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変わらないものは

 車が走り出して数分、舞花は助手席で熟睡している。

「寝るなら後ろ座ればいいのに何で助手席なんだ。すんげー疲れそう」

 誰に言うわけでもなく佐々木は呟いた。

「うるさぃな……」

 突如隣りから声が聞こえ、佐々木は驚く。そしてちらりと舞花を見た。

「なんだ、寝言か。ビックリさせんなよ」

 舞花はまだぐっすりと眠っていた。一体どんな夢を見ているのやら。まだむにゃむにゃ何か言っている。

「さん……うさん…………きだよ……だ……ら………いで」

 何を言っているのか、佐々木には分かったらしい。凄く苦い顔をしている。

 また舞花の口は動く。

「お……さん…………と……ん……しな………で」

 言い終わるのと同じくらいに舞花の瞳から涙が一筋頬を伝った。

 泣いている。悲しい夢?いや……悲しい現実を見ているのだ、彼女は夢で。

 彼女は訴えているのだ、必死に。『お母さんお父さん死なないで』と。

「馬鹿舞花。お前は何でそうやって一人で……んいや、そうさせたのは俺のせいか。俺が、あんなこと言わなければ―」

 悔しくてたまらない、そんな顔で歯を噛み締める佐々木も、辛くてしかたがないのだろう。


 *


「ん、んん……」

「お、いい所で起きたな。もうすぐ店着くぜ」

「あぁ……了解」

 舞花は狭い車内で出来る限り大きく伸びをした。

「私どのくらい寝てた?」

「二十分強くらいじゃねぇか? あの公園からここまで丸々寝てたからな」

「そんなに寝たんだぁ。やけにすっきりしてるわけだ」

 舞花はまだぼーっとしてるのか両頬をパンパンと二回叩いた。

「まだ眠いか?」

「うぅん、もう平気。ぁああ……良く寝た」

「ほんとぐっすりだったぜ」

 すると舞花は思い出したように口を押さえた。

「私、いびきとか……」

「してなかった、安心しろ。終始気持ち良さそうな顔で寝てた」

「そうか、良かった」

 寝言のことは決して言わない。舞花にとってあの言葉を自分以外の人に聞かれるのは不本意だと佐々木は知っているからだ。そしてこのことは誰にも言わないし当人だって知らなくていい。その方が舞花にとって今は幸せだ、と佐々木は考える。

「ほら、着いたぞ。降りる準備しとけ」

「はぁい」

 舞花は軽く髪を整え、身なりを正した。




「ふわぁ……今日朝抜きだったからすごく美味しく感じたや」

「その言い方、普段は大して美味しくないって言ってるように聞こえるぞ」

「んー、正直言うとずば抜けて言うほど美味しくはなかったし。まぁ家庭でも頑張れば出来るレベル? ここの店のモットーも、安くて美味しいじゃなくて早くて美味しいでもなく早くて安いでしょ? それに見合った味じゃないかな」

 佐々木ははぁと溜め息を吐いた。そんな佐々木をどうしたの? と舞花が伺う。

「いや、お前って案外辛口評価なんだなって。どっかの料理評論家かと思ったよ」

「ずばりそれは、褒めてないでしょ!」

 舞花はぷくぅと頬を膨らませ残りのジュースを全部飲み込んだ。佐々木もアイスコーヒーの最後の一口を飲み切る。

「じゃあ、家に帰るか。舞花も荷物の整理しなきゃいけねぇし」

「あ、待って。最後に一つ、寄りたい場所がある」

 佐々木は首をひねる。

「まぁ行けば分かるから、取りあえず会計しようか」

 佐々木は舞花がどこに生きたいのか気になっているようだったが、舞花も行けば分かると言うので敢えて問い質すようなことはしなかった。

「んで、どこに行きたいんだよ」

 佐々木は車に乗り初めてそう尋ねた。

 しかし舞花はまだ言わない。

「ここからならすぐだから、私が案内する」

 佐々木は仕方なく車を出し、舞花の指示に従って車を走らせた。



 数分後、佐々木の車はあるマンションの前で止まった。

 そのマンションには佐々木も見覚えがあるらしく仕方ないなといったようなかな顔で車をすぐ近くの緑地公園の駐車場に留めた。

「どうせ春樹や千里なんかには隠してもバレると思うから後で電話で言うけど、こいつには直接私の口から言いたくて。幼馴染みだし、今までも色々助けてもらったし、これからも沢山迷惑かけちゃうから」

