報復の剣(一)
窓外を流れていく雑木林を横目に、僕は小さく舌を打つ。
慣れない運転に神経を使っているということもあるが、それよりも後部座席でおどけている沢村と大西がこの気鬱を誘引しているに違いないと思った。
広葉樹に挟まれた道路は緩やかな坂道に差し掛かる。苛立ちを乗せてやや強くアクセルを踏み込むと、エンジンが低く唸り、車体は大きく揺れながら上っていく。
左右へ抜けていく樹木には、まだ青々とした樹葉が茂っている。天を覆うように密生しているこの緑葉も、あと数日経てば暖色を帯び始めるだろう。
車体が揺れるにつれて僕の気持ちはドリルのように螺旋を描いて埋没していく。このまま放っておけば、地球の中心核をぶち抜いてブラジルまで突き抜けてしまいそうだった。
地球内部を穿孔するトンネルができれば、球面を迂回して移動する手間が省かれるので、それはそれで人類にとって有益なような気もした。
そのような馬鹿げた発想をしてしまった自分自身に憫笑を浮かべ、僕は少しでも気を晴らそうと、汗ばんだ片手をハンドルから放して脇の窓を開ける。
ほのかに土壌の香りを孕んだ心地良い初秋の風が車内に吹き入り、既にマントルまで到達していた鬱屈をヒョイと引き上げて綺麗に浚っていってくれる。
一瞬目を閉じ、僕は頬を撫でる風を感じる。
すると、草花の匂いが鼻先を掠め、木立の葉鳴りが唄になった。
このまま寝てしまいたいような思いに駆られたけれど、そんなことをして事故を起こして永遠の眠りに就くわけにもいかないので、僕は不承不承に重い瞼を押し上げる。
途端に引き戻される現実。
神経を摩耗させる運転と、後部座席から届く喧騒。
僕は前方に注意を払いながら、騒がしい後席の様子をルームミラー越しにうかがう。
180センチもある長身を狭苦しそうに丸めた沢村と、大木のような巨体を有する大西が後部座席でひしめき合いながら何やかやと話し込んでいた。
少しばかり興味を引かれ、砂利を巻き込む走行音のなかから彼らの会話を拾う。
ごにょごにょごにょ。
聞き取れた単語を繋げてみると、どうやら彼らは大学の話題で盛り上がっているようであった。
2人とは異なる大学に通っている僕にとって、彼らの間でしか通用しない話題はとてもつまらないものだった。
僕は視軸をミラーから外し、運転へと意識を集中させる。
しかし、背筋を這い上がるような沢村の高声と、フィルターを通しているかのような大西の低音が不協和音となり、外耳道をけたたましく通り抜け、その先の鼓膜を諸共せずに三半規管を強引に揺さぶる。僕は、耳を侵す彼らの声に噎せ返るような気持ち悪さを抱く。
おえっ、と軽く嘔吐いた僕は、無意識のうちにアクセルを強く踏み込んでいた。
車が馬のような唸り声を上げ、軽く持ち上がる。後部座席から「わっ!」と2人の驚く声が上がり、僕はこれから起こることを何となく予想して、今日何度目かも分からない舌打ちをする。
案の定、長身の沢村が運転席にまで身を乗り出し、僕の耳のすぐ横で「おいおい、もっと丁寧に運転しようぜ」と先ほどの失態について抗議してきた。
「俺たちを殺す気かよ」という大西の聞き辛い声がそれに追随する。
「ごめんごめん」
僕は愛想よく微笑んで2人に謝る。自分の頬が引き攣っているのが鏡をのぞかなくても分かった。
「しっかり頼むぜ、運転手さん」
ぽん、と沢村の手が左肩に触れ、僕は思わず身震いをしてしまい、その動きに対応して車体も左右に揺れた。
また彼らに小言を言われるのかと嫌気が差したが、沢村も大西も、今回は文句を付けてこなかった。
僕はもう一度、2人の姿をミラーで確認する。
長い沢村と大きい大西。
彼らと僕は、高校生の頃、同じ剣道部に所属していた。
沢村は打ち込む前に狂ったような気合を入れることから「怪鳥の沢村」と呼ばれ、大西はどんなに打ち込まれても微動だにしない様子から「不動の大西」という二つ名がつけられていた。
