報復の剣(二)
今から一週間前の夜半。
夏休みを費やしてようやく取得した自動車免許を眺めていると、突然沢村から電話がかかってきた。
高校卒業から一度も会っていないから、会話をするのは半年ぶりくらいだな、とディスプレイに映る彼の名前を見つめた。
何事だろうかと怪訝に思いながらも、免許取得で気分が高揚していたこともあったのだろう。僕は大した思慮もせず通話ボタンを押した。
沢村はやけに殊勝な声音で、出し抜けにこう言った。
『先生の道場で合宿するぞ』
耳朶を打つその言葉は、まるで異国の言語のように右耳から左耳へと抜けて行った。理解できず幾許か茫然とした末に僕が発した言葉は、
「淫行合宿?」
と、何とも言えない猥褻単語であった。
そもそも、そのような合宿があるのかでさえ不確かである。
『何だよ、その企画AVのタイトルみたいな合宿は……剣道のだよ、剣道』
さすがの沢村も呆れたようであった。軽いため息の後、声音を和らげて続けた。
『昔馴染のやつらを集めてさ、やろうって話になったんだよ。だから、お前も強制参加だぞ。一週間後にすっから、道場の方を開けといてくれ』
淫行合宿でないとしても、沢村の発案である。高校時代の嫌な記憶が次々と掘り起こされ、また良からぬことを企図しているのだろうと直感し、僕は渋った。
「合宿って、ご飯とか寝床とかどうするんだよ?」
そう訊ねながらも、僕には沢村がどう回答するのか大方の検討はついていた。
『あー、道場で済ませばいいだろ。給湯室もあることだし』
予期していたのだが、沢村の無法な言葉は僕の脳に鐘を鳴らし、その警鐘は血潮に乗って全身を駆け巡った。
また、こいつは祖父の道場を、祖父の積年の想いを、穢すのか。
鐘の音が頭に響き嘔吐感がせり上がる。
僕は、その警鐘を止めるために――
「いいよ、分かった」
そう言った。
車を敷地内に入れ、ゆっくりと駐車する。
車外に出た沢村は、閉じ込められていた鬱憤を晴らすかのようにお得意の怪鳥のような奇声を上げて大きく伸びをした。大西もどこかぎこちない動きで車から降りる。
エンジンを止め、キーを外して僕も外に出た。秋間近の外気が追想のなかで高揚し始めていた情動を冷却させる。気分も大分良くなってきた。
沢村と大西はトランクの中から荷物と防具入れを取り出していた。僕はその様子を行き合わせの通行人のように傍から眺めた。
本当に剣道の合宿をするらしい。何故今になって……。
頭のなかをあらゆる疑念が駆け回る。絶対に何か裏があるはずである。それが、これ以上祖父の道場を穢すようなことならば――
「おい、道場の鍵開けてくれ」
沢村の声でハッとし現実へと意識が帰還する。道場の引き戸の前で眉を顰めた2人が立っていた。
「ごめん、今開けるよ」
恐らく自分の顔は溶けてしまいそうな愛想笑いになっているはずだ。気持ち悪い。
「早くしろよー」と急かしてくる2人の元へ向かいながら古びた鍵を取り出す。それを引き戸の鍵穴に差し込んで開錠し、戸を横にスライドさせる。
ガラガラと音を立て、戸が開いた。
この音を聞く度に、祖父との数々の思い出が想起する。
もともと虚弱な身体を鍛えるために祖父に勧められて始めた剣道であったが、そんな僕にも祖父は容赦しなかった。声が小さいと怒鳴り、素振りに力が籠っていないと強かに竹刀で打たれた。よくそれに耐えていたな、と当時の自分の精根を思って密かに誇らしくなる。
思い出に耽っていた僕を尻目に、沢村はさっさと廊下の先に進み、軽い一礼をして稽古場に踏み入った。隅に荷物を下ろして嬉しそうに口を開く。
「懐かしいなぁ」
オープンし立ての遊園地を訪れたかのように道場内を見回すその姿は、かつて己がした不道徳な行いをすっかり忘れてしまったかのようであった。
沢村たちが訪れなくなってからも僕が毎週掃除に来ていため、内部は汚れることなく当時のまま保存されているのだ。懐かしく感じられるのも当たり前だ。
汗水を垂らしながら広い床を雑巾掛けし、角の蜘蛛の巣を箒で払い、構え確認用の鏡は丹念に磨き上げたため曇り一つない。館外も当時と見劣りしないよう雑草を刈って外観を整えた。祖父の想いを残すための僕の努力など、沢村にとって気付きもしない些細なことなのだろう。
「大西、ちょっと窓開けて換気してくれよ」
沢村は大西にそう指示し、懐かしさに表情をほころばせながら場内を見回した。僕はその隙に自分の荷物を取りに車へと取って返す。
道場全体を簡単に言い表すと『凸』の形をしている。上端の突起部が短い廊下に当たり、その下に広がっているのが稽古場だ。
板張りの床を弛ませながら、僕は廊下を渡り外に出る。
雑木林に重囲された道場は、樹林と同化するようにして建立している。耳を澄ませば繁華街の喧騒や自動車の走行音が届いてくるが、そのほとんどは木々の囁きによって耳映ゆさが取り除かれており、不快さはない。
運転の疲労で強張った僧帽筋を揉みほぐしながら、道場の前を横切る市道へと出る。
市道といっても稀にしか交通のないこの道は、役人たちに見捨てられているといっても過言ではないだろう。左右からしな垂れた草葉が、この通りをより閑散とさせて見せていた。
僕は大きく息を吸いこんで吐き出す。吐き出した息は、期せずしてため息となってこぼれた。
