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思いは何処へ向かう

 剣道部は有名であるだけに、部員数も多い。そんな中でも、舞花は異彩を放っており、理由はというと女子の部員は舞花だけという単純なものなのだが、美人だということもあり、舞花は剣道部で浮いた存在だった。まぁ本人はそんなに気にしてないし、マネージャーには千里もいるから案外平気だったりもするのだが。

 それより何より凄いのは、舞花は剣道が本当に強いということだ。男子でも舞花に勝てるのはエースである一斗と春樹だけだ。

「失礼します」

 舞花が剣道場に入るとその場にいたほとんどの男子が舞花を見つめる。舞花はその視線をサラッと受け流して奥に向かった。もう泣いていたなんで誰も分からないくらい平静だった。

「よっ! 春樹に千里」

「おお舞花、遅かったな。待ちくたびれたぜ」

「舞花ちゃん、今日も頑張りましょうね」

 二人はストレッチをしていたので。舞花も混ざった。

「春樹……相変わらず堅いわね。千里ももっと思い切り押せばいいのに」

 柔軟で春樹は千里に背中を押してもらっているが、それでも手が爪先に届いていない。

「仕方ないだろ、これ以上は痛くて無理だ」

「情けないなぁ……」

 と言いつつ舞花も同じことをすると、何故かまた視線が集まった。所々で拍手をしたりすげーと言っている男子までいる。

 確かに舞花は誰の助けもなくペタンと胸を足につけることが出来て凄いのだが、それを大勢の人に見られるのは恥ずかしかったのだろう。

 体制を戻して咳払いをすると、道場にいる全員に聞こえる声で言った。

「はい、人のことばっか見てないで自分も早くアップする! もうすぐ先生来るよ」

 すると部員達は慌ててそれぞれにストレッチや柔軟を始めた。

「全く……私は見せ物じゃないっつの」

「相変わらずお前は人気だなぁ」

 春樹がからかい口調でそう言ったので舞花は春樹の頬を抓る。

「余計なお世話よ。やりにくいったらありゃしない」

「ほめんほめん、ほれはわるはった。離してふれ」

「私をからかおうなんて百年早いのよ」

 そう言い放ってから舞花は春樹の頬を離した。少し赤くなっていたが誰も気にしない。千里も笑って様子を見ていた。

「失礼します」

 その時、もう一人部員が入ってきた。ただの部員ではない、部長である一斗だ。ちなみに副部長は舞花である。彼女は一瞬ドキッとするが直ぐにいつもの平静に戻った。

「一斗遅いよ! 部長なんだからしかっかりしなさいよ」

「そうだぜ。一斗がいない間俺はどんな目に遭っていたことか……」

「お前は黙ってろ」

 春樹は舞花から一発お見舞いされ半泣きで千里に慰められている。

「悪い。ちょっと私用があってそれを終わらせてから来た」

 一斗も何事もなかったかのようないつもの冷静さを保っているが、今言ったことは言い訳だろう。

「まぁいいや。先生来てなくてよかったね」

 と舞花が言った側から道場に新たな人が入ってきた。佐々木だ。

 佐々木はドアのところで一礼して道場に足を踏み入れる。この行為は剣道部に関わる人全員が義務つけられていることで、礼儀の一つだ。先生だって例外じゃない。しかも部員は自主的に失礼しますと言う。舞花と一斗が言っていたのはそういう訳だ。

 佐々木が入ってきた瞬間道場内の空気が一変し張り詰める。

「全員集合!」

 一斗の号令で佐々木の前に部員が並び、一斉に頭を下げる。

「なおれ」

 佐々木がそう言ってからやっと頭を上げる。それも揃っていてとても綺麗だ。

「今日はまず素振りから。いつもと同じだ、いいな。それから……」

 佐々木がメニューの説明を始め、その間部員達は気をつけの姿勢で聞いている。さすが強いと言われるだけあり気迫も段違いだ。舞花や千里、春樹や一斗も普段とは違い真剣な顔だ。

 そして佐々木の説明が終わり、部員達ははいっと返事をしてそれぞれの竹刀を取りに散らばった。

 事件の前と何一つ変わらない部活の風景。そういう一つ一つが、舞花にとっては嬉しいのだろう。真剣な眼差しから感じる、溢れんばかりの喜び。

 気付いているのは…………。



 *



「ああー部活終わった! 今日もハードだったなぁ」

「そうね、けど舞花ちゃん凄く生き生きしてたよ」

「そりゃまぁ剣道大好きだし」

 帰り道、舞花と千里は仲良く並んで歩きながらのトークタイムだ。もちろん舞花は自転車をひいている。

「にしても、二人で帰るなんて久し振りだね。最近は四人でいることが多いからね」

「そうねぇ、結構暗いしちょっと怖いかも」

「大丈夫よ、何かあっても私が千里を守るから」

 そんなことを呑気に話していた二人。本当にそんな怖い目に遭うなんて思ってもいなかっただろう。

 学校を出て十分くらい歩いただろうか。二人をつける四つの陰があった。明らかに怪しい四人組。

 いつもの舞花ならそんな奴等の気配に気付いていたかもしれない。けれど今日は久し振りに女二人で話せたのが楽しかったのだろう、完全に油断していた。

 気付いた時にはもう遅かった。

「ちさ、待って。こっち来な」

 舞花は急に怖い顔で立ち止まった。千里のことをちさと呼んだのも、嫌な気配を感じそいつらに本名をばらさないためだ。

「どうしたの? 舞花ちゃん」

 千里は不思議そうに舞花に近寄った。舞花は千里に耳打ちする。それもなるべくバレないよう自然に。

「自転車持って、逃げる準備しな。……囲まれた」

 そしてぐるりと周りを見回す。

「こそこそしないで出てきな、いることには気付いてる」

 舞花が鋭い声でそう言うと、ニヤニヤと気持ち悪い顔の男四人が二人を囲うように現れた。

「よく気付いたね、お嬢ちゃん。もう少し早く気付いたら逃げられたかもしれないのに、残念。お兄さん達の遊びにちょっと付き合ってよ」

 千里は既に怯えていた。怖くて仕方ないといったように震えている。舞花は精々気張った。

「嫌よ。それにまだ逃げられないわけじゃないわ。例えば、一人が囮になったとして、四人の間に隙が出来、そこを自転車で走り去ったとしたなら……どうかしら」

「ひゅう、言うねぇ。でも、そう簡単にいくかな」

「やってみなきゃ分かんないでしょ」

 舞花は一番近くにいた男に鋭い蹴りをいれる。剣道だけでなく、体術も多少たしなんでいる舞花だ、まともに受ければよろめきもする。続いて別の男にも一発。女だからと油断していたからここまではうまく決まる。そして出来た間に千里を押しやった。

「ちさ逃げて! 自転車なら追いつけない、早く!」

 千里は多少ためらったが舞花に追い立てられ自転車にまたがり勢いよくペダルをこいだ。

「チェッ、まんまとはめやがったな。まさかこんなに強いとは……舞花ちゃん」

「私の名前を気安く呼ぶな。腐れ外道」

「言うねぇ……気が強い子嫌いじゃないよ。けどちょっと黙ろうか」

 男の一人が手を振り上げた。しかし無駄が多い。舞花はその腕を掴んで思い切り捻る。舞花はふふっと笑った。

「あの子可愛いもん、襲いたくなる気持ちも分かるわぁ……。けど、まだちょっと幼い、どうせならもっと大人っぽい方がやりがいがあるでしょ」

 そう言ってブレザーを脱ぎ捨てリボンを外しブラウスの第一ボタンを開けた。

「それもそうだね。じゃあ舞花ちゃんがあの子の分まで楽しませてくれるんだよね」

「大人しく捕まるような女に見える? やれるもんならやってみなさいよ」

 四人の男は一斉に襲いかかる。それを持ち前の身軽さで華麗によけ的確に隙を突く。力では劣ると分かっているなら、勝つにはそれ以外で勝るしかない。

 しばらく舞花の攻防は続いた。男達も消耗してきている。動きに無駄が多い分体力消費が激しいのだろう。しかし、舞花は四人相手。いくら無駄が少ないといっても消耗は激しかった。後十分持つかどうか、その間に誰か来なければ舞花の負けだ。そう思った瞬間、舞花の表情は更に険しくなった。

