第9話:水音はエライ(前編)
この世界は、おそらく並行世界。
どこかで、我々と分岐した世界。
超常との距離が、わずかに近い世界。
この超常を総称して「幽玄」という。
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《依頼書》
依頼者:幽玄管理庁(UGA)交渉局
依頼内容:村落域における連続異常死の原因調査および幽玄交渉
現場:長野県 山間部 葛籠谷地区
異常概要:三ヶ月で住民六名が死亡。死因は全員「溺死」。しかし遺体は山中で発見され、周囲に水源は存在しない。遺体の口腔内からは古い井戸水に近い成分が検出された。
制約:地域は古い信仰を持つ閉鎖的集落。強制封鎖は不可。UGAの直接介入は秘匿。
報酬:成功報酬 3,800万円
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UGA交渉局の会議室は、窓のない静かな部屋だった。
机の上には山村の地図、死亡記録、そして古い写真が並んでいる。
写真には崩れかけた石の井戸が写っていた。
その周囲には、しめ縄が何重にも巻かれている。
机の向かいに座っている女性が、ゆっくり口を開いた。
「……祟り案件ね」
短く整えた黒髪。
視線は鋭いが、どこか静かな余裕がある。
彼女は書類を指先で軽く叩いた。
「六人全員、死ぬ前に同じ夢を見てる」
「井戸の底から、誰かが名前を呼ぶ夢」
彼女は少し笑った。
「で、翌朝には山の中で溺死。水場ゼロの場所で、ね」
女性は椅子に深くもたれ、腕を組む。
「UGAは“事故”って言い張ってるけど、まあ無理がある」
彼女は視線をこちらへ向けた。
「共同担当って聞いた時点で、確信したけど」
「先生が出るなら、普通の幽玄じゃない」
少し間があく。
彼女は軽く息を吐いた。
「登録名、“灯火”。交渉局の現場エース、ってことになってる」
口調は軽いが、目は真剣だった。
「一応、状況まとめるね」
彼女は写真を一枚めくる。
そこには古びた石碑が写っていた。
碑文は半分以上崩れている。
ただ一行だけ、かろうじて読める文字が残っていた。
――「蓋を開くな」
灯火が静かに言う。
「この井戸、江戸の記録にも出てる」
「昔、“村が一度消えてる”」
彼女は机の端に置かれた報告書を軽く叩いた。
「そのあと、井戸を埋めて村を作り直した」
「で、今年の春」
「山崩れで井戸が露出した」
灯火は少しだけ声を落とした。
「三日後から、人が溺れ始めた」
静かな沈黙が落ちる。
遠くで換気装置の音だけが響いていた。
灯火は最後に一枚、写真を机に滑らせる。
それは最新の現場写真だった。
夜の山道。
遺体発見地点。
乾いた土の上に、奇妙な跡が残っている。
まるで。
濡れた足跡が、井戸の方向から山の奥へ歩いている。
灯火が低く呟く。
「……で、これが昨日」
「七人目、出た」
少しだけ笑う。
「報酬、追加されてる」
「合計、5,200万」
彼女は椅子から体を起こした。
「祟り型の幽玄は、交渉が面倒なの多いんだよね」
「怒ってる理由が“正しい”ことが多いから」
灯火はゆっくり言う。
「先生、この井戸」
「封印案件だと思う?」
「それとも」
小さく間を置く。
「交渉できると思う?」
余白がふと口を開いた。
「ところで灯火、髪切った?」
会議室の空気が、ほんのわずかだけ緩む。
灯火は一瞬きょとんとした顔をしてから、指で自分の髪をつまんだ。
「……あー、やっぱ気づく?」
彼女は軽く肩をすくめる。
「先週ね。ちょっと短くした」
「現場で邪魔だったし」
少しだけ間が空く。
灯火は視線を横に逸らした。
「それと……まあ、その」
「先生に会う予定だったし」
言い終わってから、自分で苦笑する。
「いや、別に深い意味ないけど」
「現場エースとして身だしなみって大事でしょ」
