第2話:退院の日(前編)
この世界は、おそらく並行世界。
どこかで、我々と分岐した世界。
超常との距離が、わずかに近い世界。
この超常を総称して「幽玄」という。
⸻
《依頼書》
依頼者
城南総合病院
依頼内容
夜間病棟で発生している不可解な巡回記録の調査。
看護師が「存在しない患者を診察している」という記録が残る。
現場
城南総合病院
第三病棟(旧病棟区画)
異常概要
夜勤記録に「305号室の患者対応」と記載されているが、
305号室は現在存在しない。
十年前の改修で廃室となり、現在は壁で塞がれている。
しかし夜勤スタッフの数名が、
「巡回で305号室を確認した」と証言している。
電子カルテには該当患者は存在しない。
制約
現役病院のため病棟封鎖不可。
患者への不安拡散を避けること。
成功報酬
950万円
⸻
依頼書を閉じると、担当者が一度だけ口を開いた。
UGA交渉局の女性職員だった。
「……一つだけ、気になることがあります」
彼女は資料の一枚を差し出す。
「夜勤看護師の報告です」
短いメモだった。
305号室
呼吸安定
点滴交換済
患者、眠っている
誰もいないのに、寝息が聞こえる
職員はそれ以上説明しなかった。
⸻
深夜。
城南総合病院 第三病棟。
古い建物特有の静かな廊下が続いている。
蛍光灯は落とされ、足元灯だけが淡く床を照らしていた。
消毒液の匂い。
遠くでモニターの電子音が一度だけ鳴る。
夜勤の看護師が一人、廊下の途中で立ち止まった。
三十代くらいの女性で、どこか疲れた顔をしている。
彼女は小声で言う。
「……ここです」
指差した先。
廊下の途中の壁。
そこだけ壁紙の色がわずかに違う。
かつて扉だった場所を、後から壁にした跡だった。
「ここが……305号室です」
看護師は少し躊躇してから続ける。
「夜の巡回をしてると」
「ここに扉がある気がするんです」
廊下は静かだった。
空調の低い音だけが続いている。
看護師は壁を見ながら言う。
「それで……つい」
「ノックしちゃうんです」
少し沈黙。
看護師は視線を落とした。
「最初は誰も信じません」
「でも」
小さく息を吐く。
「巡回を何回かしていると……」
彼女は壁を見たまま言う。
「……聞こえるようになるんです」
沈黙。
そのとき。
とても小さく。
壁の向こうから。
――スー……
ゆっくりした呼吸音が聞こえた。
まるで。
誰かが眠っているみたいに。
「寝息が聞こえる」
看護師の肩が小さく震えた。
彼女は壁を見たまま、ゆっくり頷く。
「……聞こえますよね」
廊下は静まり返っている。
壁の向こう。
――スー……
――スー……
深く、静かな寝息だった。
看護師が小さく言う。
「夜勤の人、だいたい三日くらいで聞こえるようになるんです」
彼女は壁を見たまま続ける。
「最初は誰も信じません」
「でも巡回を何回かしてると」
少し沈黙。
「……“患者さんがいる気がする”んです」
そのとき。
寝息が、少しだけ変わる。
――スー……
間。
――……スー……
呼吸が浅くなる。
眠りが浅くなったような、そんな変化。
看護師が小さく息を飲む。
「……起きる」
とても小さな声だった。
そして。
壁の向こうから、かすかな衣擦れの音。
布団が動くような音。
少し沈黙。
それから。
壁の向こうで、かすかな声。
『……看護師さん』
余白が小さく言った。
「呼んでるね」
看護師は一瞬だけ固まった。
壁の前で立ったまま、まばたきも忘れたように動かない。
廊下の足元灯が、静かに床を照らしている。
消毒液の匂いが、わずかに強く感じられた。
壁の向こうから、もう一度。
『……看護師さん』
声は弱い。
子どもとも大人ともつかない、眠気の残った患者の声だった。
看護師は喉を鳴らす。
「……呼ばれてます」
小さく言う。
だが壁の前から動かない。
彼女は壁を見たまま、低く続けた。
「最初に聞いた人は……」
少し沈黙。
「返事したそうです」
壁の向こうで、布団が擦れる音。
『……誰か』
呼吸が少し速くなる。
『巡回……?』
その声は、完全に「病室の中の患者」だった。
静かな夜の病棟で、看護師を呼ぶ患者の声。
看護師の声が震える。
「でも……」
彼女は壁を見たまま言う。
「305号室は」
小さく首を振る。
「十年前に、なくなってるんです」
そのとき。
壁の向こうで、少し沈黙。
そして、ゆっくり。
『……そこに』
『いるのか』
声は、今度は余白の方へ向いていた。
余白が答える。
「僕のことかい?」
壁の向こうで、呼吸が少し止まった。
まるで布団の中で、こちらの声を聞こうとしているような沈黙。
看護師は息を潜めている。
廊下の空気は、静かな夜勤の病棟そのものだった。
やがて。
壁の向こうの声が、小さく返る。
『……うん』
少し間。
『看護師さんじゃない』
布団が擦れる音。
『でも』
『いる』
呼吸が浅くなる。
『ここに』
壁の向こうで、何かがゆっくり体を起こすような気配。
寝具の重さが動く音。
看護師が小さく呟く。
「……起き上がってる」
そのとき。
壁の向こうから、声がまた落ちる。
『……ここは』
少し沈黙。
『305号室』
呼吸。
『だよね』
壁は、ただの壁だった。
だがその向こうからは確かに、病室の気配が続いている。
『……誰』
小さく、問いかける声。
『夜の人?』
余白が言った。
「君こそ誰。患者さん?」