「ちょっと卑怯じゃないの、それは」

 男達の最終手段だろう。それぞれにナイフやらカッターやら金属棒やらを取り出した。

「いいんだよ、勝てば。俺達の世界じゃこれが普通さ」

 くそっ、これじゃ五分と持つかどうか……そんなことを考えるまもなく奴等は凶器を振りかざす。

「チッ、高校生女子にそんなものを使わないと勝てないなんて情けないわね」

「何とでも言え」

 挑発も通じない、か。

 舞花はむやみに攻撃するわけにもいかず降り下ろすナイフを避けた。すると背後で鉄の棒を構えていた男が視界に入る。ナイフに気を取られ今まで気付かなかったのだ。

「もらった!」

 舞花の頭に鉄の棒が直にあたった。

「うあっ……く」

 舞花はバランスを崩しその場に膝をついた。

 くらくらする、視界がぼやける。立たなきゃいけないのに、立つことが出来ない。

 舞花が諦めかけた時だった。

「うちの可愛い生徒に手を出してるってのはどこのどいつだ」

 空気が凍った。息が詰まるほど深に響く、冷たく恐ろしい声。しかし、舞花にとってはこれ以上ないほど救いの声。

 男四人は恐る恐る声のする方を見た。そこには地を唸らせるかというほどに凶悪な気迫を放つ佐々木がいた。

 舞花はこの上ないほど最高の笑顔を見せた。

「待ってろ。俺が行くまで泣くんじゃねぇぞ」

 そう舞花に向けて言い佐々木は動いた。

 男四人はうあぁあと叫びながら一気にかかる。しかし舞花には分かる。遅い、と。

 いつも佐々木に勝負を挑み、佐々木に戦うことを教わった舞花だ、それくらい分かって当然だ。

 片は一瞬でついた。佐々木の圧勝だ。向かってきた男どもの力を利用して凶器を払い落とし技を決めていく。一発で大の男を沈めていく。

 強い……としか言い様がない。元々男達に体力の限界がきていたからといっても、そんな簡単に気絶させられるものでもない。しかも相手は凶器を持っているのだ。……それは正しく、佐々木の強さだった。

「ほら、戻るぞ」

 佐々木は舞花の前にしゃがみ込むと、第一ボタンを閉めリボンとブレザーを渡した。

「ありがとう、兄さん。けどどうしてここが?」

「葉月がよ、すんげー慌てながら職員室に入ってきて真っ直ぐに俺んとこ来て言うんだ。舞花が危ない、助けてくれって」

 あの子……頑張ったんだ。舞花の口許からは自然と笑みが零れた。

「葉月は他の先生に頼んできた。安心しろ、お前を置いてきてしまったって相当自分を追い詰めてたようだが良い先生が側についていてくれてる。舞花が会ってやれば喜ぶだろう」

「うん……そうだね」

「どうする? 帰る前に泣いとくか?」

 舞花は笑顔で首を振った。

「家に帰ってからにするよ。泣き顔を人に見られるのは好きじゃないんだ。泣くのは兄さんの前だけにしとく」

 それは今の舞花にとっては最高の甘えなのかもしれない。

 佐々木は手を差し出した。

「何処か怪我は?」

「えっと……頭を打たれたくらいかな」

 舞花が佐々木の手を握ると引っ張って立たせてくれる。

「頭か……ちょっと厄介だな。取りあえず学校戻るか」

「うん」

 佐々木は学校から乗って駆け付けたらしい舞花の自転車にまたがって、舞花に後ろへ乗るよう促した。

「それって交通法違反じゃ……」

「細かいことは気にするな。ほら、しっかり掴まってろよ」

 舞花は荷台に腰掛け、佐々木の胴に手を回した。

 そしてそのまま、佐々木は学校にむけ自転車を走らせた。

 十数分で学校へは着いた。舞花が襲われたのは学校からそんなに遠い場所ではなかったらしい。

 佐々木は駐輪場に自転車を停めて舞花を連れ保健室に向かった。千里はそこにいるらしいし、舞花の怪我も気になった。

「失礼します」

 佐々木がそう声を掛けてから保健室のドアを開き中に入った。舞花も後に続く。

「やぁ、無事で何よりだね。佐々木先生に伊乃上さん」

 保険医である松島が二人を迎えた。松島の向かいには泣きはらした顔の千里がいる。

「舞花ちゃん……私、私……ごめんなさいぃー」

 千里は舞花を認識すると再び涙をボロボロ流し始める。舞花は困った子だなと呟いて両手を広げた。

「舞花ちゃぁーん。うっ……ひぐっ」

 千里は舞花の胸に飛び込んだ。そんな千里を舞花は優しく抱き締める。

「ごめんな、心配かけて。けど無事で帰ってきたから、千里のお陰だよ。千里が先生を呼んできてくれたから私達は二人とも助かったんだ、ね? だからもう泣かないの」

「うぅぅー、私舞花ちゃん置いて逃げちゃったぁ」

「もう良いって、千里は優しいなぁ。あそこで千里が勇気を持って逃げてくれたから私達助かってるんだよ? あそこで二人のどちらも逃げれなかったら助けを呼べなかったんだもの。実は一人で逃げるって残る人より何倍も勇気が必要なんだよ。それが出来た千里は凄い! ね、だからもう謝ったらダメよ」

 千里は舞花の胸で必死に頷いた。舞花はよしよしと千里の頭を撫でる。

「葉月さんのお母さんには連絡をして学校に迎えに来てもらっていますよ。職員室に来てくださいと頼んだのですが……もう到着してる頃じゃないですかね」

 松島はふとそんなことを言った。千里はハッとして松島の方を向き頭を下げた。

「ありがとうございます!」

「どう致しまして」

「じゃあね、舞花ちゃん」

 舞花はほほ笑んで手を振った。泣き虫で弱くて……守ってあげなきゃいけない大切な友人。千里は舞花にとってそんな存在だった。しかし今日、千里は少しだけ強くなった。

「なぁんか、お母さんに泣き付く千里の姿が目に見えるなぁ。……子どもの成長を見守る親の気持ちが分かった気がする」

「何を言ってんだ、お前は。まだまだお前も子どもだろ」

 佐々木に突っ込まれて舞花は照れ笑いした。

「だね、私はもう少し子どものままで良いよ。そうだ、忘れてた。松島先生、私頭を打たれたの。多分大丈夫だと思うけど一応診てください」

「本当ですか! それは大変だ、こちらに来て」

 舞花は松島の前に用意された椅子に座った。

「うーん……切れてはいませんね、良かった。ただ少し赤くなってる、明日はちょっと痛むかもしれません」

「それくらいなら平気です、私丈夫な方なので。佐々木先生も、心配してくれてありがとう」

「うるせぇ! 生徒に何かあったらこっちが面倒なんだよ。……じゃあまた、無事でよかったよ」

 佐々木は振り返らずに軽く手を振って保健室を出ていった。

「ツンデレだね」

「ツンデレですね」

 保健室に残された二人はお互いの目を見てそう呟き、クスッと笑った。

「あぁそうだ、私も忘れていました。今から貴方を家までお送りしなければいけなかった。伊乃上さんも今日は早く帰った方がいいからね」

「えっ、でも私自転車だよ?」

「大丈夫、私も自転車です。それにあんな事件があったすぐ後、一人で帰せる訳ないでしょう?」

 それもそうか、と舞花は頷いた。

「ではお言葉に甘えて、お願いします」

 二人は手早く帰りの準備、とはいっても舞花は机の上に置かれていた通学鞄を手にとって松島は着ていた白衣を脱ぎ上着を羽織るだけだが、兎に角それらを済ませて駐輪場に向かった。

