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『白鳥は水面を蹴り、愛は空に溶ける』  作者: かぐつち・くまナぱ(便乗期間限定w)


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1/1

①前半

お読みいただきありがとうございます!m(__)m<本作は、しいな ここみ様主催の『空飛ぶ○○企画』参加作品です。

◇  0、鏡面のような池と、迷いを乗せた白鳥


 公園の池は、驚くほど静まり返っていた。


枝いっぱいに咲いた桜が、空を覆いつくすように広がっている。


その淡いピンクのひとひらが、鏡のような水面に落ち、静かな同心円を描いた。


揺れる水面に細い航跡を残しながら、一艘の白いボートが、ゆっくりと横切っていく。


――キコ、キコ……


錆びついたペダルが刻む、規則正しくもどこか所在なげな音だけが、春の静寂を支配していた。


ボートの上には、制服姿の若い男女が座っている。


二人の間には、沈黙という名の透明な壁が立ちはだかり、決して埋まることのないわずかな距離を、残酷なほど際立たせていた。


少女は伏せ目がちに、波紋に揺れる自分の影を見つめ、少年は行き先を定めることもなく、ただ淡々と、祈るように足を動かし続けていた。



◇ 1、祈りと、微熱を帯びた静寂


 四月の朝。


まだ誰も起きていないリビングに、テレビの光だけが、深い水底の揺らぎのように静かに満ちていた。


日課である朝の学習を終えた制服姿の美咲は、ソファの端に腰かけ、ぼんやりと画面を見つめている。


薄いカーテンの隙間から差し込む光が、空気中を舞う微細な塵を、記憶の断片のように白く浮かび上がらせていた。


「――本日、太陽系の主要惑星が地球から見て十字に配置される、非常に珍しい天文現象“グランドクロス”が観測されます」


画面には、CGで作られた簡素な天体図が表示されている。


中央に据えられた地球。その周囲を、目に見えぬ糸で繋がれた惑星たちが、十字を刻むように冷たく並んでいた。


「この規模の配置は数百年に一度とも言われており、物理的な影響はないとされていますが――」


アナウンサーがわずかに言葉を切り、画面の外へと視線を逃がす。


「一部では、“象徴的に大きな変化が起こる日”とする見方もあります」


美咲は、膝の上に置いた小さな布に手を当てた。


指先が触れたのは、銀糸で綴じられた八芒星の角。


明け方の空で唯一、傲慢なほどに輝く『明星』の徴だ。


その周囲を囲むのは、波の泡を模した白い刺繍と、女神の象徴であるミルテ(銀梅花)の蔓。


――「これはね、一番大切な想いを失わないための布なのよ」


それは母から、そのまた祖母から代々受け継がれてきたという、古びたハンカチだった。


母の言葉を思い出しながら、美咲はその布の縁をなぞると、まるで誰かの手のひらのような温もりを、微かに、けれど確かに帯びているような感触を受けた。


(……変化、ね)


小さく息を吐くと、その震えが自分でも驚くほど熱を帯びていた。


(そんなもの、もうとっくに始まってる……)


気づいた時には、どうしようもないところまで、私たちは流されていた。


陽介との、触れれば壊れてしまいそうなほど脆い距離。


昔みたいに、何も考えず隣にいられた、あの透明な時間。


全部、少しずつ、でも確実に――変わってしまったのだ。


テレビの音が、やけに遠く聞こえる。


(……今日で、決める)


膝の上で、指がハンカチの縁をきゅっと握りしめる。


逃げない。誤魔化さない。


積み重ねてきた十六年を、ちゃんと終わらせるか――それとも。


美咲は、ほんのひとときだけ目を閉じた。


そして、誰にも聞こえない、自分だけの胸の奥で、静かに呟く。


「……どうか……」


何を願ったのか、自分でも分からない。


ただ、このハンカチに宿るという金星の加護が、汚れを知らない頃の二人の記憶を、明日へと繋いでくれるように。


それだけだったのかもしれない。


目を開ける。


テレビを消すと、部屋に重たい静寂が戻った。


美咲は立ち上がり、バッグを手に取る。


玄関の扉を開けると、春の冷たい空気が、頬を鋭く撫でていった。


振り返らない。


そのまま、一歩踏み出す。


その足取りは、迷いながらも、確かな重力アイを伴っていた。



◇ 2、砂を噛むような始業式と、背中の距離


 体育館に満ちる、埃の混じった独特の空気。


校長の話は、開け放たれた窓から差し込む春の陽光に溶け、意味を持たない音の羅列となって陽介の耳を通り過ぎていった。


陽介は列の後方で、数歩先に立つ美咲の背中を見つめていた。


ぴんと伸びた背筋と、時折春風にふわりと揺れる、少し短めのウェーブがかった髪。


その輪郭は、同じ空間にいるはずなのに、遠い銀河の彼方にある惑星のように、手の届かない輝きを放っている。


(……また、離されたな)


