは確か、小学生の時。



 *



 舞花と春樹は小学四年生の時に出会った。それまではお互い違う学校だったのだが、舞花が通っていた方の小学校が児童不足で財政難に陥り、急遽近くにあった小学校と合併することになったのだ。財政難になったのもその小学校のせいで、舞花達の小学校より新しいその小学校に児童を取られたのだから仕方のないことだった。いつかはそうなるだろうなと誰もが予測していたので、あまり驚きはしなかったそうだ。

 しかし、児童はそうはいかなかった。新一年生は良いとして、新二年生から六年生まではいきなり違う学校の子どもと一緒に勉強しなくてはいけなくなり、騒然とした。まだあまりものを知らない二年三年生や対応力のある五年六年生は段々と馴染んでいったが、そのどちらでもない四年生は日に日に溝を深めていった。最終的には元々その学校いた児童と、外から来た児童とで対立する始末。外から来た方が圧倒的に不利だったが、それでも折れようとはしなかった。

 そんな中、どちらにもつかずただ平然と毎日を送る児童がいた。舞花と一斗だ。二人は、そんな小さいことで争ってるなんて下らない、別に誰が一緒だろうと勉強出来ればそれで良いと我関せずにいた。たまたま同じ教室だったこともあり、いつも一緒にいて、クラスでも学年でも異質な雰囲気を放っていた。

 そういうどこのグループにも入ろうとしない奴は、絶好のいじめの的だった。それに、どちらの勢力も依然として存在し続けるその現状は、ストレスが溜まるものだったのだろう。ストレスを解消するにはちょっと誰かをいじってやるのが一番。元々その学校の児童、特に女子を中心とした子達は、どうやって二人を貶めるか思索した。が、外から来た児童、つまり舞花達を知っている子達はそんなこと考えようとしなかった。なぜなら、二人の怖さを知っていたから。

 普段は優しく可愛らしい舞花、無口でしっかり者の一斗だが、一皮剥ければ最恐の名を持った二人だったのだ。もちろん自らそう名乗ったのではなく、ある事件から周りの子が勝手に付けた名だったが。

 そんなことはいざ知らず、いじめようとした元々その学校の児童達は案の定撃沈。返り討ちに合う始末。二人は孤立しているにもかかわらず、その絶対的な安定した地位を手に入れた。勿論これも、意図してそうなったわけではない。

 しかし、そんなことで女子の気持ちは収まらなかった。舞花達をいじめることが出来ないなら違う人物を。自分達よりも圧倒的に弱く確実に倒せる相手。女子達が考えるいじめの対象は、争いには関係のない方向へと向かっていった。

 年下なら必ず私達の方が上。

 そこで哀れにもいじめの対象に選ばれたのが、その当時小学三年生の中で最も弱虫と言われていた千里だった。

 いつもはなるべく春樹が側にいて千里を守っていたが、やはり学年も違えば性別も違う。守りきれない部分は多かった。

 そしてその日、舞花が体育館裏をたまたま通りかかった時、それを目撃した。

「ったく、人ってのは誰かを見下してなきゃ生きてけないのかよ」

 舞花はゆっくりと千里を囲む女子達に近づくと、口を開く。

「やめな」

 一言。鋭く言い放つ。女子は一斉に声のした方を見る。ギロリと睨んだその目が舞花を捉えた瞬間、それは恐怖へと変わった。その時には既に舞花と一斗の噂は学年中に広まっていたのだからまぁそうなるだろう。が、何を思ったのか、一人が舞花に襲いかかってきた。この人数なら押せる、とでも思ったのだろう。それに続いて次々に女子が向かってくる。だが甘い。舞花はそれそれの攻撃をあっさりと避け、最後の一人、一番リーダーらしい女子の腕を軽く後ろに捻った。

「ひぃっ! いたっ……」

「嘘吐け、こんくらいで痛いとか……まだ本気の百分の一も力出してないのに?」

「いやっ! は、離して」

「言われなくても離してやるよ」

 舞花がパッと手を離すと、女子はハァハァ言いながらあっという間にどこかへ消えた。他の女子達も急いでその後を追う。それを見届けてから舞花は千里を見た。地面に座り込んでいる。膝を擦りむいたらしく、薄く血が滲んでいた。大した怪我ではなかったが、千里はうくっひぐっと泣いている。元々気が弱いらしいから仕方ないか、と舞花も千里に合わせてしゃがんだ。手を頭に乗せた瞬間軽く撫でてやる。手を乗せた瞬間、千里の小さな肩がピクっと跳ねたが、きっと叩かれるか何かと勘違いしたのだろう。

「やめな。もう泣くな。あいつらはいないんだから。それとも何か? 私が恐いか? まぁそれも仕方ないけどね」

 そうして優しく話しかけ、何とか千里を落ち着かせた時だった。

「お前っ、千里から離れろ!」

 突如背後から声が聞こえた。舞花は何に動じることもなくゆっくりと振り返ると、そこには子犬のようにううううと威嚇している春樹がいた。

「ねぇ君、何か勘違いしてない? この子をこんな目に遭わせたのは私じゃない」

「うるせぇ! いいから離れろっ」

 ずかずかと舞花に歩み寄り襟首を掴む。舞花は面倒なことになったと溜息を吐く。

「離れろって……あんたが私の襟首絞めてたら私動けないじゃん」

「うるさい。お前千里に何した」

「お前こそ舞花から離れろ」

 そこにもう一人誰かやってくる。舞花は声で誰か分かった。いや、足音で既に予想がついていた。それほどまでに舞花と親しい人物。そんなの小学生では一人しかいない。

「また厄介な奴に見つかったわ……」

 舞花が頭を抱える中、そんなのはお構いなしとその人は春樹に近寄る。

「聞こえなかったか? 早く話せ」

「ぁあ? お前こいつの仲間か、ならお前だって同罪だ!」

「春樹君、違うの……私は」

「千里、もう大丈夫だからな。少し待っててくれ」

 春樹は一斗を睨んだまま声音だけ柔らかくして千里の言葉を遮る。

「何勘違いしてるか知らねぇけどな、舞花はそこにいる子を傷つけるような真似だけは絶対にしてねぇ」

「何でそんなこと言えるんだよ。現に千里は泣いてるじゃないか。それとも何か? お前は一部始終全て見届けたとでも言うのかよ」

「お前こそ」

「やめて。君がどう思おうが私には関係ない。この子が無事ならそれで良い。一斗も、そんなに怒るなんてらしくないよ。私は無事だから安心して」

 襟首を掴む手を外側に力を込めて捻ると、あっさり指は服から離れた。舞花は一斗の腕を捉えてそのまま引っ張り連れて行く。

「君! その子がそんなに大切なら、目を離さないことだね。ま、もういじめられることはないと思うけど。それと、大切な人の言うことはしっかりと聞くもんだよ」

 片手を上げて、振り返らずにそう言い、二人はその場から立ち去った。二人が完全に見えなくなるまでその方向を睨んでいた春樹は千里に向き直る。

「大丈夫か? 何された?」

 千里はふるふると首を横に振る。必死に訴える。

「春樹君、違うの。あの人達じゃないの」

「千里……口止めされたんだな。けど大丈夫だから、本当のこと言って」

「違うの! あの人は私を助けてくれたの。これも、あの人がやってくれて……」

 そう言って見せたのは例の膝だった。そこには可愛らしいイラストが描かれた絆創膏が貼られている。消毒もしてあるようだ。

「あの人、私が女の子に囲まれて泣いてた時に、やめなって言って助けてくれたの」

 千里は女子に囲まれたところから春樹が来るまでの経緯を出来る限り細かく説明した。春樹は半信半疑だったか、千里があまりに必死だったので信じることにした。

「分かった千里、俺の早とちりだったんだな。けどその女の子達ってのは一体?」

「一番怖そうだったのは、頭の上で二つに髪を結んでた子だった。周りの子にゆりかちゃんって呼ばれてた気がするよ」

「ゆりか……だと?」

 それは春樹に千里がいじめられてると伝えに来た女子だった。そう、自分達が犯した罪を舞花に被せようとしたのだ。

「はぁー、俺はまんまと騙されたのか。ありがとな、千里。本当のことを教えてくれて」

「ううん。あのね、あの人はすごくいい人だったの。とっても優しくて格好良いんだよ」

「そうだな。お礼言わなくちゃな」

 その頃、舞花と一斗は校舎内にいた。

「舞花、どこ行くんだ?」

「保健室」

「お前やっぱり怪我っ」

「してないから落ち着いて。消毒液を返しに行くだけだから」

 意味が分からないと一斗は首を横に捻る。

「あの子、確かちさとちゃんだっけな。怪我してたから借りたの。血が出てたみたいだし、菌とか入ったら大変でしょ」

「お前、たまたま通りかかっただけじゃ」

「たまたま通りかかっただけよ。たまたま通りかかったら何となく窓の外が騒がしい気がして、開けて下を見ると何やら女の子が女子に囲まれていて、それが私をいじめようとしていた女子に似ていたから助けようと三階から駆け降りて、保健室から消毒液を借りて……とまぁこんな感じ」

