第一章-あたしと彼女-(3)
「ネオ……あたし」
肩を揺らして叫ぶネオが前にいる。
「まったく、どうしたのよ、みっちぃ。らしくないよ、本当に。昨日も朝からボーッとしていて、心あらずだったし……どうかしたの? 何か嫌なことでもあったの?」
ネオが心配そうな顔をして訊ねてくる。
――ほんと、どうかしてるわ。
「ねぇ、ネオ。あたしの顔を見て……どう見える……?」
低く、怯えたような声音を出す。彼女の前で、こんな声を出すのは確か、二度目のはずだ。
「え? どうって言われても……」
「お願い、見て」
未知流の懇願を受け入れ、ネオは未知流の顔を覗き込む。
「なんか、恐怖とか、悲しみ、淋しさがごちゃごちゃになった顔に……なってるよ。一体なにがあったの? こんなことにしたのは誰なの!?」
ネオも不安そうな表情でこちらを見つめる。
自分の気持ちが負の感情でいっぱいになっていることを見抜けるとは、さすがネオだ。実緒のときといい、観察力は、人並み以上だ。
他人と同じ気持ちになろうとするからこそ、彼女は友達が多いのだと思う。実緒がああなったのも、ネオの影響を受けているに違いない。
ネオほど『ヒーロー』という言葉がふさわしい人物はきっといない。
「みっちぃ、わたしも力になりたいよ! 前にみっちぃがわたしに頼ることを教えてくれたように、頼られる存在になりたいよ!」
両肩を掴むその手が、未知流の悲壮感を和らいでくれる。絆でつながるもの同士、お互いの心が一つになっているように。
だから、嘘はつけない。強がっていても。
「ありがとう。ちょっと、自分のへなちょこぶりに、失望していただけだよ」
微笑顔をなんとか作って、心配そうなネオの頭をそっと撫でる。
「どうしたの?」
「いや、明日から三年生になるだろ?」
「まあ、そうだね。春休みだけど、四月一日から一応そうなるよね」
ネオはコクン、と頷く。
「そう。あたしたちの最後の年であり、別れの年でもあるんだ」
未知流はネオに顔を見せないように後ろを振り向き、3歩ほど前へ進む。
これがせめてもの強がりだ。
あたしのキャラは世話焼きで、泣かないキャラだから。それが誰もが知っている『長郷未知流』だ。
だから、もし零れたときの保険として、こうあるべきだ。
ネオは、プレハブ小屋の弓道場の方を見つめている未知流を、その場で佇んだまま見つめた。
「だから、今のうちに話しておきたいんだ……あたしの、気持ちを」
「え?」
ネオは目を丸くする。
未知流はこの先――卒業したあとのことを考えているのだろうか。
そんなわけないじゃない!