ちなみに僕はというと、この2人によく絡まれていた所為か、陰で「舎弟」と呼称されていたらしい。それは、僕にとって消し去りたい過去の一つでもある。
巨漢の大西とは高校時代のみの知り合いで、それほど交流もなかったのだが、沢村とは小学校の頃から同じ剣道場に通っていたので因縁の仲と言ってもいいだろう。
僕と沢村が剣道を習っていた道場。
そこは、今は亡き祖父の剣道場であった。
道場といっても、25メートルプールを半分に切り分けたほどの小さなもので、繁華街から車で30分、さらに山中という立地条件の悪さも重なり、祖父が他界した今では他の利用者もない。僕が、週に一度の清掃を止めてしまえば、道場はたちまち廃墟と化すのだろう。
僕が中学生の頃までは、まだ道場として機能しており門下生も5人いたはずである。
僕。4つ年下の小沼という少年。その同級生であった白波という小さな女の子。あとは、僕と同い年であった秋田。そして、道場一の腕前を持っていた沢村。
当時から沢村はよく僕に突っかかってきた。
「お前、先生の孫なのに弱いな」やら「お前の気合の入れ方はスズメの悲鳴みたいだ」やら、何かと言うと悶着をつけてきた。その度に僕は向かっ腹を立てたが、反論することはなかった。彼が言っていることは概ね当たっていたからだ。
そうなのだ。僕は道場師範の孫であるのに、とてつもなく弱かった。
4つ年下の小沼と拮抗した勝負をした末に、最後の最後で競り負けるくらい弱かった。
それでも、毎度毎度、威張り腐った物言いをする沢村には頗る嫌気がさしていた。なかでも、最も腹が立った出来事といえばこんなことがあった。
祖父が小用で道場から抜けているのを良い事に、沢村は竹刀から木刀に持ち替え、ふざけて遊び出した。変に関わるのも嫌だった僕は遠目にそれを見ていた。
解放感からか興奮も絶頂に達した沢村は、木刀をぐるぐると振り回し始めた。同年の秋田だったろうか、沢村に「危ないよ」と注意したちょうどその瞬間だった。
沢村の手から木刀がすっぽ抜け、折悪く、道場の奥に構えや素振りを確認するため取り付けられていた三畳はあろう大鏡に衝突し、粉微塵に砕いてしまった。
僕は唖然としながらも、沢村が祖父に怒られる姿を拝める、と内心でほくそ笑んでいた。間もなく祖父が戻って来、散らばった破片を見て激怒した。散漫する鏡片のなかに落ちていた木刀が拾い上げられ、それが沢村のものであると発覚するまでにさほど時間はかからなかった。
祖父に迫られた沢村は、平素の奔放さを感じさせないほど、びくびくと身を縮こませた。その横で笑いを堪えていた僕に気付いた沢村が、怒られながらも口元を僅かに釣り上げて言った。
「俺とこいつでやりました」
急に矛先を向けられ、仰天した僕は、「そうなのか?」と祖父に問い質されても満足に返答することができなかった。
結果、僕もとばっちりを受け、2人で割れた鏡の掃除をする罰を申付けられた。
この事件をふとした切欠で思い出す度、僕の腸は煮えくり返えされる。責任を擦り付けた沢村に対しては当然のことながら、「僕はやってない」とキッパリ言い返せなかった自分にも苛立ちを覚える。
その他にも細々とした諍いは幾度もあったが、あまりにも多すぎてあまり覚えていない。思い出したくもない。
と言いつつも、数々の沢村との騒乱が脳裏に甦り、紙片を少しずつ中央へ寄せていくようにストレスは蓄積していくのであった。ハンドルを握る手に若干力を籠める。
だからといって、癇癪を起す歳でもない僕は、ここらでひとつ冷静になってみようと思った。
大学生になり、人生の酸いも甘いもそれなりに体験してきた今となって言えることなのだが、僕と沢村は互いに意識し合っていたのだと思う。
道場師範の孫なのにそれに見合う実力のなかった僕は、道場随一の腕前を持つ沢村に劣等感を覚え、その沢村は師範の孫という僕の境遇に憧れていた。