壁の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
呼吸音だけが、静かに聞こえる。
布団の中で、誰かが考えているような間だった。
やがて。
『……患者』
その言葉を、小さく繰り返す。
『そう』
少し安心したような声。
『患者』
布が擦れる音。
ベッドの上で姿勢を直した気配がある。
『入院してる』
呼吸が少し落ち着く。
『検査』
少し間。
『長くなるって』
また沈黙。
『……名前』
小さく続く。
『忘れた』
看護師が思わず小さく息を吸う。
壁を見たまま、動けない。
壁の向こうの声は続く。
『でも』
呼吸。
『ずっと』
『ここにいる』
少しだけ、声が不安そうになる。
『……看護師さん』
沈黙。
『巡回、来なくなった』
布団がわずかに動く。
『みんな』
『帰った?』
廊下は静かだった。
壁のこちら側には、病室は存在していない。
そのとき。
患者の声が、もう一度。
『……あなた』
『どこの人?』
余白が肩を軽くすくめた。
「どこだと思う?」
壁の向こうで、布団がわずかに擦れる。
患者はすぐには答えなかった。
呼吸だけが、ゆっくり続いている。
廊下の足元灯が、静かな光を落としている。
看護師は壁を見たまま、微動だにしない。
やがて。
『……廊下』
小さな声。
『巡回の人』
少し間。
『夜の人』
呼吸。
『でも』
布団が少し動く。
『声が』
少し考えるような沈黙。
『違う』
看護師が小さく息を呑む。
患者の声が続く。
『……お医者さんでもない』
『看護師さんでもない』
少し間。
『じゃあ』
呼吸。
『見回りの人?』
布団が少し動く。
『それとも』
沈黙。
『……まだ来てない人?』
壁の向こうで、ベッドのスプリングがきしむ音。
『ここ』
呼吸。
『長いんだ』
小さく言う。
『だから』
沈黙。
『新しい人が来るの』
『待ってる』
余白が軽く言った。
「どうも。新参者の余白です」
壁の向こうで、呼吸が一度だけ止まった。
布団の中で、誰かがこちらの言葉を聞き直したような間。
廊下は静かだ。
ナースステーションの方向から遠い機械音がかすかに響く。
やがて。
『……新参者』
患者はその言葉をゆっくり繰り返す。
『余白』
少しだけ間。
『変な名前』
だが声には、わずかな安堵が混じっていた。
布団が擦れる音。
ベッドの上で体を起こしているらしい。
『じゃあ』
呼吸。
『今日から巡回?』
沈黙。
『……よかった』
声が少し柔らかくなる。
『誰も来なくなったから』
呼吸。
『ここ』
『夜が長い』
看護師が小さく呟く。
「……会話してる」
彼女は信じられないものを見るように、壁を見つめている。
そのとき。
壁の向こうの患者が、ふと思い出したように言う。
『余白』
少し間。
『305号室』
呼吸。
『まだ』
『ある?』
余白が言った。
「君は、どう思うね」
壁の向こうで、患者はすぐには答えなかった。
呼吸音だけが、静かな病棟の夜に溶けている。
看護師は壁を見たまま動かない。
足元灯の光が、廊下に長い影を作っていた。
やがて。
『……ある』
小さく、しかしはっきりした声。
『ここにある』
布団が少し動く。
『ベッドも』
『窓も』
呼吸。
『天井も』
少し間。
『だから』
声が少し迷う。
『ある』
沈黙。
『……でも』
呼吸が浅くなる。
『廊下の音』
小さく言う。
『遠い』
布団がわずかに擦れる。
『前は』
『すぐ外に聞こえた』
少し沈黙。
『今は』
呼吸。
『……遠い』
看護師が低く呟く。
「……改修工事で」
彼女が説明する。
「305号室は」
壁を見たまま続ける。
「廊下の奥にありました」
彼女は指で、今の壁の少し先を示す。
「でも十年前に」
沈黙。
「病棟の構造が変わって」
小さく言う。
「廊下ごと……なくなったんです」
そのとき。
壁の向こうの患者が、ぽつりと言う。
『……ああ』
呼吸。
『だから』
少し沈黙。
『遠いのか』
布団がわずかに動く。
『余白』
静かな声。
『廊下』
『まだ続いてる?』
余白が答える。
「君にとっては、ね」
壁の向こうで、患者はすぐには答えなかった。
呼吸音だけが、ゆっくりと続いている。
――スー……
――スー……
看護師は壁を見つめたまま、小さく息を吐いた。
夜の病棟は相変わらず静かだ。
やがて。
『……そうか』
患者が小さく言う。
『俺にとっては』
呼吸。
『ある』
布団が少し動く。
『でも』
少し沈黙。
『みんなにとっては』
呼吸。
『ない』
沈黙。
患者は、そこで言葉を止めた。
長い間。
呼吸だけが続いている。
――スー……
――スー……
やがて。
小さく。
『……ない?』
迷うような声。
少し間。
『いや』
呼吸。
『でも』
布団がわずかに動く。
『俺にはある』
静かな夜の病棟。
その言葉は、
ゆっくり自分に言い聞かせるようだった。
看護師が思わず小さく呟く。
「……理解してる」
壁の向こうで、患者が続ける。
『余白』
呼吸。
『廊下が遠くなって』
『巡回が来なくなって』
少し間。
『それでも』
布団がわずかに擦れる。
『俺は』
『ここにいる』
沈黙。
『……これ』
呼吸。
『退院?』
壁の向こうのベッドが、小さくきしんだ。
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