 駐輪場に置いてある舞花の自転車には鍵が入りっぱなしだった。そう言えばさっき兄さんは鍵を抜こうとして止めてたっけなぁと今更ながら思い返す。

「どうかしましたか?」

 松島に声を掛けられて舞花はハッと我に帰り、慌てて自転車を出した。

「すみません、ぼーっとしてて」

「いいですよ。では行きますか」

 舞花は走り出す松島の後を追い、自分も自転車を走らせた。

 松島はどうやら佐々木の家を知っているようで、舞花の案内もなく家に到着した。

「先生、わざわざ送ってくれてありがとうございます。これからまた学校戻るんでしょ?」

「平気ですよ、これくらい。生徒の安全が一番ですから」

「先生って前から思ってたけど、良い人だね。にい……佐々木先生が言うだけあるよ」

 舞花は佐々木を兄さんと言ってしまいそうになり愛想笑いでごまかした。松島もニコリと笑う。

「伊乃上さんは、佐々木先生のことが好きですか?」

 舞花はドキッとして、いやこれは恋愛とかそっちじゃなくて先生としてだからと自分に言い聞かせ曖昧に笑ってみせる。

「もちろん、尊敬もしてるし好きですよ。ちょっと怖いけど、それも佐々木先生の優しさのうちだって分かってるから」

「そうですか、それはよかった。ではまた明日、お大事に」

「じゃあね、先生。さようなら」

 松島が見えなくなるまで、取りあえず見送って、舞花は部屋の鍵を開けた。どうしても松島先生のことも好きですよ、とは言えない自分に苦笑いする。やっぱ私、兄さんのこと大好きだな、と思い知らされる。

 舞花が玄関でローファーを脱いでいると、ダイニングにある電話がベルを鳴らした。舞花は急いで電話の元に駆けていく。

「はいはーいっと」

 舞花は受話器を取った。それが地獄への招待状とも知らないで。

『もしもし、佐々木さんですか?』

「はい、そうですが」

『伊乃上舞花さんのご両親の主治医、宮越です』

 舞花はその言葉を聞いた瞬間固まった。宮越はまだ話続ける。

『申し訳ございません。こちらも最善を尽くしたのですが……』

 ああそうか、そうなんだね。

「あの、宮越先生。少しだけ心の準備をする時間をください」

『もちろんです』

 舞花は大きく息を吸って吐いた。

「ありがとうございます。最後に一つだけ質問を……。父と母は、亡くなったのですか?」

 一泊の沈黙の後、宮越は静かにはいと答えた。

『あの、舞花さんには佐々木さんの方からお伝えに……』

「いえ、その必要はありません」

『えっ……何故』

「その必要はないんです。だって私が、伊乃上舞花ですから」

 顔も相手の周りの空気も、一切分からない電話だが、宮越が息を飲んだのが分かった。

「すみません、騙すつもりはなかったのですが……なにぶん兄も私も電話を通すと声がよく似ますから。こっちも勘違いされているとは思わなくて」

『いえ、申し訳ありませんでした。そうですよね、佐々木は普段舞花さんのご両親という言い方をするのに、父母と言った時点で気付かなければいけなかった』

「先生は悪くないです。そっくりですもんね、声も態度も。それに、先生は最初佐々木さんのお宅ですか、ではなく佐々木さんですかとおっしゃったのに私がはいと言ってしまったからいけなかった」

『……申し訳ありません』

 舞花の頬に一筋涙が伝った。しかし舞花の口許はほほ笑んだままだ。

「会えますか? 二人に」

『一週間以内なら病院にいらっしゃればいつでも』

「分かりました。はい、はい……それではまた」

 そっと、受話器を元の位置戻す。ガシャンと一際大きく音が聞こえた気がした。

「そうか、死んじゃったんだ……寂しい、なぁ……お父さん、お母さん、私を置いて逝くなんて六十年は早いよっ!」

 溢れる涙は止められず、ただ床へとこぼれ落ちた。

 どれだけ時間が過ぎただろう。突然玄関の扉が開いた。

「舞花、ただいま。悪いな、早く帰ってこようと思ったんだが事情を校長に説明してたら案外時間食っちまって。……舞花? どうしたいるんだろ舞花、返事くらいしろ。…………舞花!」

 ダイニングで床にペタリと座り込み、涙で頬を濡らした舞花を見つけ、佐々木は焦った。

 舞花は佐々木の気配にやっと首だけ動かして今にも消えそうなくらい小さな声で必死に訴えた。

「に……さん。とさんとかさん、じゃったよ?」

 佐々木にはそれだけで何が言いたいのか分かる。酷く傷ついた顔をしたのは、傷だらけの舞花にすぐ気付いてやれなかった自分を責めたからだ。

 舞花は、今度は何もかも否定し肯定するような大声で叫んだ。

「お父さんとお母さん死んじゃったよ! 二人はもう二度と戻ってこないんだ、あああ゛ああぁああ!」

 佐々木は喚く舞花をぎゅっと抱き締めた。すると舞花は喚くのを止め、初めて佐々木の前で声を上げて泣いた。それはきっと、今は亡き両親にもみせたことのない舞花の素顔なのだろう。

「うぁあぁぁん、ひっくふぇぇぇ……うっうぅ……えぇ」

「よく頑張った、お前はほんとによく頑張った。悪かったな遅くなって。俺舞花に何もしてやれない」

 舞花は泣いていて、言葉もまともにしゃべれないが、佐々木の言ったことを否定するかのように、佐々木の背中に腕を回してきゅっとワイシャツを握り、首を横に振った。必死に何かをこらえているのがその様子からも伝わる。

「もう、我慢すんな。全部俺が受け止めてやる。お前の気持ち全部だ。……頼りないかもしれないけど、ぶつけてみろ」

 舞花は佐々木の胸の中で小刻みに震えてその度に涙を流した。

 佐々木は舞花が泣き疲れて眠るまで、ずっと抱き締めて舞花の傷ついた心を包み込んでいた。

 やがて、舞花の腕はだらりと床に落ち、聞こえるのも泣き声ではなくすーすーと眠る声に変わった。

 佐々木は舞花のブレザーとベスト、リボンを脱がせ、涙を拭いた。ブラウスも、苦しくないよう第一ボタンを外し、スカートから出してやる。

 軽々と持ち上げてベッドに寝かし布団を掛ける。

「……全く、いつの間にこんな可愛くなっちまったんだろうな、お前は。ちょっと目を離した隙に綺麗になりやがって、俺以外の誰かに好かれやがって。とっくに、ただの従兄弟として見られなくなってんだよ。気付けよな、全く。……多少は俺の気持ちになってみろ、大変なんだぞこっちも。我慢することが多くてな」

 佐々木は舞花の黒髪を軽く梳いた。さらさらとして、とても綺麗。これはお母さん似だな、なんて思って苦笑する。自分も顔立ちは母似で、舞花ともそっくりなくせに。

「お前は知らないだろうけど、俺はずっと前からお前に惚れてたんだぞ。七つも下の女に惚れるときついぜ、我慢することがその分増える。ここまで成長しちまうといい加減我慢が効かなくなりそうで怖い。昨日のことだって、相当驚いたんだからな。こっちが攻めてもお前全く怯えねぇしよ。相手が俺じゃなかったら間違いなくやられてたぞ。俺だって、後一歩間違えば……何とか理性が勝ったけどよ。お前は純粋な気持ちだけでぶつかってくる、罪意識がないだけに一番質が悪い」

