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朋輩の剣  作者: はじ
3/6

報復の剣(三)

 目覚めると、心配そうに見つめる沢村と大西の顔が映った。

 それにもう1人。やけに青白い顔をした男が2人の間に立っていた。

 朦朧とした意識が徐々に覚醒していくと後頭部の鈍痛も肥大した。手をやって軽く触れてみる。そこには大きな瘤ができていて、奔った激痛に顔を顰める。

 どうやら僕は試合中に後ろ向きに扱け、そのまま気を失ってしまっていたらしい。

 瘤からそっと手を放し、青白い顔の男に目をやった。

 あの男は、誰だろう。遅れてくるといっていたもう1人だろうか? どこか見覚えがあるような、ないような……。

 思考を巡らせることで血流が良くなってしまったのか、ますます痛みが激しくなり僕は逃げるようにして目を閉じる。

 暗いなかで疼痛が収まるのをじっと待っていると、肩に手を置かれた重みがした。


「おい、大丈夫か?」


 気遣うような沢村の声。大西はぼそぼそと何言か口にしているようだがよく聞こえない。


「今日はもう止めにして、晩飯にするか――なぁ、日吉」


 これも聞き覚えがあるような、ないような名前だ。遅れてきた男のことなのだろうが、喉に小骨が引っ掛かったかのようにどこか腑に落ちない。

 僕が瞳を開けると、日吉が顎を下げるようにして頷いていた。沢村の視線がちらりと僕へ向く。僕は空腹を感じてはいなかったが「いいよ、それで」と賛同した。


 待ってました、と言わんばかりに大西は大きな体躯を揺らしながら道場の隅に駆けて行き、飽和状態にまで膨れ上がったリュックを紐解く。なかから菓子パンやらインスタント食品やらを次々に取りだし、路上販売を始めようとしているかのように品々を床へ並べ出した。


「俺、お湯沸かしてくるわ」


 そう言って沢村は道場の隣にある給湯室へ向かう。そこにあるガスコンロで湯を沸かす積もりなのだろう。

 大西は菓子パンの包装を破いて貪り始める。その口端からこぼれた食べ屑が道場の床へ落ちた。それを注意しようとする前に、日吉が床に散らばる屑を拾い、脇に置いてあったビニール袋へ捨てた。


「おい、汚い食べ方をするなよ」


 大西は吃驚したような素振りを見せ、沢村の姿を探すように辺りを見回してから素直にそれに従った。この日吉という男は沢村や大西と違い節度ある人間らしい。

 その日吉と目が合う。彼は僕に何かを訴えかけるように小さく頷いた。その行為に含意されているものは知りえないが、僕は彼に好感を抱き始めていた。


 戻ってきた沢村の手には所々凹んだ薬缶が握られており、その口からもくもくと蒸気が立ち上っていた。

 沢村は大西からカップ麺を受け取り、それに湯を注いで稽古場の出入り口の上にある時計を見上げた。数年前に電池が切れたその時計は、既に機能を終えている。


「なんだよ、止まってるじゃん」


 沢村は苛立たしく独りごち、腰を床に据えた。なかなか空腹の訪れない僕は、彼らの食事風景をぼうと眺めながら道着を脱ぎ、普段着へと着替える。

 カップ麺をすする音と菓子パンをぼそぼそと貪る音が、道場にしんしんと響いていた。日吉はというと、僕と同じく食欲がないのか、食物を腹に収める彼らを呆けるようにして見ている。

 僕はふと時間が気になり、高窓を仰ぐ。どうやら気絶している間に大分時間が経過してしまったらしく、窓には深い闇だけが見えた。

 風が吹き付けると窓ガラスが小さな音を立て、それとともに窓外の闇が生き物のように蠢いた。その闇の鳴動に視線を釘づけにされていた僕は、軽い立ち眩みに襲われて、よろよろと倒れるように床に座る。道場の床は薄氷と勘違いしてしまうくらい冷え切っていて、尻から背筋を伝って冷気が競り上がってくる。