陽介は、自嘲気味に指先を丸めた。


この進学校に入ったのは、ただ美咲の隣にいたかったからだ。


中三の冬、血を吐くような思いで参考書にかじりつき、奇跡的に掴み取った合格通知。


けれど、入学して突きつけられたのは、自分が『追いついた』のではなく、彼女がただ『待ってくれていた』だけだという残酷な事実だった。


二年生になり、その差は隠しようもなく開いている。


学年トップクラスの成績でテニス部のエース、周囲には常に人が集い、教師たちからも一目置かれる美咲。


対する自分は、毎晩深夜まで机にかじりついても平均点付近を彷徨い、部活に入る余裕すら奪われた、ただの『勉強の犠牲者』だ。


──美咲がわずかに首を傾け、横を向いた。


視線が交差する予感に、陽介は慌てて目を逸らす。


「――陽介、また寝不足? 顔色が悪いよ」


式が終わった後の廊下。


すれ違いざまに投げられた、昔と変わらぬぶっきらぼうな声。


それが今の陽介には、鋭い刃のように胸を抉った。


「……ほっといてくれよ。余計なお世話だ」


言葉が、自分の意思に反して冷たく尖る。


彼女の純粋な懸念が、今の自分には耐えがたい『同情』にしか聞こえなかった。


美咲の瞳がわずかに揺れ、唇が何かを言いかけて止まる。


その沈黙が、重い鉛となって二人の間に沈殿していく。


かつては共有できていたはずの言葉が、今では喉の奥で砂のように乾き、飲み込むことすら叶わない。


窓の外、満開の桜が散り始めていた。


「……そう。……じゃあね……」


美咲の背中が遠ざかっていく。その歩みの確かさが、陽介にはどうしようもなく怖かった。



◇ 3、震えるポケットと、断絶の通知


 終わりを告げるチャイムが、静まり返った教室に無機質に響き渡った。


新二年生としての初日。緊張と倦怠が入り混じった空気の中、クラスメイトたちが椅子の脚を鳴らして立ち上がる。


陽介は、配られたばかりの分厚い参考書の束をカバンに詰め込みながら、深く、重い溜息をついた。


隣の席のクラスメイトが「この後、カラオケでも行く?」と親しげに声をかけてくるが、陽介は曖昧な愛想笑いを返すことしかできない。


今の彼にとって、放課後は『美咲に追いつくための自習時間』以外の何物でもなかったからだ。


――その時、制服のズボンのポケットが、短く二回震えた。


陽介は動きを止め、スマホを取り出す。


液晶画面に浮かび上がった差出人の名前に、心臓が嫌な跳ね方をした。


> 件名:(無題)

> 差出人:美咲

>

> 今日の放課後、あの公園の前で待ってる。

> 大事な話があるから。絶対に来て。


短い一文。


句読点の打ち方一つにまで、彼女の迷いのない、けれどどこか切羽詰まったような熱量が宿っている気がした。


(……大事な話?)


嫌な予感が、背筋を冷たく撫でる。


『あの公園』といえば、かつて二人でよく泥だらけになって遊んだ、そしてあの日、気まずい壁が生まれ始めた場所だ。


わざわざあそこを指定したということは、もう『幼なじみ』という曖昧な関係のままではいられないという宣告なのだろうか。


それとも、さらに遠くへ行ってしまう彼女からの、最後の挨拶なのだろうか。


陽介は画面を消し、スマホをポケットに放り込んだ。


カバンのストラップを握る手に、じわりと汗が滲む。


教室の窓の外では、満開を過ぎた桜が、風に煽られて激しく舞い散っていた。


その花びらが、まるで自分たちの残された時間を削り取っていく破片のように見えて、陽介は急き立てられるように教室を後にした。



◇. 4、境界線の公園と、撤去される『思い出』


 放課後。大切なふたりの思い出がある『あの公園』。


公園へ向かう坂道を登りながら、陽介の脳裏には高校1年の終業式の光景がこびりついて離れなかった。

 

放課後の昇降口。美咲を呼び止めていたのは、サッカー部のキャプテンで、成績も優秀、さらにはモデルのような体格を持つ友人だった。


(……あいつなら、美咲の隣にいても違和感がない)


美咲は、その告白を断った。


陽介が見ている前で、きっぱりと。  


けれど、その時に彼女が見せた『寂しそうな横顔』が、ずっと喉に刺さった魚の骨のように陽介の心を苦しめていた。


(…オレが情けない幼なじみだから、見捨てられなかっただけじゃないのか…?)


