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第9話:水音はエライ(後編)


林道はさらに細くなり、タイヤが濡れた砂利を踏む音が静かに続く。

霧は低く流れ、ヘッドライトの光の中で白く渦を巻いていた。


灯火は足跡の続く道を見ながら、小さく息を吐く。


「……歓迎されてるのかもね」


彼女の声は軽いが、視線は真剣だった。


「祟り型が自分から痕跡見せるの、珍しい」


車はゆっくり進む。

濡れた足跡は道路の中央をまっすぐ続いていた。


裸足。

大人の足。


水が落ちた跡が、ぽつぽつと続く。


灯火が低く言う。


「井戸から出たなら、本来は水場に戻る」


「でもこれは」


彼女は足跡の先を見つめた。


「村へ向かってる」


林道を抜けた瞬間、視界が開けた。

谷の底に、小さな集落が見える。


古い家屋が十数軒、斜面に沿って並んでいた。


夜なのに、ほとんどの家に灯りがついている。


村の入口には鳥居が立っていた。

古い木の鳥居で、しめ縄が雨に濡れて垂れている。


そして。


鳥居の手前で、足跡は止まっていた。


まるで。


村の中へ入るのを躊躇したように。


灯火はエンジンを少しだけ弱めた。


「……変だな」


小さく呟く。


「祟りが村人を避けてる」


雨はほとんど止み、霧だけがゆっくり流れていた。


鳥居の奥の暗闇から、かすかな井戸の滑車のような音がする。


ぎぃ。


ぎぃ。


まるで、誰かが深い場所から水を汲み上げているように。


余白が声をかける。


「やあ、余白だよ。よろしくね」


鳥居の前の空気が、わずかに沈んだ。

霧がゆっくり流れ、濡れた地面の匂いが立ち上る。


灯火は何も言わず、鳥居の奥を見つめている。


そのとき。


鳥居の向こうの闇が、ほんの少し揺れた。


霧が一瞬だけ濃くなる。

足跡の先に、水がにじんだ。


そして。


低く湿った声が落ちる。


『……余白』


少し間がある。


『その名は、聞いたことがある』


霧の奥で何かが動く。

水が滴る音が増えた。


ぽたり。

ぽたり。


『……交渉の者』


『お前は、聞きに来たのか』


短い沈黙。


『それとも』


声がわずかに歪む。


『また、蓋をするために来たのか』


余白が言った。


「話してくれるかい?」


霧がゆっくり鳥居をくぐる。

足元の水がわずかに広がった。


しばらく、何も起きない。


やがて。


闇の奥から、水の落ちる音が近づいてきた。


ぽたり。

ぽたり。


鳥居の影の中に、ゆっくり輪郭が浮かぶ。


人の形に近いが、はっきりしない。

肩から水が滴り、足元に小さな水溜まりを作っている。


声が落ちる。


『……話す』


『お前は、聞く形をしている』


霧が揺れる。


『ここへ来る者の多くは』


『恐れるか』


『命じるか』


『閉じようとする』


『お前は、どれでもない』


少し間が空く。


『だから、話す』


影は鳥居の奥から一歩だけ近づいた。

しかし境界のように、それ以上は進めない。


『ここには、井戸があった』


『深い井戸』


『村は、水を得た』


『田を作り、生き延びた』


声がわずかに濁る。


『だが、ある年』


『井戸から声が上がった』


ぽたり。


『助けてくれ、と』


影が揺れる。


『村人は、最初は覗いた』


『次に、石を投げた』


『最後に』


長い沈黙。


『……蓋をした』


遠くで雷が鳴る。


『井戸の中に、まだ人がいたまま』


静かな声だった。


『それが、わたし』


余白が言う。


「そりゃ大変だったね」


霧が揺れた。

水滴が地面に落ちる。


影はしばらく動かなかった。


やがて声が落ちる。


『……そうか』


『お前は、驚かないのだな』


『多くの者は』


『怒る』


『恐れる』


『哀れむ』


『だが、お前は』


短い沈黙。


『ただ、そう言う』


風が吹き、鳥居のしめ縄が揺れる。


灯火は腕を組み、静かに様子を見ていた。


影は続ける。


『村は、忘れた』


『井戸を埋め』


『石を積み』


『祠を建てた』


