第13話:先輩、後輩(前編)
本作は「日曜日・水曜日」の週2回更新です。
この世界は、おそらく並行世界。
どこかで、我々と分岐した世界。
超常との距離が、わずかに近い世界。
この超常を総称して「幽玄」という。
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《依頼書》
依頼者:UGA交渉局
依頼内容:境界都市内における認識不整合事案の調査および収束
現場:境界都市「朧ヶ崎」 第三区画・旧水族館跡
異常概要:
・同一人物の記録が複数存在し、相互に一致しない
・来訪者の一部が「展示されていた」と証言
制約:
・施設の完全封鎖不可
・一般来訪者の認識改変は最小限に抑えること
報酬:1800万円
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「今回、同行を付けることになってる」
低く抑えた声が、書面の向こうから続く。
「若手の交渉人だ。実地で見せてやってほしい、って話でな」
紙の端がわずかに揺れる。室内に風はない。
「……正直、あいつはまだ“対話”を理解してない」
「いいよ」
紙面の揺れが止まる。
それと同時に、室内の空気がわずかに軽くなる。何かが「進んだ」ことだけが、確かに感じ取れる。
「助かる」
短くそう言ってから、相手は一拍だけ言葉を選ぶ。
「同行はすでに現地入りしてる。名前は——」
わずかな沈黙。
「……記録上は“凪”。登録名だ」
机の上に置かれた別紙が、ひとりでにめくれる。そこに顔写真はない。代わりに、筆圧の揺れる短い記述だけが並んでいる。
《対話傾向:強制介入寄り》
《幽玄への認識:対象化》
「壊すなよ、とは言ってあるが……聞くかどうかは別だ」
わずかに苦笑が混じる。
「現場はまだ“展示中”らしい」
その言葉だけ、妙に引っかかる。
「入れば分かる」
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境界都市・朧ヶ崎。
海沿いに築かれた都市は、昼でも光が鈍い。霧が薄く張り付いたような空気が、建物の輪郭をわずかに曖昧にしている。
旧水族館は、その中でもさらに色を失って見えた。
看板は残っているが、文字の一部が読めない。剥がれているのではなく、「認識が滑る」ように視線から抜け落ちる。
入口は開いている。封鎖はされていない。
ガラス扉の向こう、人影がひとつ立っている。
若い。だが、立ち方に迷いがない。
「……遅い」
こちらを見ているが、視線はどこか正確ではない。焦点が微妙にずれている。
「中、もう動いてる」
短く言い切る。
その背後、館内の奥。
水槽が並んでいるはずの暗がりの中で、何かが“こちらを見返した”ような感覚だけが残る。
「やあ、余白だよ。君は?」
若い交渉人は、ほんの一瞬だけ表情を止める。
視線がわずかに揺れ、それから、こちらに“合わせ直す”。
「……凪」
短く名乗る。
間を置かず、続ける。
「登録名。そっちは知ってる」
言葉は素直だが、どこか測るような響きが混じる。
凪の視線が、余白の輪郭をなぞるように動く。顔ではなく、存在の“縁”を見るような目。
「噂も」
わずかに、眉が動く。
「交渉で全部終わらせる人、でしょ」
その言い方には、肯定とも否定ともつかない温度がある。
背後の館内から、水の音がした。
本来、水はないはずの場所から。
ぽたり、と一滴。
凪は振り向かない。
「中、もう三人分ズレてる」
言葉が少しだけ早くなる。
「同じ顔が三種類いる。全部“本物”って言い張ってる」
わずかに息を吸う。
「で——」
そこで、初めて声がわずかに低くなる。
「ひとつは、“展示されてた側”の話をしてる」
再び、水音。
今度は、さっきより近い。
ガラスの向こう、暗がりの奥。
何も見えないはずの水槽の内側に、輪郭だけが一瞬浮かぶ。
人の形に似ているが、立っていない。
漂っている。
そして、遅れて——
『見てるの?』
声が、水の中からではなく、ガラスの“表面”から響く。
「凪くん、やってみるかい?」
凪はわずかに目を細める。
視線がガラス越しの“それ”から、余白へ戻る。
「……いいのかよ」
確認というより、試すような声。
一歩、前に出る。靴底が床を擦る音が、水音に混ざる。
「じゃあ、やる」
短く言い切る。
ガラスの前に立つ。
その瞬間、ガラス面に薄く水が滲む。内側ではなく、外側に。
凪は構わず口を開く。
「お前、そこにいる理由は何だ」
間を置かない。
「人を写してるのか、集めてるのか、それとも——」
わずかに言葉を強める。
「替えてるのか」
沈黙。
水が一筋、ガラスを伝って落ちる。
それが途中で止まる。重力を無視したまま、横へ滑る。
『違うよ』
声は、さっきより近い。
ガラスの“こちら側”で鳴っている。
『だって、最初から——』
言葉が途切れる。
水の膜が、ゆっくりと人の顔の輪郭を形作る。
だが目がない。口もない。
ただ“顔の位置”だけがある。
『同じだったのに』
凪の眉がわずかに動く。
「……は?」
その瞬間。
奥の水槽のひとつに、別の“人影”が増える。
今度は、はっきりと立っている。
だが足が床に触れていない。
浮いたまま、こちらを向く。
そして。
口が動く。
だが声は、凪の背後から聞こえる。
『三つに分けたのは、そっちでしょ?』
余白は凪に小声で言う。
「……続けて」
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