「まぁ……俺は構わないけど」

「大丈夫。もしかしたらもう知ってるかもね。結構大きな事件だから地方版の新聞やニュースには既に上がってるだろうし」

 完全に上がっている。と密かに佐々木は思った。しかも地方版だけでなく全国のニュースにだ。


 まだ舞花が起きる前、佐々木は新聞とニュースをチェックした。新聞は地方版しか取っていないのでそれだけの情報しか分からないがニュースは違う。

 佐々木はいつも見る番組ではなく全国各地の多き目な話題を拾ってくるNHKのニュース番組を見た。

 幾つかの芸能ニュースや近ごろの大きなイベントを紹介した後、アナウンサーの声が急に深刻に変わった。そして話出したのは『昨日午後八時頃、とある家庭に強盗が侵入し、家主と思われる男性とその妻に重傷を負わせ逃亡しました。犯人はまだ捕まっておりません。なお、この二人には一人娘がいらっしゃいますが、幸い娘さんはまだ学校から帰ってきておらず被害には遭いませんでした。また、第一発見者もこの娘さんです。警察は…』といったような内容だった。

 そして“〇〇市の一般市民宅に強盗入る 家にいた男性と女性は重傷 犯人は逃亡”というテロップと後ろに伊乃上家の外観が映し出された。もちろん至る所に警察官がいる。今日自宅に戻った際マスコミが一人もいなかったのが不思議なくらいだ。もしかしたら気を利かせた警察官が追い払ってくれたのかもしれない。

 このニュースは番組中何回も放送された。それを一回でも見ていたら、舞花の家だと気付かなくはない。新聞だって、後ろの事件が沢山載っている紙面までチェックしていれば大きく写真付きで書かれていたのでもしかしたらと思うだろう。警察だって行き来している。

