第9話:水音はエライ(中編)
廊下は夜の静けさに包まれていた。
UGA庁舎の窓の外には、都市の灯りが遠く広がっている。
灯火は歩きながらぽつりと言った。
「この村の井戸さ」
「明治の記録より古い」
「江戸より前、戦国の文書にも出てくる」
少し間が空く。
「名前があるんだ」
灯火は振り返らずに言う。
「“帰水井”」
廊下の奥の非常灯が淡く光る。
灯火の声は低かった。
「意味は簡単」
「水に帰る井戸」
外へ出る自動ドアが静かに開く。
夜の空気が流れ込んできた。
遠くで雷が鳴っている。
灯火は車のキーを回しながら、最後に呟いた。
「……祟りの名前としては」
小さく息を吐く。
「ちょっと分かりやすすぎるよね」
余白が言う。
「水は記憶するからね」
夜の駐車場に車のエンジン音が静かに響いた。
街灯の光がアスファルトに長い影を落としている。
灯火は運転席のドアに手をかけたまま、少しだけ振り向いた。
「……ああ」
「その説、あるね」
彼女は小さく笑う。
「研究局が好きなやつ」
「水は情報を保持する、とか」
助手席側のドアを開けながら続けた。
「でも幽玄絡みだと、割と冗談じゃ済まない」
灯火は車に乗り込み、キーを回す。
エンジンが低く唸り始めた。
「水ってさ」
「媒体として優秀なんだよ」
彼女は指を三本立てる。
「記憶」
「循環」
「拡散」
「全部そろってる」
ワイパーが一度、フロントガラスをなぞった。
いつの間にか細かい雨が降り始めている。
灯火はフロントガラス越しの夜道を見ながら言った。
「昔の祟りで“水”が絡むときは大体二つ」
「沈められたか」
「封じられたか」
車は静かに駐車場を出ていく。
街の灯りがゆっくり後ろへ流れていく。
灯火はハンドルを握りながら続けた。
「この井戸」
「蓋があった」
「しめ縄があった」
「しかも村史に“開けるな”って明記されてる」
少し間が空く。
灯火の声は静かだった。
「つまり」
「誰かを、そこに入れた」
ワイパーがまた動く。
雨粒が光の筋になって流れていく。
灯火は小さく息を吐いた。
「で、水は記憶する」
彼女は前を見たまま言う。
「百年でも、二百年でも」
しばらく沈黙が続く。
車は高速道路へと入っていった。
そのとき。
ラジオの電源を入れていないはずなのに、
スピーカーから微かな音が流れた。
水の揺れるような、低い雑音。
そして。
とても小さな声。
『……おぼえている』
『……まだ、そこにいる』
雨音が強くなった。
道路の闇が、前方へ長く伸びていた。
余白が呟く。
「記憶力がいいね。羨ましい」
雨脚は少しだけ強くなり、フロントガラスを叩く粒が増えていく。
高速道路の街灯が一定の間隔で流れ、車内に淡い明暗を作っていた。
灯火はスピーカーの方をちらりと見て、小さく鼻で笑った。
「……羨ましい?」
「やめといた方がいいよ」
彼女はハンドルを軽く切り、車線を移る。
「祟り型の“記憶”ってね」
「だいたい忘れられないタイプだから」
ワイパーが往復する。
「恨みとか」
「裏切りとか」
「理不尽とか」
「人間が一番長く覚えてるやつ」
灯火は少しだけ肩を回した。
「幽玄ってさ」
「記憶をエネルギーにしてること多い」
「だから古い祟りほど厄介」
しばらく沈黙が続く。
高速道路は夜のトラックがまばらに走るだけで、ほとんど空いていた。
灯火は前を見たまま、ぽつりと言う。
「この井戸、少なく見積もっても三百年以上」
「水が記憶してるなら」
小さく息を吐く。
「三百年分の恨み」
ワイパーがまた動く。
その瞬間。
バックミラーの中で、
一瞬だけ後部座席が濡れているように見えた。
まるで誰かが、
水の滴る体のまま座っているように。
だが次の街灯の光が通り過ぎると、
そこには何もない。
灯火はミラーをちらりと見た。
そして何も言わず、少しだけアクセルを踏み込んだ。
車は暗い山道へ向かって走り続ける。
余白が言う。
「僕、“空っぽ”だからね」
高速を降り、車は山道へ入った。
雨は弱くなり、霧が谷の底からゆっくり上がってきている。
灯火は前を見たまま、少しだけ笑った。
「……ああ」
「それ、聞いたことある」
ヘッドライトが曲がりくねった道を照らす。
濡れたガードレールが白く光った。
「空っぽの愚者」
彼女は淡々と続ける。
「UGAの古い記録に書いてあった」
ワイパーが一度だけ動く。
「怒らない」
「恨まない」
「壊れない」
灯火は小さく肩をすくめた。
「幽玄交渉に一番向いてる人格、ってね」
車はさらに山へ入っていく。
街灯はもうなく、ヘッドライトの光だけが道を照らしていた。
灯火は少しだけ声を落とす。
「でもさ」
短い間。
「私、あの記録読んだとき思ったんだよ」
彼女は一瞬だけ横を見る。
「それって、空っぽなんじゃなくて」
少しだけ笑う。
「全部入るってことじゃない?」
沈黙。
山の奥から、川の音が聞こえ始める。
しかし地図では、このあたりに川はない。
灯火はゆっくり言った。
「祟りってさ」
「怒りの入れ物が必要なんだよ」
「普通の人間はすぐ壊れる」
彼女はハンドルを切り、細い林道へ入った。
「でも先生は」
短く言う。
「壊れない」
霧が濃くなる。
ヘッドライトの先が白く霞む。
そのとき。
道路の先に、古い木の看板が見えた。
葛籠谷集落 → 3km
看板の下の土は、雨で黒く濡れている。
そして。
その泥の上に。
濡れた足跡が、山の方から道路へ続いていた。
足跡は裸足だった。
水がぽたり、ぽたりと落ちている。
まるで。
さっき誰かが、山から歩いてきたばかりのように。
余白が静かに言った。
「うん、近い。そろそろだね」
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