第3話:出口はどちら(前編)
この世界は、おそらく並行世界。
どこかで、我々と分岐した世界。
超常との距離が、わずかに近い世界。
この超常を総称して「幽玄」という。
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薄暗い部屋。
壁一面の棚には紙の依頼書が並び、電子端末と古い書類が混在している。
都市のどこかにある、住所を持たない事務所。
人はここを「交渉窓口」と呼ぶ。
机の上に、新しい依頼書が一通置かれている。
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《依頼書》
依頼者:幽玄管理庁(UGA)監査局
依頼内容:地下鉄構内における認識異常の調査および安定化
現場:都営地下鉄 某駅(詳細座標は別紙暗号添付)
異常概要
・利用客が「出口が一つ多い」と証言
・監視カメラ映像では確認不可
・複数の乗客が同一内容を証言するが、改札外へ出た後その記憶を否定する傾向あり
・3名が「出口の向こうに誰かがいた」と証言
制約
・駅は通常営業を継続中
・UGAの大規模封鎖不可
・一般人への認識拡散を抑制すること
報酬
成功報酬 480万円
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依頼書の横で端末が静かに光っている。
通信回線の向こうから、幽玄管理庁(UGA)監査局の担当官が補足を送ってきた。
「証言の共通点が一つあります」
短いノイズのあと、声が続く。
「その“余分な出口”を見た人間は、全員こう言いました」
わずかな間。
「出口の看板には、駅名が書かれていなかった」
通信はそれで途切れた。
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窓の外では、夕方の街が静かに沈んでいく。
依頼書は机の上で、何も言わずそこにある。
「受けるよ」
その声に、部屋の空気がわずかに動いた。
机の端末が受諾信号を送信する。
依頼書の端に小さく「受諾」の電子印が浮かび上がった。
数秒後、暗号化された添付ファイルが自動展開される。
現場座標。
駅構造図。
地下鉄網の中でも、比較的古い路線の一つだった。
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夜の地下鉄駅。
終電にはまだ時間がある。
改札付近には仕事帰りの人間がまばらに流れ、売店のシャッターは半分下りている。
蛍光灯の白い光が床に反射し、どこか乾いた空気が漂っていた。
この駅は三つの出口を持つ。
A出口
B出口
C出口
構造図もそう記している。
だが――
構内案内板の前で、一人の駅員が首をかしげていた。
制服の胸には名札。
中年の男性だ。
彼は案内板を見上げたまま、小声で呟く。
「おかしいんですよ……」
余白は黙って隣に立つ。
駅員は案内板を指さした。
「昨日、帰り際に一瞬だけ見えたんです」
「この案内板に――」
指先が表示をなぞる。
A出口
B出口
C出口
駅員は眉をひそめる。
「もう一つあったんです」
「D出口って」
少し苦笑する。
「でもね、今見ると無いんです」
肩をすくめる。
「だから、疲れてたのかなって思って」
少し沈黙してから、男は付け足した。
「ただ……」
案内板の下の通路へ視線を落とす。
「その時、あの通路が」
言葉を探すように間を置く。
「……暗かったんですよ」
改札の向こう。
ホームへ降りる階段の横に、案内板が立っている。
人の流れは普通だ。
異常は、まだ何も起きていない。
ただ――
構内の奥。
ホームから吹き上がる地下鉄の風が、一瞬だけ妙な反響をした。
まるで、存在しない通路に風が流れたような音だった。
駅員が小さく笑う。
「不思議だね」
余白が軽く頷く。
「ええ、不思議ですよね」
駅員は案内板を見上げた。
「私、ここ十年この駅なんですけど」
「出口が増えるなんてこと、普通あり得ないでしょう?」
人の流れが横を通り過ぎていく。
スーツ姿の男。学生。買い物袋を持った女性。
誰も案内板を気にしていない。
駅員は声を少し落とす。
「それともう一つ」
「昨日、その“D出口”の方から……」
視線が泳ぐ。
「子供の声がした気がしたんです」
「笑ってる声」
少し迷って言い直す。
「……駅の外からじゃなくて」
「通路の奥から」
彼は苦笑する。
「変でしょう?」
その時。
ホームの方から電車の接近アナウンスが流れた。
風が構内を吹き抜ける。
案内板の金属枠が、わずかに震えた。
――その一瞬。
案内板の表面に映った光が歪む。
A出口
B出口
C出口
その下に。
ほんの一瞬だけ。
D出口
という文字が、反射の中に浮かんだ。
だが、すぐに消える。
駅員は気づいていない。
人の流れも止まらない。
ホームの奥から、電車が滑り込んでくる音が近づいてくる。
そして――
通路の奥から、誰にも聞こえないほど小さな声が落ちてきた。
『……みつけた』
余白がわずかに眉を上げる。
「僕かな?」
電車がホームに滑り込み、風が構内を走り抜ける。
その音の中に、さっきの声はもう混ざっていない。
駅員は何も気づかず、改札の方をちらりと見た。
肩をすくめる。
「今の時間はそこそこ人が多いんでね」
「もし変な通路があっても、誰かが騒ぎそうなもんなんですが」
彼はもう一度案内板を見上げた。
「……でも昨日は、確かに」
「D出口って」
そこまで言って、言葉を止めた。
案内板の下の通路。
ホームへ降りる階段の横にある短い連絡通路。
普段は売店の裏壁で行き止まりになる場所だ。
だが今。
そこだけ照明が、ほんの少し暗い。
蛍光灯は点いている。
壊れているわけではない。
なのに、光が届ききっていない感じがある。
通路の奥は行き止まりのはずだ。
構造図でもそうなっている。
しかし――
通路の床に、影がある。
誰のものでもない影。
まるで、通路の奥に誰かが立っている形の影が、床に細く伸びている。
そして。
さっきと同じ声が、今度はもう少しはっきりと聞こえた。
『ちがう』
『きみじゃない』
少し考えるような間。
『……でも』
『きみ、見えてる』
余白が通路を見たまま言う。
「駅員さん」
少し間を置く。
「これから“出る”よ。戻った方がいい」
駅員は一瞬きょとんとした。
だが余白の言葉の調子を聞いた瞬間、冗談ではないと察したらしい。
「……え?」
反射的に通路の方を見る。
その時だった。
構内アナウンスが流れる。
「まもなく二番線に――」
途中で、音が歪んだ。
スピーカーが壊れたわけではない。
音声が途中で、別の空間に吸い込まれたように途切れる。
ホームから吹き上がる風が、また通路の方へ流れた。
今度ははっきりしていた。
行き止まりのはずの通路の奥へ、風が抜けていく。
駅員の顔から血の気が引く。
「……通路、あんなに奥ありましたっけ」
照明が一瞬だけ瞬いた。
通路の奥の壁。
そこに、うっすらと線が浮かぶ。
壁の継ぎ目ではない。
ドアの輪郭。
その上。
薄く、ぼやけた表示が浮かぶ。
D出口
だが看板には駅名が書かれていない。
ただ、D出口とだけある。
駅員は思わず一歩下がった。
「……こんなの、昨日は」
その瞬間。
扉の向こうから、声がした。
今度はさっきよりもはっきりと。
『ねえ』
『ここ、どこ?』
通路の奥の空気がわずかに揺れる。
影が動いた。
子供の輪郭だ。
だが影は、床ではなく壁の方へ伸びている。
声は続く。
『出口って書いてあるのに』
『外がないんだ』
短い沈黙。
影がゆっくりこちらへ向く。
『だれか』
『帰り方、知ってる?』
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