第12話:閉ざされた観測(中編)
本作は一話完結型、日曜日・水曜日の週2回更新です。
静かな地下室。遠くで海の振動がかすかに響く。
そして。
無線機が――カチ、と鳴った。
電源のない機械のはずだった。
スピーカーからノイズが流れる。
ザ……ザ……ザ……
そして声。
古い無線特有の、歪んだ音声。
『……本部……応答……』
短い沈黙。
『こちら……第六観測班……』
ノイズ。
『座標……確認不能……』
ノイズが強くなる。
『……まだ……聞こえているか……』
声は少しだけ弱くなる。
『……隊長……』
通信は、こちらに呼びかけているようだった。
『……まだ……そこに……いるのか……』
余白は静かに無線機へ向き直る。
「こちら白澤。何があった?」
地下通信室の空気が、わずかに張り詰めた。
無線機から流れていたノイズが一瞬止まる。
まるで、向こう側が息を呑んだようだった。
UGA監視班の若い職員が小さく目を見開き、思わず一歩後ろに下がった。
スピーカーの奥で、遠い電波の揺らぎが続く。
ザ……ザ……
そして声。
『……白……澤……?』
長い沈黙。
ノイズの向こうで、誰かが言葉を探している。
『……生きて……いたのか……』
別の声が、少し離れた場所から重なる。
『違う……記録では……』
『隊長は……』
ノイズ。
『……処理……』
通信の向こうで、何かが食い違っている。
しばらくして、最初の声が戻る。今度は少し低く、慎重だった。
『……識別……確認する……』
短い沈黙。
『……呼称を言え』
ザ……
『……白澤……』
声がわずかに震える。
『……お前は……』
ほんのわずか、電波が歪んだ。
『……本当に……』
ノイズが一瞬激しくなる。
『……隊長なのか』
余白は静かに答えた。
「白澤……白澤和貴だ」
無線機の奥で、電波がわずかに揺れる。
それはノイズではなく、向こう側の沈黙だった。
通信室の空気が、ひどく静かになる。
UGA監視班の職員は息を止めたまま、無線機を見つめている。
やがて。
遠い無線の向こうで、誰かが小さく息を吸う音がした。
『……』
短い沈黙。
そして低い声。
『……確認』
ノイズ。
『識別一致』
声が少しだけ柔らぐ。
『……隊長だ』
その瞬間、通信の向こうで小さなざわめきが広がる。
複数の声が重なり、しかしすぐに抑えられた。
『静粛』
最初の声がそれを制する。
『……第六観測班、状況報告』
電波が一度揺れる。
『我々は……座標を失った』
『帰投命令を受信後、通信断』
『その後……』
言葉がわずかに途切れる。
『……ここにいる』
遠い空間のような静けさ。
『ここは……基地ではない』
『しかし……』
ノイズが小さく混じる。
『出口がない』
短い沈黙。
その声は、どこか不思議そうだった。
『奇妙だな』
『時間が……』
ノイズ。
『……進まない』
通信室の蛍光灯が一度だけ微かに瞬いた。
無線機のダイヤルが、触れていないのにゆっくり回る。
ザ……
そして別の、若い声。
『……隊長』
『任務は……』
わずかな間。
『……まだ続いているのですか』
余白は短く言う。
「今から向かう。“待機”」
通信室の静かな空気の中で、無線機のノイズが鋭く跳ねた。
ザッ――
まるで向こう側の誰かが姿勢を正したような気配。
『……了解』
ノイズ。
『第六観測班』
声が少しだけ張る。
『その場で待機』
別の声が小さく続く。
『……待機だ』
通信の向こうで複数の足音が重なる。
誰かが姿勢を整え、装備を確かめているような音。
そして再び最初の声。
『……久しいな』
沈黙。
ノイズがゆっくり流れる。
『……隊長』
ほんの短い間。
『……帰投路は……見つかったのか』
その瞬間。
通信室の奥、壁に並ぶ古い送信機の一つがゆっくり点灯した。
電源がないはずの機械だった。
赤いランプが一つ。
そしてもう一つ。
監視班の職員が息を呑む。
「……増えてる」
彼は壁を指差す。
灯りは無線機だけではない。
通信室の奥の廊下、そこに並ぶ古い兵舎区画。
暗闇の奥で――
扉が一つ、ゆっくり開いた。
誰も触れていない。
暗い廊下の奥から、靴音が聞こえる。
コツ……コツ……コツ……
闇の中から、一人の兵士が現れた。
古い帝国陸軍の軍服。
色は薄く、灰のように褪せている。
兵士は通信室の入口で止まった。若い顔だった。二十歳前後。
しかし目はどこか遠い。
彼はゆっくり室内を見渡す。
そして静かに言う。
『……ここは』
短い沈黙。
『……前線ではないな』
彼の視線がまっすぐ余白へ向く。
小さく呟く。
『……隊長』
その声には不思議な確信があった。
『……迎えに来たのか』
余白は兵士を見据えた。
「経緯を説明せよ」
通信室の蛍光灯が低く唸る。
湿った地下の空気の中で、兵士はまっすぐ立っていた。
