第一章-あたしと彼女-(2)
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二〇一三年三月三一日。
左から山の後ろに沈んでいく夕日に照らされながら、漆黒の刺々しいストレートパーマの長郷未知流は、素手に活動を終えて鍵を閉めた活動拠点――演劇部も使っているプレハブ小屋を見つめていた。
岩国総合高校指定の紺色ブレザーと、膝丈まで上げたグレーのタータンチェックの学生スカート。襟元には垂れ下げた緑のリボン。学校の校章の入った靴下に革靴。右肩には愛用のエレキギターが入ったギターケースを、背負い、左手には二つの手提げ鞄を持っている。どことなく、その姿に哀愁を感じる。
もうすぐ一年半が経過するのか、と思えば、今差し込んでくる光の速さみたいに月日が今日まで巡って来たものだとつくづく感じる。
彼女と二人で……いや、色々な人の協力で創部した軽音楽同好会。そして、今年の四月から一年生二人を加えて結成したバンド――moment’s。
これが生まれなかったらきっと、全てがうまくいかなかったと思う。ずっと昼休みのリサイタルばかりやっていたに違いない。昼休みの活動以外にも、色々なクラブハウスに出向いて、実力を伸ばし、コピーだけでなく、自分たちのオリジナル曲を精力的に作ることもなかったであろう。
そして、部の目標であった、十月に行われた総合祭のステージも、音楽の力で人の心を助けるという、大それたことすらも。
全てがうまくいきすぎている感じがして、未知流にとっては夢のような日々であった。まあ、頬を引っ張れば現実だと分かるのだが、そう思えるのだ。
『あの頃』を思い返すと。ほんとに。
『あっという間に一年間が過ぎたという感覚』を味わっていなかったのだから。『充実』という言葉が表現できないほど、体内時計の秒針は鈍っていた。それが急に早くなった。光のように。
「あと一年……か」
明日で一応、学校年度上、三年生に進級。最後の高校生活の始まりだ。
ずいぶん遠くまで行ったような気がする。日本で言えば、北海道に上陸したぐらいの距離。もちろん、歩きで。
こんなふうに、学校生活が淋しく感じるのも体感したことがなかった。これが『青春』とでも言うのだろうか。
すると強い風が急に西から東へと吹き込んでくる。春の華やかな香りを運び、黒髪を揺らし、右肩に背負っているギターケースを揺らし、その重みがバランスを崩しそうになる。なんとか踏ん張る。
風が未知流の問いかけに答えているみたいだった。「そうだよ、ときには嵐のような体験もあるんだよ」と。
だとすれば。
(いつまでも皆とは、いることができないのだ)
昨日、夢に出てきた骸骨の言葉を思い出す。
そう、必ずやってくる。誰にでも訪れることだ。
光速で訪れるその日を境に『前の自分』へと戻っていくのだろうか。
それだけは嫌だ。
絶対に。
彼女との出会いは、必然であり、かけがえのないものだから。
だけど、ここから離れていくと……。
失いたくない。
どうすればいいんだよ……。
ったく、二日間このことばっかりじゃないか!