歩を進めるごとに、足取りが重くなる。  


公園の入り口に辿り着くと、池のほとりに美咲が立っていた。


岸辺には、色あせたスワンボートが葬列のように並んでいる。


「……遅い。相変わらずどんくさいんだから」


振り返った彼女は、いつも通りの不機嫌そうな、それでいてどこか無理をしているような笑顔を見せた。


夕焼けが彼女の制服をオレンジ色に染め、風がスカートを軽く揺らしている。  


「美咲。話って……」    


陽介の声が震える。


「……ねえ。このスワンボート、もうじき無くなっちゃうんだって。来年には撤去されるみたい」


美咲が、ポツリと呟いた。


視線の先には、無機質なバリケードが設置され、その背後では、撤去を待つボートたちが静かに水面に浮かんでいた。  


「……最後にもう一度、一緒に乗ってみない?」


美咲はそう言うと、視線を足元の砂利へと落とした。


彼女の誘いに、陽介の胸がズキリと痛んだ。



◇ 5、六年前の呪いと、ふたりの壁


 脳裏に蘇るのは、小学校六年生の、眩しいほどに青かった夏の日だ。


あの頃の二人は、今のような『格差』なんて微塵も感じていなかった。


ただの幼なじみとして過ごし、延長線として当たり前のように、この池でスワンボートを漕いだ。


『おい見ろよ、陽介と美咲がデートしてるぜ!』


──けれど、それを同級生に見られた瞬間、世界が変わった。


『知らないのかよ? **恋人がスワンボートに乗ったら別れる**ってウワサ、マジなんだぜ!』


幼い残酷さを含んだ茶化し。


あの日からだ。陽介が「美咲の隣」を意識しすぎて、自意識過剰な壁を作り始めたのは。


中学、高校と進むにつれ、優秀な美咲と、彼女を追うだけで精一杯な自分。


あの日の「別れる」という呪いが、少しずつ、でも確実に現実味を帯びて二人の距離を切り裂いていった。



◇ 6、 臆病な拒絶と、震える本音


 いつもなら陽介を射抜くような強い瞳が、今は長く伸びた睫毛の影に隠れている。


「……最後にもう一度、一緒に乗ってみない?」

 

その横顔は、夕闇が迫る公園の静寂に溶けてしまいそうなほど、儚く、どこか危うい。


「………どう、かな……?」


その声は、風にかき消されてしまいそうなほど小さかった。


けれど、陽介の鼓膜には、どんな絶叫よりも重く、切実に響く。


「……やめとこうぜ。また誰かに見られたら冷やかされるし……美咲に迷惑がかかるよ」


陽介は、逃げるように視線を逸らした。


本当は、天にも昇るほど嬉しい。


もう一度、あの狭いコックピットで彼女の体温を感じたい。傍にいたい。


けれど、今の自分には、彼女の『マドンナ』としてのブランドを傷つける資格なんてないと思い込んでいた。


「……どうして!?」


美咲が、弾かれたように声を荒らげた。


「どうして!? いつもそうなのよ! 迷惑なんて、一度だって思ったことない! ……分かってるんでしょ!? 私は、陽介が……っ!」


振り返った彼女の瞳に涙が溜まった。


震える唇を噛み締め、彼女は縋り付くような眼差しで陽介を見上げた。


その瞳には、オレンジ色の夕映えが揺れている。


強がりの裏に隠しきれない、剥き出しの孤独と、微かな期待。


それは期待というよりも、今にも壊れてしまいそうな大切な記憶を、必死に両手で掬い上げようとする者の色だった。


美咲の言葉が、喉の奥で詰まる。


(行かないで。私を、ここに置いていかないで)