 手持無沙汰な僕は、することもなしに彼らの観察を続けていた。

 真っ先に食べ終えた沢村は、大きくげっぷを一つして薬缶とカップ麺の容器を手に給湯室へと向かって行く。大西の体格に似合わないリスのような食べ方を見て、僕と日吉は顔を見合わせて苦笑を浮かべる。本当にあいつは見た目だけだな、と。

 帰ってきた沢村は、しばらく携帯電話を弄り、持って来た雑誌を落ち着きなくぱらぱらと流し見していた。やがて、目の下を擦りながら大きく欠伸をして、「ねむてー」と大袈裟に呟き、まだ菓子パンを頬張っていた大西の背を足で小突く。


「いつまで食ってんだよ。俺、もう眠いから、今日はもう寝るぞ」


 大西は抗うことなく食べかけのパンを鞄に戻し、「分かったよぉ」と籠った声で返して、大きな体を持ち上げるようにして立ち上った。

 高校生のときから沢村の気まま勝手な態度に振り回されている大西には、突然の物言いももう慣れたものなのかもしれない。僕はそんなことを思いながら、もう大学生が眠くなるような時間なのかと疑問を抱き、壊れていると知りつつも道場の時計を見上げてしまった。

 針を止めた時計では今が何時なのか分からない。

 視線を窓へと移し、その先の外界を満たしている夜闇を見やる。深い闇が窓にべっとりと張り付いていて、まるで、この道場が深海の片隅に沈んでいるような気にさせる。

 無明の大海の奥深くに沈んだこの道場は、外界から切り取られた密室と化している。

 それは稚拙で突飛な考えであったが、僕の背筋をぞくぞくと毛羽立て、舌の端に神経痛にも似た痺れを寄越した。

 目先で火が点いたかのように視界が薄くなり、『月の粒子』という言葉が脳裏を掠めていく。その単語に引っ掛かりを覚え、一体どこで耳にしたのか必死で思い出そうとしていると、


「おーい」


 呼び掛けられて僕は顔を上げた。

 布団を胸に抱えた沢村と大西が道場の入り口に立っていた。車に積んでおいたものを持って来たのだろう。車の鍵はどうしたのだ、という疑問を思いつく前に、沢村がキーを僕に向かって放った。


「自分の布団は自分で持ってこいよー」


 言って沢村は抱えていた布団を床に敷き、「寒ぃ寒ぃ」と滑り込むようにして床に就いた。

 どうやら気を失っている間にキーを勝手に持ち出していたらしい。

 僕は小さく文句を垂れながら、肌寒い廊下を駆け足で抜ける。靴を突っ掛けて玄関の引き戸を開けると、途端に冷たい夜気が流れ込み、抱えた体をさらに縮めて車へと急いだ。

 車に積んでおいた布団を下ろして、道場へと取って返す。

 夜風に煽られた雑木が小さな囁きを繰り返し唱えているのを背に、抱えていた布団を框に置いて戸をしっかりと施錠する。戸に遮蔽され、木々のざわめきは静まった。

 再び布団を抱え直して稽古場へと戻る。廊下の床は泥沼のような緩い感触しかなく、気を抜けばそのまま地中深く沈み込んでしまい、二度と現実に戻れなくなりそうであった。

 夜の外気に晒された体は芯から冷え切っていた。僕は寒さからいち早く逃れたい一心で道場に駆け込み、夢中で布団を敷いて潜り込む。

 ふっくらとした布のなかで体温を向上させていると、不意に、あの男――日吉は自分の布団を持って来たのだろうか? と思い立ち、僕は布団から顔を出して彼を見た。

 チャッカリものなのか、彼は既に自分の布団に入って寝る準備を整えていた。


「もう電気消していいかー?」


 沢村の声に僕は掛布団から身を起す。

 布団は出入り口から順に、沢村、大西、日吉、僕と川の字になって敷かれている。狭いといっても道場という名を冠しているだけのことはあり、4人分の夜具が敷かれてもそれなりのスペースがあった。