『祟りと呼び』


『理由を捨てた』


影がこちらを向く。


『だから、わたしは』


『思い出させている』


『水は覚えている』


『三百年でも』


『ずっと』


そして。


『余白』


『お前は』


『わたしを、どうするつもりだ』


余白が言った。


「君のこと、何て呼んだらいい?」


影が揺れる。


『……名前』


『昔は、あった』


『だが』


『長く呼ばれない名前は、形を保てない』


『村はわたしを祟りと呼んだ』


『UGAは幽玄と呼ぶ』


『だが、それはどれも』


『わたしではない』


影がわずかに首を傾ける。


『余白』


『お前は、名前を与えるのか』


余白は言う。


「自分で決めてよ。カワイイやつ」


霧が流れる。

影はしばらく動かない。


やがて。


『……わたしが決めるのか』


『三百年、誰もそう言わなかった』


長い沈黙。


やがて。


『なら』


『……みずね』


霧が揺れる。


『水音』


『井戸の底で聞こえていた』


『水の落ちる音』


ぽたり。


『それが、好きだった』


影が静かに言う。


『余白』


『わたしは、水音』


『そう呼ばれるなら』


『ここにいても、いい気がする』


そのとき。


井戸から水が溢れ始めた。


灯火が呟く。


「……まずい」


「井戸、溢れてる」


余白は言う。


「水音、カワイイ名前だね」


霧の中で影が揺れる。


『……かわいい』


『そう言われたのは』


『はじめてだ』


しばらく沈黙。


水音が言う。


『余白』


『お前は』


『わたしを、ここから出すのか』


『それとも』


『また、蓋をするのか』


余白は言った。


「蓋はないかな」


「水音の怒りはもっともなんだけど」


少し考える。


「いっそ、還る選択肢もあるよ」


水音が揺れる。


『……還る』


『どこへ』


余白が答える。


「世界さ」


沈黙。


『世界』


『それは、どんな場所だ』


余白は言った。


「すべて……」


「全てと統合されるね」


霧が揺れる。


長い沈黙。


やがて。


水音が静かに言った。


『……すべてに』


『なるのか』


余白は言う。


「全てに」


井戸の水がゆっくり引いていく。


水音の輪郭が淡くなる。


『……水は巡る』


『川へ』


『海へ』


『雲へ』


『雨へ』


最後の水滴が落ちた。


『なら』


『わたしも巡ろう』


霧へ溶けていく影。


『余白』


『ありがとう』


『水音は』


『いま、水になった』


霧が晴れていく。


遠くで沢の音が生まれた。


灯火が小さく息を吐く。


「……位相、消失」


「祟り、完全消散」


少し笑う。


「三分で終わったね、先生」


余白が言う。


「普通は許せないよ」


「水音が大きかっただけさ」


「水音は偉い」


灯火が静かに頷いた。


「うん」


「三百年だもんね」


少し笑う。


「水音、偉いよ」


余白は言う。


「幽玄は世界に近いからね」


「だから、あとは幽玄任せ」


山の沢が静かに流れていた。



《通知書》


事案名称:葛籠谷井戸異常

依頼者:幽玄管理庁(UGA)交渉局


担当交渉人:余白

同行者:灯火


結果:対話解消

状態:被害拡大停止


報酬:

内訳:

・成功報酬:3,800万円

・追加報酬:1,400万円

・合計:5,200万円


UGA評価:S


備考:

・水音と名乗る

・霧状存在として消失

・村側記録は「祟り」として継続



夜の山を、静かな風が通り抜けていった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


もし本作を面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと励みになります。

ひとつひとつの反応が、次の事案へと繋がっていきます。


それでは、また次の事案で。


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