昨日から堂々巡りにしている思考を忘れようと、必死に頭の奥底へ封じ込もうと、顔を下げてかたく目を閉じる。
そんな彼女の後ろから、大声で、
「みっちぃ――っ!」
「ひゃっ!!」
自分らしからぬ裏声を上げ、背中に電撃が走る。
振り返ると、立て看板を持って大股開きになっている『moment’s』のリーダー兼部長の麻倉音緒が首を傾げていた。ちなみに『みっちぃ』とは未知流の愛称である。
「何、驚いてるの?」
「な、なんでもない! 黄昏てて、ボーっとしていただけだから!」
「へぇー、しっかり者のみっちぃが珍しいわね。昨日もそんな感じだったけど……おっとっとっと!」
「ネオ!」
ガシッ、と倒れてくる看板を右手で支える。ギターケースの重みが、右肩にのしかかる。
「あ、ありがとう」
「まったく……こんな縦長い看板を一人で持とうとするなんて、無茶しすぎだっつーの!」
「だって、みっちぃを驚かせたかったんだもーん!」
無茶してまで、やることなのか? まあ、こいつの無茶には何十回も付き合っているから、不思議と普通に見えるので問題はないが。ちょっとかわいこぶっているところが妙にイラッとするけど。
部活終わりにネオの携帯から、『軽音楽同好会の立て看板が出来たよ!』と美術部部長になった竹下実緒からのメールが届き、彼女は未知流に自分の手提げ鞄を持たせて、一目散に向かったのだ。
美術室は三階なのに、よくここまで持って来たなと未知流は思う。カニ歩きで、階段を攻略するのは、なかなか大変だと思う。その点についてはすごい。
未知流は手提げ鞄とギターケースを地面に置いて、
「手伝うよ。どこに置けばいい?」
未知流は立て看板の右端を持つ。
「えっとね、入口付近がいいかな」
「分かった。じゃあ、せーの!」
ネオと共に立て看板を持ち上げる。
彼女が指定した場所へと未知流が誘導し、石壇の近くに設置する。
「よし! これで準備完了っと!」
ネオは立て看板の目の前で、うんうん、と深く頷く。よっぽど嬉しかったのだろう。
未知流もネオの隣に立ち、看板を見つめる。
「ああ、これ、前に見せてもらった下書きをもとに作ったの?」
「うん!」
確かあれは、文化祭が終わった二週間後くらいだったか。ちょうど実緒が学校に復帰して一週間が経っていたはず。ネオが部活前に、自慢げにA4用紙に描かれていたあたしたちの絵――ステージ上でマイクを両手で持って力強く歌っているネオ。彼女の右上にエレキギターのヘッドを真上にして豪快に弾いている自分。その左でクールに器用な指使いでエレキベースを弾いている巧。そして、自分と巧の間に入るように、上には白いバンダナを巻いて、ドラムの中央でスティックを持って決めポーズしている絢都――それが、立て看板で構築されたのだ。もちろんカラー。やはり、下書きとは違い、自分たちの個性が輝いている。
ネオの右上にいる自分の絵を見て、ライブでやりたいことが凝縮しているなぁと思った。自分のソロを作ってエレキギターをかき鳴らしたいものだ。まさにこの絵は理想像。
「明日、あの二人もびっくりすると思うわ」
「ああ、そうだな。特にナル男は大興奮だろうよ。『うわっ! これがオレ!? めっちゃカッコイイじゃないッスか――――っ!! 実緒さんはオレのことをよく分かってらっしゃる!!』ってな」
未知流は後輩(ドラム担当)のナル男こと、野上絢都の真似をしてみる。親指と人差し指でVの字を作って、顎に当てて、彼のナルシストっぽさを表現してみる。
「あははは、言いそう! で、タックンはクールぶって『い、いい、ですね……』と自分のイラストに顔を赤くして、でも満更でもなさそうに見つめて」
そうそう、そんな反応、絶対する! とネオが披露したもう一人の後輩、タックン(未知流はター坊)こと、伊藤巧のものまねに、未知流はたたえる。
総合祭以降も、絢都は相変わらずのナルシストキャラとアニソン好きを披露している。つい最近あったクラブハウスでのライブで、その健在ぶりを見せつけた。おかげで女性ファンは未だにゼロ。
