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朋輩の剣  作者: はじ
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賠償の剣(一)



 秋田は小走りで人気のない夜道を上がっていた。

 雑木林に沿った道には寂れた水銀灯がぽつぽつとあるだけで、今にも木々の合間から面妖な何かが飛び出してくるのではないかという安っぽい想像をして体を強張らせる。そうすることでますます足の動きは悪くなり、彼のなかで湧き上がった夜への怖れが、じわりじわりとその勢力を広げていく。


 心根に定着しつつある怖れを少しでも振り払おうと思ったのか、彼は夜空を見上げる。

 灰色の雲海が厚みを持って夜空の腹を隙間なく埋め尽くしており、その重みに耐え兼ねた空が今にも地上へと落ちて来そうで、彼は進めていた足を思わず止めた。

 笹の葉だろうか、夜風にざわめいてカサカサと葉を擦り合わせる音を耳にしながら、さらに頭を上げて視点を天頂へと向ける。


 求めていたものは即座に見つかった。

 灰色の雲のなかで一際目を引く卵色の一帯。

 それを発見し、彼は、ほっと息を吐く。

 どんなに暗い夜でも空の果てには必ず月があり、輝いている。夜の瘴気に中てられた彼にとって、それは心強い事実だった。

 月を味方に得た彼は、止めていた足を再び動かして目的地を目指す。

 向かっているのは、かつて修練を重ねた剣道場。

 思い出の場を想い、その道場の師範が亡くなってから、もう3年の月日が経っていることに時の流れというものを感じる。


 3年前。

 例年よりも早期の開花であった桜は、早くもその花弁をはらはらと散らせていた。

 秋田は降り積もる薄桃の吹雪を窓辺で眺めながら、一週間後にやってくる高校の入学式のことを期待と不安を織り交ぜて待っていた。

 師範の悲報を聞いたのは、そんな春先の日のことだった。

 これから先もずっと存在していると思っていたものが、唐突に奪われてしまった喪失感。やる瀬の無い無気力感が彼を襲った。それでも桜は構うことなく散り続けていた。

 不運にも葬儀と入学式の日にちが重なってしまい、彼は苦渋しながらも入学式を選択した。後日、師範の眠る墓前で手を合わせた後も、胸の曇りは一向に晴れなかった。

 半分以上も花を散らせた桜がより虚脱を感じさせ、彼は高校入学と同時に剣道から離れた。違うことに夢中になれば、いつしか気も晴れるだろうという思いもあった。


 それから歳月は瞬くように過ぎていった。わだかまっていた虚しさは意外にもあっさりと消えたが、その代わりに新たな感情が芽生えた。

 それは、後悔だった。


 道路脇の雑木林が風に吹かれ、さわさわと鳴る。その葉音を契機にして、日々の経過とともに薄れていた道場での記憶が、次々と脳裏に奔った。

 汗臭い道着の強烈な臭い。

 ささくれ立った竹刀の感触。

 夏は釜茹のようで、冬は極寒だった道場。

 森厳な師範。

 刻苦の日々をともにした仲間たち。

 練習は厳しかったがその分だけの充実感はあった。

 それに比べて今はどうだろう。辛かったが充足のあった日々と、入学して半年経った大学生活を見比べる。

 大学入学したのはいいものの、いざ講義を受けてみるとあまりにも自分の興味をそそらないものばかりであった。専攻を間違えたのかもしれないと後悔を滲ませながら、両親に学費を払ってもらっている手前、毎日惰性で通っている。そんな日々は決して充実とは程遠いもののように思えて仕方がなかった。


 だから、大学でかつての仲間と出会ったとき、秋田は喜びを隠せなかった。

 教室移動の際、ばったりと出くわした見覚えのある顔。秋田はすぐにそれが沢村であると気付いた。沢村も秋田との遭遇に驚いた後、苦笑いを浮かべ、その後沢村の友人を交えた3人で昼食をともにする運びとなった。

 通っていた中学校は違ったものの、同い年ということもあり沢村とは多少なりとも懇意な関係であった。しかし、秋田は彼のことをあまり好いてはいなかった。

 乱暴な口調。粗野な態度。その癖、腕は一番立つ。

 同じ剣の道を進むものとしては、どうしても納得がいかないことの方が多かった。

 記憶には濁りのように残留していた彼であったが、あの充実の日々のお陰でその印象も大分美化されていたということもあったのだろう。秋田は、かつての盟友のように沢村と接することができた。