「お前……どんだけお人好しなんだよ」

 心底飽きれたという顔をしている一斗を見て舞花は思わずクスッと笑ってしまう。

「なんだよ」

「だって、一斗こそ私があの少年に絡まれてるの見て思わず飛んで来たんでしょ? 体育館裏なんて普通通らないもん」

 一斗は何も言い返さない。つまり図星ということだ。

「一斗は心配性だなぁ」

「うるさい。なんかドタドタ廊下を走ってる女子が舞花がどうとかこれで私達は大丈夫とか何とか言ってたし、はるきとか言う奴も血相変えて走ってったから嫌な予感がしたんだよ」

「それで女子を脅して場所を聞き出したのか」

「脅してない。場所を教えろって言っただけだ」

「それを人々は脅しと言うんだよ。にしてもさ」

 舞花は急に愛しそうな悲しそうな表情になる。

「私らをいじめられなかったせいであの子に対象が移ったとしたなら、何か寝覚め悪いじゃん。それに、たとえ守ってくれる人が一人いたとしても、いじめはやっぱり辛いから」

 ああそうか、舞花はあの子と自分を重ねているんだ、と一斗は悟った。重ねてしまったら、体が勝手に動いてしまったのだろう。

「それにあの子、三年生だよ。四年生の問題に三年生を巻き込むわけにはいかない。私はあくまで中立を保ってるけど」

 ニコッと微笑んだ舞花にドキっとする。この頃から既に一斗は舞花のことが好きだった。そして、舞花が佐々木を尊敬していることも知っていた。

「一斗、ありがとね。いつも助けに……」

「気にすんな。お互い様だ」

 舞花はたまに可愛いことを言うから、油断ならねぇんだよな。と一斗は一人、歯噛みした。

 翌日。舞花達の教室に春樹がやってきた。凄い剣幕で、その時教室内にいた舞花と一斗以外の全員が、何事かと肝を冷やした。

「まいかっていう奴はいるか」

 春樹は怒鳴り声にも似た大声でそう言う。舞花は一瞬顔を上げそうになるが、ここで春樹を見たら負けだと読書に夢中なふりをする。しかし、背後から感じる一斗の気配は完全に春樹を威嚇していた。一斗の馬鹿、と思いつつも、あくまで読書に集中している少女という体裁を崩さない。

 ここからどう出る? と心の中で問いかけたその時、春樹が動いた。何の断りもなしにズンズンと室内に入ると一直線に舞花を目指した。席の前に着いて、机をバンッと叩く。

「おいお前、無視するな」

 舞花はゆっくりと顔を上げてきょとんとする。

「えっ、無視なんてしてないよ。もしかして私のこと呼んでた? ごめん、本に夢中で気付かなかった。昨日の少年じゃん、どうしたの? 仇討ち?」

「少年じゃねぇし敵討ちでもねぇよ! 俺はお前に言いたいことがあって来たんだ」

「言いたいこと?」

「あぁ……」

 そう小さく呟いて、春樹は思い切り頭を下げる。と、その拍子に頭を強く机にぶつける。

「いっつぅ」

「ちょっ大丈夫!?」

「あぁ、すまん。大丈夫だ。けど、こりゃ痛ってぇな」

「そりゃそうでしょ。保健室で氷貰ってきた方がいいよ。付き添おうか?」

「大丈夫、体は丈夫な方だから。って、俺はこんな話をしに来たんじゃない!」

「だろうね」

 舞花はクスッと笑って先を促した。何やら楽しそうだ。一体何を考えているのか、一斗は二人の様子を見てそわそわしていた。

「話ってほどでもねぇけど……。昨日は勘違いして悪かった、すまん。それと、千里を助けてくれてありがとう」

「あぁそのこと。ちゃんとあの子の話聞けたげたんだね、良かった」

 一瞬、優しげな面持ちになったかと思うと、すぐにそれは何かを企んでいる笑に変わる。

「けどちょっと違うな。私はあの子を助けようと思ったわけじゃない。ただ泣いていたから、泣くのを‘やめな’って言っただけよ。だって、泣いた方が負けだもの。泣きたい時には泣いていいと思うけど、それは信用出来る大切な人の前だけで、敵なんかに見せたら勿体ないわ。だって、ああいう嫌な奴等は相手の困ってる顔や涙を見たくてたまらないんだもの。あんなに可愛らしい子が嫌な奴に涙を見られるなんて最悪でしょ。だから涙を止めさせたの。結果、それが助けたことになるのだったら、それはそれで良いけどね」

 パチンと指を鳴らす。春樹は唖然としていた。

「いじめをやめなって言った訳じゃなかったんだな」

「あぁ、あの子はそう取ったのか。いや、ほかの人が聞いててもそういう意味で聞こえるのか?」

「たぶんな」

「そっか……まぁでも、いじめは他人がやめさせるというより自分が変わらなくちゃいけないって私は思うしな。だって、自分が変われば相手だってやる気なくすでしょ? いじめても泣かないんじゃつまんないでしょうし。そうなれば自然といじめはなくなる。だから、あの子が嫌な奴の前で泣かないくらい強くなれば、それで良い。泣かないってことが結果的にいじめをなくすことに繋がる。けどね、私はあくまで泣くなって言いたかっただけ。その後はあの子次第。泣かないことでいじめがなくなったとしてもそれは私が成したかったことじゃない。いじめがなくなったのなら、それはあの子が勇気を持って変わったから。私のおかげじゃなくて、あの子自身の努力の賜物よ」