車から荷物を下ろし道場へと戻って来た僕を出迎えたのは、道着に着替え防具で身を固めた沢村だった。
当惑する僕に沢村の調子はずれな声が向けられた。
「おっし、試合しようぜ、試合!」
面金の奥から挑戦的な笑みが浮かんでいた。
僕に運転をさせておいて、その労をねぎらうこともなく、到着早々に試合を申し込むなんて一体何を考えているのだろう。そもそもこの合宿だって、思い付きで敢行したのだろうということは、彼の言動の裏に見え隠れしているのだが。
「いいよ、やろう」
僕は、力強くそう答えた。
防具を一つ一つ身に纏うことで剛健になる外見に相対して、神経は雑念が取り除かれ研ぎ澄まされていく。闘争心が煙のように腹の底から湧き上がってき、自己に内在する野性的な渇望、凄惨さなどが臍から溢れ出し体表に薄膜を張る。稽古中の祖父が荘厳であったように、僕もまた剣を手に取ると人格が切り替わるらしい。
準備体操や構えの確認などを終えた沢村は、「きょぇぇぇええぇぇえ」と奇声を上げながら体慣らしの素振りを始めていた。
僕が防具を着け終え、ずっしりと重みを増した体を上げると、沢村はこちらに気付いて素振りを止めた。面の奥の顔はどこか嬉しそうに歪んでいる。
「へへ、久しぶりだな。お前とやるの」
僕は無言でうなずき、握った竹刀を正眼に構えて軽く振ってみた。
ひゅっ、と空を切る音が鳴り、重厚な痛みが遅れて腕を伝う。僕はその感覚を久しく思う。
真実をいうと、僕は高校を卒業して大学に入ってからの半年間、剣を手放していた。
小中高と約10年続けてきた剣道を、ここで手放してしまうことに対して未練がなかったのかと問われれば、明瞭な意思を持ってうなずくことはできない。剣道を辞めてしまったことの後悔は、未だに胸の底で厚く沈降している。
けれど、それ以上に大学という新しい環境は、目に付く様々なことが新鮮だった。
東京ドーム8コ分の敷地を有する広大なキャンパス。ホールのような講義室。サークル活動、新しい友人、彼女。すべてが僕の心を躍らせ、惑わせた。
僕は剣を棄ててしまったけれど、祖父の道場だけは守らなければいけないと思った。それが、剣道を手放してしまった僕の、祖父の想いを継げなかった僕の償いだと思った。
だから……そう。
沢村からの試合の申し込みは、この道場を守るためにも受けなければならない気がしたのだ。
ラインテープによって9メートル四方に分画された試合場。あまり大きくない道場では、その試合場は一つしか作られていない。
中心を示す×印を挟んで、僕と沢村が対峙する。
久しく握った竹刀であったが、握っているうちに手の平から神経が根を伸ばし、剣先にまで行き届いたかのような一体感を抱いていた。全身には、現役時代の感覚が少しずつ甦ってくるような躍動感が充足している。
互いに構えた竹刀の剣先が触れ合うと、額を突き合わせて睨み合っているかのように錯覚した。
闘志がくすぶり、呼吸は徐々に純化されていく。
鼓動が全身に伝播して微かな身震いをさせ、面越しに鋭敏な視線が交差したとき、
「――始めッ!」
開始を告げた大西の声を打ち消すかのように、耳を劈く怪鳥の奇声が襲う。
――転瞬。
大気を鳴動させ、竹刀が伸びる。
僕は半歩前進し剣の腹でそれを往なした。
突進してきた沢村と衝突し、鍔競合う。
お互いの呼吸が感じ取れるくらいの間合い。
僕は拮抗状態をから逃れるように、腕関節の反動を使って大きく後方へと下がりながら渾身の『引き面』を仕掛けた――
が、竹刀は沢村の面を微かに掠め、空を切った。
袴の裾が翻り、視界から沢村が消える。
――あっ。
思わず口からこぼした直後、鈍い音が聞こえた。その音に遅れて鈍痛が後頭部を襲う。
灰色の天井が視界に飛び込む。
古ぼけた蛍光灯が幾つか弱弱しく灯っている。
すぅ、と脳から血潮が引いていく。
それを追うようにして、意識も僕から離れてく。
蛍光灯から放射状に広がる光線が視界を霞める。
刮目しているはずなのに、景色は漂白されて映った。
僕は、白粒の砂浜に取り残され、水平線に消えていく赤い海を、朦朧とした意識で見つめる。
水平線上に広がる灰色の空には、赤い海との別れを惜しむかのように青い月が凛然と浮き、世界を青白く照らしている。
頭の隅では、あの赤い海を追い掛けなければならないと分かっていながらも、辺りに散らばる白い砂粒の美しさに僕は心を奪われて、この白浜から身動きひとつとることができなかった。
僕は腰を屈め、両手で白い砂を掬い上げる。
指の隙間からさらさらと粒が流れ、息を潜めた滝のように地面へと戻っていく。
そこに青い月光が降り注ぎ、流れる白粒を天色に包んで発光させた。
――これは、月の粒子だ。
両手からこぼれ落ちる青白い砂粒の滝を見て、そう思った。
ぱらぱら、ぱら、と足元に振り落ちる一粒一粒が光を放ちながら白い砂浜へと帰っていく。
この、手の平からこぼれる月の粒子をいつまでも眺めていたい。
そう思ったけれど、最後の一粒はあっけなく僕の手から離れていった。
いつもそうだ。
大事なものに気付いたとき、それは既に手を離れている。
「 、 。」
誰かに呼ばれた気がして、とっさに僕は顔を上げた。