声にならない叫びが、春の冷たい風に乗って陽介の胸を刺す。


その必死な表情に、陽介の胸の奥に溜まっていた『意地』と『劣等感』の防波堤が、音を立てて崩れ去った。


──「……わかったよ。乗ろう」


陽介は絞り出すように言った。


突き刺さるような自尊心も、逃げ腰な劣等感も、目の前で泣きだしそうな彼女の熱量に、跡形もなく焼き尽くされた。


「……これで最後だから。……最後だけ、付き合うよ」


それは、臆病な自分が吐き出せる精一杯の、そして最低の妥協だった。


『最後』という免罪符がなければ、彼女の隣に座る勇気すら持てなかったのだ。


美咲は、一瞬だけ驚いたように目を見開くと、すぐに鼻をすすって小さく頷いた。


「……最後じゃないかもしれないのに、バカね」

 

二人は導かれるように、岸辺に揺れる一艘のスワンボートへと足を踏み入れた。


ギィ……と不吉な音を立てて沈み込む船体。


狭い船室。否応なしに密着する肩と肩。


そこには、教科書にもテニスラケットにも邪魔されない、剥き出しの二人の距離があった。



◇. 7、重力アイの臨界点、あるいは消失の序曲


 ボートは、行き先を持たないまま、ゆっくりと揺れている。


美咲は俯いたまま、指先でスカートの裾を強く握りしめていた。


皺が寄るほどに力が入っているのに、そのことにさえ気づいていないようだった。


「あんたが……どんどん遠くに行っちゃう気がして」


声は低く、押し殺されていたが、その奥にある震えは隠しきれていない。


水面に落ちる言葉は、波紋のように広がって、逃げ場のない船内に満ちていく。


「私がどれだけ声をかけても、あんたは教科書ばっかり見て……」


そこで一度、言葉が途切れる。


美咲の喉が小さく鳴り、息を呑む音がやけに大きく響いた。


普段、学校で見せる凛としたエースの顔はどこにもない。


震える声と共に、長い睫毛が細かく波打ち、そこには今にも決壊しそうな寂しさが、夜露のように溜まっていた。


ゆっくりと顔を上げたその瞳は、夕焼けを映して赤く滲んでいる。


「……私のことなんて、もう見てないんじゃないかって」


その瞬間、陽介の胸の奥で何かが弾けた。


「そんなこと……!」


思わず立ち上がりかけ、ボートがぐらりと揺れる。慌てて座り直すが、その動揺は隠しようがなかった。


心臓が肋骨を裏側から叩き壊さんばかりに脈打ち、その音は鼓膜を、そして頭蓋を直接揺らす。


鼓動が早すぎて、呼吸がうまくできない。


陽介は反射的に、自分と彼女を隔てていた透明な壁を打ち破るように身を乗り出した。


「そんなことあるわけないだろ!」


声が、自分でも驚くほど荒く、大きく響いた。


「逆だよ、美咲……! 」


制御できない熱が、言葉を押し出していく。


「俺の方が、お前に追いつけなくて……。お前の隣にいる資格がないから、必死に……」


一度、言葉が詰まる。


「必死にページを捲るしか、なかったんだよ!」


吐き出した瞬間、十六年分の感情が、ダムが決壊した濁流のように溢れ出していった。


陽介の瞳には、かつてないほどの激しい熱が宿っていた。


それは自虐と、劣等感と、それを何万倍も上回る執着が混ざり合った色だ。


美咲が、弾かれたように顔を上げた。


驚きに見開かれた瞳。その中心で、陽介の必死な表情が夕焼けに溶けて揺れている。


熱を帯び、逃げ場を失った感情が、二人の間でぶつかり合っている。


そして──美咲の瞳から、一筋の涙が零れた。


水頬を伝う一筋の雫が、夕陽を反射して宝石のように輝く。


陽介は、その一滴から目を逸らせなかった。そして、同時に――もう逃げられないと悟る。


視線が絡む。至近距離でぶつかり合う。火花が散るような熱風が、二人の頬を赤く染め上げた。


「美咲、俺は――」

「陽介、私は――」


言葉にしようとした声が、瞬間、重なる。


陽介の右手が、吸い寄せられるように動いた。


震える指先が、彼女の華奢な肩を掴もうと、湿り気を帯びた空気を切り裂く。


震える指先が、彼女の肩に触れる寸前で、ほんのわずかに躊躇う。


触れてしまえば、もう戻れない。


そんな確信が、遅れて追いついた。


それでも――。


指先が、そっと彼女の肩へ触れた。


布越しに伝わる体温が、驚くほど熱い。


美咲もまた、逃げることを止めた。


彼女は陽介の手を拒むどころか、吸い込まれるように、その胸へとわずかに──本当にわずかにだけ身体を傾けた。


そのまま、互いに引き寄せられるように距離が縮まっていく。


白鳥のボートが、小さく軋んだ。


春の風が、水面を撫でる。

 