 佐々木は眠っている舞花に軽く優しく口付けた。

「ただで済むと思うなよ、俺をあんだけ挑発しておいて……準備が整ったら逃げるとか許さないから。俺がもう逃がさない。お前はもう、俺のものだ。他の誰にも渡さねぇ」



 *



 翌朝。佐々木が目覚めると既に起きていたらしい舞花の姿があった。何らやキッチンで洗い物をしている。

「おはよ! 兄さん」

「あぁ……おはよ。早いなぁお前」

「うん、目が覚めちゃって。あっ、そうだ。ついでって言ったらなんだけど兄さんの分のお弁当作っちゃったから良かったら持ってって」

 舞花はダイニングテーブルを指差した。そこには男らしい大きめの弁当が置いてある。

「ありがとう、助かるよ」

「私料理には自信あるんだ。適当に使っても良さそうなもの冷蔵庫から物色しちゃったけどよかった?」

「あぁ、大したもん入ってねぇし気にするな」

 佐々木も朝食を用意するためキッチンに入ると舞花とすれ違った。その時舞花のポニーテールが手に触れた。佐々木は少し意外そうな顔をする。

「舞花、お前風呂入ったか? 髪濡れてるけど」

 舞花はキッチンを出ていた舞花は振り返って照れ笑いする。

「バレちゃった? 髪頑張って乾かしたのになぁ……。昨日泣き寝入りしたからお風呂入ってなかったこと思い出して、シャワーだけざっと浴びたんだ」

「ふーん、まあそれだけ乾いてりゃ大丈夫だと思うけど風邪ひかないように気をつけろ」

「うん! 了ー解」

 ふざけて敬礼をする舞花に佐々木は笑って返した。そういえばあんだけ泣いてたのに目が腫れてないことに今更ながら気付いた。

「じゃあ兄さん、私はもう行くねー。どっかのねぼすけを起こしに行かなきゃだから」

「気をつけて行けよ」

「うん。じゃあいってきます」

 舞花は早足で玄関まで駆けていく。佐々木はその背中に声を掛けた。

「いってらっしゃい……と」

 そして時計を確認する。まだ佐々木が家を出る時間までは余裕があった。

「あいつどんだけ早く出てってるんだ? けどま、高津の家まで行ってんだから時間も掛かるか」

 そう呟いてふと思う。いつもと変わらない舞花の姿。昨日泣いていたことを知ってる佐々木ですら今日の様子だけじゃ分からないほどに腫れていない目元。

 彼女は本当に、誰にも知られたくはないのだ、泣いたことを。そのために一生懸命腫れも引かせたのだろう。あれだけ泣いて何の手入れもせずに寝て、赤くならない人はいない。そして佐々木の前ですら明るい舞花であろうとする。完璧な舞花であろうとする。

「舞花……どんだけ無理すんだよ。俺でもお前の支えにはなれないのか? 今の舞花を見てると不安になる……」

 教師として? 従兄弟として? …………愛す人だから?

 佐々木は静かな部屋で一人、頭を悩ませるのだった。



 *



 その日、舞花達のクラスは一次元目佐々木の授業だった。

「今から抜き打ち小テストする。教科書仕舞って、机の上はシャーペンと消しゴムだけにしろ」

 えー、マジかよ、等々教室はブーイングの嵐だ。そんな中でも、舞花と一斗は大人しく指示に従っていた。

「小テストくらいでそんな喚かなくても、ねぇ一斗君?」

「そうだな。先生だって全く分からない問題を出してくるわけじゃない」

「相変わらずお堅いなぁもう」

 舞花は苦笑した。わざと君付けで呼んだのにそこをスルーされたのが不満げでもある。

「じゃあ今から十分間。始め!」

 あれだけわーわー言っていたのに、いざとなると大人しく問題をとき出す、どこの学校にも良くある光景だ。

 そしてあっという間に十分経過。

「止めっ! 今から答え言ってくから隣りと交換して丸付けだ」

 舞花は答案用紙を隣りの席の人である一斗に渡した。変わりに一斗のを受け取り解答を見る。ウザいくらいに同じ答え。さすが舞花と学年一、二を争うだけはある。

「机の上、赤ペンと答案だけにしろ」

 佐々木の指示に慌てて舞花は赤ペンを探す。

「赤ペン、赤ペン……赤赤…………うっ」

 突如舞花は頭を押さえた。頭の中を倒れた両親の姿が巡る。赤い赤い、綺麗な血。赤を意識したせいか、事件発見時のあの風景がフラッシュバックしたのだ。

 舞花は強く目を瞑り必死に押さえ込もうとするが考えるほどイメージは強く濃くなる。

 そんな舞花の異変に最も速く気付いたのは、例のごとく佐々木だった。

「伊乃上、どうした。気分が悪そうだな。無理するな、保健室行ってこい」

 舞花はふっと顔を上げて笑う。しかしその表情は無理しているようにしか見えない。

「ありがとうございます。そうします」

 舞花はゆっくり立ち上がると壁伝いに歩き教室を出ていった。

 舞花の立ち去った後の教室は騒然となる。至る所で舞花ちゃん大丈夫かな、凄く辛そうだったよね、心配だな等の声が聞こえる。春樹も珍しく神妙な面持ちだ。

「静かに! 授業続けるぞ」

「えー、先生は舞花ちゃん心配じゃないの」

「クラスの一員だ、心配じゃないわけねぇだろ。けど今俺らがここで騒いで何になる? 自分のせいで授業が進まなかったって知ったら伊乃上はどう思う?」

 その言葉に、クラス中がしんとなる。佐々木は言うことが上手い。ただ注意するのではなく、確信を突いてくる。

 しかし、ただ一人だけ佐々木の言葉に違和感を感じる者がいた。一斗は密かに、心配するのはクラスの一員だからではなく、愛する人だからだと佐々木の言葉を訂正し、そして歯を噛み締めた。舞花の異変になぜ気付けなかった、俺が一番側にいたのに……それはそんなことを思う顔だった。



 *



 舞花は二時限目には復活しクラスに戻った。松島はもう少し休んだ方が良いと言ったのが、舞花はそれを無視して勝手に戻ってきたのだ。

 その後は何の問題もなく時は進み、今は放課後。舞花や一斗や春樹は早速道着に着替え、素振りをしていた。しかも、ただするだけじゃつまらないということになり、一人が竹刀を横向きにして二本持ち、それを残りの人が打っていくといったものだ。