 舞花は真っ直ぐに春樹を見つめた。次に何と答えるのか、試しているようにも見える。

「お前、まいかって言ったよな」

「えぇ、私は伊乃上舞花。舞う花と書いて舞花よ」

「そうか……。舞花、ありがとう。俺すげー良いこと聞いた。千里とか関係なく感動した。ありがとう」

 舞花は少し驚いて、またにやりとする。そして人差し指を春樹の胸の辺りに向けて伸ばす。

「ねぇ、もし私が本当にちさとちゃんをいじめていて、口裏を合わせるよう命じていたらどうする? 私を倒す?」

 春樹も挑むように舞花を見返す。何かを感じたのか、瞳が微かに輝いている。

「あぁもちろん」

「けど、あなたに私は倒せない。実力、その他諸々があなたは私より劣っている。あなたが何人いようと私には勝てる自信がある。ねぇ、強くなりたくない?」

「……あぁ」

「認めるんだ、私より弱いこと」

「お前の言ってることは正しいって、何となく分かる。俺は確かに弱いし何も知らない。その分の前は俺よりも色々なことを知ってそうで、強いことも……感じる」

 舞花は春樹を見つめたまま、しばらく何も言わない。いつの間にかクラス中が二人に注目している。春樹がゆっくりと唾を飲み込んだ。

「感じる、か。面白い。ねぇ、春樹。強くなりたいなら、私を超えたいなら、剣道やらふぐっ!」

 舞花は目を見開いた。虚を突かれて相当驚いている。まさか私が、気配に気付かないなんて……と自問しているようにも見える。

「舞花、おふざけはその辺にしとけ。調子に乗るな」

 一斗だ。一斗が舞花の口を塞いだのだ。音もなく現れた一斗に、クラスはざわつく。舞花は顔をしかめて手を引き剥がす。

「何すんの! 私はふざけてない、真剣よ。それとも一斗は、好敵手が出来るチャンスをみすみす見逃すと言うの? 私はもっと強くなりたい」

「お前は充分強いだろ。それに、ライバルなら俺が」

「一斗、最近いつ私に勝てた?」

 鋭い一言に一斗は押し黙る。その隙を舞花は見逃さない。

「これは一斗にとっても又とないチャンスだよ。一斗だって強くなりたいでしょ? 強くなるには、ライバルがいるのが一番良いの」

 視線を素早く春樹に戻す。

「春樹、剣道やらない? これは決して強制じゃない。だけど、良い機会だと思うの。良かったらこの学校の近くにある道場に火曜日か金曜日、来てみて」

 それが春樹と舞花の、いや……四人の出会いだった。



 *



「春樹、何ぼーっとしてるの?」

 舞花は踊り場で、まだ数段しか段を登っていない春樹を睨んだ。といっても、その瞳に怒りの色はなく、ただ飽きれているだけだ。

「あぁ、悪い。ちょっと感傷に浸ってたんだ」

 春樹は急いで舞花のいる踊り場まで駆け登る。

「感傷? 何でまたこんな時に」

「何か、急に舞花達と初めて出会った時のこと思い出して」

「あぁ、春樹が早とちって私の襟首を絞めた……」

「そこは……悪かったとしか言い様が。それに今は舞花がいじめ何かするような奴じゃないってちゃんと分かってる」

「当たり前よ。もう七年以上一緒にいるのにまだそんな嫌な奴だなんて思われてたら、さすがの私もショックで泣くわ。心の中で」

「心の中でかよ!」

 春樹はすかさず突っ込んで、ふっと何か思ったような顔をすると笑い出した。

「どうしたのいきなり……」

「いや、何か俺らも、この数年でだいぶ変わったなって。特に俺なんて、舞花と出会わなかったら絶対にもっと違う人生だったと思うね」

「だね。私も、あの頃より多少は丸くなったかな」

「かもな。けど基本の性格は変わらないな。まぁそれが舞花だけど」

「うん、これからも変えるつもりはないよ。私は自分に正直でいたいから」

 互いに目を合わせ、またひとしきり笑い、収まった頃に春樹がそういえばと舞花に尋ねた。

「お前、何であの時俺の名前知ってたんだ? まだ名乗ってなかったよな」

「あぁそれは、春樹が来る前に千里に聞いてたんだ。千里自身の名前と、大切な人の名前。そしたら迷わずはるき君って答えたよ。どういう字を書くのって聞くと季節の春に難しい漢字の樹だよって言って笑顔になってね……。その春樹君とやらはこんな可愛らしい子に好かれて幸せ者だなって、そしたらお前だったから」

「んだよ、ガッカリだとでも言うのか?」

「違うよ、安心したの。千里を守るために必死になっててさ……良い奴じゃんかって。その時すぐにでも剣道に勧誘したかったけど、一斗が来たからね、また会う機会があったらちょっと試して素質がありそうだったら剣道の世界に引き込もうと思ってた。本人も、強くなりたかったみたいだし」

「結局、まだ一回も勝ててないけど」

「けど引き分けに持ち込めるようになった。私達、春樹のおかげで相当強くなれたんだよ。あの頃はちょうど伸び悩んでる時期でね……少し焦ってたのかも。だから冷静になって、春樹のこと考えたら悪いことしたかなって思った」

「けど俺は凄く楽しかったぜ。ありがとう、剣道に引き合わせてくれて。あの時舞花に出会えて本当に良かった」

 その言葉に、舞花が心底嬉しそうに微笑んだ。千里が好きな春樹ですらちょっとドキッとくるような天使の微笑み。春樹は慌てて話を変える。

「そ、そういえばお前、あのいじめは自分が変わればなくなるって時の物言い、まるで自分の体験談から得た教訓みたいに説得力あったけど、何か根拠とかあったのか?」

「……えっと、そうか、春樹は知らないんだ」

 舞花の笑みが陰る。視線を地面に落とす。雰囲気が暗くなる。まずいことを聞いたかと、さっきとは別の意味で慌てる。

「悪い、何か言いたくない……」

「ううん、気にしないで。春樹には絶対に教えてやらなーい」

 いたずらっぽく笑って階段を駆け上がる。いつもの明るい雰囲気。あれ、さっき泣きそうにすら見えたのは俺の勘違いか? と春樹は首を捻る。けど、元気ならそれでいいや。春樹も階段を駆け上がった。

「何だよ、教えてくれたって良いだろ」

「いーや。知りたいなら一斗か兄さんに聞いて」

「あの二人が知ってるってことは……俺と千里に出会う前のことか」

「本気で聞こうと思ってるようなら止めた方がいいわよ。二人とも絶対に口割らないだろうし、もし言ったら春樹を殺らなくちゃいけなく……」

「えっ、それは困る」

「まぁ諦めるんだな。さっお店行こう」

「あ、待て。置いてくな!」

「早くー」

 軽く走って立ち止まり、春樹を見てニッと笑う。そういえば最近、舞花はよく笑うようになったな。




 舞花が案内したのは色々なアクセサリーが置いてある、ショッピングセンターの隅にぽつんと存在する小さなお店だった。

「穴場なんだって、ここ。女友達が言ってた。けど千里向けじゃないかなと思って午前中は連れてこなかった。でも指輪をキーホルダーにして渡すならこのお店がピッタリだと思って」

 舞花は何のためらいもなく店に入っていく。一番奥、と言っても小さな店だから入って数歩の場所だが、そこにはある特設コーナーがあった。

「友達同士でも若いカップルでも自分用でも家族や親戚のプレゼントでも気軽に使えるイニシャルシリーズ。結構種類あるだろ」

 確かに、そこにはありとあらゆるイニシャルをかたどった物が売られていた。キーホルダーでも何種類もあり、ネックレスやブレスレット、ピアスやイヤリングまでアクセサリー類も様々だ。その中に指輪もあった。

「個人的にはね、指輪にイニシャルが刻まれてるこれがいいと思う」

 舞花は指輪二つを手に取ると春樹に見せた。

「これ、一つはブルーのストーンが、一つはピンクのストーンがはめ込んであるだろ」

「あぁ、綺麗だな。けどそれが?」

 春樹のその反応に舞花は頭に手を添え首を振った。

「やっぱ春樹には分からないか……まぁ予想はしてたけど。説明するからよく聞けよ。指輪一つだと売られてるものと大差ない、だから千里だけど特別な物にするためにひと工夫するんだ。例えばだけど、ピンクのストーンでイニシャルは千里のC、ブルーのストーンでイニシャルは春樹のH。この二つを一つのチェーンに通して、それプラス赤いリボンで二つの指輪を結べば世界でただ一つの物になるだろ? そういうこと、したらどうかって話。分かったか?」

 春樹は首を捻る。分かったような分かってないようなといったところだ。

「何で赤いリボンで指輪を結ぶんだ?」

「あぁ、そこか。それはな、よく運命の人とは赤い糸で繋がってるんだとか言うだろ? あれの応用だよ。糸だと味気ないからリボンを使って指輪を繋げるんだ」

「なるほど! それいいな、そうしよう!」

「自分で違う案を考える気は?」

「ない、というか舞花より良い案が出せる気がしない」

 舞花はわざとらしく肩を落として仕方ないなと呟く。

「分かった、今回はそうしよう。俺がアドバイスしてやるって言ったんだしな。けど来年は、何を買うかから自分で考えろよ」

「おう、頑張る」

「よし、じゃあさっき言った二種類の指輪をレジに持っていって。包装は無しな。なるべく綺麗なものを選べよ」

 舞花の指示通りに春樹は指輪を選んで、舞花のチェックの受けた後レジに持っていく。一つ五百円ちょっとなのでお得な方だ。

「舞花、買えたぜ」

「じゃあまた二階に戻って手芸屋さん行くよ」

「え、なんで?」

「分からないかなぁ……さっき言ったでしょ、赤いリボンで結ぶとかチェーンを通すとか。その素材を買うの」

「あ、そういうこと。全然分かんなかった。俺ってやっぱ駄目だな……」

 しょんぼりと視線を落とす春樹に、舞花は飽きれを通り越して春樹を見るのが微笑ましくなる。そんな自分に気付いて苦笑する。

「もういいから、さっさと行くぜ」

 片手を上げて進行方向に一回振り、舞花は歩み始める。その半歩後ろを着いてくる春樹の気配を感じながら、舞花は頬を綻ばせた。

 二人は二階に下ると、フードコートを突っ切ってさっきまでとは全く逆方向に進んだ。

「案外デカいんだな、このショッピングセンター」

「そりゃそうだろ。ここの本店なんてもっと凄いと思うぜ。大体、映画館がある時点でこの辺りではレアな場所だろ」

「うん。駅の周りにはこのショッピングセンター以外にも色々あったしな。この町は結構都市化してんだな、俺らの町に比べて」

「おっ、よく気付いたな。この町は少し前から色々な建物が建ち始めて、一気にここら一体の遊び場にまで登り詰めたんだ。けど、俺は自分の町が好きだけどな。佐倉高校があって南中があって、道場があって、昔よく遊んだ公園があって、何より大切な友達がいる。最高だよ」