逆に巧は、『後ろ向きな思考を、音楽を通じて変わりたい』という発言から、ネオと未知流がバイトで貯めて買った、イケメン顔を無駄にしない、ビジュアル系バンドが着てそうな服を身にまとい、いつもの暗い雰囲気から豹変し、高いテンションでベースパフォーマンスしたおかげで、着実にファンが増えており、学校ではラブレターが下駄箱の中に入っていたりしていた。とはいえそのときはスイッチOFF状態なので、本人は困惑気味。さらには、女性に囲まれた時のナル男の表情を注意しないといけないという、前途多難な毎日を送っている。
そして、彼女は、
「あとは、彼氏にも見せなくてもいいの?」
未知流の質問に、ネオは慄く。
「ど、どういうことよ……」
「あれ? あいつとそういう関係じゃなかったの? 君たち仲良く帰っているじゃないのよ~」
顎に人差し指を当てて、首を傾げて見せる。
ネオと同じクラスで、小学校から一緒だった、ソフトテニス男子部長の小倉優太とたまに会うことがある。十年以上のつき合いだから、ネオとは変に気構えることもなく言いあえる仲で、未知流は羨ましかった。
「ち、違うわよ!! あんなヤツなんか!! 気の合う男友達だから、一緒に帰ってあげているの!」
ネオは顔を真っ赤にして全否定。
その全否定ぶりが、可愛くも見える。
「え? でも、十一月に運動公園であった、ソフトテニスの秋季大会、見に行ったんだよね? そこから進展して、恋人同士になったから一緒に帰るようになったと思ったんだけど」
そう。十一月中旬前は、駐輪場にある自転車に乗って、交差点にあるJR藤生駅を繋ぐ歩道橋で別れるのが鉄則だった。しかし、その後は優太とたまに会ったら一緒に帰り、電車で帰る未知流を「みっちぃ~バイバイ!」とそのまま素通りするのだ。
だから、恋人同士だと思ったのだが、
「違うの! あれはあいつが、『おまえが見てくれないと、力をもらえない』と言うから、しょうがなく、しょーがなーく、見に行っただけなのよ! 結果は個人ベスト8で、よく頑張ったし、カッコよかったわよ! 特にスマッシュを決めているところが! だけどね、あいつが中国大会に行くまで、わたしは認めないもん! それに、たまに帰るときがあるけど、あれは一緒に帰ってあげているだけなんだからぁ!」
風船のように口を膨らませて、ネオは「ム~っ!」と未知流を見つめる。その姿はまるで子供だ。
「で、でも、ベスト8って、十分いい結果じゃない。そ・れ・に、あんたのその口ぶり、本当は付き合いたいんじゃないの~? なんと言っても、中学のとき、好きだったんじゃあ……」
「認めないものは、認めないの! それに、わたしは、歌手になるという夢に向かって生きているから、そんな暇はないの! 忙しいの! でしょ!?」
自分の顔へ迫ってくるネオに、未知流は思わず苦笑い。
まったく、素直じゃないんだから。まあ、自分も友達にイジられたら、今のネオのように恐らく全力で否定し、しまいには、中学まで磨いていた空手で、黙らせるに違いない。本当に素直になるのは難しい。
なので、これ以上問い詰めるのも野暮だ。何を言っても反論してしまうだろう。
というわけで、ツンツンネオを元に戻すために、
「はいはい、ところでさ、」
未知流はガラッと話題を変えてみる。真面目な話題に。
「何!?」
苛立ち気味にネオは訊きかえす。
「実緒は、どうだったの?」
顔を近づけるネオから視線を空に変えて、訊ねてみる。
あれから、どうなったのか気になるから。昼休みはよく会っているけど、部活内での彼女はあまり知らないので。
「……ああ、うん、元気にやっているよ」
ネオはノーマルモードに戻り、未知流から一歩分、距離を離す。
「まあ、これを作るくらいならそうだけど……、」
未知流は一瞬、左にある立て看板を見やる。
でも、あたしが訊きたいのはそうではなく、
「アイツとはどうなのよ。金髪から黒髪に染め直し、暴れることはなくなったけど……」