 誰もがもしかして……と思い、ほとんどの人がまさかとなと笑う。


「……さん、兄さん! 何ぼーっとしてんの? 行くよ」

 舞花に声をかけられ佐々木ははっと我に帰った。

「あ、あぁ……悪い。なんだっけ?」

「もう、人の話は聞くものよ! ……分かってると思うけど、今から一斗の家行くからね。兄さんもぼーっとしてないでついてきてよ。仮にも兄さんは私達の担任なんだから」

「あぁ、分かってる」

 そう、舞花が行きたいと言っていたのは一斗の家だった。

 舞花はマンションの集合玄関にあるインターホンを迷いのない指で一斗の部屋の番号を押した。

 ピーンポーンという音がしてすぐ返事がくる。

『はい』

「私、舞花。今忙しいかな、少し話があって来たんだけど」

『問題ない、大丈夫だ』

 そして自動ドアが開く。一斗が部屋のインターホンを使って開けてくれたのだ。

「ありがとう。じゃあまた上で」

 簡単に返事をして舞花は自動ドアをくぐる。佐々木も舞花に続いた。

 中に入り少し行くとエレベータがある。上のボタンを押しエレベータに乗り込み舞花は4のボタンを押した。手慣れたものだ。

「昔からここにはよく来たんだよ。ほんと、何も変わらない」

 舞花は誰に言うでもなくぽつりと呟いた。佐々木はそうか、とだけ返しておく。

 エレベータは二人を四階まで押し上げ、口を開く。

 舞花は迷わずエレベータから降りると右へ曲がった。向かって右側の一番奥が武藤家の部屋だ。

 部屋番号は四○一。四階の一号室と、そのままだ。

 舞花がドアの前に立ち、部屋別のインターホンを押そうとした時、中から人が顔を出した。一斗だ。

「やっほー、いきなり訪ねて来てごめんね。舞花だよ」

「見れば分かる。先生、こんにちは」

「あぁ、悪いな、いきなり」

 相変わらず一斗は冷静だ。担任の佐々木が一緒でも驚いた顔一つしない。

「どうぞ、上がってください。先生も一緒なら母が喜ぶと思います。久し振りに会いたがってましたから」

 武藤家と伊乃上家は親同士の仲がよく、舞花が小さい時佐々木と一緒にいることが多かったので一斗の母親も佐々木のことを知っているのだ。昔の佐々木は舞花と一斗の兄のようなものだった。

「確かに、武藤のお母さんに会うのは数年ぶりだからな。挨拶しなきゃいけねぇな。舞花、お前も」

「はーい。お邪魔します」

 二人は一斗に案内されリビングに向かった。

「あらあらこんにちは。久し振りねぇ二人とも」

 ニッコリ笑顔で迎えてくれたのは戻った一斗の母親だ。

 二人は揃って頭を下げた。

「大きくなったわねぇ……。先生にはうちの一斗がお世話になってます」

「いえこちらこそ、一斗君はしっかりしてますからこちらも助かります」

 二者面談が始まりそうな勢いで話出した大人二人。様子を見ていた舞花は不意に強く腕を引かれた。

「お前はこっちだ」

 一斗はそう囁いて舞花を自分の部屋に連れていった。

 一斗は舞花を部屋に入れるとドアを閉める。そして怖い顔で舞花を睨んだ。

 舞花は少し焦りながらどうしたの?と尋ねる。

「どうしたじゃないだろ。これはどういうことだ」

 と言って舞花に突き付けたのは新聞で、日付は今日になっている。そしてそのページに書かれていたのは……舞花の両親が巻き込まれた事件だった。

「あぁ……やっぱ新聞になってたのね」

「これだけじゃない。どのニュース番組でも何回も何回も流れてるぞ」

 舞花は何も言わない。一斗バンッと壁を叩いた。

「何か言えよ」

「何かって?」

「何かだよ! 何か言ってくれよ……」

 舞花はそっと一斗に近寄り、その隣りにしゃがみ込んだ。

「私が家に帰るとね、もう既に荒されていて、お母さんもお父さんも倒れてた。私は気絶しちゃってその後どうなったのかよく分かんないんだけど、兄さんが色々やってくれたみたいで…今両親は病院にいる。私はしばらく兄さんの家にいることにしたの」

 一斗も力なくしゃがみ込んだ。

「本当なんだな」

「本当だよ」

「……そうか。そう、だったのか」

 舞花は一斗に寄り掛かった。そして悲しげに微笑む。

「心配したよね。ごめん、もっと早く連絡しなくて」

「いや、俺こそ少し取り乱した。本当のことが知りたくて焦ってた」

「ありがとう。一斗はやっぱり、私の一番の友達だ」

 友達だ。その言葉を聞いた瞬間、一斗は酷く傷ついた顔をした。

「俺は……いつまで経ってもお前の友達でしかないんだな。それ以上でも、それ以下でも……」

「どうしたの? 何で急にそんなことをー……んっ」

 舞花の言葉を遮るように一斗は自分の口で舞花のそれを塞いだ。舞花の両手を掴んで押し倒す。

「ん……んんー」

 舞花は必死に一斗を退かそうとするが一斗は全く動かない。これが男と女の力の差なのかと舞花は初めて思い知る。

 舞花が抵抗を止めると、一斗の方から口を離した。

「どうして……だと思う? 聡いお前だ、気付いてないことはないんだろ」

「……ごめんなさい。だけど、こういうことは自分を思ってくれてる人のためにとっておかなきゃ、損するよ。だって私……今は一斗のこと友達としか思えないもの。それ以上ともそれ以下とも思えないの。大切な……友達なんだもの」

