賠償の剣(二)
これで完結です。
日中からどうしても外せないバイトがあり、遅れての合流になったことを秋田はずっと悔やんでいたが、群生する雑木の合間から懐かしい屋根が見え始めると、そんなことは忘れてしまったかのように徐々に足早になっていった。
暗がりの所為なのか、3年振りに訪れた道場は過ぎた歳月の割にそれほど老朽化は見られなかった。高鳴っていく鼓動をなだめ引き戸に手を掛けると、汗水を流しながら互いを高めった門下生たちの顔が順々に甦った。
来られるものはなるべく呼ぶと沢村は言っていたが、4つ下の年下組は、現在中学3年生のはずだから、今の時期はちょうど受験勉強真っ盛りだろう。全員揃っていることはあまり期待せずにいよう。
それでも、これから旧友に逢えることに秋田は頬をほころばせ、引き戸の取っ手に触れる。戸は、ガララと騒がしい音を立てつつも滑らかに開いた。
「こんばんはー」
稽古場に向かって朗らかな声を張り上げる。返事はない。
板張りの廊下の先にある稽古場は消灯していた。コンビニにでも買い出しにいったのか、はたまた、もう就寝してしまったのか、と想像をめぐらせながら腕時計に目をやる。
時刻は23時前を指していた。
背後から冷えた夜風が吹き出す。取り敢えずなかに入っておこう。軽い身震いをして戸を閉め、靴を脱いで上り框に足を乗せた瞬間――。
首筋に冷水を垂らされたかのような悪寒が、秋田の背筋を駆け上がった。
勿論、うなじに手をやってもそこに水気はない。また夜気に中てられたのだろうか? 秋田は、この心胆を寒からしめるものの正体を探るようにして、薄暗い廊下を進んでいく。
弛む床板を慎重に前進し、横の壁にそっと手を添える。土壁独特のザラザラとした表面が余計に神経を逆なで深憂を助長させた。一歩を踏み出すごとに心音が耳にうるさく鳴り、懐かしい匂いに浸ることもなく稽古場へと急がせた。
稽古場に踏み入り、その場に広がる惨澹たる情景を見て、彼は感じていた不穏の正体を知った。
夜陰に紛れた稽古場は、台風が過ぎ去った後のような騒乱たる有様であった。
敷かれた夜具はぐしゃぐしゃに乱れ、所々には赤黒い斑点模様が細かく散っている。かすかに漂っている鉄の臭いが、茫然とする秋田の鼻腔に忍び入る。
その臭いに眉を顰め、目を細め、鼻を眇め、唇を歪めた。顔の受容器を中心に寄せるようにして苦悶の顔になり、一歩、二歩、と後ずさる。
しかし、どれほど距離を置こうとも、目下の状況は恒久的にそこに在り続け、ここで一体何が起きたのかを秋田に認識させようとした。
脳が状況を知覚する寸前、とっさに拒んだ秋田は床に顔を伏せる。が、ぐしゃりと丸められたティッシュのように乱れた布団の下から、ひょろひょろと四肢がはみ出しているのを目端で捉え、脳みそは、その下にいるのであろう人物を瞬時に推理してしまう。
耳の奥に膜が張ったかのように、秋田は音を失った。
恐怖のあまりこの場から逃走した思いに駆られた秋田の脳裏に、晴れやかな笑顔で道場復興の話をする沢村が甦り、逃げ腰になりかけていた体を留めた。
打ち鳴らす心鳴りに比べ、呼吸は穏やかだった。腰を屈め、布団の下にあるものを想像しながら端をそっと持ち上げる。
そこには、正視に堪えない沢村の姿があった。
骨が抜かれたかのように踊る四肢。ひん曲がった頸部の先に接合する腫れあがった顔面。口の端からこぼれた血が、蛇のように這い出た舌を伝って敷き布団を赤黒く染めていた。
摘み上げていた布団をそっと戻して、暗い室内にゆっくり視線を回らせる。
月明かりのない道場は、顔の前に黒いレースを翳しているかのように視界が悪かったが、うずくまるようにして身を横たえた大男がすぐ傍にいることに秋田は気付いた。