「んで、何で俺が持つ係りなんだよ」

 春樹はごねた。けれど竹刀はしっかり持っているので舞花も一斗も素振りをしながら宥めている。

「仕方ないでしょ、じゃんけんで負けたんだから。五十回やったらちゃんと代わるし」

「けどよー、一斗は置いといても舞花はずるいよ。お前じゃんけん無駄に強いだろ、俺勝ったことないもん」

「あははー、それはまぁ……私の勘は無敵だし?」

 春樹って力のいれ方でなに出すか分かるんだよねぇとはさすがに言えない。

「んだよそれ。……あ、これって先生来たら終わりじゃん! やっぱ不公へ、いー」

「なんだ、俺が来ちゃ悪いのか」

 ひやり……その場にいた舞花、春樹、一斗、そして三人を見ていた千里の背筋が凍る。佐々木だ、素振りと話に夢中で来たことに気付かなかったのだ。

「い、いえ、何でもないです」

「そうか、ならいい。武藤号令」

「はい! 全員集合っ」

 佐々木はいつも通り話出すが、四人の額には冷や汗が滲んでいた。

 話が終わり、全員が散らばったところで舞花が佐々木に呼び止められた。

「なんですか?」

「昨日の怪我、まだ痛むか」

 断定型で言われ舞花は渋々はいと頷く。

「無理すんな、今日は素振り終わったら」

「帰りませんよ!」

 挑むように上目遣いで佐々木を睨む。佐々木ははっと笑って舞花の頭に手を乗せた。

「んなことするかよ。今日は試合はさせれないけど、の変り一年の面倒見ろって言おうとしたんだよ」

 それでも舞花は不服そうだ。

「まぁそこは我慢してくれ。その代わり厳しくいって良いから」

「分かりました。ビシバシいきます」

 舞花ニヤリとほほ笑んで竹刀を取りにいった。

 素振りを終え、学年別に別れて練習をする段に入った。舞花は一年の部員を集めいつもより口調を強めて言う。

「今日は私が君達の練習を見ることになった。女だからって甘くみるなよ、厳しくいくから覚悟しとけ。分かったか!」

「はいっ!!」

 一年からは威勢の良い返事が返ってくる。

「よし、じゃあメニューを説明する」

 舞花は一年部員に相応しい練習メニューを素振り中に考え上げそれを説明した。そして練習を開始する。

 練習は調子よく進み、誰もが何も疑わなかった。

 しかし、いつかは気付くその異変に。

 学年別の練習を終え、佐々木は道場を見回した。皆それぞれに休憩している。

「なぁ武藤、伊乃上を見てないか?」

「いえ……一年が知ってるんじゃないですか?」

「そうだな、ありがとう」

 佐々木は入口付近に固まる一年に声を掛けた。

「お前ら伊乃上知らないか?」

「先輩なら所用があるからって僕らに最後の指示出して道場を出て行きましたよ。先生は知っているものだと……」

 佐々木はそれを聞き焦る。当たり前だ、舞花が脱走したのだ。いつ、一体何処に……無事なのか。思わず声が荒ぶる。

「それは何分前だ」

「二十分くらい前かと……」

 佐々木は道場の奥に向かって叫ぶ。

「武藤! 今すぐ着替えて来いっ。高津! 後は任せた。急げ武藤っ」

「はっ、はい」

 何が起きたか分からないなりに武藤は急いで制服に着替えてきた。

「あの、舞花に何かあったのですか」

「いや、まだ分からん。ただ……行方不明だ。だが何処に向かったかならだいたい予想が付く。来いっ」

 二人は校門を飛び出し、舞花が確かに向かったと思われる、ある場所に向け走った。

「何か、嫌な予感がする」

 空はどんより曇り空。それは太陽の光と熱を遮断しすべてを覆い尽くしてしまいそうで、また佐々木の不安を煽るばかりだった。

「何だか雨の降りそうな天気ね」

 その頃舞花は自転車で病院まで飛ばしていた。そのせいもあってか、佐々木が異変に気付いた頃にはすでに病院に到着していた。もちろん服装は制服。さっき受付を済ませたところだ。

「伊乃上舞花さんですね? ご両親の元までご案内します」

 待ち合席に座っていると、中年の看護師に声を掛けられた、

「はい、ありがとうございます」

 看護師の案内で舞花は廊下を進んだ。彼女はその間ずっと頑なな表情を保っていた。長い廊下は真っ白無機質、それはもしかしたら延々続くのではないかとも思え、その度に胸が締め付けられる。

「ここです」

 看護師に言われドアを見つめる。敢えて看護師はドアを開けようとはせずに舞花を見守った。

「親切にありがとうございます。しばらく、三人だけにしてもらえますか?」

「はい、もちろん」

 舞花はスライドさせるタイプのドアを開けて一人で中に入った。

 室内には白い布を顔に被せられ横たわる二人の人がいた。

「お父さん、お母さんなんだね。会いたかったよ」

 舞花はそっと白い布を取って顔を見る。青白い、しかしまだ生きているようにも感じてしまう。

「何でなんだろうね、何で私達の家だったんだろうね」

 舞花は床に膝をついて袖口で軽く目元を覆う。

 それは両親の前で初めて見せた涙で、しかしそれを認識することは出来ない。舞花は薄暗い部屋の中、涙に視界を滲ませながら二人を見つめた。ずっとここにいたいとも思ったし、もう辛くてどっかに消えたいとも思った。

 やがて舞花は立ち上がり、決意したようにそっと目を閉じた。

「お父さん、お母さんお別れだ。もう会うことはないけど、二人とも凄く感謝してるよ。私を生かしてくれてありがとう」

 最後に二人の髪を軽く梳いて白い布を元に戻しドアに手を掛けた。まだ軽く後ろ髪を引かれる。けど振り返らない、振り返ったらもう出られなくなる。

 そっとドアを開け廊下に出てすぐドアを閉める。

「良いのですか?」

 看護師は問い掛けた。舞花は今にも泣きそうな微笑みではいと答えた。

「先生のお話、伺いますか?」

「いえ、それはまた兄と来たときに」

 兄と聞いて看護師が不思議そうな顔をしたので従兄弟ですけどと付け加えた。

「あの方ですか、しっかりしていらっしゃってビックリしました」

「兄は自慢の兄ですから」

「ですね、良いお兄さんです。ではまた、いつでもいらしてください。お待ちしております」

 舞花は深く頭を下げる。

「今日はありがとうございました。看護師さんがドアの外にずっといてくれたの、すごく嬉しかったです」

 看護師が手を振ったので舞花も振り返し、見送られるまま自動ドアを潜り抜けた。

「あちゃー、雨降ってきましたねぇ。まぁ今の私にはちょうど良いかも」

 泣いてもばれなさそうだし。とは言わないが、思ってることには間違いない。

「濡れて帰るのもたまには悪くないよね。後で兄さんに怒られるだろうけど……のんびり帰ろう」

 駐輪場から自転車を取り出し、鞄を籠に突っ込むとハンドルを握りゆっくりと引いた。乗ろうとはしない。引いて帰るつもりだろう。

 雨はさらに激しさを増した。



 *



「舞花……何で勝手に抜け出すんだ」

 佐々木と武藤は雨の降る中、傘をさしながら必死に舞花を探した。それも、学校から病院までの道程だ。佐々木は気付いていた、何処へ何をしに行ったのかを。だからこそ心配で、また昨日の事件のことも気にかかっていた。

「くそっ、何ですぐ気付かなかった。あいつから目を離すべきじゃなかったのに」

 それは武藤も思っていることで、しかし口にはしない。慰め、そんなものは自分も佐々木も傷つけるだけだと分かっている。ただ無言で舞花の姿を探した。

「悪かったな、付き合わせて」

 佐々木は武藤に向けて言う。しかし目線は真っ直ぐ前だ。武藤も決して佐々木の方を見たりしない。

「いえ、むしろ俺に付き合わせてくれて感謝してます」

「そうか……よろしく頼む」

 互いに顔を見ずにの会話。それでも、舞花を想う気持ちは通じていた。



 *



「流石に寒い……もうすぐ夏だからってもろ雨に濡れるのはまずかったかな」

 雨に降られて頭が冷えたのか仮面が安定してきたのか、舞花は当たり前のことを呟いた。しかしもう遅い。制服はブラウスまでぐっしょり濡れていて、長い髪もたっぷり水分を含んでいる。

「やばいなぁ……案外時間経ってる、兄さん怒るかなぁ怒るよなぁ」

 舞花は盛大に肩を落とした。それほど怒られるのが嫌なのか、そうでもしないと本気で気落ちして仮面が剥れそうになるからか。

 しかし、そんな呑気なことを考えてる場合ではなかった。そっと……舞花に近寄る怪しい人影が三つ四つ五つ六つ……。その中の一人、一番偉そうな奴が背後から舞花に声を掛けた。

「よぉお嬢ちゃん、いや……舞花ちゃん。ちょっと俺達と遊ばない?」

 ゾクッとした。佐々木の時とは違う、もっと底冷えするような吐き気のするような……気持ち悪い。

 舞花は反射で自分を責めた。なぜ気付かなかった、早く気付けば逃げられたかもしれないのに。

 しかし仕方ない。今回は相手もこちらを警戒していた。気配を消して近付いてきたのだ。

 舞花はははっと笑って振り返った。もう周りは完全に囲まれていた。しかも、人数が半端ない。

「何か御用? 名前を知ってるってことは昨日のお仲間さんね」

「正解。鋭いねぇ……俺の仲間が世話になったって聞いたんで挨拶に。まさかこんなに可愛い子だとわ思わなかったけど」

「それはどおも、群れを成さないと生きていけないような弱い溝鼠さん達」

 挑発して隙を生む、そしてその隙をつき自転車で逃げる! それが舞花の単純明快な作戦であり最も正しい選択でもある。

「言うねぇ……けど、いつまで言っていられるかな」

 男達は徐々に近付いてくる。舞花を追い詰めるつもりだろうが……甘い。

 舞花は一気に自転車に跨がると下っ端らしい威勢だけの弱そうな男が溜まっている場所目掛けて走り出した。きっと退く、絶対退く、その予想通り男は驚いて道を開けた。そこを無心で通り過ぎる。

 走れ走れ走れ、こげこげこげ! 捕まったらやばい……逃げろ。本能が舞花に告げる。舞花は本能のままに走った。

「すごいねあの子、度胸あるや。けど、残念ながらここは俺達チームのテリトリー……逃がす訳ない。お前らっ! バイク用意しろ」

「はいっリーダー」

 やはり舞花に話しかけた男はリーダーだった。リーダーの男は不敵に笑って、仲間が用意したバイクに乗った。

 舞花は走った。しかし、相手もそう簡単には逃がしてくれない。いきなりバイクが飛び出してきたり、道を塞がれたり、捕まえられるのも時間の問題だった。そして……舞花は息を飲んだ。