 それは、一斗の前で初めて見せた涙だった。一斗は驚いて舞花の上から飛び起きた。

「わ、悪い……そんなつもりじゃ」

「ううん、私が悪いの。私が一斗の気持ちに気付いていながら知らない振りしたから一斗を傷つけちゃった。でも、一斗も聡い人だから気付いてるんでしょ。私が……想ってる人のことを」

 舞花は起き上がって軽く目元を拭き一斗を見つめた。一斗はいたたまれなくなり視線を床に落とす。

「悪い……お願いだ、舞花は謝らないでくれ。悪いのは俺なんだから」

 舞花はゆっくりと首を横に振った。

「一斗は優しいよね、いつだって。そんな一斗が、私大好きだよ。今日ここに来たのも、一斗には直接本当のことが言いたかったからなんだ」

「うん……ありがとう」


 それからしばらく、二人は何も言わずただ寄り添っていた。

 ふと、何の前触れもなく一斗が口を開いた。

「事件のこと、母さんが教えてくれたんだ。朝俺が起きると既に母さんがリビングにいて、新聞読んでた。俺の気配に気付くと振り返ってあの記事のところを見せるんだ、これ見覚えない? って。最初は何言ってんのか分かんなかったけど、文章を読んでくうちに何となく分かった、お前の家だって。信じたくなかったし、まさかとも思った。けど母さんはこういうことに関しては凄く聡くて、そんな母さんがわざわざ嘘かほんとか分かんないようなあやふやなもの俺に見せるはずないと思うと、途端に怖くなった。一番怖いのはお前なのにな」

 舞花は何も言わず、ただ一斗の言葉に耳を寄せた。

「落ち着かなかった。事件で被害に遭ったのは両親だけと書いてあったが、舞花がどうなったのか全く分かんなくて。大丈夫かなって……連絡もないし。だからお前がここに来たとき、凄く安心したし、怒りも沸いた。だけどお前はなにも悪くないんだ。舞花が一番辛いのに、自分のこと可愛がって痛がって、その痛みを一番向けてはいけない舞花に向けた俺が悪いんだ。俺が弱いせいで、舞花を無駄に傷つけた。だからお前は、何も悪くない。みんながお前には笑っていて欲しいと思ってる」

 舞花はうんと頷いて、ありがとうと言った。



「あの子たちが心配?」

 同時刻、一斗の母一美は佐々木にそう尋ねた。一斗が舞花を部屋に連れていったことはもう二人とも気付いている。

「いや、別に……一斗は舞花にとって大切な人の一人ですし」

 その時一斗の部屋の方からバンッという大きな音が聞こえてきた。一美の向かいに座っていた佐々木は思わず腰を浮かせる。

「まぁ落ち着いて先生。一斗はああ見えて女の子に手を上げるような野蛮なことはしませんよ」

 ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている一美は見た目でいくと一斗に全く似ていないが、中身はそうでもない。

 佐々木は昔から悟っていたが、一美は人の良さそうな笑みの裏にとんでもないもう一つの顔を持っている。人を隅々まで観察し、考えてることまで読み取ってしまうというとんでもない顔。二つの顔は紙一重で、あのニッコリ笑顔の裏でそんなことを考えてると思うとゾッとする。

「部屋に連れ込んだからといって手を出すとも思えないけど、もし一斗の気に触る何かに触れたら……どうなるか保証出来ませんけどね。ふふふ、そこはお宅の大切な舞花ちゃんの力の見せ所かしら」

「んなっ……貴方って人は」

 佐々木は椅子が倒れるかと思うほど勢いよく立ち上がった。

「あら、行かせませんよ。私は舞花ちゃんや先生の意思に関係なく、一斗の応援をしますから。それが母親ってものでしょう? それとも、生徒の保護者に手を上げてまで行きますか? 前代未聞の事件でしょうねぇ……ふふ」