彼女は書類を一枚めくり、すぐに仕事の顔へ戻った。
「それより、この村の話」
灯火は地図の一点を指で示す。
「井戸があるのはここ」
山の斜面。
谷に面した小さな平地。
「で、死体が見つかってるのは全部この尾根の向こう側」
彼女は指を動かした。
「距離、だいたい一キロ」
灯火は静かに言う。
「共通点が一つある」
「全員、村の外から来た人間」
資料を閉じる。
「観光客、測量会社、林業の作業員」
「村人はまだ一人も死んでない」
少し低い声になる。
「つまり」
「祟りの対象が、外部者限定」
そのとき。
机の上の古い写真が、かすかに音を立てた。
紙が湿ったように、ゆっくり反り返る。
写真に写っていた井戸。
その暗い底に。
ほんの一瞬だけ。
濡れた指が、縁を掴んでいるように見えた。
そして。
耳鳴りのように、小さな声が落ちる。
『……また、蓋を開けたのか』
余白が言った。
「知らんがな」
写真はすぐに元の形に戻った。
反り返っていた紙は静まり、ただ古びた井戸の写真が机に残っている。
灯火はその様子を見て、ゆっくり息を吐いた。
「……だよね」
「私たちが開けたわけじゃないし」
彼女は指で写真の端を押さえる。
「でも祟り系って、大体そういう理屈通じないんだよ」
「“誰が”じゃなくて、“人間が”開けたって認識になる」
灯火は資料をもう一度めくった。
「それと、もう一つ面倒なのがある」
彼女は古い郷土史のコピーを机の中央へ滑らせる。
紙は明治初期の村史の写しだった。
筆書きの文字がかすれている。
灯火が一行を指でなぞる。
「ここ」
かすれた文字。
――「井戸の声を聞いた者、水に還る」
灯火は低く言った。
「つまり条件は、“声を聞くこと”」
彼女は椅子に背を預ける。
「夢で名前を呼ばれてたって証言、全部それに一致する」
少し考えるように目を細める。
「問題はさ」
灯火は指先で机を軽く叩いた。
「井戸って普通、場所に縛られる幽玄媒体なの」
「でもこの件」
「死体、全部井戸から離れた山で見つかってる」
彼女の声が少しだけ低くなる。
「つまり」
「井戸から出てきてる」
沈黙。
会議室の空気が少し重くなる。
灯火はふっと笑った。
「まあでも」
「先生が“知らんがな”って言うなら」
「まだ余裕ありそうだね」
彼女は資料を閉じる。
「出発は今夜」
「村までは車で四時間」
そして少しだけ声を落とした。
「ちなみに」
灯火は井戸の写真をもう一度見た。
「七人目の死体」
短く言う。
「口の中に、古い木の蓋の破片が入ってた」
会議室の天井で、換気装置が低く唸った。
遠くで、かすかに水の滴る音がした。
どこからともなく。
ぽたり。
ぽたり。
余白が言う。
「現場に行かなきゃ、何も分からないね」
灯火は一瞬だけ笑った。
小さく肩をすくめ、机の書類をまとめる。
「先生らしい」
「結局それだよね」
彼女は立ち上がり、地図を筒に入れた。
「机の上で考えても、祟りは答えてくれない」
「現場に行かないと始まらない」
椅子が静かに引かれる音がした。
灯火はコートを肩にかけながら続ける。
「村まで四時間」
「山道は最後の三十キロが未舗装」
「UGAは村に直接入らない」
「表向きは民俗調査の研究者ってことになってる」
彼女は小さく笑った。
「まあ、ああいう村は外の人間に慣れてないけど」
「民俗研究者ならまだ受け入れられる」
灯火は机の上の写真を最後に一枚だけ見た。
井戸。
古い石組み。
しめ縄。
写真の底の闇は、やはり何も写っていない。
彼女は写真を封筒に入れた。
「それと一応」
声が少し真面目になる。
「祟り型の交渉、基本ルール」
「怒りの理由を先に探す」
「禁忌を確認する」
「約束を作る」
灯火はドアを開けながら言った。
「壊すのは最後」
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