「いき……止まり」

 膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ元来た道を見据える。すでにそこには何人もの男達が壁となり立ちはだかっていた。その間を割って、リーダーと数人の男が前に出る。幹部陣営か。

「すごいね、君は今ショックを受けるべきではない、むしろ喜ばなくてはな。俺達にターゲットにされてここまで逃げ切ったのは君が初めてだよ。けど鬼ごっこはもう終わりだ」

 男は一歩二歩と舞花に近付く。

 舞花は大きく一回深呼吸した。湿った空気で肺がいっぱいになる。

「ここからが本番、とでも言いたそうね」

 ニヤリと舞花は口許を歪める。

「分かってるね、その通りさ」

 男はコキコキと指の関節を鳴らした。それに続くように下っ端の男達も戦う姿勢をとろうとし、それを別の男が手で制す。どうやら幹部だけで舞花の相手をするらしい。

 何処か遠くで雷が鳴った。

「覚悟はいいかい? お嬢ちゃん!」

 舞花は最も得意とする構えをとる。瞬発力に優れ相手を混乱させるのに適した構えだ。

 まず一発、軽く避ける。続いて二発。もうここまでくると幹部だろうが何だろうが関係ない。今はただ、自分が生き延びることだけを考えろ。舞花は自らに言い聞かせた。

 無駄な動きはしない。なるべく最小限に押さえる。理想は……そう佐々木のような。

「やるねぇ……ならこれはどうかな」

 男は不意にナイフを取り出して舞花に襲いかかる。頬を軽く刃先がかすりピシッと血が溢れ出す。

「美女は赤も似合うって、ほんとだよね。いい血の色だ」

 もうほとんど狂人だ。こいつらに人間らしさなんて一ミリも期待できない。舌打ちする。

 舞花は向かってくる刃物を避けた。頭の上でプチッと音がする。瞬間舞花の結っていた髪がほどけふわりと舞い落ちる。髪留めが切られたのだ。ぎゅぅっと奥歯を噛み締める。それは母がくれた大切な髪留めだった。

 その間にも男達は次々に蹴りやパンチ、刃物での攻撃をしてくる。すぐに舞花の限界もやってくるだろう。

「ダメだよ、叫んでも無駄。ここにはヒーローはやって来ない。アハハハハ」

 しかし、そうとも限らなかった。

 佐々木、武藤は着実に病院までの道を進んでいた。舞花は逃げた際に本来の道筋からは外れたがまだそう遠くはなかった。もしかしたら、気付くかもしれない。だが問題が一つ、雨はひどくなる一方で雷もあちらこちらで鳴り響く。それはあらゆる音と音を吸収した。

 奇跡でも起きなければ助けに行けるはずはなかった。

「そろそろ限界だろ、諦めろよ」

 男は言った。舞花は聞かない。動きを止めたらもう二度と動けなくなる気がしたから。だが、体はそう上手くは出来ていない。いくら精神がへばってなくとも体はとっくに限界を越していた。不意に足下がふらつく。そこを狙いすましたように舞花の腹に強烈な拳を食らわす。

「うっ……」

 完全に動きが止まったところで今度は後ろから羽交締にされた。もう身動きはとれない。

「やっと大人しくなってくれたよ。舞花ちゃん」

 男は舞花の顎を親指と人差し指で挟んで上を向かせる。精々強がって睨んでみせろ舞花。

「おお怖い怖い……」

「汚い手で私に触れるな、下等」

 パッと手を離しておどける男をさらに睨む。だがビクともしないそいつは、舞花は絶対に動けないと分かっている。実際その通りだ。今何をされても、動くのは口と瞼くらい、後は……。

 男は次にブレザーのボタンに手を掛けた。スルスルと外していきブレザーの前を開ける。ベストを着ているので下着が透けたりすることはないが、それでも濡れているというのが興奮したのだろう。ヒューと口笛を鳴らした。

「綺麗な体してるねぇ、スタイルいいし、服を着てるのがもったいない」

 気持ち悪い。吐きそうだ。見られてるというだけで寒気に覆われる。

「このリボン、いらないなぁ。ついでにブラウスのボタン開けちゃお」

 襟の下に手を入れリボンを外す。露になった首元を見つめながらそいつはブラウスのボタンに手を掛けた。手が服越しに体に触れる。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。ゆっくり、時間を掛けてボタンを外す。第一だけなのに凄く肌を出した気になる。嫌だ、こんな奴に、こんな薄汚い下等に見られるなんて……最悪だ。

 弱音だって言いたくなる。助けだって求めたくなる。誰に? そんなの決まってる。

「兄さん」

 舞花は低く呟いた。男は気付いてないのか何も言わずに舞花まじまじと見る。

 だが、気付いてる人もいた。それは奇跡というよりかは超能力と喩えた方が正しいかもしれない。

 舞花を探し、走っていた佐々木が急に足を止め左方向を凝視した。武藤がどうかしましたかと尋ねる前に佐々木はそっちに走り出していた。一言、こっちだと呟いて。

 佐々木は今までにないほど速く走った。武藤も必死に追いすがるが姿はどんどん小さくなっていく。佐々木が進んだのは本来の病院まで行く道とは全く別方向だったが、武藤も疑いはしなかった。佐々木が何かに気付き、そっちに舞花がいるという事実に変わりはないと信じきっていた。

 舞花は今、ベストの掴まれていた。少しずつが好きらしい男は焦れったいほどゆっくりと舞花のベストを引き上げていく。

 舞花は何もしないし何も言わない。意味がないと悟ったのだ。されるがまま、されるしかないのだと。そして、男の手が胸の一歩手前まできた時だった。

「そいつを離せ」

 地を唸らせ、空を喚かせるように低く響く声が聞こえた。その時ちょうど雷が光った。男の姿はシルエットとなりそこへ映し出された。その時点で、それは誰なのか舞花は理解した。

 ……兄さん!

「聞こえなかったか? そいつを離せと言ったんだ、早く」

 佐々木は一歩一歩丁寧に踏み込み近付いてくる。その瞳は見るもの全てをいぬくように鋭く光る。普通なら見ただけで足が竦む。

 男は慌てて声を出した。

「お前ら何やってる! 早くこいつを……」

 言いかけて気付いたらしい。お前らに値する下っ端の男達がすでに全滅していることに。その場に立っている全員の男の額を冷や汗が流れる。雨と混ざって消えていく。

 男は驚き舞花から手を離した。その瞬間佐々木は羽交締めをしていた男に鋭い蹴りを食らわす。腕は緩んで舞花が解放された。舞花がそのまま前に倒れ込むのを佐々木はキャッチした。

「大丈夫か」

「まぁ……ね」

 舞花は何とか自力で立って佐々木の背中を押した。

「残ってるのは全員幹部、油断しないでよ。どうせ全滅させる気なんでしょ」

「よく分かってるな。忠告ありがとよ」

 佐々木は構えをとったのも分からないくらい素早い動きで幹部を次々と戦闘不能にさせていく。美しい、その動きは正に夜叉。無駄なく人を沈める姿は人間技には思えなかった。

 そして最後、一番逃げ惑った、確かこいつはリーダーだった。

「ひぃ! すみませんでした、許して……こいつがどうなってもいいのか!」

「舞花危ないっ」

 完全に油断していた。追い詰められたリーダーが舞花を人質にして……いや、そうはいくか。

 舞花は最後の力を振り絞り、ナイフを突き付けようとした腕を捻りあげナイフを落としそのまま宙に浮かせる。

 一本背負い。

 バシャーン

 ちょうど水溜まりに叩き付けられたのだろう、辺りに水が飛び散る。

「舞花、大丈夫か!」

 佐々木が慌てて駆け寄ってきた。さっきまでの鬼のようではなく優しい兄さんだった。

 舞花はも佐々木に駆け寄る。

「兄さん」

 その途中だった。誰かがくそぅと呟き苦し紛れに投げたナイフが舞花に飛んできた。舞花はいきなりのことで避けきれない。

「やっ……」

 舞花に当たる寸前、佐々木が飛び出してきて、ナイフの柄の部分を掴んだ。佐々木は投げてきた方向を睨む。男達は竦み上がった。

「この名を知っているか? 昔この辺りに名を轟かせた奴だよ。知らないとは言わせねぇぜ。‘誠’よく覚えとけ。俺もなぁ誠って言うんだよ。同一人物とみるか他人とみるかはお前らの自由だ。だが、判断を誤るともっとひどい目に遭うのは覚悟しといた方がいい」