世界は変わらず静かなのに、二人の唇が、言葉よりも先に、互いの温度を求めて重なり合おうとした。


――その刹那だった。


天空の虚数領域で、神が、愉悦と共に指を鳴らした。



◇ 8、喪失のパレード、あるいは眉毛の宣戦布告


 世界を繋ぎ止めていた不可視の鎖が、音もなく弾け飛んだ。


足元の安定が、ふっと消える。


スワンボートの底板を踏みしめているはずの感覚が急に頼りなくなり、水の上に浮いているという事実だけが、遅れて意識に浮かび上がる。


身体がわずかに浮き上がるような、奇妙な浮遊感。重力が、薄い。


同時に――。


――ぽんっ!!


鼓膜を軽く叩く、間の抜けた破裂音。


胸の奥に溜まり続けていた、十六年分の熱が、内側から凄まじい圧力で押し出された。


言葉になるはずだった唇の温度も、肩に触れた指先の震えも、行き場を失ったまま、悍ましいほど鮮明な「形」を持って。


陽介の胸から、鮮やかなオレンジ色のハートの風船が。

美咲の胸から、淡いピンク色のハートの風船が。


夕焼け空を透かしながら、細い手持ちの紐を揺らし、ふわりと宙に浮かび上がった。


ボートの屋根すれすれをかすめ、開いた側面から、ゆっくりと外へ流れ出ていく。


二人は、動けなかった。ただ、呆然とそれを見上げる。


ついさっきまで、あれほど激しく胸を叩いていた鼓動が、魔法が解けたように「スン……」と静まり返った。


熱狂が去り、感情の源泉を根こそぎ抜かれた抜け殻のように、胸の内側が、怖ろしいほどからっぽになる。


「なっ……何だ、あれ……?」


陽介の声は、乾いていた。驚きも怒りも、感情そのものが存在しないため、うまく形にならない。


ピンクとオレンジの“それ”は、まるで二人の言葉を代わりに運ぶように、しかし無機質に、それを奪い去るように、ボートの外へと漂い出す。


その光景を見た瞬間、二人の脳裏に、共有してきた十六年の記憶が走馬灯のように駆け巡った。


砂場の喧嘩、手を繋いで歩いた帰り道、夕暮れの図書館、そして、あの日から作り上げてしまった高い高い壁。


そのすべてが、あの浮かび上がる光の塊の中に凝縮されている。


――あれは、ただの感情じゃない。


――私たちの、生きてきた証そのものだ。


それが今、目の前で失われようとしている。


「……待って」


美咲の唇がかすかに動く。空っぽになったはずの胸の奥で、魂の叫びのような、本能的な恐怖が燃え上がった。


「待って! 私のハート……行かないで!!」


彼女は立ち上がりかけ――ボートが大きく揺れた。


足元が不安定に傾く。座席の縁に手をつき、なんとか踏みとどまる。


それでも、美咲は身を乗り出した。開いた側面から、必死に手を伸ばす。


──だが、彼女の指先は空を掴むだけ。


ピンクのハートは、すでに空の下へと逃れていた。



◇. 9、全速力の航跡、あるいは重力を振り切る跳躍


 「くそっ……! 美咲、しっかり掴まってろ!」


陽介は叫ぶと同時に、全身の筋肉をペダルへと叩きつけた。


先ほどまでの卑屈な劣等感は、どこかへ吹き飛んでいた。


視線の先にあるのは、夕闇に溶けゆく空へと逃げる、自分たちの『十六年分の質量』だけだ。


キコキコキコッ!!


錆びついたギアが、悲鳴のような音を立てて高速回転する。


普通なら、足に乳酸が溜まり、動きが鈍るはずだった。


だが今の陽介は違った。


重力が希薄になったこの世界では、一漕ぎごとにボートが目に見えて加速し、水面を滑るというより、薄い空気の層を蹴立てて突き進んでいく。


「陽介、もっと! あと少しで届く……!」


美咲が船首で身を乗り出し、風に髪をなびかせて叫ぶ。


二人の前を漂うオレンジとピンクのハート。


風に煽られ、それは池の中央、最も空が広く開けた場所へと逃れていく。


(逃がすか……あんなに苦労して、やっと、やっと言葉にできたんだ……!)