灰色に褪せた軍服。
肩章は古い陸軍式だが、袖には小さな識別章が縫い付けられている。
《第六観測班》
兵士は静かに余白を見つめている。
目の奥には混乱があるが、姿勢は崩れない。
軍人の習慣だった。
無線機の向こうから、かすかな声が続く。
『……こちら第六観測班』
『通信維持』
『待機中』
通信の向こうでは、まだ彼らが整列しているらしい。
通信室に現れた兵士は、小さく息を吐いた。
『……状況が理解できない』
彼は周囲を見回す。壁、機材、天井。
どれも彼の記憶と一致しない。
『最後の記録では』
短い沈黙。
『我々は観測任務の帰投中だった』
兵士は額に触れる。記憶を探るような仕草だった。
『……座標が歪んだ』
『通信が乱れた』
『それから……』
言葉が少し曖昧になる。
『……ずっと』
彼は廊下の奥を振り返る。
そこには暗闇が続いている。
しかし、その奥から微かな人影が揺れていた。
整列している影。待機している兵士たち。
『……あそこにいる』
兵士は低く言う。
『六人』
沈黙。
『我々は、ずっと待機している』
その声には恐怖はない。
ただ理解できない事実だけがあった。
『任務解除命令が来ない』
『帰投命令もない』
『時間も進まない』
兵士は再び余白を見る。
『……隊長』
短い間。
『我々は……任務に失敗したのか』
余白は静かに答える。
「まだ観測中だな。ならば任務は継続中」
兵士は一瞬、動きを止めた。
地下通信室の湿った空気の中で、その言葉が落ちる。
蛍光灯が微かに揺れ、古い通信機の赤いランプが明滅した。
兵士の目がゆっくり細くなる。
まるで忘れていた規則を思い出すようだった。
『……観測』
彼は小さく復唱する。
その背後の廊下。
暗闇の奥で、影になっていた兵士たちがわずかに動いた。
コツ。コツ。
六つの影がゆっくり整列する。
誰も声を出さない。
通信機から遠くの無線が微かに震える。
『……第六観測班』
『状態確認』
ノイズ。
『……任務継続』
通信室の兵士が小さく息を吐く。
その表情から、わずかな緊張が抜けた。
『……そうか』
彼はもう一度姿勢を正す。
『では』
兵士は廊下を見た。
『報告を続ける』
静かな声だった。
『我々は現在、未知座標に滞留』
『時間感覚に異常あり』
『通信可能』
短い沈黙。
『……観測対象』
兵士は少しだけ首を傾ける。
『まだ、確定していない』
その瞬間。
通信室の壁に掛かっていた古い地図が揺れた。
紙が静かにめくれる。
そこに印刷されている年代は――
《昭和十七年》
しかし。
地図の端がゆっくり灰色に変色していく。
紙が風化するように崩れていく。
兵士はそれを見つめる。
『……妙だ』
彼の声は静かだった。
『観測対象が……』
わずかな間。
『……こちらを観測している』
余白が言う。
「対象に関する情報を」
通信室の空気がゆっくり沈む。
兵士は地図を見つめたまま話し始めた。
『……報告』
その声は訓練されたものだった。
『観測開始は帰投途中』
『位置不明』
短い沈黙。
『……最初は音だった』
『通信機の向こうではない』
『基地でもない』
『我々の後ろ』
彼の背後の暗い廊下。
整列した兵士たちがわずかに動く。
『足音』
兵士は言う。
『だが』
小さく首を振る。
『人数が合わない』
短い間。
『六人で移動していた』
『だが足音は』
兵士は指を一本立てた。
『七つ』
蛍光灯が明滅する。
『振り向いても誰もいない』
『記録にも残らない』
『しかし』
彼は通信機を見下ろす。
『……ずっと後ろにいる』
無線機から遠いノイズが流れる。
ザ……ザ……
通信の向こうで別の兵士の声。
『……報告補足』
『観測班全員が同じ認識を持つ』
『七つ目の足音』
沈黙。
『距離は一定』
『決して近づかない』
ノイズ。
『……だが』
声が低くなる。
『……離れない』
通信室の空気が冷えた。
壁の地図がさらに崩れる。
兵士が言う。
『隊長』
小さな声。
『我々は……何かに同行されている可能性がある』
余白は静かに言った。
「なるほど。七人目の君、君は一体誰かね?」
通信室の空気が沈む。
兵士の背後、廊下に並ぶ影が揺れる。
誰も動いていないのに、暗闇の奥で何かが位置を変えた。
無線機のノイズが強くなる。
ザ……ザ……ザ……
通信の向こうの兵士が息を呑む。
『……今』
沈黙。
『……足音が……止まった』
地下施設は静まり返る。
波の音も蛍光灯の唸りも遠くなる。
廊下の暗闇。
そこに何かがいる。
しかし姿はない。
兵士が振り向く。
だがそこには六人の兵士しかいない。
整列したまま動かない。
その瞬間。
通信機の奥で、ノイズとは違う音が混じる。
かすかな声。
通信室のどこかからだった。
『……』
声は言葉にならない。
『……見』
ザ……
『……見ている』