背を丸めていたため布団と勘違いしてしまったのかもしれない。彼は誰だろう、と恐る恐る顔を寄せた。
――この人は、沢村と昼食をともにしたときにいた、熊男だ……
吸い上げた息が唇で、ひゅっ、と音を立て、温度のないまま舌を滑走し喉元を過ぎていく。
――一体、何が……
その疑問に答えてくれる人物はおらず、秋田は破裂しそうなほど混乱した頭部を抱えてうずくまる。思考を回すため強引に息を吸うのだが、口に入る空気は残酷なまでに血生臭く、冷酷なほどに冷え切っていた。
停滞し、稼働を止めようとする脳と同じく、跪いた彼を包む空間も時を止めたかのような静けさに塗れていた。
「 ゃ 、ご 。」
空漠とした静寂のなかに紛れた囁きを耳が拾い、秋田はハッとしてその方向へと顔を向ける。
道場の最奥に、男が一人、立っていた。
こちらに背を向けているので、どのような表情をしているのか分からない。項垂れた男の手には、木刀がしっかりと握られており、この惨状の元凶は彼であると言葉なくとも伝えていた。
男の背面を見据えながら、秋田は硬直していた。
自分はこれからどうすればいいのか。ただそれだけを必死になって考えようとするのだが、解答の糸口すら掴めない難問に面しているかのように、頭脳は一向に動こうとしてくれなかった。
そのまま幾分かの時が経った。
夜空を間断なく覆っていた雲海から月が抜けたのだろう、高窓から淡い月明かりが落ち、暗闇の館内をさっと掬い上げるように照らす。
その月光に呼び覚まされたかのように、立ちすくんだ男の周囲が一斉に輝き出した。
それはまるで、月からこぼれた砂粒が地表へと降り立った、まさにその瞬間を目にしたかのようで、秋田は自身の置かれている現状も忘れ、その幻想的な光景にしばし見惚れた。
やがて、男の周囲で輝いているものが何であるのか、好奇心に押された秋田は、覚束ない足取りで男のもとへと接近し、今もなお輝きを放っているその一つを拾い上げてみた。
硬質な手触りを指に感じながら顔へ近づけると、そこに青白い自分の顔が映った。
――これは……鏡?
他所に巻き散らかっている破片も手に取って確認する。そのどれもが、粉々に砕かれた鏡であった。
これらは月の砂粒ではなく、月の光を反射した鏡の破片が散らばっているのだ。
そのことに気付いた秋田は、昔、沢村が起こした事件の一つを思い出していた。
構えや素振りを確認するため、道場奥の壁に取り付けられていた三畳ほどの大鏡。
それを悪ふざけして沢村が割ってしまったこと。
用事か何かでいなかった師範が帰って来る。
沢村は師範の孫にも責任を擦り付けた。
あの後、5日ほどして鏡は新しいものに付け替えられた。
なら、何故、今この場にある鏡は割れているのか。
立ちすくんでいるこの男が、錯乱して叩き割ったのだろうか?
秋田は生唾を飲み、鏡があった壁に向かっている男の顔を遠巻きにのぞき込んだ。
「ひっ――」
と秋田の口から洩れたのは悲鳴ではなかった。
頭を垂れた男の顔を確認し、彼が誰なのか知って出た言葉だった。
彼は、師範の孫で秋田と同い年であった――
「――日吉くん」
日吉は自らの名を呼ばれても反応を呈さなかった。
大鏡があった壁に向い、まるで、そこにいる誰かに語りかけているかのように病的な囁きを繰り返していた。
秋田は瞠目し、スズメのような彼の声を拾おうと耳を澄ませる。
「 、 。」
鈴虫も鳴かない静かな夜なのに、彼の嘆きはとどかなかい。
償いの叫びは、もう誰にもとどかない。
最後の空白の科白も一応推理(あくまで推測の域はでませんが)できるようになっているので、彼が最後に何と言ったのか推理してみるのもいいかもしれません。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。