陽介は歯を食いしばり、最後の力を脚に込めた。


ボートの速度が臨界点に達する。


船底が完全に水面を離れ、波紋さえ残さぬほどに軽やかになった瞬間――想いの風船が、急激な上昇気流に乗ってふわりと高度を上げた。


「――ッ!!」


だが――そんなことはどうでもよかった。


あのハートを失えば、自分はもう、二度と彼女を想うことなどできない。


そんな恐怖心があった。


陽介はペダルから足を離し、座席を蹴って立ち上がった。


「陽介!?」


美咲の驚愕の声を背に、陽介はボートの縁を力強く踏み抜いた。


かつての彼なら、転覆を恐れ、あるいは自分の無力を呪って、ただ見送っていただくだけだっただろう。


けれど、今の彼は迷わない。


ドォッ、と。


足場にしたスワンボートが、その反動で水面に深く沈み込む。


陽介の身体は、放たれた矢のように宙へと舞った。


スワンボートの屋根を越え、夕焼け空の真っ只中へ。


「うおおおおおおおッ!!」


重力が消失したかのような浮遊感の中、陽介は全身を伸ばし、その右手を虚空へと突き出した。


「届……けッ!!」


腕を伸ばす。全身を引き裂くように。指先が、オレンジの光に触れかける。


――刹那、陽介の視界が白く染まった。


十六年間のすべての記憶、言えなかった言葉、隠してきた涙。


それらすべてを、彼は空中で力強く、抱きしめるように掴み取ろうとした。


しかしハートは、風に持ち上げられるように、すっと浮き上がった。


陽介の指の間を、嘲笑うかのように、その紐がすり抜ける。


「……っ!」


バランスが崩れる。体が、前に持っていかれる。


「陽介、危ない!!」


美咲の悲鳴。咄嗟にボートの手すりを掴む。


ぐらり、と船体が大きく揺れ、水面が跳ねた。なんとか体勢を戻す。


だが――もう、届かない。


見上げた空で、オレンジとピンクの想いは、ゆっくりと、確実に遠ざかっていく。


二人の十六年が、パレードのように空へ消えていく。


ボートの上。揺れる足場。空っぽになった胸。


何もできず、ただ見送るしかない現実。


絶望が、静かに満ちていく――。


その時だった。


『――おい、小僧ッ!』


水面のすぐ傍から、低く、腹に響く声が割り込んだ。


二人ははっとして振り返る。


係留されたままの別のスワンボート。


その一艘――夕焼けを反射し、妙に鋭い眼光を放つ、『()()()()()()()()()()()』が、こちらを睨んでいた。


ゴゴゴ……と、場違いな重低音が水面を震わせる。


二人は目を見開いた。


そのスワンボートの下。


本来ならば水に浸かっているはずの船底が、夕焼けのオレンジ色を帯びた空気の中に、わずかに浮き上がっている。


それは、重力から解き放たれたこの狂った世界の、何よりの証明だった。


【この眉毛のあるスワンボートは空を飛ぶ】


ふたりの現実が、きしむ。


『何を情けない顔をしておる!』


スワンが、吠える。


『諦めるのは――俺の背に乗ってからにしろ!!』


その声だけが、空っぽになったはずの胸に、再び『本気マジ』の火を灯した。


揺れるボートの上で、二人は顔を見合わせる。


恐怖も、羞恥も、驚愕も、もうない。


あるのは、ただ一つ。


次の瞬間。二人は同時に、頷いた。


――取り戻す。私たちの、すべてを。


こうして――二人の『失われた本音』を取り戻す、重力無視の空中大追跡が、幕を開けたのである。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

…仕事が忙しすぎて、企画最終日にも間に合わない…終わらない…(´;ω;`)ウッ…


この後は、前半とガラリと雰囲気が変わっていく予定なのですが…(-_-;)

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― 新着の感想 ―
コメディーって書いてあったので、明るくて楽しい話かとおもいきや……。 ラブコメでしたか……。かなりシリアス寄りのラブコメなのかな?? ゜+(人・∀・*)+。♪ 一部除く。 と、言うわけで。騙された………
ある意味ありきたりな、すれ違うふたり。 周囲に囃し立てられ、素直さを閉じ込めてしまったふたり……………って、えっ!?(゜ロ゜) 眉毛の凛々しいスワンボート!? えっ(;゜O゜)? 空を飛ぶの!(o・д…
めちゃくちゃいい話やないかーーい(ToT) あれ…眉毛…ジャンルが…まさかのコメディだ…w
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