 僕が沢村に小さく頷くと、命令された大西が布団から抜け出し、体を震わせながら道場の照明を落とす。

 「うはー、暗ぇ!」といい歳をして暗闇に興奮している沢村の声が聞こえた。


「おい、大西! 今なら全裸になっても恥ずかしくないぞ! だから脱げ!」

「え、うぇ? 嫌だよぉ」

「ははは、情けねぇヤツだな! 俺はもう既に全裸だぞ!」


 その後も、2人の幼稚なやり取りがしばらく続いたが、5分ほどで飽きたのか場は急激に静まった。

 やっと心が休まると安堵した矢先、今度は熊のような寝息が、ごぉう、ごぉう、と場内の空気を揺らした。

 この野太い寝息は大西のものだろう。薄暗いなかで轟々と響く鼾は、冬眠中の熊と添い寝でもしているかのようで、もし現実にそうなったのなら息も詰まるような緊迫感で全身を強直させるのだが、唸りの元凶が一人じゃ何もできない小心者だと思うと滑稽としか感じられなかった。

 それでも大西の鼾には、沈静化していた後頭部の痛み再発させるだけの蛮力があり、いよいよ疼痛を我慢できなくなった僕は、すっぽりと頭まで布団を被って聴覚と視覚を遮断した。

 こうやって温かい布団に包まれば自然と眠気もやってくるはずだ。そう祈るようにして瞳を閉じていたが、頭痛は激しさを増すばかりで一向に眠気がやってくる気配は訪れない。


 しばらく痛みに耐えていると、布団越しに「おい」と誰かが呼ぶ声が聞こえた。

 声は真上から聞こえてきたから、誰かが寝ている僕の枕元に立って呼びかけているのだろう。声音から推測するに呼び声が沢村のもののように思え、僕は反射的に置き出そうとした体を止めた。

 沢村のことだ。どうせ下らないことで僕を呼びに来たのだろう。ただでさえ頭痛という問題を抱えているのに、これより煩わしいものを背負い込む気は毛頭ないと、僕は寝たふりを決め込んだ。

 ふと、もしこのままずっとそこに立たれていたら、それもそれで煩わしいなと思ったが杞憂に終わった。返事のなかったことに業を煮やしたのか、沢村は早々に自分の布団へと戻っていった気配がした。

 やがて熊の寝息と同じくらい騒々しく甲高い怪鳥の寝息も聞こえてきたが、厚い布団がその騒音を遮ってくれているお陰で、僕は静寂のなかに身を沈めることができた。

 道場の前を滑るように通過する車の走行音も、お伽の国のように現実味がなく間遠に聞こえる。こんなにも静寂な夜は、昂ぶっていた神経をなだめてすぐ眠りに就けるというのに、打ち据えた後頭部の痛みでなかなか寝付けない。何度も体の向きを変え試行錯誤をしたものの、意識は粘つく汗のように覚醒を保っていた。