 懐かしさにほだされたのか、沢村は柔らかい表情で近況を尋ねる。


「どうよ、最近?」

「まぁ、ぼちぼちかな。沢村は?」


 沢村は「けっ」と唾を吐く真似をする。隣接する席には昼食を取っている人がいるというのに、場を弁えない身勝手さは健在のようであった。


「糞つまんねぇーよ。こんな大学ぶっ潰れろって感じだ」

「潰れたら僕たちフリーターになっちゃうよ」

「ははッ! 俺、バイトしてねぇからニートになっちまう!」

「沢村、バイトしてないんだ。学費は?」


 沢村は大盛りのザルそばをズズズと啜りながら「親」と口にした。


「へー、なら僕と一緒だ。親に払ってもらってると大変でしょ、いろいろと」

「は? なんで?」


 口一杯に含んだそばを飲み下して、沢村は目をしばたく。


「いや、負い目というかなんというか……」


 秋田は言葉を濁しながら、先ほどから一言も発さずにカツ丼を貪っている沢村の友人に目をやる。キツネ色の衣を纏ったカツを豪快にかき込むその姿は、冬眠前に腹を満たしている熊のようであった。


「そう言えば沢村。さっきバイトしてないって言ってたけど、遊ぶお金とかはどうしてるのさ?」


 熊男から沢村へと視点を戻し、秋田は言った。


「親の脛をガッシガッシ齧ってるぜ!」

「自慢げに言う事じゃないような」


 ここまで開き直った身勝手さだと却って清々しいなと苦笑する秋田に、沢村はふんぞり返って言い放つ。


「遠慮してたらなんにもできなくなるぜ?」

「そんな、『遠慮しなきゃ、空でも飛べるぜ!』みたいに言われても」

「人は鳥に遠慮しなくなったから、飛行機で空を飛べるようになったんだ!」

「いやいやいや。人が空を飛べるようになったのはライト兄弟の功績だから。決して鳥類に遠慮していた訳ではないから」


 まぁ、たしかに現代の人間は鳥に対して遠慮してないと思うけど、と付け足す。


「そうなんだよ。誰かに遠慮してたら、叶えたいことだって叶わねぇんだよ。空だって飛べなくなる――って、すまん秋田!」


 食堂の時計を見上げ、沢村は急に慌てだす。


「これからサークルの打ち合わせがあんの忘れてた!」

「サークル? 何の?」

「剣道だよ」

「え? 剣道?」


 沢村が大学生になった今も剣道を続けているということが秋田を驚かせた。当時の様子から考えても、大学に入ってまで熱心に続けるような人物にはとても見えなかったからだ。


「そうだよ。悪いか」

「いやさ、いまも剣道続けてるんだなーって」


 驚きと同時に、剣道を止めてしまった秋田としては、若干の心苦しさを感じざるを得なかったのもまた事実であった。それをそのまま口にした秋田に、沢村は屈託なく笑って言った。


「後悔しているくらいなら、またやりゃいいじゃん」


 そういう彼もまた後悔をしていると言っていた。だから剣の道を歩み続けていると。

 師範がこの世を去り、沢村は心から嘆いたらしい。やり場のない思いをどうにか発散しようとしたが、それは空回り彼を非行に走らせた。

 喫煙、飲酒、無免許運転、窃盗、暴力。考え得るすべての悪行をしてやろうと思った、らしい。

 しかし、それだけならここまで心痛に襲われることもなかっただろう、とも言った。

 今でも沢村の心に刻み込まれている後悔。それは、師範の形見ともいえる道場を、好き勝手に荒らしてしまったことであった。

 違う高校に通っていた秋田はその事実を今知り、師範の道場を好き放題にした彼に対して俄かに怒りが湧き上がったが、その過去を痛切な表情で口にする彼を見ていたら憤りも静まっていった。

 沢村を救ってくれたのは、師範の最期の言葉であったらしい。


「俺は、先生の願いを叶えるために今でも剣道続けてんだよ」


 それがどのような言辞であったのかまでは、何故か恥ずかしがって教えてくれなかったが、沢村はやや伏し目がちになってある提案をした。


「またさ、あのメンバーで剣道しようぜ」


 口にしたことで火勢が付いたのか、彼は力強く続けた。


「先生はもういなけど、俺たちが先生の意思を継いで、あの道場を復興させよう」


 言い切った彼の顔には、長年の束縛から解放されたかのような清々しさが漂っていてとても印象的だった。師範の思いを受け継ぎ道場を再興させることが、最大の恩返しになるというのが彼なりの結論だったのだろう。やや早計な気もしたが、それがまた沢村らしいと秋田は快諾した。

 その後も話は具体的に進んでいき、一週間後にあの道場で合宿をしようということになった。


「俺が全員に声かけて、これそうなヤツだけでも来てもらうわ」

「場所は? どこでやるのさ?」

「やっぱするなら、先生の道場だよなぁ」


 腕組みをして眉を顰めている沢村に、秋田は事もなげに言う。


「時間、大丈夫?」

「あ! やばい。遅刻だ。――おいっ、行くぞ大西!」


 3つ目の丼ぶりを平らげ満足げな熊男に呼びかけ、


「また、連絡する!」


 笑顔で食堂を後にする沢村の後姿を、秋田はどこか物憂げに見送った。



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