 こいつ……。

 佐々木は大人しく椅子に座り直したが、その目は明らかに一美を睨んでいた。


 *


「おい舞花。もう帰るぞ」

 佐々木はドア越しに舞花に尋ねた。舞花からは呑気にはーいという返事が帰ってくる。

 少ししてドアが開いた。

「兄さん、私大富豪で五連勝したんだよ」

 何と舞花はトランプをしていたのだ。一斗はどこか悔しそうだが、いつも通り冷静だった。

「悪かったな、こいつの遊びに付き合わせて」

 佐々木が一斗に声を掛けると、一斗いえ、大丈夫ですと言って首を振った。いつもと変わらないように見えて、しかし声を掛けられた瞬間少しビクッとしたのは佐々木の気のせいではないだろう。

 何かあったなと直感する。それは佐々木だけではなく一美も同じだ。

「あらあら、一斗もやる時はやる子ねぇ」

 と、佐々木にしか聞こえない声で言った。佐々木は軽く舌打ちする。

「じゃあね、一斗。また明後日学校で」

「遅刻するなよ」

「大丈夫、今度は私が春樹をたたき起こしに行くから。お邪魔しましたぁ」

 玄関で靴を履き、舞花は外へ飛び出した。その背中を佐々木が追う。

「お邪魔しました」

 舞花は玄関のドアを開け、佐々木が来るのを待っている。

 佐々木が外へ出ると、舞花は中の二人へ手を振りながらゆっくりドアを閉めた。佐々木は舞花の後ろで頭を下げる。閉まる寸前に顔を上げ一美を見ると、一美もこちらを凝視していた。

「兄さーん、私やっぱダメだな」

 舞花は軽いノリでそう言った。佐々木も軽く返す。

「今更気付いたのかよ、お前は」

 二人を乗せたエレベーターは、ゆっくりと下っていった。


 *


 佐々木の家に帰ると、舞花は早速荷物の整理を始めた。

 舞花は遠慮したのだが、佐々木が使えと言うので舞花は一つしかない部屋をもらった。変わりに佐々木はリビングを使うと言う。確かに色々必要なものは元々リビングにあり、部屋にはベッドと小さな棚一つしかないのだが……。

「本当にいいの?」

「あぁ、どうせあんま使ってなかったし。リビングで寝ちまうことも多かったしな」

「だけど……」

「俺にとってリビングも普通の部屋も似たようなもんさ。ていうか俺が困るんだよ。お前少しは自分の性別と俺の立場を考えろ」

 そこまで言って舞花はやっと納得したように手を叩いた。

「そうか、兄さんは一応私の担任だった」

「一応ってなんだよ」

 佐々木は舞花をじろりと睨む。

「あぁそれは……いやそのぉーすみません。言葉のあやです」

 舞花は佐々木の黒いオーラを感じ、今喧嘩したら絶対に自分が負けると思い潔く謝った。

「よし、分かったら早く荷物をしまう! そこの棚とクローゼットは特に何も入ってねぇから自由に使っていい」

「はい! ありがとうございます」

 舞花は手早く荷物を広げ、それぞれ適切な場所に片付けていった。



 *



「舞花ー、風呂沸いたからお前先入れ。俺はまだやらなくちゃいけない仕事があるから」

「はーい」

 夕食も食べ終わり、食卓で宿題をやっていた舞花に佐々木が声をかけた。

 舞花は家から取ってきたお風呂セットを持って風呂に入った。

「そう言えば昨日お風呂入ってなかったなぁ……。よく洗わなくちゃ」

 そう呟いて舞花は頭から体から丁寧に洗い流す。最後に洗顔だ。洗顔をしている時、ふと思い出す。一斗の部屋でのこと。

 今になってやっと感じる、あの感触。嫌じゃないと思う自分が嫌だ。だけど……一斗は無理にでもキスしたくなるほど自分のことを愛しているのだと悟らせる。私に別の好きな人がいると知っていても尚、私を愛す。ずっと、知らないふりしていたのに、それでいつかは冷めると思っていたのに、私を想う気持ちは増すばかりだった。今日のことで諦めてくれたかと思ったのに、彼は言った。『今は友達としか思えない、ならまだ俺にも可能性はあるんだよな。諦めないから』と。もう知らないふりは出来ない。私はこれから、私のことを好きな一斗と接していかなければならないのだ。

