第13話:先輩、後輩(中編)
本作は「日曜日・水曜日」の週2回更新です。
凪の肩が、わずかに強張る。
背後を振り返らない。
代わりに、低く吐き出す。
「分けてない」
短い否定。だが即答ではない。
「俺は——」
言葉が一瞬だけ止まる。
ガラスに映る水の顔が、ゆっくりと“こちら側”へにじむ。
境界が曖昧になる。
『じゃあ、どうして』
今度は、奥の水槽の影が口を動かす。
声は別の位置から重なる。
『名前をつけたの』
凪の喉がわずかに鳴る。
「識別のためだ」
『識別?』
水が笑うように波打つ。
ガラス面に、文字のような歪みが浮かぶ。読もうとすると形が崩れる。
『同じなのに?』
一拍。
その間に、館内の空気がわずかに重くなる。
奥の通路。
並んだ水槽のいくつかに、“同一の顔”が並び始めている。
年齢も、服も、微妙に違う。
だが全部——同じ人物に見える。
凪の呼吸が浅くなる。
「……三人じゃなかったのかよ」
『増えてないよ』
すぐに返ってくる。
『最初から、いっぱいあった』
ガラスの水が、今度は余白の立つ位置へわずかに伸びる。
触れてはいない。だが距離が近い。
『見てるでしょ?』
声の位置が、定まらない。
『選んでるでしょ?』
奥の水槽のひとつ。
その中の“人影”が、ゆっくりと手を上げる。
助けを求めるようにも見えるし、展示物のポーズのようにも見える。
そして。
『どれを、本物にするの?』
凪は一瞬だけ余白を見る。
反応がない。
「……ちっ」
小さく舌打ちが漏れる。
「見てるだけかよ」
苛立ちというより、焦りが滲む。
視線を再び水槽へ戻す。
「本物なんて決める必要はない」
言葉を押し出すように続ける。
「全部ただのズレだ。収束させる」
その瞬間。
ガラスに張り付いた水が、ぴたりと止まる。
動きが、意図を持ったように変わる。
『収束?』
今度は、声がはっきりと凪の正面から響く。
『減らすってこと?』
奥の水槽。
手を上げていた影が、今度は“引き戻される”ように後ろへ沈む。
別の水槽で、同じ顔がこちらに近づく。
ガラスに、内側から触れる。
指の形だけが水を押し上げる。
『あなたが選ぶと』
声が、わずかに歪む。
『いくつ消えるの?』
凪の呼吸が止まる。
ほんの一瞬。
その隙間に。
館内の照明が一つ、落ちる。
暗くなる。
だが、水槽の中だけが明るくなる。
並んだ“同じ顔”たちが、全てこちらを向く。
『ねえ』
今度は、さっきの最初の声。
ガラスの表面から。
『あなたは、どこまで数えたの?』
余白は小声で言う。
「……凪くん、代わろうか?」
凪の呼吸が、一瞬だけ乱れる。
視線は水槽から外れない。だが、言葉はすぐには出てこない。
喉がわずかに動く。
「……いや」
短い拒否。
だがその声は、さっきよりわずかに低い。
「まだ、やれる」
その瞬間。
水槽の内側で、ひとつの“同じ顔”が笑う。
遅れて、他の顔も同じ角度で笑う。
完全に一致しているのに、どれも“別”に見える。
『まだ?』
声が重なる。
『じゃあ、途中なんだ』
ガラスの水が、今度は凪の足元へ流れ落ちる。
床に触れたはずなのに、広がらない。
そこに“留まる”。
『数えきってないのに』
一拍。
『減らそうとしてる』
奥の通路。
並んだ水槽の奥、さらにその奥。
本来見えないはずの位置に、“もうひとつの通路”が見える。
そこにも同じ水槽が並んでいる。
そして、その中にも——同じ顔。
凪の瞳孔がわずかに開く。
「……増えてるだろ」
『違うよ』
すぐに返る。
『見えてるだけ』
ガラスの表面が、ゆっくりと波打つ。
そこに、数字のようなものが浮かびかけて——崩れる。
『ねえ』
声が、今度は余白のすぐ近くで鳴る。
触れていないのに、距離が近い。
『その人、止めないの?』
余白は幽玄に視線を定める。
「うん。新人研修中」
一瞬。
水の動きが、止まる。
まるでその言葉を“理解しようとしている”ように。
『教育?』
声がわずかに歪む。
ガラスの表面に、細いひびのような水の筋が走る。割れてはいない。ただ、線だけが増える。
『減らす練習?』
奥の水槽。
さっき沈んだ“同じ顔”が、今度は別の角度で浮かび上がる。
目が合う。
だが、その目は凪ではなく——余白を見ている。
『それとも』
一拍。
『選ぶ練習?』
凪の肩がわずかに動く。
「違う」
今度は即答。
だが続きが出ない。
足元の水が、わずかに広がる。
凪の靴の形に沿って、ぴたりと止まる。
『じゃあ、何をしてるの』
声が、今度は複数になる。
ガラス、床、水槽の奥。
位置がバラバラに重なる。
『同じものを』
『違うって言う人?』
『違うものを』
『同じって言う人?』
館内の奥。
さらに奥の見えない通路から、足音がひとつ聞こえる。
濡れた足音。
ぺたり、ぺたりと近づいてくる。
だが姿は見えない。
『あなたたち、どっち?』
「どちらでも」
その一言が落ちた瞬間。
水の動きが、ほどける。
張り詰めていた緊張が、方向を失ったように散る。
『どちらでも』
声が、ゆっくりと繰り返す。
今度は歪まない。
そのまま受け取ろうとするように。
『選ばない?』
ガラスの水が、静かに引いていく。
完全には消えない。だが、“境界”が戻る。
奥の水槽。
並んでいた“同じ顔”のいくつかが、ゆっくりと視線を外す。
こちらを見ていない。
『決めないなら』
一拍。
床の水が、今度は凪の足元から離れる。
『減らさなくていいね』
凪の肩が、わずかに落ちる。
呼吸が戻る。
「……は?」
理解が追いつかない声。
その横で、奥の通路。
見えていた“もうひとつの通路”が、静かに薄れていく。
最初から無かったように。
だが完全には消えない。輪郭だけが残る。
『でも』
声が、今度ははっきりと余白の正面から響く。
ガラス越しではない。
『同じままじゃ、困る人もいる』
水槽のひとつ。
その中の“同じ顔”が、初めて言葉と一致して口を動かす。
「……帰りたい」
声は震えている。
別の水槽。
同じ顔が、違う調子で続ける。
「ここじゃない」
さらに別。
「最初のに戻してくれ」
凪の視線が揺れる。
数を数えようとして、やめる。
『ねえ』
声が静かになる。
『選ばないなら』
一拍。
『どうやって、戻すの?』
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