 春樹は大きく頷いた。その通りだと思ったのだ。思い出があって仲間がいる。時には辛いこともあるけど、楽しいことも沢山ある。それが一番じゃないか。

 春樹の脳内を鈍い影がよぎる。辛いこと……そうだ、舞花は今辛いことを抱えているんだ。あまりにいつもと変わらなくて忘れていた。

 いつもと変わらない? いや違う。俺は今日、何か違和感を感じた何だっけ……そうだ笑顔だ。最近舞花は笑うことが多くなった。何故? 誤魔化すため。俺は笑顔に、笑顔という仮面に、まんまと欺かれていたんだ。笑顔イコール元気イコールいつもと変わらない。そんな風に勝手に思い込んでいたんだ。なんて……なんて愚かで浅はかなんだ。舞花がこんな短時間で両親のことを割り切れる筈がないのに。あんなに他人思いで、特に自分と深く関わってきた人は大切にする舞花なのに。

 両親が亡くなっていたことは、佐々木先生から伝えられていた。本人からは絶対に言わないだろうけど、お前は知っといた方が良いと思おうから。そう秘密で言われたのだ。だからこそ、余計に欺かれたのかもしれない。俺が恐かったんだ。両親を失う恐怖に、俺が耐えられなかったんだ。だから俺は逃げた。あいつの笑顔に、なんだ大丈夫じゃないのかと、実は平気じゃないのかと、佐々木先生の勘違いじゃないのかと、逃げ道を探して、探して……結局行き着いた場所は真っ暗な闇だった。俺はその闇に、不安な気持ちを全部投げ捨てたんだ。それに気付いた今は、闇が晴れていく今は、余計に不安だ。あの時の何十倍も震えている。だけどもう逃げ場はない。見るしかないんだ、闇に隠れていた自分なりに導き出した真実を。

 舞花、俺は知りたい。何でお前はそんなに一人で抱え込んでしまうんだ? 俺らを頼ってはくれないんだ? 何でお前は、俺らの前でも、その鉄壁の仮面を外してくれないんだ? いつもなんでも完璧な舞花で、脆いところを見せてくれないんだ? 俺絶対に、弱みを掴んだとか思わないのに。

 なぁ、舞花。お前は今、何を思ってるんだ? 本当は、苦しくて、悲しくて、悔しくて……どうしようもなく辛いんじゃないか? 体中が痛むんじゃないか?

 俺はただ、心配だ。お前がいつか壊れてしまうんじゃないかと、不安で堪らない。これが俺の真実だ。向き合って初めて気づいたけど、とてつもなく大切なことだった。もう逃げない、逃げたくない。お前が最前線で戦ってるのに、見物人の俺が尻尾巻いてどうすんだよ。俺にも戦わせてくれ、せめて手伝わせてくれ。それが無理なら、最後まで戦いを見届けなくてどうする! 俺も心で戦うんだ。弱い俺と、本気で向き合う。それが俺の戦いだ。勝ち負けじゃなくて向き合うことが大事なんだ。

 お前は決して、本当のことを話してはくれないだろう。ならばせめて、最後まで陰で見守らせてくれよ。嫌って言っても勝手にそうするからな。

 俺はもう……絶対に逃げない。

「……るき、春樹……春樹!」

「はっ、ご、ごめん。ぼーっとして」

「先に手芸屋行ってて、私もすぐ行くから」

「えっと……何でまたいきなり。俺場所知らないし」

「そこにあるでしょ?」

 舞花は今いる場所から斜め前を真っ直ぐに指差す。店名は‘手芸ほんぽ’。春樹はこんな近くにあったのに気づかなかったことが恥ずかしく、しまったなと頬をかく。その時、我に返ってはっとする。手の平を見ると、堅く握り締めていたせいか軽く爪の痕があり、また汗でじわりと濡れていた。首や額にも汗が伝っている。自分がどれだけ深く思考していたか、その際にどれだけ緊張していたかを思い知らされる。

「ちょっと待て、俺があんなに女らしいところに一人で入れるかっ!」

 春樹はまた深く考え込みそうになり、慌てて返答する。舞花はあからさまに苦い顔をした。

「春樹……いい加減慣れなよ。これじゃ来年が思いやられる」

「けどよー、それはこれから頑張るから今日は」

「分かった。じゃあここで待ってて。私もすぐ買って戻って来るから」

 そう言いおいて舞花はさっさと今いる場所のすぐ横にある店に入っていった。ハンカチやタオル類を中心に売っている店で、何か気に入ったものがあったのか舞花は迷わずタオルハンカチを手に取った。男物も売られていたのでこれなら大丈夫と春樹も舞花について行く。

「何買うんだ?」

「外で待ってろって言ったよね? 何故ついて来る」

「だって一人で立ってても怪しいだろ」

「それもそうだけど」

 春樹はさり気なく舞花が持っているハンカチを覗く。端の方にワンポイントで黒い犬……違う、狼の刺繍がしてある。どうやら男物みたいだ。まさか自分で使うわけでもないし。そう思うと無意識に尋ねていた。

「なぁ舞花、それ誰かに上げるのか」

「えっ! 春樹には関係ないでしょ」

「そりゃそうだが……。そういえば、お前口調が女になってんな」

「あっ、しまった!」

 慌てて口を押さえ、今更遅いなと溜息を吐く。全く気付かなかったようだ。心なしか頬が赤くなっている。春樹は、単純に口調を間違えて恥ずかしかったからだと思ったが実は違った。無意識にあの人このことを考え、口調が戻ってしまったことに気付き舞花は赤くなったのだ。あの人、それはもちろんあの人だ。

「珍しいな、舞花がそういうこと忘れるなんて。まずで女に戻ったみたいだったぜ」

「うっせぇな! 春樹だって違和感感じてなかったくせに」

「いや、まぁ……逆に男口調で違和感ありありだったから、急に違和感なくなって不思議だったんだよ」

「あ、あぁそういうこと。っと、危うく流しかけたけど、俺は男になりきってはいるが女は女だからな、女に戻ったって言い方は……」

「分かってるって、舞花は女だよ。ていうか、こんな華奢な男がいてたまるか! そうだな、さっきのはちょっと言い方を間違えた。それでお前が嫌な気分になったんなら悪かった」

 素直に謝られて舞花は逆に悪いことをした気分になる。いいよいいよと手を振って、不意に視線が春樹の肩を捉えた。確かに、よく見ないと分からなかったがしっかりとしていて頼もしい。力は舞花の方が勝っていたとしても、体つきはどうしても変わってしまうのだ。

「何だろう……何と言うかほら、女だけどもっと女らしくなる時ってあるだろ? さっきのお前はそんな感じだった。そうだ、そうやって言いたかったんだ、うん。……聞いてんのか?」

「えっ……あ、うん!」

 舞花は春樹に見とれていたことに気付き慌てて視線を外す。そして耳を素通りしかけた台台詞を頭に引き戻し再生する。意味を考えて……思わず赤くなる。

「は、春樹。よくそんな、恥ずかしいこと言えるな。そんな台詞、ドラマでしか聞けないと思ってた」

「そんなに! 俺そんな恥ずかしいこと言ったのか!? うわー穴があったら入りたい」

 春樹も赤くなって視線を舞花から外す。暫くの沈黙、互いに何となく気まずくなってくる。それに耐え切れなくなったのか舞花がふるふると首を振った。

「じゃあ俺、買ってくるから」

「おお、俺も店の外に出るよ」

 舞花は急いでレジへ向かい春樹はゆっくり店の出口へ向かう。レジうち担当の店員に包装して下さいと頼み、綺麗に包んでもらう。最後に可愛らしいリボンのシールまで貼っている。

「ありがとうございます」

「是非またのご来店を」

 笑顔で頭を下げる店員に会釈しながら舞花は店の外で手持ち無沙汰に立っている春樹の元に駆け寄った。

「悪い、じゃあ行くか」

「おう! よろしく頼みます」

 手芸屋に入り、迷わず進んで行く舞花に置いて行かれないよう春樹は続いた。平日だというのに店内は初老の人やまだ若い母親等でそこそこ賑わっていた。

「あったあった、このチェーンで良いと思いよ。そのへんのキーホルダーチェーンより丈夫だし、色も付いてるから可愛いし」

 舞花は色々な種類のボールチェーンが並んでいるコーナーの一角にしゃがんだ。そこには、袋に入った様々な色のキーホルダー用チェーンが壁に沢山かけてある。春樹も舞花に合わせてしゃがんだ。

「すげぇ、チェーンに色とかあるんだな。どれが良いんだ?」

「自分で考えなって言いたいけど、ここは助言したげる。各月にはいわゆる誕生石の色バージョンで誕生色ってのがあるんだけどさ、七月の誕生色と千里の好きな色って同じなんだよ。俺はそれが良いと思う」

「千里が好きな色……薄いピンク、か?」

「うん、ほとんど当たってる。正確には‘咲初小藤サキソメコフジ’だけどな。梅雨も開けて夏の光に輝いた紫露草の淡い紫色だよ。小学生の頃、俺が千里に教えたらそれが凄く気に入ったみたいでさ、以来好きな色が‘咲初小藤’になったんだと」