「はぁ……これからどうなるんだろ」

 両親のこと、佐々木のこと、一斗のこと……。舞花の頭をぐるぐる回り、追い詰める。

「ああもう知らない!」

 無限ループする思考を断ち切るように舞花は勢いよく湯船に浸かった。



「兄さん、風呂上がったよ」

 舞花はタオルで長い髪を拭きながらリビングにいる佐々木に声をかけた。佐々木はおうと返事して机から目を離す。

「悪いな、宿題の途中だったんだろ?」

「私は大丈夫、もう終わりかけだったし。それより兄さんは?」

「ちょうど終わったところだ」

 佐々木は立ち上がって風呂場へ向かう。その背中を見つめながら舞花は思った。

 何で私は、こんなに近くにいるのに、何も出来ないんだろう。

 そう思った瞬間、舞花の中で何か大きなものが切れた。

「兄さん」

 そう呼び止めて振り返った佐々木の頬を両の手の平で捕まえて思い切り口付ける。背が高い方の舞花でも、佐々木には背伸びをしなければ届かない。

 キスなんて、幼稚園に通っていた頃の仲良しのちゅー以来、一斗のが初めてだった。しかしそんなことは関係ない、体が勝手に反応する。初めは驚いていた佐々木も途中からは舞花に答えた。


 ざわついた。一斗とキスした時よりも胸が高鳴る。やばい、もっとしたい。


 と思った瞬間。

「んっ」

 舞花は両手首を掴まれ壁に押しつけられた。一斗の時と似ていて、一斗の時とは明らかに違う。舞花は一斗に押し倒された瞬間拒絶しか感じなかった。だが今は、そう、快感。


 どれだけの時間が経っただろう。佐々木はそっと舞花から離れた。キスしてからずっと佐々木は舞花を拒否しなかった。むしろ、その行為は肯定だった。


 舞花も怯えない。途中から攻めが完全に佐々木に持っていかれたことを分かっていたが、舞花は怖がらなかった。多少竦んだかどうか。

 相手はもう立派な大人、はっきり攻めが変わった時点で舞花は何されてもおかしくなかった。そんなことも理解していて、舞花は怯えなかった。

 怖くない、兄さんなら、怯える必要なんかない。

 舞花は無意識にそう思ったのだ。

「まいか……」

 佐々木が舞花の顔を見ると、何故か舞花は涙を流していた。

 佐々木は驚きもせず、ただ見つめる。そっと頬に、手を添える。

「兄さん……」

 舞花は佐々木の胸に顔を押しつける。佐々木はそれを受け入れてそっと抱き締めた。頬に添えていた手は自然と頭に、もう片方は肩に。

「ごめん、ごめんなさい兄さん。……どうしよう私、止められない。私、兄さんのこと……」


 大好きだ


 どうしようもなく愛してる…………。


 *


 長かった休みも明け、やってきた月曜日。

 舞花は朝から忙しく学校へ行く準備をしていた。

「もう行くのか?」

 舞花が玄関で学校指定のローファーを履いているのを見て佐々木はそう問い掛けた。

「うん。今日は千里と春樹の家寄ってくから急がないとまた遅刻しちゃうから。じゃあいってきます」

「自転車と家の鍵持ったか」

「忘れてた!ありがと兄さん。いや佐々木先生」

 舞花いたずらに笑って玄関を飛び出した。

「あいつは全く…」

 佐々木ははぁと飽きれた溜め息を吐いて自分も用意を始めた。



 舞花は今日から自転車通学だ。前までは学校と家の距離が歩いて通わなければならない範囲だったので徒歩通学だったが、佐々木の家は完全に自転車通学が許された範囲にあったので昨日学校に連絡して許可を取ったのだ。