 そして舞花に尋ねる。

「大丈夫か」

「あんま大丈夫じゃない、かな」

 そのまま倒れそうになる舞花を佐々木はそっと支える。

 舞花は衰弱しきっていた。そんな舞花を見兼ねて、佐々木は無言で背に負った。舞花の体は軽々持ち上がる。そして落ちていたリボンを拾い自転車を引いて道に出る。

 裏道を出るとそこには武藤の姿があった。何とか追いつき、様子を見ていたらしい。いや、見ていることしか出来なかったのだ。武藤がここに着いた時にはすでに下っ端の連中はのびていた。奥を見る、そこには舞花と佐々木と数人の男……立ち入る隙がないことは武藤にも分かった。佐々木が動く、その早さに目が追いつけない。圧倒的に何かが違った。

「舞花は!」

 奥から出てきた佐々木に武藤は縋るような声を出した。佐々木は口許を軽く緩めた。

「無事……という訳にはいかないが、大丈夫、今は疲れて寝てるだけだ」

 確かに背負われた舞花は佐々木の首にしっかり腕を回しすやすやと眠っていた。その顔は安らぎに満ちていた。武藤も胸を撫で下ろす。

「ここまでついてきてくれてありがとう。最後に一つ頼んでいいか?」

 尋ねる佐々木に勿論ですと即答する。

「舞花もでかくなったから流石に重くてな、自転車変わりに引いてくれないか? あと出来れば舞花だけでもいい、傘に入れてやって欲しい」

 それは初めて佐々木に頼られた時だった。武藤は無性に喜びを感じつつ、その気持ちを押さえて行動に移す。

「はいっ!」

 自転車のハンドルをしっかり掴み、傘を二本さして片手ずつもち、片方で二人を中に入れる。武藤よりも頭一個分背が高い佐々木だが、それくらいなら容易に入れることが出来る。大きめなので二人とも中に収まった。もう片方には自分が入る。

「ありがとう。こいつはいい友達を持ったな」

 佐々木が呟く。武藤は友達という言葉に違和感を感じながらも、こちらこそありがとうございますと返事をした。

 学校までは少し距離があったが、その後二人は一言も会話をせずに来た道を引き換えした。

 学校に着くと佐々木は保健室に急いだ。ノックもしないで扉を開く。中には待っていましたよと言わんばかりに松島がこちらを見ていた。

「これはまた、死線を乗り越えてきましたといったような格好で……どうしました?」

「俺はいい、舞花を診てくれ」

 佐々木はベッドに舞花を寝かす。

「すごく濡れてますね……これでは何もしなくても風邪をひいてしまう。葉月さん呼んできてもらえますか?」

「あぁ」

 佐々木はまだ部活をやっているはずの道場に向かった。何も言わず礼だけして道場に入ると春樹にこいつ借りるとだけ言って千里を連行、残された春樹を始めとする部員達は一様に唖然としたが気にしない。千里は何か大変な事が起きていると感じたのか大人しくついてきた。

 保健室に入り千里は目を見張る。それもそうだろう、びしょ濡れの舞花がベッドの上に寝ているのだから。

「葉月さん、君に頼みたい事がある。我々は教師であり男でもあるからね……何が言いたいかもう分かるだろ? 予備の冬用体操服がそこにあるしタオルもそこの棚に清潔なものがたくさん。後は頼みましたよ」

 松島は立ち上がり佐々木の背中を押して外に出ると扉を閉めた。寸前に松島が一枚タオルを持て出たことに千里はもちろん気付いていない。目先の大役で一杯一杯なのだろう。

 千里に任された仕事、というのは簡単に言えば着替えだった。しかし脱力しきっている人間を着替えさせるのは簡単ではない。まずはブレザーとベスト、ブラウスを脱がせ体を丁寧にタオルで拭く。その時あることに気付いた。熱い、体が熱をもっている。おでこに手を当てた。……高い。千里は手を早めた。

 体操服の上を着せて次は髪の毛。長くて量が多いので簡単に乾くとは思えない、ならばせめてとタオルで髪を包み込む。スカートもびしょびしょだった。靴下を脱がせまずは足を拭き、最後にズボンをはかせる。

