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第8話:影の女(前編)


この世界は、おそらく並行世界。

どこかで、我々と分岐した世界。

超常との距離が、わずかに近い世界。


この超常を総称して「幽玄」という。



机の上に、一枚の依頼書が置かれている。

紙質は厚く、UGAの公文書に使われるものだ。


しかし表紙には、別の印が押されていた。

黒い狼の横顔――玄策社の紋章だった。


夜の事務所は静かで、遠くの車の音だけが窓越しに流れている。

蛍光灯の光の下で、封筒はすでに開封されている。



《依頼書》


依頼者:玄策社


依頼内容:都市伝説由来幽玄の交渉および鎮静


現場:神奈川県 横浜市 港湾再開発地区 第七立体駐車場


異常概要:

駐車場内で「影の女」と呼ばれる都市伝説が拡散。

影を踏まれると「一週間以内に事故死する」という噂が広まり、すでに事故死4名、重傷3名。

監視カメラ映像に異常あり。


制約:

玄策社による直接処理は世間露見リスクが高いため不可。

警察・UGAともに未介入。


報酬:

成功報酬:2億4000万円



依頼書の端に、手書きのメモが一行だけ追加されている。


「噂がネットで爆発寸前。あと数日で都市伝説固定化する」


その時、事務所のドアがノックもなく開いた。

革靴の音が一歩、床に響く。


入ってきた女は黒いコート姿だった。

肩までの黒髪。視線は鋭いが、どこか懐かしい色がある。


しばらく室内を見回し、机の上の依頼書に目を落とす。


「……相変わらず、散らかってるなここ」


女は腕を組み、少しだけ口元を緩めた。


「久しぶりだな、先生」

「玄策社の女狼めろう。黒崎千景だ」

「今回の依頼、私が現場担当になった」

「正確には――あなたの護衛兼、現場監視だ」


千景は机の端を指で軽く叩いた。


「噂の拡散速度が異常なんだ」

「普通の都市伝説じゃない」

「もう4人死んでる」

「UGAが動く前に片付けろってさ」


彼女は一瞬だけ視線を窓の外へ向けた。


「……ちなみに」

「監視カメラの映像」

「全部、影だけが二つある」


「千景が一緒なら心強い。行くよ」


千景は一瞬だけ目を細めた。

表情の奥で、わずかに肩の力が抜ける。


彼女は机の端に置かれた依頼書を手に取り、軽く振った。


「受けると思ってた」

「先生はこういうの断らない」

「都市伝説系は、放置すると面倒だからな」


彼女は紙を机に戻し、コートのポケットから車のキーを取り出す。


「車、下に停めてある」

「現場までは30分くらいだ」

「行くぞ」



夜の高速道路を車が走る。

街の灯りが窓の外を流れていく。


横浜港湾再開発地区。

かつて倉庫街だった場所を再開発した新しい都市区画だが、まだ建設途中の施設が多い。


夜になると、人影は少ない。


やがて車は、海沿いの巨大な立体駐車場の前で止まった。


第七立体駐車場。


八階建てのコンクリート構造。

照明はところどころ切れており、内部は薄暗い。


海風が吹き抜け、金属フェンスがかすかに鳴っている。


入口には黄色い規制テープが貼られているが、完全封鎖ではない。

警察が本格的に関わる前の、曖昧な封鎖だ。


駐車場の中は静かだった。

天井の蛍光灯が、間隔をあけて白い光を落としている。


コンクリートの床にはタイヤ痕と黒い油染み。

遠くで波の音がかすかに響く。


人の気配はない。


しかし――


違和感がある。


床に伸びる影の向きが、光源と微妙に合っていない。

一本の柱の影が、光とは逆方向へわずかに曲がっている。


そのとき、千景が足を止めた。

彼女は床を見下ろす。


「……見えるか」

「これ」


彼女が指した場所。


床のコンクリートに、靴跡のような黒い痕がある。

ただしそれは足跡ではない。


人の影の形をしている。

まるで誰かが、ここに立っていた影だけを残して消えたようだった。


千景が低く言う。


「事故死した一人目」

「ここで転落した」


彼女はゆっくり視線を上げる。


三階の外周スロープ。

手すりが一部、内側に曲がっている。


「……落ちたんだ」

「自分から、手すり越えて」


一瞬、海風が吹き込む。

蛍光灯がわずかに明滅する。


その瞬間。


床の影の形が――


わずかに動いた。


「都市伝説って、何かドキドキするね。

田舎伝説ってないのかな」


蛍光灯が一度、短く明滅する。

コンクリートの床に残った“影の痕”は、さっきまでとはわずかに形が違って見えた。


風が駐車場を吹き抜け、遠くのフェンスを揺らす。

海の匂いが混じる冷たい空気だ。


千景は床を見たまま、ふっと鼻で笑った。


「田舎伝説か」

「……あるぞ」