 春樹は目を丸くして頷いた。視線にほんのりと尊敬の色が混ざっている。

「凄いな、お前。誕生色とか普通知らないぜ」

「その頃たまたまそういうのにハマってただけだよ。ほら、チェーン選んで。紫は二種類あるだろ、どっちにする?」

 舞花に促され、春樹は種類ごとに並べられたチェーンに視線を戻す。紫を探してチェーンの上に視線を滑らせる。端の方に薄い紫と濃い紫があった。

「薄い方かな。見ようによってはピンクにも見えるし綺麗だろ」

「そうだな。じゃあそれ持って、次はリボンだ」

 舞花は立ち上がり更に店の奥へと進んだ。壁に突き当たり、右へと曲がる。と、壁一面に色々な柄のリボンが飾ってあった。

「この中の、なるべく細くて赤に近い色、それでいて可愛いのを選べよ」

「おう、けどこれ一つで何メートルとかあるよな。絶対に余る」

「それは気にするな。リボンなんて春樹が持ってても使わないだろうけど、俺はなんかの時に使うかもしれない。それなら俺が買って、指輪を繋げて、余りは俺がそのまま貰えばいいだろ。だから安心しろ。ハサミは持ってるし、リボンが解けないようにするため結び目に付けるボンドも俺が買って使うよ」

 舞花がそう言い終わらないうちから、春樹は困り顔で彼女を伺う。それを不思議に思ったのか首を傾けた。

「ん? なんか問題あったか?」

「いや、その……気持ちは有難いんだけど、何か悪いなって。俺が誕プレを買うのに付き合って貰ってるのに、逆に買わせるなんて」

「あぁ、気にしなくていいって。と言っても気になる?」

「うん。せめてボンドは俺が買う! ボンドなら俺でも使う機会あるし」

「うーん……そうだよな、そうしよう。じゃあリボンは俺の奢りで」

「本当にいいのか? しかも俺がリボンを選んで」

「もちろん! 千里の誕プレだろ、春樹が選ばなきゃな」

「分かった。千里に合いそうな可愛いのを選ぶぜ」

 春樹が真剣にリボンを選びだしたのを見て、一安心と舞花は息を吐く。大切な人のために時間を費やして何かを決めるっていいよな、と心で思って苦笑する。さっき自分はm一目惚れでハンカチを買ったことを思い出したのだ。けど本当に、あのハンカチはあの人にピッタリだ。早く渡したいな。どんな顔するだろうか。驚くか、余計なことをと飽きれるか、意外にも喜んでくれるだろうか……そんなことを考えていると急に春樹に呼ばれ、舞花は一瞬で現実に帰る。

「な、なに?」

「これにしようと思うんだけど」

 そう言って春樹が見せたのは、赤いリボンに薄い紫とピンクのラインが左右二本ずつ引かれたシンプルだけどおしゃれなデザインのものものだった。舞花は感心して二回頷いた。

「いいじゃんか。これならリボンが主役にならない程度に映えると思うぜ。それに、意識したんだろ? 千里の好きな色」

 舞花にずばり言い当てられ、春樹は恥ずかしそうに下を向く。

「何照れてんだよ。ほら、レジ行こうぜ。ボンドはもうストック済み」

 舞花は春樹にボンドを渡すと代わりにリボンを受け取った。会計を済ませ、手芸屋から出る。そして少し歩いたところにあるベンチに座った。

「春樹、指輪とチェーン貸して。今からとっておきのプレゼントにしてやるよ」

「おう、よろしく頼むよ」

 舞花は春樹にそれらを渡されると、早速作業を始めた。といってもそう大変なことをするわけではない。

 まず二つの指輪の向きを揃えてチェーンに通す。そしてリボンをある程度の長さに切り、二つの指輪を結び合わせる。勿論リボン結びでだ。次にリボンが綺麗に見えるよう整えると、真ん中の結び目にボンドを付ける。ここを固定すれば解けることはまずない。だが、これが中々難しかった。綺麗に結んだリボンを崩さないようにボンドを付けるのだが、小さな指輪に結んだリボンそう大きいわけではない。変なところにボンドが付かないよう丁寧に、そしてボンドが乾くまでリボンを支える。その作業をする舞花の顔は真剣そのものだった。春樹はそんな舞花の姿に息を飲んだ。見惚れそうになり慌てて視線を逸らす。互いに口を開かず、二人の間には緊張した空気が流れた。その緊張を破ったのが、舞花の息を吐く音だった。

「出来た……。案外時間かかったな。けどこれで、リボンは絶対に解けない。赤い糸を似せたリボンが解けたら元も子もないからな。はい、こんなんでどうだ?」

 舞花が差し出した手の平に乗るそれをまじまじと見つめる。春樹は無意識にすげぇと呟いた。

「そんな人の手を凝視しないで、自分の手に取ってみればいいのに」

「いやなんか、俺が触れていいのかなとか思って……」

「何を馬鹿な。春樹が千里にプレゼントするんだろ? あぁそうだ、これ渡すとき手紙も一緒に書いて渡せよ。気の利いた言葉とか考えなくていいから、お前の素直な気持ちを書くんだ。おめでとうって気持ちをな。それと、プレゼントを生身で渡すなんてありえないからラッピングしなきゃいけないな。春樹にラッピング技術があればそれでいいんだが……」

 春樹は無言で両手を合わせ、頭を下げた。お願いします、ということらしい。舞花もそうなることを分かっていたのか、春樹の頭をポンと叩いて当たり前だろと言った。そして、何やら鞄を探っている。

「ありがとうございます! それで、ラッピングってどうするんだ?」

「ちょっと待て、何かあった時のためにって家から色々持ってきたんだよ。その中に確かラッピングに使えるものもあったはず……。あった」

 鞄から引き抜いたその手に舞花が握っていたのは、単行本程の大きさの缶箱だった。蓋には可愛らしい犬のイラストが描かれている。

「この中に入ってるはず」

 舞花は蓋を開ける。中にはプレゼントによく使う、あらかじめリボンが花のようになっていて裏にシールが付いている、いわゆる貼るだけで可愛くなってしまうあれや、綺麗な模様のついている袋、多種多様なシール、綿やビーズなんかも入っている。

「うん、これだけあれば充分だな。ちょっとこれ持ってろ」

「え、あ、はい」

 春樹の手に舞花は自分が持っていたものを渡す。それはさっき春樹が触れるのを躊躇っていた代物で、それをあっさり渡され春樹は慄いた。しかし舞花はそんなのお構いなしだ。

 缶箱からまず袋を取り出した。お菓子なんかが入ってそうな小さい長方形の袋で、上下にピンクのレース、真ん中には開いていてそこを囲むようにハートやら星やらが描かれた女の子が好きそうな柄だ。舞花はその袋の三分の一くらいまで綿を入れた。そこに幾つか綺麗な色のビーズを散らす。それから綿の形を整えて、春樹に預けた物をその上に乗せる。袋の上部裏側に折ってケーキのシールでとめる。最後に表を向け、オレンジ色の花形リボンを右上に貼り完成だ。

「うん、完璧。ここまで上手くいくとは思わなかった」

 舞花はラッピングしたプレゼントを眺め、感嘆の声を上げた。春樹もその隣で息を飲んだ。

「こんな感じでどうだ? 俺なりの最大を尽くしたんだが」

「どうって、凄すぎて何も言えねぇよ。けどどうして、最後のリボンをオレンジにしたんだ?」

「それは、ピンクばっかだとくどいかなと思って。同色だけど違うタイプの色を並べた方が良いと思ったから。はい、これは春樹が持ってなよ。間違えて俺が持って帰ったら色々と面倒なことになりそうだし」

 有無を言わせずに舞花は春樹にプレゼントを押し付ける。春樹も少し戸惑ってはいたが、大人しくそれを受け取り、そおっと鞄にしまった。しかしその手つきには迷いがあり、やはりまだ触れることを躊躇っているようだ。

