報復の剣(四)
ギシッ。
と、床を踏む鳴音がして常闇の中を黒影が抜けていく。
日吉だろう。彼は道場の角に立て掛けてあった竹刀袋から木刀を抜き出す。月光に照らされた鎬が鈍く瞬き、まるでそれが真剣であるかのような錯覚に陥った。
僕も握り締めた木刀を見つめ、跳ね上がる心音をなだめながら暢気な寝息が聞こえてくる布団へと向かった。
掛け布団を頭まで被っていてその顔はうかがえないが、並び順からこれが沢村だということは分かっている。寝息に合わせて上下する小山の上で、僕は木刀を構える。そうすると試合前のように気が引き締まった。
最後にこの木刀を握ったのはいつだろう。月日の勘定しようとして、それはあまり意味がないことだと思って止めた。
そう意味がない。たとえ数百年ぶりであろうと何であろうと、これほど手に馴染んでいるのだから、人を殺すには十分だ。
小さく息を吐いて、僕は渾身の力で木刀を振り下ろした。
沢村の布団のなかから呻吟な声が漏れる。愚かにも布団を被っていたせいで彼の叫び声は茫洋と吸収されてしまう。僕は臆することなく連続して木刀を叩き付けた。何度も何度も。その動きが止まるまで、くぐもった怪鳥の叫びが止まるまで木刀を振り下ろした。
19回目の殴打で鳴くのを止め、35回目の殴打で沢村は動くのを止めた。
荒くなった息を整えながら、ぐちゃぐちゃに乱れた布団を見下ろす。そこから奇妙な方向に曲がってしまった手足がのぞいていた。吐息を夜気に混ぜ合わせ、僕はもう一度、頭がある位置を狙って木刀を振るった。
聞こえて来たのは、ごりっと固い何かが砕ける音だけで、耳障りな怪鳥の声はもうしない。
「そっちは、どう?」
僕はそう言って視軸を日吉へと向け、彼の足元へと落としていく。そこには、僕の下にあるものと同様の、獣にでも襲われたかのように乱れた布団があった。
あの大男を殺すことができるのかという不安もあったが、どうやら杞憂ですんだらしい。胸を撫で下ろして、自身の布団へと向かった。日吉もこちらへと向かってきたが、その表情は闇に陰っていて不明瞭だった。
間近まで接近してその陰りが取れたとき、僕は、怖気立つ。
青白い表情に刻まれた渓谷のような影。生気のない面相に浮かんだ冷笑。
「どうして、笑ってるんだよ?」
震える声をひた隠し僕は訊ねた。日吉の顔は動かない。それが途轍もなく不気味だった。
――何で笑ってんだよ!
激昂を吐き出す寸前、研ぎ澄まされた闇夜にはそぐわない、「んあー」と気抜けしてしまう声が背後から聞こえて、僕は弾かれるように後方へと振り向いた。
もそもそと動く大きな布団。
あそこは、大西の布団だ――
どうして……大西は日吉が殺したはずなのに。
彼の足元の布団が乱れていることをちゃんと確認したはずなのに――
そこで僕は、日吉が浮かべていた笑みの正体をようやく知った。
彼は最初から沢村たちを殺す気はなかった。が、殺したいという気持ちはあった。だから僕を唆して実行させた。僕は利用されていた。日吉はただあそこに突っ立って僕が夢中で殺し終えるのを、冷笑を浮かべながらうかがっていただけなのだ。
かっと目の奥が熱くなり、僕は日吉へと向き直る。彼は変わらず凍りつくような笑みを湛えていた。
「あれ、日吉、何してんだよ?」
大西に呼ばれて日吉の表情が、ぬるりと氷解した。
その笑みを見て、僕はもう引き返せないと思った。
思って、木刀を強く握り直す。素早く身を翻して――
木刀を大西の横っ面に叩き込んだ。
突如として横殴りにされた大西は、大きく身を傾げて倒れ込む。現状を把握できず目を剥いた大西の顔が見えた。