 もちろん両親が今入院中だということも佐々木が預かっているということも全て報告した。元々ルールにうるさくない学校なので校長にも教頭にも鷹揚に許された。

 自転車は佐々木が昨日伊乃上家から舞花のものを持ってきた。後部座席を倒せば、二十七インチの自転車でもゆうに乗せることが出来た。

「自転車乗るのって久し振りだなぁ」

 籠に通学鞄を入れて舞花は自転車のペダルを踏んだ。好調な滑り出しだ。

「昨日ちゃんと道を確認したんだよね。確か千里の家はこっち」

 無事に辿り着けるかとそわそわしたが、そこはさすが成績優秀者といったところか、地図を見なくても余裕で目的地に着いた。にしても、あのややこしい住宅街の道を、家で地図を確認しただけでよく迷わずに進めるものだ。

 舞花は自転車を道路の脇に停め、インターホンを鳴らした。

『はぁーい、舞花ちゃんね。すぐ行きます』

 そう声が聞こえて数秒後、千里が玄関から出てきた。

「おはよう、千里」

「舞花ちゃんおはよ」

「荷物貸して、籠に乗せるよ」

 舞花は千里の通学鞄を受け取ると舞花の鞄と並べた。さすがにもう籠がいっぱいだ。

「ありがとう舞花ちゃん」

「どう致しまして。春樹の家はこっからすぐだよね?」

「うん。そこの角を曲がったところよ」

 本当に近い。走れば十秒もかからない位置だ。恐るべし住宅街。

「あっ、私先に行って春樹君起して来るね。舞花ちゃんはゆっくり来て」

 きっと自転車に乗らず引いていた舞花を気遣ったのだろう、さして変わらないのに千里は春樹の家まで駆けていった。

「可愛いなぁもう」

 舞花はその背中を見送りクスッと笑った。

「千里ー、春樹は起きてたかい?」

 舞花は玄関のドアを見つめる千里に声を掛けた。千里は舞花の方を見てほほ笑んだ。そしてピースサイン。どうやら起きていたらしい。

「珍しいこともあるのねぇ」

「何でも舞花ちゃんに怒られるのだけは嫌だって昨日頑張って早く寝たみたいだよ」

「まるで私は悪役ね。そんなところだろうと思った」

 舞花は苦笑いだ。千里は余計なことを言ってしまったと慌てて舞花を執り成した。


 少しして春樹が玄関から出てくる。相当急いでいたのだろう制服がぐちゃぐちゃだ。

「間に合ったか?!」

 舞花の前に立つと春樹はいきせきってそう言った。舞花はそんな春樹の頭に拳骨を落とす。もちろん手加減はしている。そして軽い説教だ。

「そうじゃなくて、まずは挨拶でしょうが。武士たるものまともに挨拶も出来なくてどうする! おはようが先でしょ」

 多少声を荒らげると春樹はしゅんとなった。

「わ、わりぃ。おはよ」

 その言葉を聞いて満足したのか舞花は笑顔になった。千里も舞花の一歩後ろで春樹に挨拶する。

「おはよう、春樹君」

「おはよう千里」

「安心して、時間は大丈夫よ」

 この二人を見ているとどっちが年上か分からなくなる。

 舞花はそっと春樹の制服を正した。

「サンキュー舞花。どうしてもネクタイって上手く出来なくてさ」

「もう一年以上その制服着てるんだからいい加減慣れなよ。私でよければネクタイの上手な結び方教えるし。あっでも、春樹には私より適任の可愛らしいマネージャーがいるか」

 舞花は千里な肩を抱いた。真っ赤になっているのは、春樹も千里も同じで、このカップルはなんて初々しいのだろう。

「舞花ちゃんたら……」

「からかうんじゃねぇ! 行くぞ」

 春樹はぷいっとそっぽ向いて歩きだした。けどそっちは……。

「春樹、どこ行きたいの? 学校はこっちよ」

 とどめはやはり舞花だった。春樹は恥ずかしさを通り越し肩を落として学校への道を歩いた。

 舞花はというと、自転車をひきながら密かに二人にありがとうと言った。



