第2話:退院の日(後編)
余白は静かに答えた。
「死んだらね。退院だよ」
壁の向こうで、患者はしばらく何も言わなかった。
呼吸音も一瞬止まる。
看護師が小さく息を呑む。
廊下の空気が、少しだけ冷えた気がした。
やがて。
布団がわずかに動く。
『……死ぬ』
患者はその言葉を、ゆっくり繰り返す。
『そうか』
少し間。
『退院』
呼吸。
『そういうものか』
声は不思議なくらい穏やかだった。
怒りも恐れもない。
長く待っていた人が、やっと順番を聞いたような声音だった。
沈黙。
それから。
『余白』
呼吸。
『俺』
少し間。
『死んでる?』
看護師が思わず壁から半歩下がる。
廊下の灯りが、わずかに揺れた。
患者の声が続く。
『ずっと』
『ここにいる』
呼吸。
『検査もない』
『看護師も来ない』
少し沈黙。
『……でも』
布団がわずかに擦れる。
『痛くない』
呼吸。
『だから』
静かな声。
『まだ生きてると思ってた』
廊下は静まり返っている。
そのとき。
患者が、ぽつりと言う。
『余白』
『退院するには』
少し間。
『どうすればいい』
余白が答える。
「部屋から出といで」
沈黙。
長い沈黙。
呼吸だけが、ゆっくり続いている。
――スー……
――スー……
看護師は息を止めたまま壁を見ている。
やがて。
布団が大きく擦れる音。
ベッドのスプリングが、ぎし、と鳴る。
『……出る』
患者が小さく繰り返す。
『部屋から』
少し沈黙。
『廊下に』
呼吸が少し速くなる。
『余白』
布の音。
床に足を下ろす音がする。
『扉』
沈黙。
『……どこだ』
壁は、ただの壁だった。
だが。
ゆっくりと。
壁紙の境目が、わずかに歪む。
看護師が小さく声を漏らす。
「……扉」
壁の中央。
そこだけ、影の形が変わる。
古い木製扉の輪郭が、薄く浮かび上がる。
十年前に消えたはずの305号室の扉。
内側から、ノブが回る音。
カチャ。
沈黙。
ゆっくり。
扉が、少しだけ開く。
暗い病室の隙間から、白い病衣の影が見える。
顔はまだ見えない。
患者の声が、すぐ近くから聞こえる。
『……ここが』
呼吸。
『廊下か』
余白が言う。
「そして、君の“外”さ」
扉の隙間が、ゆっくりと広がる。
古い蝶番がきしむ音が、静かな廊下に溶けた。
白い病衣の影が、扉の向こうに立っている。
暗い病室の中から、足元灯の淡い光へ一歩だけ近づく。
看護師は息を止めていた。
患者は、しばらく廊下を見ている。
まるで。
長い夢から覚めた人のように。
やがて、小さく言う。
『……外』
呼吸。
『ここが』
少し間。
『俺の外』
白い影が、ゆっくり扉を越える。
その瞬間。
廊下の空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
患者は立ったまま、しばらく周囲を見ていた。
だがその姿は、ぼんやりと透けている。
光の中で輪郭が薄れている。
看護師がかすれた声で呟く。
「……患者さん」
その声に、影が振り向く。
顔は、ようやく見えた。
若い男だった。
二十代前半ほど。
とても穏やかな顔。
男は余白を見て、小さく頷く。
『余白』
呼吸。
『退院』
少し間。
『できた』
その言葉のあと。
男の輪郭が、静かに薄くなる。
廊下の光の中で、霧のように消えていく。
最後に残ったのは、かすかな声。
『……ありがとう』
そして。
扉も、消えた。
壁はただの壁に戻っている。
305号室は、もうどこにもない。
看護師が壁を見たまま立ち尽くしていた。
やがて、深く息を吐く。
「……寝息」
小さく言う。
「聞こえなくなりました」
廊下は、ただの夜勤の病棟に戻っていた。
⸻
《事案結果通知》
事案
城南総合病院
第三病棟 幻在病室(305号室)
結果
幽玄存在の離脱確認
現象消失
被害
なし
評価ランク
S
成功報酬
950万円
追加評価
早期解決 +200万円
幽玄安定化評価 +150万円
支払総額
1,300万円
⸻
夜の病棟には、もう寝息は聞こえなかった。
だが。
夜勤記録の端に、
誰も書いていない一行が残っていた。
305号室
退院
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