端的に述べてしまえば、僕と沢村は犬猿の仲だったのだ。どちらが犬なのか猿なのかは分からないけれど、そのようないがみ合いの関係は長らく続いた、が。
それも、高校に入学をする数週間前、祖父が逝去したことで休戦状態になった。僕たちの関係は、ある意味で祖父が原因であったのだから、当たり前の結果ともいえた。
傘寿も間近という齢であった祖父は、秋と冬の切り替えに対応しきれず体調を崩した。稽古に参加する回数も次第に減っていき、年の暮れには、布団から起き上がることもできなくなった。
それでも祖父の表情には、太陽のような威厳と力強さが宿っており、すぐに良くなるだろうと家族の誰しもが高を括っていた。しかし、年明けとともに祖父は見る見るうちに衰弱していった。
その様子を見ていた僕は、いつでも中天に座している太陽がある日突然、輝きを失い死滅していく様を呆然と見上げている人類のような心境だった。どんなに祈ろうとも、どんなに願おうとも、泰然自若と青空に浮く太陽をもう二度と見ることができない、そんな世界の終焉を垣間見ているような心地だった。
その後も祖父は威光を取り戻すことなく、もうじき春が訪れるというところで力尽きた。
今際の際の祖父は、葉を散らした老木のように痩せ細った矮躯を六畳の和室に横たえ、庭先に植えられた早咲きの桜を穏やかな表情で見つめながら、ただ一言だけを残して息を引き取った。
『仲良くしろよ』と。
祖父は、僕と沢村の険悪な仲を認知していたようだが、それに対して口出ししたことは一度もなかった。祖父臨終の場には家族しかいなかったのだから、その言葉を単純に咀嚼すれば、自分が去った後も家族円満でいろよ、と解釈すべきなのだろう。
でも僕には、祖父のしわ嗄れた言葉が、沢村との仲を改善しろと述べているようにしか聞こえなかった。
だから、これを機に沢村との関係を改めようと俄かに思い始めていたのだったが、祖父が亡くなってからの沢村の動静を見て、その気は一切消え失せた。
砂利玉が大きくなったのか、車体は上下左右に大きく揺れ、僕たちは車内で撹拌される。窓から吹き入る清廉な風も、気詰まりする車内の空気も、すべて混ぜ返されて混濁し、混沌とし、曖昧に形を失くしていく。それでも僕と沢村の関係だけは、水と油のように離別して、決して混ざらないような気がした。
祖父が亡くなり、後を継ぐものがいなかった道場は閉鎖する運びとなった。このまま辞めてしまうのも忍びないと思った僕は、入学式後のホームルームで配布された入部届けに『剣道部』と記し、その日のうちに職員室へと提出しに行った。
剣道部の顧問にそれを手渡すと、顧問は明朗快活な顔をして「今年の生徒は行動力があるなぁ」と言った。
「さっきもな、入部届けを持ってきたやつがいたぞ。背が高くて有望そうなやつだったな」
ぴんと来るものがあり、僕は顧問に尋ねた。
その生徒の名前は沢村ではないですか、と。
「そうそう。なんだ、お前ら知り合いか」
そのときの僕は、それは好都合だと思っていた。剣道部で沢村との仲を改められればいいか、などという安閑とした気構えしか持ち合わせていなかった。
入学式の翌日から、髪を茶色に染めた沢村を見るまでは。
沢村は、俗な言葉で形容すると『チャラチャラ』した外見をするようになっていた。髪を栗色に染め、耳にピアスを装飾し、制服をだらしなく着崩していた。まるで、祖父がいなくなったことで束縛から解放されたかのように陽気に振る舞う沢村を見る度、僕は腹の虫を諫めなければならなくなった。
剣道部に籍を置きながら、派手な外見や軽薄な振る舞いが許されるのかといえば、許された。
正しく言えば、沢村の場合は許された。
一年生でありながら既に部内一の腕前と才覚を携えていた沢村に対して、先輩や顧問も軽い注意はするのだが、ほとんど黙認という形になっていた。それがまた僕の苛立ちを募らせる結果となったのは言うまでもない。
この段階で僕は沢村との仲を繕うことは諦めていた。たとえ、沢村側から接近してこようとも、僕はにべもなく距離を置いただろう。彼の平静の行いは、それほど僕を不快にさせていた。