僕は、悲鳴を上げさせないように大西の口に爪先を突き入れる。必死に噛み付いて抵抗するのをもろともせず、太い首筋目掛けて木刀を振るった。
1回。
2回。
3回。
4回目の打撃で爪先に噛みついていた力が不意に抜けた。
それでも僕は続けざまに木刀を振り落とし、大西が完全に停止しても容赦なく殴り続けた。その度に後頭部の痛みが増していくようにも思えた。
痛みから気を紛らわせるため、さらに力を籠めた。
もう駄目なんだ――引き返せない――やるしかないんだ。
そう心中で繰り返し唱えながら。
「――もう、死んでるよ」
声に返るとそこに日吉がいた。
僕は彼をきつく睨みつけて言う。
「僕を、騙したんだね」
木刀を再び強く握り締める。拳が割れんばかりに痛んだけれど、そんなこともうどうでもよかった。僕はもう引き返せないのだからどうでもよかった。
日吉は何も答えない。
荒くなった息を、もう治められそうになかった。
歯を食いしばって木刀を振り上げる。
日吉はまだ笑ってる。
僕はもう戻れない。
彼の顔面を目掛けて木刀を振り下ろす。
彼は悲鳴一つ上げることはなかった。いや、声を上げる間もなく僕は彼の顔を力任せに、怒り任せに叩きのめした。原形を留めないほど猛打した。
終わりは唐突に訪れた。
固く握った手から木刀を取り落とし、僕は痙攣する両手を見つめる。
後頭部の痛みはすっきりと解消されていた。
長年の膿が取れたかのように清々しく、僕は晴れやかな気分で足元の日吉を見下ろし、横たえた大西へ視線を流し、ぐちゃぐちゃの布団に包まれた沢村で止める。
僕が壊した3人の姿。
これで祖父の道場は安泰だ。
僕がいればもう平気だ。
荒らす沢村も、その手下の大西もいない。罪を着せようとした日吉もいない。
温い泥に浸かっているかのように体中がべとついていた。
拭っても拭っても噴出してくる汗は止まることを知らず、体温が蛇のように変形して体内でうねっているようだった。
僕は少しでも涼を求めて熱波のような吐息を絞り出す。喉を焼くほど熱い吐息が口内を突き抜け、冷え切った道場に噴霧される。こめかみから流れ出た汗が顎先まで伝い、雫となって冷たい床に落ちる。
ぼたり、ぼたり、と足元に形成される斑模様を見下ろしていた僕の脳裏に、まだ祖父が健在だったときの、夏の日の一場面が唐突に映写される。
――あの日は、涙ですら汗と勘違いしてしまうほどの猛暑日だった。
開け放たれた窓から、ジィジィと喚き散らす蝉の声が何重にもなって道場へと流入する。彼らの声に負けまいと、道場には竹刀の打ち鳴らす快音が響いていた。
滲みだした汗で重くなった道着の上に、さらに防具を着け、僕らは稽古に励んでいた。
奥歯を食いしばり、鉛を詰められたかのように重い手足を根性で動かして、互いの剣で打ち合う。
面を打たれれば、ちかちかと星が瞬いて気を失いそうになる。
小手を打たれると骨が折れたと錯覚してしまうほどの痛みが腕を襲う。
胴を打たれる度に胃から酸っぱい味がやって来る。
苦しくて苦しくて。死んだ方がましなんじゃないかって、何度も思った。
けれど、不思議と心地よかった。
もう限界だと思って熱気で蒸し上がった道場を見回すと、そこには同じように息も絶え絶えの仲間たちがいた。
4つも年下の小沼は果敢に祖父へと挑んでいく。白波だって、女の子なのに一番大きな声を張り上げて、年上の秋田と打ち合っていた。
僕の相手は沢村だった。
面、小手、胴。どこを狙っても巧みに往なされ、狙った場所とまったく同じところを打ち返される。
その繰り返しだった。