「しっかりしなよ春樹。俺が丹精込めて作ったんだ、ちょっとやそっとじゃ壊れないから安心しろ」

「あ、あぁ……って壊さねぇよ! 俺お前の中でどんだけ荒いイメージなんだよ」

「え、だって壊しそうだから触れるのに抵抗があったんじゃないの?」

「ちげぇよ! いや、あながち違くもないけど……。ここまでくると、何だか俺からのプレゼントじゃなくなるような気がして、そしたら何か」

「なんだそんなこと」

「そんなことってな! 俺は真剣に」

「大丈夫だ春樹。誰もお前がこんな器用なこと出来ると思ってない」

「うっ……そうだよな。何でこう俺は駄目なんだろう」

 春樹は本気で傷ついたらしく肩を落とし、頭を両手で抱えた。しかし舞花は焦った様子もなく、何も変わらず春樹の隣に座っている。

「何を落ち込んでんだか。たとえ俺がプレゼントの案を出したりラッピングをしてあげたとしても、春樹が一生懸命何をあげたら良いか、どんなものが良いか、どうしたら千里が喜ぶかを考えたことに変わりはないし、今まで俺と一緒に店を回ってきた時間に意味がないなんてことは絶対ないのに、ってさっきも言ったよな。とにかく落ち込んでる暇があるなら、あと自分に何が出来るかを考えろ。考えて考えて実行して、何もかもやり尽くしてから後悔しろ。今悔やんでる時間なんかねぇぞ。来年は自分一人で頑張るんだろ? 今日学んだことを活かすんだろ? じゃあその復習もしなくちゃいけない。忘れないようノートにまとめなくちゃいけない。千里への手紙も書かなきゃいけない。誕生日にどこ行くか考えなくちゃいけない。ほら、やること盛り沢山じゃねぇか。どこに頭抱えて休んでる暇がある?」

 春樹はもう体を起こしていた。姿勢を正し、真っ直ぐに前を見て、これからやらなければならないことへのやる気に燃えていた。瞳に迷いの色はなく、ただ前に進むだけだと語っている。

 舞花はそんな春樹をチラッと見てふわりと一瞬、優しく温かな笑みを浮かべた。心では、単純だなぁと思いつつ安心しているのがその一瞬の表情から読み取れる。

「ありがとう舞花。まだまだこれからだったよな、教えてくれなかったらずっと気付かないままだった」

「別に、感謝されるようなことは何もしてない。俺は思ったことを口にしたまでさ」

 サラっとキザな台詞を口にする舞花だが、いや舞花だからこそその台詞が映え、男の春樹から見ても凄く格好良く見えてしまう。ふっと舞花の漂わせる世界に吸い込まれそうになり春樹は慌てて話を変えた。

「そ、そう言えばさ、舞花はさっき買ったプレゼント、誰に上げるんだ?」

 舞花の表情が一変し堅くなる。しかし春樹はまだ慌てているためか舞花の様子に気が付かない。

「一斗とかか? なぁ舞花、まさか自分で使うとか言わねぇよな? 店の人に包んでもらってたし……」

「誰だって、いいでしょ」

「……え?」

「誰だって春樹には関係ない。私が誰にあれを渡そうと、春樹の知るところじゃない」

 春樹はやっと舞花の異変に気付いたのか、戸惑ったような驚いたような微妙な顔をしている。しかし何かが気に障ったのか、すぐにムッとした意固地な表情になる。二人とも舞花が女口調になっていることには気が付いていないようだ。あまりに自然すぎて、そんなのは意の範疇ではないのだろう。だが女口調になるということは、舞花の心情の変化、それも焦りや動揺等負の感情へ揺れていることを示していた。ここに一斗がいれば一発でそれを感じ取ったかもしれない。しかし春樹には、難しすぎる問題だった。

「そういう言い方はないんじゃねぇか。関係ないことはないだろ。大体、誰かくらい教えてくれても……」

「親戚よ、色々お世話になったからお礼をするの」

「嘘だな。それなら普通に言えることだ。隠したってことは、それ相応の訳があるんだろ」

「嘘じゃない」

「だったら何故言い渋った」

 舞花はしばらく押し黙り、やがてゆっくりと口を開く。春樹を横目で睨む。

「春樹には……関係ない。関係があると言い張るなら春樹こそ理由を述べて」

 鋭い眼差しに怯みそうになる春樹だが静かに唾を飲み込み、睨み返す。

「……お前は一斗の気持ち、知ってんのか? 俺が言って良いことか分かんねぇけど、一斗はお前のこと」

「好きなんでしょ。そんなこと、ずっと前から気付いてたわよ。けど、気付いてないふりをしてた。まぁそんなのも、今は出来なくなっちゃったけど。はっきり言うわ、私は一斗のことを親友としか思ってないの。それ以上なんてものは存在しないし、それ以下になることはないと思ってる。一斗には誕生日とバレンタイン以外に何かをあげたことがない、それが証拠。私には、好きな人がいるから」

 一瞬、時が止まったかと思うほどに辺りが静まり返る。違う、人々の雑踏は続いている、音は絶えず飛び交っている。しかし、それが気にならなくなるほど、心底驚いていたのだ。……二人とも。

「えっと……マジか」

「何よ、一斗以外の人を好きになっては駄目なの? それとも何、貴方は一斗にキューピット役でも頼まれたの? だから関係あると言い張るの? 見損なったわ、本当にそうだったら私は彼を親友とも見れなくなる」

「違う。一斗はそんなこと」

「言わないでしょうね。だって、そういう人だから。春樹、一斗のためだと思って今こんなことをしているなら止めなさい。誰のためにもならない、まして一斗のためだなんて……野次馬よりタチが悪いわ。恋のキューピットって言うのはね、あくまでお節介なの。親切でやっている訳ではないの。相手が迷惑がったら大人しく手を引く、それが守らなくてはならないライン。嫌がることは決してしてはいけない。だから今日私がしたことは全てお節介。あなたが喜ぶからしているだけ、それ以上は強制しない。そして、あなたにキューピットは向いてない」

 春樹は俯く。舞花は動揺している、しかし間違ったことは一言も言ってない。正論が、春樹の胸に、頭に、グサグサと突き刺さる。けれど、春樹は知りたかった。舞花がこれほどまでに愛する相手を、一斗よりも良いという相手を、心を掴んで離さない相手を。

「舞花……一斗とかそういうの、もうどうでもいいから。俺は俺自身のために、俺が知りたくてたまらないから、頼む。教えてくれ、お前のその心を揺れ動かしているという人を」

 ゆっくり、しかし確かな意志を持って、春樹は顔を上げる。舞花を睨むのではなく見つめる。舞花は一瞬、酷く傷ついたような顔をすると視線を落とした。

「残酷ね、そこまで私を苦しめたい? 私がその人の名を口にした時、あなたがどんな反応をするか、私は分かっているのよ。分かっていて教えようと思う?」

「知りたい」

「そう、あなたには私が苦しもうと関係ないって言いたいんだ」

「関係なくない。お前は大切な友達だ、苦しんで欲しい訳がない」

「ならどうして!」

「お前が……苦しそうだからだよ」

 訳が分からない、そんなことをはっきりと言われ舞花はさらに動揺し……違う。舞花は春樹が何を言いたいか分かったからこそ揺れたのだ。春樹は真剣な表情でまだ話し続ける。

「取ってつけたような言い方になっちまうけど、俺はずっと思ってたんだ、千里もきっと……。苦しそうなんだよ、お前。今じゃない、ずっとだ。学校にいる時も、今日だって、何も変わらないようで何か違う。ふっと暗い影がお前の顔を過ぎるんだよ。そんなお前を、ほっとけない。俺に何か出来る訳じゃないかもしれない、お前が言いたくないことを聞いて変わることじゃないかもしれない、だけど」

「残酷で残忍ね。人が言いたくないと分かっていて、その人のためと無理に聞こうとするんだ」

「……そういうことに、なるのか」

「そうよ、私にとっては無理を強制されているだけ、辛いに決まってるじゃない。私があなたに言おうが言わまいが現状は何も変わらない、むしろ悪化する一方よ! だって、あなたは絶対否定するから、あなたは絶対一斗の味方をするから。たとえそれでも、誰もが私を責め立てようとも、私……私は…………兄さんのことが好きなのに……っ」

 舞花は一気に捲し立てると両手で顔を覆った。ハァハァと息が荒らいでいる、呼吸が乱れたまま戻らない。肩が震える、泣いているわけではないと春樹は直感した。あの舞花が人前で泣くわけないと。いや、春樹には実際、そんなことを思う余裕はなかった。舞花が激しく言い放った言葉、その終わりがけに消え入りそうな声で言った一言。人の名が、名と言っても代名詞だが、しかし確実に人物を特定するそれが、脳裏に螺旋を描きぐるぐると回っている。もしかしたら自分が螺旋の上を走っているのかもしれない、自分が回っているのかもしれない。兎に角、回るのだ。名前が、言葉が、人が、自分が。

 いけない、こんなことではいけない。自分は一体何がしたかったんだ? 結局舞花を苦しめただけかよ。これで終わって良いのかよ。舞花を……舞花を救いたかったんじゃないのかよ。