 密閉された布団内部は、熱帯雨林のような湿気と暑さが籠り始めていた。

 吐き出す吐息も次第に熱を帯び、全身にじっとりとした汗の膜が張る。ついに息苦しさを我慢しきれなくなった僕は、布団から顔を出して閉じていた瞼を開ける。

 暗順応した瞳に道場の天井が薄ぼんやりと映る。何気なしに横を向いた僕は、眼前にあるものを見て小さな悲鳴を上げそうになった。

 僕の目の前に、日吉の顔があったからだ。

 悲鳴はかろうじて喉元で堪えた。どうやら日吉も意図していなかったようで驚きの表情を浮かべていた。

 お互いぎこちない笑みを張り付けたまま、彼が最初に口を開いた。


「ど、どうも」

「こちらこそ、どうも」


 「えーと」と互いに話の接ぎ穂を探す。

 初体面で共通点のない人と一体どのような会話をすればいいのだろうか。日吉も同じような感想を抱いているのだろう、苦笑いで頭の後ろをさすっていた。

 気まずい空気をどうにかしようと躍起になって話題を探していると、怪鳥のような沢村の寝言が厳粛な館内に響き、ふっと僕らは息を吹き出した。


「相変わらず、すごい声だ」

「ああ、寝ていてもあんな声を出すんだね」


 ふっ、と再び息を吹き出す。

 明確すぎて気付かなかった共通点を見付けた僕らの会話は、それ以降、紙風船のようにぽんぽん弾んだ。


「街中であんな声が聞こえてきたら、僕は間違いなく怪鳥の襲来だと思うね」

「はは、それは間違いない。突然こんな奇声が聞こえたら、道行く人々は思わず空を見上げるだろうね。こんな阿呆みたいな声で鳴いている鳥はどこのどいつだって」

「うん、そして甲高い叫び声を上げている迷惑な鳥を見付けるんだ」

「見付けたら、人々はどうするだろう?」

「んー、とっ捕まえて焼いて食べちゃうとか」

「喰いたくねぇー」日吉はベーと舌を出す。


 沢村の顔をした人面鳥が奇声を上げながらビルの間を飛び回る。その情景を想像した僕らは、布団で口を覆って「くつくつ」と笑いを噛み殺す。


 一頻り笑ったあと、今度は僕から口火を切った。


「えっと、日吉くんは沢村たちと同じ大学なの?」


 日吉の眉が何か違和感を覚えたかのように一瞬だけ寄った。その表情に僕は不味いことを尋ねてしまったのだろうかと不安になったが、一拍ほどの沈黙の後、日吉が薄く笑いながら答えた。


「ああ、そんなものかな」

「へー、大変でしょ。僕は、あいつとは小学校からの知り合いなんだけど、あいつに振り回されてばっかりで何も良い思い出がないよ」


 僕の顔は自嘲気味に歪んでいた。初対面で愚痴を言うのは気が引けたものの、ここが思い出の道場であったせいか僕の舌は止まらなかった。


「ここってさ、もともと僕の爺ちゃんの道場だったんだ。でも、爺ちゃんが亡くなったあと、沢村は恩義も忘れてここを好き勝手に使うんだよ。大西も、ここがどんな大切な場所なのか知らないくせに、さっきみたいに馬鹿みたいな顔をして菓子の食べ屑をこぼすんだよ。それがさ、爺ちゃんの道場が穢されていくようで、すごく嫌だったんだ。だからさっき、大西に注意してくれたときは胸がスッとしたよ」

「君は、昔から彼らに……いや、沢村に口答えができなかった」


 日吉は僕の心情を見透かしたかのようにそう告げた。僕は下唇を軽く噛む。

 たしかにそうだ。心中ではどんなに強がっていようとも、僕は沢村に反抗することを意識的に避けている。それは、同じ道場に通っていた小学生時代から別々の大学に進んだ今も変わらない。僕は沢村に何一つとして抵抗を示すことができない。

 その心因は、はっきりとしている。嫉妬から来る負い目だ。

 道場師範の孫より強い沢村に嫉妬し、道場師範の孫なのに弱い己に負い目を感じている。この要因によって、沢村への反骨精神は抑圧されていた。


 夜を纏った大気が静々と沈降していくように思えた。後頭部の痛みが激しさを増している。心なしか吐き気もあった。


「悔しくない?」

「悔しいよ」


 「ならさ」と、日吉はぞっとするほど温度のない声で言った。


「あいつら、『 』そうよ」


 またもや響いた沢村の寝言で肝心なところを聞き取れず、僕は「え?」と聞き返す。日吉は悪戯っぽい笑みを張り付け、繰り返した。


「あいつら、殺そうよ」


 後頭部が、鈍く、疼いた。

 寝ているはずなのに立ちくらみのような感覚が襲い、薄闇の視界をぐるぐると回転させる。目の前の日吉の顔がそれに合わせて回った。

 散々穢した祖父の道場を、まだ穢そうとするあいつを、これ以上好き勝手にさせない。一週間前の夜、沢村から合宿の発案があったその瞬間から、僕は、それを頭の隅に置いていたはずだ。

 恐らく日吉もそうなのだ。彼も日々大学で沢村たちから嫌な思いをさせられており、今日、僕という同志に出会って決断したのだ。そうに違いない。


 途端に鼓動が跳ねあがった。

 頭の痛みが心地よく思えてしまうほど僕は興奮した。だから――


「いいよ。一緒にあいつらを殺そう」


 そう、言った。



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