兵士の目が開く。
『……誰だ』
しかし声は兵士に向いていない。
『……あなたは』
歪んだ言葉。
『……見える』
沈黙。
『……ずっと』
ノイズが揺れる。
『……ずっと見ていた』
通信機の赤いランプが一つ、また一つ点灯する。
まるで観測装置が起動するように。
声が言う。
『……やっと』
短い間。
『……こちらを見た』
廊下の暗闇が歪む。
そこには影が七つある。
六つは兵士。
そしてもう一つは――
人の形をしていない。
しかしそれは言った。
『……あなたは……観測者なのか』
余白は軽く答えた。
「なのかもしれないね」
通信室の空気が静まる。
七つ目の影が揺れる。
人の形ではない。
しかし存在している。
声が言う。
『……そうか』
『……では』
短い沈黙。
『……ようやく』
ノイズ。
『……観測が成立した』
廊下の奥で、六人の兵士がわずかに動いた。
整列したまま、視線だけが暗闇の奥を見ている。
そこにいる“何か”を見ている。
一人の兵士が低く言う。
『……隊長』
彼の声は落ち着いていた。
『あれは……ずっと後ろにいた』
無線機の向こうでも沈黙が続く。
七つ目の影が形を変えた。
それは影ではなく、影の集まりのようだった。
空間の歪みが、薄く人型を作っている。
声が続く。
『……六つの認識』
『六つの観測』
『六つの記録』
ゆっくりと言葉が重なる。
『……だが』
『誰も』
わずかな間。
『……私を見なかった』
通信室の地図がさらに崩れる。
紙の年代表示が消えていく。
《昭和十七年》
文字が消え、その下に別の年代が浮かびかける。
しかしすぐに崩れた。
声は静かだった。
『……私は』
『観測されない観測』
『記録されない同行者』
短い沈黙。
『……七人目』
影がゆっくり余白を向く。
『……あなたが』
言葉が柔らぐ。
『……初めて』
わずかな間。
『……私を見た』
余白は軽く首を傾ける。
「で、君は?」
通信室の蛍光灯が低く唸る。
廊下の奥、六人の兵士の背後にある影は形を持たないまま揺れていた。
それは存在というより、空間の欠けた部分のようだった。
人型に近いが、人ではない。
その影は、しばらく答えない。
沈黙。
地下施設の奥で海の振動が遠く響く。
やがて声が返る。
『……わからない』
ゆっくりした言葉だった。
『……私は』
短い間。
『……名を持っていない』
影が揺れる。
『観測班は六人』
『記録も六人』
『だが』
ゆっくり言葉が続く。
『……いつも』
『後ろにいた』
兵士の一人が呟く。
『……確かに』
彼は廊下を見つめた。
『違和感はあった』
『人数が……多い』
影が言う。
『私は』
『彼らと共に歩いた』
『同じ足音で』
『同じ距離で』
そして。
『だが』
『誰も』
わずかな間。
『……振り返らなかった』
通信室の壁の地図が崩れ落ちる。
灰色の粉が床に落ちた。
影はそれを見ている。
『私は』
『観測班に付随する何か』
『記録の余白』
短い沈黙。
『……六人の観測が』
『世界を見たとき』
影がわずかに人型へ近づく。
『……そこに』
小さな声。
『……生まれた』
廊下の兵士が呟く。
『……観測の……影か』
影は揺れる。
肯定とも否定とも取れない動きだった。
そして言う。
『……あなたが』
『こちらを見た』
短い間。
『だから』
声が少し変わる。
『……私は』
『初めて』
沈黙。
『……存在した』
余白は問いを投げる。
「君を見つけるまで、第六観測班は袋小路だった?」
通信室の空気がわずかに動く。
廊下に整列した六人の兵士は動かない。
ただ視線だけが七つ目の影へ向いている。
影は揺れる。
沈黙のあと声が返る。
『……そうかもしれない』
ゆっくりした言葉だった。
『六人は観測する』
『六人は記録する』
『六人は世界を見る』
短い間。
『だが』
影が歪む。
『観測には』
『もう一つ必要だ』
蛍光灯が瞬く。
『……観測される者』
地下室の奥でノイズが流れる。
ザ……
影が続ける。
『六つの視線は』
『互いを確認する』
『だが』
小さな間。
『外側がない』
『世界が閉じる』
兵士が呟く。
『……閉鎖観測』
影は揺れる。
『六人の観測は』
『六人の中で終わる』
『だから』
沈黙。
『……出口がない』
通信室の地図が最後の一片を落とす。
影が言う。
『あなたが』
『こちらを見た』
言葉が確かなものになる。
『観測の外側』
『七つ目の視線』
短い間。
『それで』
影は静かに言う。
『……観測が開いた』
ここまでお読み頂き、誠に有り難うございます。
もし、本作を“面白い”と感じて頂けましたら、
ブックマークやご評価(★)を戴けると、大変励みになります。
拙いながらもコツコツ投稿しておりますので、
「また読みたい」と思って頂ければ幸いに存じます。