 俺は応援しなければいけないんだ。俺に出来ることはそれだけなんだ。

 けど、それってありなのかよ。だって、あいつが好きって言ったのは……それに、一斗だって。

 俺は何てことをしてしまったんだ。ただ助けたい一心だった筈だろ? なのに何故舞花は苦しんでいる。俺はこんなにも悩んでいる。何も言ってやれないんだ。俺は一体……ったく。情けない。こんなだから、皆に迷惑かけてばっかなんだ。俺はなんて、浅はかだったんだろう。

 ふっと温かなものが肩に乗るのを感じる。いつの間にか俯き、抱え込んでいた頭を上げる。

「馬鹿だなぁ春樹は。本当に馬鹿。私を救うんじゃなかったの?」

 そうだ、俺はお前を救いたいんだ。だけどそれは……。

「あんたが悩んでどうすんのよ。全く、馬鹿で阿呆で、ほっとけない友達なんだから。……分かってたよ、最初から。あんたは私が真実を言えば必ず考えるって。だからあんたには言いたくなかった。だけど、私もまだまだね。ついカッとなって、言ってしまった。やっちゃったぁーって思ってる隣で、早速難しい顔してるし……ごめんね、春樹。私がもう少し、上手いこと言い逃れられたら、あんたもそんな考え込まずに済んだのに。ごめん」

 肩に手を置いたまま深く頭を下げる舞花に、春樹は自分が物凄く馬鹿で阿呆なことをしていたことに気付き、申し訳なさが湧いてきた。というか何で舞花が謝ってんだよ。お前は何も悪くないのに。

 ゆっくりと舞花は顔を上げ、目を丸くする。

「ち、ちょっと、なんで春樹が泣きそうになってんのよ。あぁもう、あんたは人が良すぎるの、止めてよもう」

「悪い」

「ん? 何が」

「俺が全部悪いから、だから悪い」

「はい、もういいから。お互い様ってことで、ね? 私も、春樹なら良いから。春樹なら誰にも言わないって信じてるから。じゃなきゃとっくにここからおさらばしてるわよ」

「うん。……俺は別に、反対とかしないかしねぇから。確かに少し、心配ではあるけど、止めろなんて、絶対に言わねぇから。そう思われてたなら、ちょっと心外。あと、関係ないって言われた時、正直傷ついた。俺は舞花のこと友達だって思ってるし、だから……突き放されたようで、嫌だった。悪い、それで俺も……カッとなっちまった」

 舞花は肩から手を離し、頭へと移動させる。春樹の髪を軽く撫でる。

「そうだね、春樹は友達思いの良い奴だもんね。だから一斗のことも気にかけているし、私のことも心配してくれる。けど安心して? 私は平気だから。……兄さん、確かに七つ歳ははなれているし彼は今私の教師でもある。けどね、後一年半。それだけ我慢すれば、私は彼の生徒ではなくなる。歳の差だって、たった七つよ? そう、たった七つなの。一年半、私が今まで密かに彼を好きでいた時間よりも遥かに短いわ。だから安心して、私に心配は必要ない」

「舞花が平気なら、俺はそれでいい。舞花が大丈夫なら、それを応援したい。いや、応援させてくれ。一斗も応援するけど、かと言って舞花を否定したくはない。だけど、辛くなったら……」

「春樹は心配性だなぁ。確かに、このまま自分の気持ちを押さえ込んで一斗と付き合う方が楽かもしれない、悲しい思いはしなくて済むかもしれない。けどそれは、一斗に対して失礼だと思うの。だってそうでしょ? 他に好きな人がいて、無意識にその人のことを追いかけてる人に、自分と付き合われても、自分が辛いだけじゃない。それに、私って何かから逃げたりするの嫌いだから、正々堂々立ち向かいたい。どんなに辛くても、きつくても、自分誤魔化して楽な方に行くのは私じゃないでしょ」

 舞花は言い終わると口元を押さえて小さく笑った。それは久し振りに見る、心から自然と零れた笑みで、春樹はふっと安心して自らの口元も緩めた。

 ひとしきり二人で笑った後に、舞花は唐突に不思議なことを言う。

「ねぇ春樹、あなたのすぐ側で私と千里が崖から落ちそうになっています。どちらか一人しか助けられないとしたら、あなたはどうする?」

「な、なんだよいきなり……」

「良いから答えて。はい、十、九、八―」

「えっと、あ……千里を助ける!」

 舞花はニッとすると、一回頷いた。春樹はまだきょとんとしいている。

「はっきり言い切ったわね。けど、私は春樹のそういうところ、好きよ。まぁ私も、春樹に助けられるようなところまで落ちたくないしね。それに、私にはちゃんと助けてくれる人がいる。誰もその場には春樹しかいません、とは言ってないしね。彼ならきっと、どんな場所にいたってすぐ駆けつけてくれるって私は思ってるから。だから春樹は全力で千里を助けて」

「あぁ……そうだな。うん、ありがとう」

「春樹」

「ん?」

 舞花は急に真剣な面持ちになる。春樹もつられて顔が強ばる。

「大切にしなさいよ。友達思いの、その心」

 人差し指を春樹の胸に当て、凛として揺るがぬ声音で一言、そう告げた。

「っと、もうこんな時間。そろそろ帰ろうか」

 舞花は携帯のパネルを見てそう言うと立ち上がった。春樹も続いて立ち上がろうとした時、舞花が小さくしまったと呟く。その片手は頭にかぶっている帽子の鍔に軽く触れている。何か忘れ物でもしたのかと春樹が尋ねようとした瞬間、春樹もあることを思い出す。

「春樹……」

「あぁ、忘れてたな。しかもすっかりと」

「私いつから口調戻ってたんだろ。これって傍から見たらおねぇじゃん、最悪」

 春樹は舞花の肩に手を乗せ、ドンマイと言う。そんな春樹を軽く睨みながら、舞花は背筋を伸ばし帽子を深くかぶり直す。

「春樹、帰ろう。早急に俺はここから移動したい」

「だな、俺もおねぇの友達がいるなんて嫌だし」

「うるさい、つーかそれ失礼」

 春樹を置いてスタスタと出口に向かう舞花を苦笑いで春樹は追いかけた。




 駅に着く頃には舞花も気を取り直していた。そして唐突にこんなことを言う。

「春樹、帰りの電車代は俺が奢るよ」

「なんでまた……別にいいよ」

「人の親切には素直に甘えとくもんだぜ。お前、週末に千里と遊ぶんだろ。だったらなるべくお金取っておいて、千里に何か奢ってやれ。今日は俺が無理にここまで連れて来たんだから、気にするな」

 舞花がニッと笑うと春樹は少しだけ考える素振りをして頷いた。

「分かった。素直に奢ってもらうよ」

「そうこなくっちゃ。千里を幸せにしてやりな。俺の大切な友達なんだから、傷つけたらたとえ春樹でも容赦しないから」

「分かってるよ。もしもだけど、俺が不良に絡まれてて怪我したら?」

「容赦なく不良をやっちゃうね。当たり前だろ? 春樹も俺の大切な友達なんだから。それとも見捨てるとか言うと思ったか」

 春樹はくくっと喉を鳴らし、なわけねぇだろと笑った。まいかもつられて微笑み、二人は改札の中へ消えていった。




 今日この日、春樹が舞花の最大の秘密を知ってしまった日。二人の絆はより深まり、舞花の傷も、少しずつ癒えていくのだった。

 今の舞花にとって最大の幸せは、大切な人が心から微笑んでいること、そしてそれが一番の良薬なのやも知れない。逆に傷ついた顔を見ると、舞花は簡単に折れてしまう。一見折れている様に見えなくても、大切な人には分かってしまう。すると大切な人がまた傷つく。嫌なループが実現する。

 舞花が幸せになるには、誰かがそのループを抜けなければならない。もしかしたら、舞花自身が幸せにならなければいけないのかもしれない。

 そのことに気付いているからなのか、ただ舞花の幸せを最も願う者が一人。彼は今、とても傷つき、悩み、考えていた。舞花のために何が出来るのか。そして彼は、舞花の一番近くにいた。舞花の仮面を落とした姿を、唯一見られる人物だった。舞花の痛みを直に感じ取れる人物だった。それだけに傷も大きかった。また舞花も、その人物が傷つくことが、一番深い自分の傷になった。嫌なループ、しかし二人は、互いに想い合うという一つの小さな幸せを掴んでいた。

 その幸せを守り、守る。互いが相手の生きる糧となるのならば、それを思い、互いのために生きた。側にいることが幸せだった。だからそれを否定された時、舞花は最も傷つく

 舞花はそれを避けた。それだけには耐えられないのだ。逆に認められると、それは一つの幸せに変わるのだった。

 舞花の幸せが彼の幸せ。

 彼の笑顔が舞花の笑顔。

 この世には、不の連鎖と幸の連鎖というものがある。この二つはかけ離れた場所にあるようで、すぐ近くにある。誰か一人が不になるだけで全てが不に、また逆も然り。隣に寄り添うよう存在し、また阻み合うことはなかった。不も幸も互いを認め合い、その二つともこの世に必要なものだと思っているのだ。幸ばかりの人なんて、不ばかりの人生なんて、存在しないのだと分かっていたんだ。