 そして再びベッドに寝せた。

「ふう……何とか一通り着替えが終わったや。それにしても舞花ちゃん、なぜ傘も差さずにこんな雨の中に」

 千里は首を傾げる。すると舞花がうぅ……と声を上げた。ゆっくりと瞼を開く。

「舞花ちゃん! 起きて大丈夫なの? 何があったの? 気分悪くない? えっと、えっと……」

 慌てふためく千里の口を塞ぎ舞花は軽く睨んだ。

「千里うるさい。頭に響くからちょっと静かにしてて。けど……」

 口許を緩める。温かい笑みを浮かべる。

「心配してくれてありがとう。後、着替えも」

「舞花ちゃん……」

 目をうるうるさせて千里は舞花に抱き付いた。舞花はその背中をポンッと叩いて相変わらず泣き虫ねと囁く。

「だってぇー……怖かったんだもん。舞花ちゃん熱あるみたいだし」

「あ、確かにそんな気が。けど熱があるってことは生きてる証だよ。よしよし、千里強くなったねよく頑張ったから。だからもう泣くなぁ」

 舞花はちらりとドアの方を見る。窓には影が二つ……このままでは可哀想だなと舞花は苦笑い。

「佐々木先生、松島先生、入ってもいいですよ」

 その言葉を聞いて肩にタオルをかけた佐々木が、次に笑顔で松島が保健室に入る。佐々木がかけているタオルも保健室のものなので、松島が保健室を出る前にとったのだろう。

「伊乃上さん、体調はいかがですか?」

「少し熱があるくらいで、後は特に」

「そうですか、では熱を計ってもらいましょう。後頬の傷も消毒しましょう」

「ありがとうございます」

 舞花は松島に消毒をしてもらい絆創膏をした。そして脇に体温計を挟む。

 少ししてピピピッと音を鳴らす。

「六・九……微熱ね」

 舞花は電子板を見てそう呟いた。それを聞いて松島も頷く。

「けれどもう帰った方がいいですよ。佐々木先生、伊乃上さんは頼みました。私はちょっと職員に用があるので失礼します。葉月さんも、部活に戻った方がいいのでは?」

「あ、はいっ! 失礼します」

 千里は少し心配そうに舞花に手を振る、その目はまだほのかに赤い。舞花は保健室から出ようとするその背中に声をかけた。

「千里、心配するんな! 明日にはいつも通り元気になってるよ」

 千里ドアを潜り抜ける瞬間舞花を振り向いてニコッと笑い、廊下に消えた。その後すぐに松島もお大事にと言い残して保健室から消える。

 室内は急に静かになった。舞花は少しためらいながら口を開く。

「さっきの松島先生のセリフ……佐々木先生はどうとらえた?」

「どうもこうも、そのまんまだろ。あんなの……舞花を家まで連れ帰って、そのまま俺も休めって言ってるようなもんだ。たく、あの人はお節介なんだから」

「でもいいの? 兄さん」

 佐々木はなにが?と不機嫌そうに尋ね返す。

「状況説明とかその他もろもろ……色々仕事があるんじゃないの」

「あるだろうな」

「だったらぁ……いてっ。なぜにぶつ」

 舞花は佐々木にぶたれたところを押さえた。もちろん佐々木も本気ではないので痛がっているのは舞花の演技だろう。

「お前はなぁ、俺のこと気にかけてる暇があったら自分のこと心配しろ! この病人まがいが」

「だって兄さんのこと好きだもん。悪い?」

 はぁーと大きく溜め息吐いたのは佐々木だ。どうやら飽きれているみたいだ。そんな彼を舞花はじーっと見つめている。もしかしたら試しているのかもしれない。

「悪い、非常に悪質だ。お前はここがどこだか理解してるのか?」

「学校の保健室」

「あぁそうだろうよ、なら分かれ。お前は阿呆じゃなかったよな」

 コクリと頷く。

「けど、ここがどこだろうと私には関係ないもん」

「俺には関係ある」

「そんなこと私の知る範囲じゃない。私はどうせ馬・鹿ですから」

「誰がそんなことを」

「佐々木先生が過去私に何度か言ったことがあります。自分の言ったことに責任取れないようじゃ先生失格ですね」

「ならお前は取れるのか?」

 舞花はまた頷いた。その瞳は真っ直ぐ佐々木だけを捉えている。まるでそれ以外なにも興味がないように、ただそれだけに集中する。

 佐々木も舞花の視線をしっかり受け止めて逃げようとはしない。とても力強く勇敢な面持ち。

「本当だな?」

 佐々木はベッドを囲むように取り付けてあるカーテンを掴むと自分と舞花を覆った。その一瞬で唇を重ねる。ほんの一瞬、触れるか触れないかのキス。それでも舞花の胸は高鳴った。

「私は……ちゃんと責任取をります」

 舞花は挑むように声を上げる。佐々木は笑った。

「今のが責任じゃお前はまだまだ甘いな。このまま言い合っててもきりがねぇ。俺が戻る前に帰る準備しとけよ」

 佐々木は保健室からで出ていった。きっと職員室に荷物を取りに行くのだ。

「いつまで、私は子ども扱いなんだろう。私は早く……大きくなりたい、兄さんに少しでも近付きたいよ」

 悔しさに流す涙は一番嫌いだ。自分が惨めとしか思えない。なぜそれを認めなきゃいけない。これなら……悲しみの涙の方が何倍もましだ。

 舞花は悔しさを振り払うように首を振った

「いつか、いつか絶対に……追いついてみせる」

 舞花が密かにそんな決意を胸に刻んだとき、佐々木もまた同様に心を乱されていた。

「何であいつは、そうも早く大人になろうとするんだ。こっちがついていけなくなるだろ。だけど、下手に子ども扱いすると傷つける。……頼むからそれ以上大きくなるなよ、俺が酷く小さく見えるだろうが」

 誰もいない廊下の片隅で、佐々木は拳を壁にぶつけた。

 もう一人、忘れてはいけない人が。

 その人は佐々木と別れると舞花の自転車を駐輪場に入れ、更衣室に向かった。軽く濡れた髪と制服を持っていたスポーツタオルで拭く。脱ぎ捨ててきた袴に着替えて道場に戻る。まだ部活が終わるまでに三十分くらいあった。

「あ、一斗! お前どこ行ってたんだ。顧問の佐々木先生も、部長の一斗も、副部長の舞花もみんな消えちゃってさぁ……。さっき佐々木先生戻ってきたかと思ったら千里連れてまたどっか行っちゃうし」

「まぁ……色々あるんだよ。また今度詳しく話す。それより今は部活優先だ。何やってる?」

「自稽古、まぁ終盤だしな」

 一斗も頷く。いい判断だと思っているのだろう。

「じゃあ終わったら俺と試合しよう。一年に見せる。夏休みには新人戦もあるからな、雰囲気に慣れさせる」

「了解」

 あんなことがあってすぐによく部活なんで出来るものだ。いや、寧ろ何かしていなくては落ち着かないのだろう。

 佐々木のあの強さを目の当たりにし、それは少なからず一斗にも影響を与えた。

 俺も、舞花を守れるくらい強く。

 また同時に鈍く引っ掛かることもあった。

 舞花は、佐々木先生を選んだ。超えることは出来るのか?

 顔には決して出さないが、一斗は今非常に苦い思いを抱えている。それを打ち消すためにも、今は剣に集中したいのかもしれない。



 *



 家に帰るまで、二人は必要最低限の会話しかしなかった。舞花は少し眠たそうで、必死に我慢していたが車に乗るとすぐに寝てしまった。

 家に着いたが舞花に起きる様子はなく、佐々木はおぶって部屋まで連れていき、そのままベッドに寝かせた。熱は少し上がっているようで、顔もほんのり赤かった。

 夕飯は舞花も楽に食べれそうなお粥にしたところは気が利くというか、やっぱり佐々木は優しい。

 午後八時頃、舞花は目を覚ました。ほんのりと香る食べ物の匂いに誘われダイニングに行くと、そこにはお風呂上がりなのか髪がまだ濡れている。佐々木の姿があった。

「兄さん、おはよ」

「おお、おはよ。夕飯、食べるか?」

「うん……少しだけ食べたい」

 佐々木ははキッチンに移り鍋に火をかける。

「すぐ温まるから座って待ってろ」

 舞花はゆっくりと頷いてダイニングの椅子に座る。ふと額に手をあてるとひやりとした。冷えピタだ、佐々木が貼ってくれたのだろう。

「出来たぞ。熱いからゆっくり食べろよ」

「いただきます。兄さんはもう食べたの?」

「あぁ、俺は先にな」

 舞花は黙々とご飯を口に運んだ。スプーンに少しすくって、ふぅーふぅーと息を吹き掛け、ゆっくりと口に含み噛み締める。一杯分を食べきって舞花はごちそうさまをする。いつもよりだいぶ小食なのはやはり熱のせいだろう。

「美味しかった。ありがとう兄さん」

「どう致しまして。体、だるくないか?」

 うーんと首を捻る。瞳が遠くを見つめる。ぼーっしていて、まだ顔も赤い。佐々木は舞花の首筋に触れる。熱い。

「まだ熱があるな。今日、風呂に入るのはめとけ。体操服じゃ寝にくいだろ、寝間着に着替えたらさっさと寝ろ。明日葉月に元気な顔見せるんだろ」

「うん、そうだね……」

 立ち上がり食器を片付けようとする舞花を佐々木は慌てて制した。

「それは俺がやるから」

 舞花を支えて部屋まで連れて行く。

「着替えたら呼べよ?」

 舞花はぼーっとしていたが話は聞いているらしく頭を縦に動かした。まだ佐々木がいるにも関わらず服を脱ごうとするので慌てて部屋を出る。

 数分後、舞花が佐々木を呼んだ。か細い声で兄さんと言う。佐々木は部屋に再び入った。舞花をベッドに入れて布団を掛ける。

「おやすみ。明日は無理しなくていい、俺が学校まで送ってく」

「ごめんね、迷惑かけちゃって……勝手に、病院行ったり」

「もういいから。元気になったらたっぷり叱ってやる」

 えへへと微笑み舞花は口まで布団に潜る。

「ねぇ兄さん。元気になったらでいいから、その……キス、して欲しいなぁなんて」

「なんだ、今はえらく甘えるんだなぁ」

「ね、熱のせいだよ! きっと。熱が私を甘えさせてるのぉ」

「はいはい」

 舞花はもっと深く潜り込む。小さな顔が半分以上隠れてしまった。そんな舞花の頭を撫でながら佐々木は微笑する。

「いいよ、約束する。舞花が覚えてたらしてやるよ」

「本当?」

「ほ・ん・と・う」

「やったぁ」

 ニコニコと素直な笑みを浮かべる舞花。佐々木は頭からおでこに手を動かす。

「さぁもう寝るんだ。おやすみ」

「おやすみなさい……兄さん」

 舞花が目を瞑るとすぐに気持ちのよい寝息が聞こえてくる。

「綺麗になったな、舞花」


やっと続きを投稿することができます。今回の話は結構気に入ってるところですので皆さんにも関心を持っていただけたら嬉しいです。にしても佐々木先生かっこよすぎですね(作者なのにエゴが……)。


また遅れるかもしれませんが楽しみにしていてください。それではまた。


2013年 5月11日 春風 優華

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