竹刀を振るう度に、まるで空気や水といった自然物を相手にしているかのような虚しさばかりが重く胸に堆積していった。
たぶん、そのときにはもう悟っていたのだと思う。
こいつには、一生敵わないんだろうなって。
今日の昼間に行った沢村との試合を思い返し、とうとう剣道では勝つことができなかったことに気付く。
当たり前か。ただでさえ弱いというのに、半年近く剣道から離れていたんだから、始めから勝てるはずがなかったんだ。
僕は自嘲気味に息を吹き出して小さく頭を振るい、それにしては――と、再び試合を思い出す。
沢村の動きはまったく鈍っていなかった。むしろ、昔よりも鋭さが増していたような……
沢村の足捌きや剣捌きを思い返していた頭に閃きが生まれ、ある発想が浮かぶ。
それは、もしかしたら沢村は、今も剣道を続けているんじゃないかという憶測だった。
カラン、と今更になって取り落した木刀の音が鳴った。
僕が大学に入学して様々なことに目を奪われている間、沢村は黙々と剣の腕を磨き続けていたとして、それはどうしてだろう? それほどまでに沢村が剣道に執着しているようには見えなかったのに……
もしかして、沢村も祖父が死に際に放った言葉を聞き及んでいたのではないだろうか?
臨終の場に沢村はいなかったが、彼は僕の両親とも顔見知りであったし、家も近所だったから在りえない話じゃない。街角で母が沢村に出会い、祖父の最期の言葉を彼に伝えたのかもしれない。
もし沢村がその言葉を聞いたら、何を連想するのだろう。
意味分かんねぇよ、といって一蹴するだろうか?
それはない、と僕は確信できた。
沢村も祖父の最期の言葉を聞いたら、それが僕との仲を言っているのだと思ったはずだ。
止まりかけていた汗が再び頬を伝い、ぼた、と爪先に落ちた。
もしかして僕は、取り返しのつかない勘違いをしていたんじゃないかって、今更になって気付く。
祖父亡き後、道場を好き勝手に利用していた沢村が、突然それを止めたこと。
その沢村が未だに剣道を続けていること。
そして、この合宿の意味。
次々に雫が頬を伝っていく。
僕はもうそれを止めることができそうになかった。
僕が、すべてを滅茶苦茶にした。
祖父の想いも、沢村の願いも。
沢村だけじゃない。大西だって高校の剣道部の仲間だったはずだ。今日会ったばかりの日吉という青年の未来も、僕は奪ってしまったのだ。
「あ、ああ……」
泣きだしたいのに声も出ない。
出るのは、雑巾の絞り汁のような脂汗だけだった。
ジィジィジィジィ、ジィ――
聞こえるはずのない蝉の鳴き声が闇の奥底から鳴り響く。
とっさに周囲を見回した僕の目には、あの夏の日の稽古風景が幻となって映る。
しかし、それはどこか違和を孕んだもので、僕はもっと重大な何かを見過ごそうとしているような気がしてならなかった。
もう一度、被っていた埃を払ってあの日の記憶を巻き戻す。
祖父と対峙する小沼。
白波が向かっているのは、僕と同年の秋田。
沢村の前にいるのは――
日吉。
「――え?」
どうして彼がそこにいる。
冷や汗が頬を伝い、顎先から冷たい床に落ちる。
上下の歯がカチカチと音を立て、頭蓋へと響き脳を痙攣させる。視界が擦れ、保っていた正気を摩耗させる。僕は乾いた喉に唾を通し、縋るようにして記憶を甦らせる。取り違いのないよう入念に記憶を掬い上げる。
でも――繰り返しても繰り返しても繰り返しても、その記憶は変わらず、僕を除いた6人の練習風景しかなかった。
見開き過ぎた目が乾燥し、きりきりとした痛みが眼球にまとわりつく。
「僕は――」
ジィジィジィジィ、ジィ――
――僕は、誰だ?