唐突ながら、ここで大西が登場する。
新入部員のなかで一際目を引く図体を有していたのが大西だった。
名に恥じぬ長大な体躯を持っていた大西だが、その内にある胆力はスズメ以下、超が付くほどの小心者。たしか入部した理由も「度胸を付けたいから」であったはずだ。
そのような木偶に沢村が目を付けた。
いくら度量がないといっても、大西がその胸を張って廊下を歩けば上級生も左右に避けるという風説が流れたほどの筋骨隆々たる体躯である。背筋さえ伸ばしていれば大西は強者に見えるのである。狡猾な沢村は、その大西を防壁とすることで剣道部だけでなく学校内での地位を上げていったのであった。彼らが上級生を従えて繁華街を闊歩しているのを数度目にしたことがある。
大西自身も沢村の言う通りにしていれば、威張り散らすことができると知り、味を占めたのだろう。入部時の小心が嘘のように横柄な態度を取るようになった。その様子は、虎の威を借る狐ならぬ狐の知恵に縋る虎と言った感じであった。
彼らが学内や部活動で威張り散らすだけなら、まだよかった。
それからの日々が僕には耐えられなかった。
入学から一月過ぎた頃、廊下を歩いていた僕を沢村が掴まえて言った。
「なぁ、道場開けてくれよ」
閉鎖した道場の管理を僕が任されていることを、どこかから聞き及んだのだろう。言外からこれから辿るのであろう不穏な未来を察知してはいたのだが、数名の上級生を連れた沢村に、僕は否を言うことができなかった。彼の言う通りに道場の鍵を開け、さらに合鍵を渡した。
それから、祖父の道場は彼らの遊技場と成り果てた。
持ち込んだテレビでゲームをする、菓子を床中に食べ散らかす、挙句の果てには女を連れ込む。道場がこのように利用されていることを家族に知られないようにするため、彼らが去った後、汚れた道場を掃除するのが僕の役目になっていた。
ゴミが散乱する道場を前に、祖父がこれを見たらどう思うのだろうと、僕は何度も想像したものだ。剣に対しては厳粛な人だったから、道場の廃れ具合を見たら卒倒してしまうかもしれない。そう思いながらも、彼らに反抗できない自分自身を苦々しく思った。
そのような退廃とした日々が2週間ほど続いたが、解放の日はあっさりと訪れた。
ある日、「もういいや」という言葉と一緒に沢村は鍵を返し、それっきり道場には立ち入らなくなった。
新しいもの好きな沢村のことだから、どこか別の溜まり場でも見つけたのだろう。これ以上、祖父の道場は穢されないのだと、僕は深く安堵した。
それ以後の沢村は、相変わらず学校では威張り散らしていたものの、部活では多少大人しくなった。髪色を僅かに暗くし、活動日には大体出席して汗を流していた。
今になって分かることだが、部活動に精を出していた方が3年次の大学推薦で何かと有利に事が運ぶのだ。勉強もソコソコにできた沢村は、2年後の大学受験を見越していたのだろう。事実、彼は推薦制度を利用して大学へと進学していった。
沢村に先を見据える能力があることは認めるが、そのために他を利用するという狡猾な根性はつくづく気に食わない。
無骨な動作でハンドルを右に切り右折する。車が大きく揺れて後ろから罵声が飛んできた。僕はそれを無視して2人に向けて尋ねる。
「もう1人、遅れてくるんだっけ?」
沢村は露骨に舌を打ち、「ああ」と吐き捨てるようにして言った。続いて大西がぶつくさと口にしていたが、走行音にかき消されてよく聞こえなかった。
窓の景色は見慣れたものへと変わっている。僕たちが向かっている場所。
そこは、かつて彼らに穢された祖父の道場である。
短編として書いていたので種別を短編にしても良かったのですが、そうすると長くなり読みにくくなりそうだったので、分割し長編として投稿していきます。
既に書き終わっているので、今日中にすべて上げる予定です。