 舞花は不の中にいる。だがそれも生きることの一つ。幸が隣りで待っているのだ。たとえそれがどんなに小さな幸せだとしても、そこから変われることはあるのだ。現に今も。

 今日舞花は……幸せだった。



 *



 舞花はアパートに階段を駆け上がると、佐々木と書かれたプレートの付いたドアの鍵穴に、可愛らしい羊が桜に乗っているキーホルダーを付けた鍵を差し込む。スペアの鍵を既に渡されていたのだろう。そのままゆっくり回すとガチャリと音を立てドアが開いた。舞花は鍵を抜いて室内に飛び込む。

「ただいま兄さん!」

「おぉ、お帰り」

 舞花は靴を脱いで下駄箱にしまうと手早くうがい手洗いを済ませリビングに入った。佐々木はキッチンで夕飯の準備をしている。

「ごめんね、私も手伝うよ」

 帽子を外して軽く首を振ると、長い黒髪が揺れながら頭上より舞い降りる。ずっとまとめていたにも関わらず舞花の髪は綺麗に真っ直ぐとしている。

「ナンパとかされなかったのか? あ、いや逆ナンか」

「兄さんからかわないで。あれはもう過去に……」

「なんだ、本当にされたのか」

「いいえ、なんでもない。失言です、気にしないで」

「その様子は何かあったんだな」

「兄さん!」

 舞花がキッと睨むと佐々木は悪い悪いと言って苦笑する。

「兄さんこそ、男の人にモテてたじゃない。私知ってるよ? 兄さん中学の卒業式の日、色々な人からラブレターもらったり告白されてたりしたの。私も幼いながらビックリしちゃった、その中の半分以上が男の人だったことに」

 佐々木はみるみる黒いオーラを濃くし、鼻で嘲笑った。

「お前こそ中学の卒業式、女から告られてただろ。その度に慌てて必死に傷つけないよう断ってさ。男なんかごめんなさいの一言だったのによ」

「だって同級生とか年下の男子に興味なかったもん。けど女の子はね……何か健気でさ、誰にでも悪い興味ないからの一言しか言わないよりましかな」

「お前、暗に俺のこと言ってるよな? ここでは誰かに弱みをばらされることないからって調子に乗りやがって」

「人の弱みに付け入るなんて最低な行為だよ。佐々木せ・ん・せ・い」

 ニッコリと微笑む舞花に佐々木はゆっくりと近付いた。二人の間には絶えず閃光が飛び交っている。

「俺が告られてる時、顔は笑ってるけど相当機嫌が悪かったこと忘れているようだな。何て言ってたっけ、確か」

「私もお兄ちゃんのこと好きなのに、だったかな。あの頃は私も素直で可愛かった。そうそう、そんな私を抱き抱えて告白防止にしてたよね。全く、利用するなんて酷いなぁ」

「お前こそそれで機嫌が良くなったくせに。と、言うかそれなら俺も利用されたぞ。お前が告白されてる時、いきなりこっち向いて手を振ってきたよな」

「それは……兄さんすごい機嫌悪かったでしょ。だから顔も怖くて、あれを知り合いだと言えば誰も寄ってこないかと」

「あれって、俺は物かよ」

「けど手を振り返してくれたじゃない。良い魔除けになったよ。悪をもって邪を制すみたいな。そういえば、なんで機嫌最悪って顔してたの?」

「それは……」

 佐々木の表情に戸惑いが射す。それを見て更に舞花は笑顔になる。至福そのものといった顔だ。きっと初めてなのだろう、佐々木をここまで追い詰めることが出来たのは。佐々木ははぁと大きな溜め息を吐いた。ゆっくり両手を上げると舞花はさっと身構えたが、そんなことはいざ知らず舞花の両頬に手を近付け舞花が避けるより早くその頬を抓った。舞花は意外な展開に呆気にとられ、慌てて顔を左右に振った。しかし手は離れない。

「ひぃはん、はひふふの!」

 叫んで佐々木を見ると、さっきまでの戸惑いと怒りが混ざったような苦い表情ではなく、とても真剣な顔をしていた。思わず見入ってしまう。舞花の気持ちも収まり、ふっと佐々木の作り出す世界に吸い込まれる。

「一度しか言わねぇぞ、よく聞けよ」

 舞花は首を縦に振る。

「何で機嫌最悪って顔してたのかって聞いたな。それはな、気に入らなかったんだよ。俺より弱そうな奴や頼りなさそうな奴、兎に角舞花を守るに相応しくない奴ばっか告ってるから」

 そう言って佐々木はふいと横を向く。たとえ頬が赤く染まっていなくとも、その行為は明らかに照れている証拠だった。舞花はそんな佐々木を見つめながら、嬉しさからか顔がふわりと笑顔になる。それはさっきのものとは全く違う、優しく愛おしい笑みだった。

「兄さん!」

「何だよ……」

 まだ横を向いて顔を強ばらせている佐々木の頬に軽く口付け、舞花は飛びついた。そんな舞花に驚きつつもしっかりと抱き留める。その反応の早さは、ほとんど反射の域だ。

「ありがとう、兄さんにそんなこと言われたの初めてだよ。とっても嬉しい」

 舞花の屈託のない笑顔に、佐々木はさっきまで照れていた自分の方がおかしかったような気さえした。そして自らの表情も笑顔に変える。

「舞花が喜んでくれたならまぁ良かったよ。たまには恥ずかしい台詞も悪くないかもな」

「たまにしか言ってくれないの?」

「馬鹿っ、大の大人がそう何度もあんなこと言えるか!」

「つまんない。あ、そうだ。私兄さんに渡したいものがあるの」

 舞花は佐々木から離れ、今日使った鞄の中を漁る。そして大切そうに取り出したのは、例のハンカチだった。丁寧に包まれているので佐々木には中身が何なのか分からないらしく、首を捻る。

「兄さん、はいこれ。リボンのお礼に」

 舞花が差し出したものを佐々木は片手で受け取ると、別にお礼なんていらねぇのにと呟きながら包みを開いた。そして目を丸くする。

「どう? 兄さんにピッタリだと思ってつい買ってしまったの。お礼っていうのは口実ね」

 包を開いて真っ先に目に入ったのは、親指ほどの大きさをした黒い狼だった。

「漆黒の狼……兄さんの二つ名だったよね。その刺繍見た瞬間兄さんの顔が頭に浮かんで、気付いたらレジに向かってた。だから正直言うと、お礼とかプレゼントとかそんなんじゃなくて、ただ私が兄さんにそのハンカチを使って欲しかっただけなんだと思う。兄さんがそのハンカチを使っているところが、見たかったの」

 舞花は髪を右手で軽く梳いた。そういった行為は本当に女の子らしいが、その辺の女子がやるより何倍も美しいから反則だ。それも意識してではなく無意識に、そして滅多にそういったことをしないから余計に可愛い。佐々木はふぅと息を吐いて舞花の頭に手を乗せた。

「分かったよ、ありがとう舞花。大切に使わせてもらう」

「うん、こちらこそどう致しまして」

 二人して微笑み合い、ふと忘れていたことを思い出し、しまったという表情に変わる。

「兄さん、そういえば……」

「あぁ、夕飯の準備してる途中だったな」

 二人はすぐに行動を開始した。するとあっという間に夕食は出来上がり、二人揃って椅子に付くことが出来た。

 佐々木は密かに安心していた。今日の舞花はとても幸せそうだ。良かった。今日この日が、舞花にとって心の癒しとなったのなら、俺はこの日に感謝する。これからも舞花の幸せが続くよう、祈りを捧げる。

 佐々木は思い、一瞬だけ、そっと瞳を閉じた。

 見事に二年ぶりの更新ですね、自分でもびっくりです。まぁ内容自体は当時書いたまんまなんで今の私の力はほとんどないですが。強いて言うならガラケーとにらめっこで文章を写したことくらいですかね。まだまだあって更にびっくり。当時の自分がどれだけ毎日コツコツ書いていたのか思い知らされました。今の私にそんな力はないのでまたしばらく次は出ないかもですねー。皆様の応援があれば頑張れるかもしれないです。

 と言いつつ次の話のある部分が書きたくてたまらないです。ついにあの人がボロボロに!? にやにやが止まらないシーンです。楽しみにしててね。


 それではまた。


 2015年 5月10日 春風 優華

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