 いつもと変わらない微笑ましい朝の光景。何も変わらず、いつものように接してくれてありがとう。私は思ったより良い友達を持ったのかもしれない。


 *


 六時限の授業を終え、舞花は部活に行く準備を整えた。といっても、防具や竹刀はあらかじめ学校に置いてあるので袴と通学鞄を持って更衣室に行くだけだ。

「舞花、ちょっといいか?」

 更衣室に向かう途中、舞花は呼び止められた。振り向くとそこには一斗がいた。強引にキスをしてきた、だけど大切な友達である一斗。

 舞花は普段どおりの顔でなに?と返した。

「その……この前は、悪かった」

「あぁあのこと、もう気にしなくて良いよ」

「けどお前……」

 泣いてただろ。きっと一斗はそう言おうとした。しかし舞花は鋭い眼差しで睨み、言わせない。あれは舞花にとって不覚で、と同時に屈辱でもあった。

「忘れよう、私も忘れるから。お互いこれからはそのこと一切口にしないこと、悪いとも何とも思わないこと。いいね」

 自分でも驚くほど、酷く冷たい声だった。舞花は一斗の顔を見ようともせず過ぎ去ろうとする。だが一斗はそれを許さなかった。周りに人がいなかったのも、一斗をそういう気持ちにさせたのだろう。

 舞花の腕を掴むと普段ほとんど人が寄り付かない階段下まで連れて行った。

「離して、離してよねぇ!」

「離さない。お前が俺に振り向くまでは」

「こんなことして振り向くと思ってんの? 馬鹿じゃない」

 ドンッ

 一斗は舞花を壁に追いやり、顔の真横に拳を叩き付けた。

「馬鹿でもいい、今振り向いてもらおうなんて思ってない。けど、お前はあの日のことをなしにしようと言った、それが許せないんだ。たとえどんな事情があろうと俺がお前を好きなことに変わりはないしキスだってして後悔はしなかった。けどお前は、たった一言でそれをなしにしようと言う。もしあの日のことを本気でなしにしたいと言うのなら、俺はお前にあれ以上のことをする」

 舞花は震えていた。怒りではなく恐怖に。一斗がこんなに怒りを露わにしたのは初めてだった。怖い、怖いけど……今負けてはいけない。今負けたら、一生元に戻れなくなる。

 舞花はキッと一斗を睨んだ。

「出来るものならやってみなさいよ。けど私は、そんなことをした一斗を一生許すことが出来なくなるけどね」

 一斗は舞花に口付けた。舞花はそれに抗わない、肯定もしない。ただされるがままでいた。

 けど、一つだけ、絶対に決めたこと。一斗の前ではもう二度と泣かない、喚かない。

 一斗は直ぐに舞花から離れた。キス以外何をするでもなく舞花を解放した。舞花は解放されると同時に走り出し姿を消した。長いポニーテイルの先が、一斗の視界にちらりとだけ映り消えていく。

「何で俺はこう、ダメなんだろうな……。結局助けられて、好きな人を守れもしないなんて」

 一斗は一人、薄暗い闇の中に取り残された。



 舞花は走った。道着を両手でギュッと抱き締め、兎に角走った。誰ともすれ違わなかったのは不幸中の幸いといったところか。

 しかし、一瞬だが走り去る舞花の姿を捉えた者がいた。佐々木だ。

 佐々木はほんの一瞬、舞花の横顔を見ただけで気付いてしまった。……泣いていると。

 それは、舞花にとっても、佐々木にとっても、一斗にとっても、不幸であったのかもしれない。

今回、やっと話が進んできたという感じですね。これからも進んだり日常編やったり止まったりと繰り返していくと思います。

長々してしまうかもしれませんがよろしくお願いします。


2012年 11月25日 春風 優華

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