実緒の天敵であった、武藤についてだ。総合祭が終わって一か月後、生活指導の先生にきっちり指導を受けてから、復帰したのだが。
「うん、仲良くやっているみたいだよ。みおっちも言いたいことは、はっきり言えるように努力しているみたいだし、他の部員たちとも仲良くやって、きちんと部をまとめているからね」
「そうか。……なら、良かったよ。実緒が武藤と『友達になる!』って言ったときは驚いたもんだよ。あんな凶暴な顔をしたヤツだったから。あそこまで矯正させるなんて、たいしたものだよ」
「うん。思いもしなかったわ。信じられる? この絵ってね、実は武藤と協力して作ったらしいのよ」
「マ、マジ!?」
未知流は思わず身を反らす。
「マジよマジ! 下書きはできても、配色に悩んでいて……そのときに武藤と相談して、カラーリングを決めたんだって。実緒のくせに、ね」
「そ、そうなんだ」
すごい、と未知流は思う。そして、強いと。傷つけられた相手と話すことは、勇気と度胸が必要だから。
こんなこと、あたしには絶対にできない。
実緒はまさに慈愛に満ちた天使のようだ。それはもう、聖母マリア様と同等のレベル。
あのおとなしい清楚な彼女がこんなに変わるなんて……人は何かのきっかけで、変っていくのだろうなと思う。それを自分たちが手伝ったことに、誇らしくも思った。
それは、自慢げに話すネオも同じ気持ちのはずだ。
「みんな、それぞれ『夢』に向かって、少しずつ成長している。わたしたちも負けないように頑張らないと! ね、みっちぃ! 前に突き進むもう! 今度はわたしたちの番だよ!」
「う、うん……」
『前へと突き進む』その言葉に未知流は、ネオにばれないように表情を曇らせた。
わたしたちではないんだ。自分だけ、立ち止まったままなのだ。
それは居場所を守りたくてしょうがないから。常に壊れないように、必死だったから。だから、軽音楽同好会での活動で仕切るようになった。
だけどみんな、未来へと前進している。みんなが離れていく。そのとき、わたしはどうすればいい。せっかく手に入れた『自分』が壊れそうでたまらないのだ。特に、目の前にいる彼女がいなくなったら。
そもそも未知流には、『夢』というものが見つかってはいない。テレビでギターを鳴らしているアーティストに魅了されて、やるようになっただけだ。それも趣味レベルで。だから、その延長線上で、今ここにいるだけなのだ。
そう、ここにいる『だけ』。
『夢』とか、きちんとした目的意識もなく、ただ、楽しみたいだけ。本当なら、それでいいのだ。大抵の学生は、『この部活は面白そうだな』と興味本位で部活に入る。でも、自分たちが創った部活は、ネオの『夢』のために、前に進むきっかけとなるべく創ったものなのだ。自分はその協力者にすぎない。ネオがやりたいことをサポートした『だけ』だ。
大学もネオたちとは違い、『ただ』決めただけ。興味があった広島県の大学に決めた『だけ』。ネオは音楽大学に入ることを決めているし、実緒も美大に行くことを固めている。
つまり、『夢』を追いかける者たちを見過ぎたのだ。だからこそ、不安、焦り、恐怖に陥ってしまうのだ。ネオも実緒も、そして、同じクラスの演劇部カップルも、自分の視界に入る者は、自分のいないところで前に行こうと努力している。
自分以外は。
鳥かごの中で、自分だけが取り残されている。
昨日見た悪夢は、心の距離も表現していたのだと、未知流は実感した。そしてそれは、やがて訪れる。きっと、卒業をした先に。少しずつ、離れていくのだろう。友達と自分との違いに、惨めになりながら。
それは、正に必然。
だったら。
だったら、せめて……。
『あの頃』――一人ぼっちのときにならないように、彼女にあたしのことを繋ぎ留めなければ。永遠に、覚えていてほしいから。
「……ちぃ……」
うん。たまには、本心を伝えるのは悪くはない、よね。自分の事を、知っててほしい。
「みっちぃ!」
「!」
未知流は、ハッと急に顔をあげる。