「ちょ、ちょっと待って! わたしは、離れていたって、みっちぃのことは忘れないよ!?」
張りのある声で伝えるネオ。
「ネオならそう答えると思ったよ」
未知流はフッと微笑む。
やっぱりネオは優しい。
「だけど、不安なんだ。みんな、前へと向かっている。『夢』のために。あたしはネオたちの背中をずっと見ているだけだ。『夢』も『目標』も何もなく、ただポツンと、鳥かごの中で飛べない鳥だ」
「……」
ネオはどう答えていいのか、言葉が見つからない。
「でも、あたしにも守りたいものがある」
居場所。それが守りたいもの。
あっ、そうか……そうだよ。
守りたいから、音楽をやっている。
このキラキラした場所を。
こんな答えで、音楽をやってもいいのかな。
これからも。
後ろにいる彼女のように。
だからこそ、不安。
ネオ以上に素直ではなく、強がって、強がって、強がってばっかりで、そうしないと世界が壊れそうで、するどい刃を突きつれられたら、すぐに破壊される、そんな自分を。
『守りたいものがある』そんな言葉が都合よく、声として吐き出せたものだ。
それが、ネオの魔法だ。
やっぱり、彼女は自分にとっての『ヒーロー』だ。
「みっちぃ、守りたいものって何?」
ネオが訊ねる。
「ここ、だよ」
「ここ?」
気分が少し晴れた。不安に駆られていた声音が、少しだけ元に戻った気がする。
「うん。あんたが『あの頃』からあたしを救ってくれて、そして今日までずっとこの場所で、自分の好きなことができて……一年のときに会ってなかったらきっと、友達もいないまま、小、中、高、心から学校を楽しめないまま、十代を過ごしていたと思う。きっと」
彼女と会えたのは奇跡だったと、未知流は思う。
『あの頃』の自分に、「もう苦しむ必要なんてないのよ」と、神様から与えられたのかもしれない。その御使いがネオだ。今の実緒のように、自分も影響を受けていたのだ。ネオ菌に。悪玉ではない、善玉菌に。
だから、言いたい。
自分の気持ちを。今までネオがそうだったように。
こんな自分でもいいのかという、自信をつけるために。
「……あたしがこんなことを言うのは、今しかないと思うんだ。後から話したら、間に合わないと思うから。ネオのことをどう思っているのか、知ってほしい。『原点』から」
「原点?」
「ああ」
未知流は、空を見上げた。
夕闇空が今の自分の心境を映しているように見えた。ごちゃごちゃに入ったおもちゃ箱のように、中身は希望と不安のカケラがバラバラだ。
それをきっちり修復して、一つにしたい。『青春』という言葉に変えて。
二年前、いやそれ以前の『あの頃』とは違うのだ。
あのときの心はこんな空ではなく、星も太陽も何もない、悪夢で見た『無』であったときとは。
だから――。
「――あたしの『青春』はここから始まったんだ。あんたと初めて会ったあの日から」
未知流はゆっくりと目を閉じた。春と冬が混じった、生ぬるい風を感じながら。
※※※
「未知流――っ! 起きなさ――い!」
ドアの奥から母さんの声が聞こえてくる。
朝か。
とうとうこの日がやってきてしまった。
また、あの日々を過ごすのか。小、中、計九年間と過ごした、嫌われてばかりの日々が。
ベッドから重たい身体を起こして、奥にある薄い黄色のカーテンを開ける。
ピカーッ!!
日差しが眩しくてたまらない。自分の心とは正反対。ほんとにムカつく。嫌になる。毎日、台風が来て休校になればいいのに。まあ、しょうがない。世の中はそういう風にできている。嫌なことばかりで溢れているのだ。割り切るしかない。
そう、この日だって。
「ふぅ。とうとう、これを着るときがきた、か。いかにも『お嬢様』って思われそう。そうじゃないのに……」
部屋の中心にある小さなローテーブルをまたいで、扉の右隣にあるクローゼットから真新しい制服――紺のブレザー、タータンチェックの灰色のスカート、長袖カッターシャツ、そして右側(またはベッドの左側)にあるタンスから校章のついた靴下を取り出し、着替える。
まったく、上流社会で生きる人間じゃないのに。ただ親が、強いだけだっていうのに(まあ、自分もキッチリ鍛えられてはいるが)。関係のないあたしにまで突きつけんなっつーの!
あたしはブツブツとこの世の誰かに向けた文句を呟きながら、居心地の悪い服を着て、右隅にある勉強机に、あらかじめ筆記用具などを入れた白抜きで校章が描かれている真っ黒い鞄を持つ。
こういうのだけはきっちりしなくては。『お嬢様』と世間では思われている限り。ああ、いいさ。そういうキャラを貫き通してやるさ! キッチリと上品なキャラを演じてやるさ!
勢いよく鞄を取り、ドス、ドス、と重苦しい音を立てながら階段を下りて、母さんのいる台所へとあたしは向かった。
あぁ、また始まる。
憂鬱な日々が。
――そんな二〇一一年四月八日。
岩国総合高校の入学式。
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