「ただ、あんまり“都市伝説”って呼ばれないだけだ」


彼女はブーツのつま先で、影の痕の縁を軽くなぞる。

触れても何も起きない。ただ黒い染みのように残っている。


「山の神とか、呼ぶと返事する井戸とか」

「“この橋は夜に渡るな”とか」

「だいたいそういうの」


彼女は顔を上げ、周囲を見回す。


三階へ続くスロープの暗がり。

点灯していない蛍光灯。

駐車スペースに並ぶ柱。


どこも静まり返っている。


「都市伝説はネットで増える」

「田舎のは、村で止まる」

「広がらないから、幽玄になりにくい」


彼女は少し肩をすくめた。


「まあ例外もあるけどな」

「ネットに乗った瞬間、怪物になる」


そのとき。


駐車場の奥で――


カツン


乾いた音が響いた。


誰かの靴音のような音。

しかし、人影はない。


千景の視線がすっと奥へ向く。


「……聞いたか」

「今の」


彼女が小さく息を吐く。


「ここ、今日は閉鎖中だ」

「人がいるはずない」

「なのに、さっきから音がする」


そのとき。


奥の柱の陰。


床の影が、ゆっくり伸びた。


光源は変わっていない。

それなのに、影だけが――


柱から離れて、床を滑るように動く。


そして。


柱の向こう側から、細い女の声がした。


『……踏んだ』


一拍の沈黙。


『いま』

『踏んだね』


「何だか、ごめんなさいね」


『……謝る』

『珍しい』


影が柱から完全に離れた。


しかし立体ではない。

床に貼りついたまま、人の輪郭だけが立っている。


『みんな』

『謝らない』

『踏んで』

『見ないで』

『急いで』

『落ちる』


影の輪郭が、わずかに揺れる。


『だから』

『あなたは』

『少し』

『違う』


駐車場の奥から、また風が吹き込む。

海の音が低く響く。


千景が小さく呟いた。


「……先生」

「今の」

「完全に反応してる」


彼女の視線は影から外れていない。


「噂の“影を踏むと死ぬ”」

「多分、これが本体だ」


影はゆっくりこちらへにじり寄る。

床を滑る黒が、足元のコンクリートを覆っていく。


『あなた』

『わたしを』

『踏んだ』


わずかな間。


『どうして』

『謝るの』


「踏んだら謝るよね。普通は」


影は一瞬、揺れた。


まるで水面に落ちた小石のように、輪郭がわずかに波打つ。

床に貼りついた黒が、ゆっくりと広がり、また縮む。


蛍光灯の白い光の下で、その輪郭ははっきりと人の形を保っている。

だが立体ではない。


床に存在しているのに、こちらを見ている気配がある。


『……謝る』

『普通』

『普通の人』

『知らない』

『踏んだことも』

『気づかない』


影は少しだけ近づく。


余白の足元まで、黒が静かに伸びる。


『あなたは』

『見える』

『わたしを』


一拍。


『どうして』

『見えるの』


駐車場の風が通り抜ける。

遠くで金属フェンスがカタカタと鳴る。


千景が低く息を吐いた。


「……先生」

「完全に会話モードだ」


彼女は周囲をちらりと見回す。

誰もいない。監視カメラは回っているが暗い。


「ちなみに」

「さっき踏んだって言ってたよな」

「これ」


彼女が足元を顎で示す。


余白の足元。


床に伸びている影が――


二つある。


一つは蛍光灯が作る普通の影。

もう一つは、光源と関係なく逆方向に伸びている影。


その影が、ゆっくり揺れた。


『わたし』

『ずっと』

『ここにいる』

『踏まれるの』

『待ってる』


少し間があく。


『でも』

『みんな』

『急ぐ』

『だから』

『落ちる』


影の輪郭が、かすかに歪む。


『あなたは』

『急がない』

『変な人』


「何で、踏まれ待ちなの?

それって、楽しい感じ?」


影はしばらく動かなかった。


黒い輪郭が床に溶けたまま、わずかに揺れている。

蛍光灯の光とは無関係に、呼吸のように膨らみ、縮む。


やがて。


『……楽しい』


影がそう言いかけて、途中で言葉が崩れた。


『ちがう』

『楽しい』

『じゃない』


影の輪郭が少しだけ歪む。


腕の形だった部分が細く伸び、また人の形に戻る。


『わたし』

『踏まれると』

『見える』

『一瞬だけ』

『誰かが』

『わたしを』

『見る』


静かな空間に、波の音が遠くから響く。


『ここ』

『誰も見ない』

『みんな』

『急ぐ』

『車』

『仕事』

『夜』


影が床をゆっくり滑る。


しかし距離を詰めるというより、円を描くように漂っている。


『踏まれると』

『見える』

『見えると』

『嬉しい』


少しだけ声が揺れる。


『でも』

『みんな』

『気づくと』

『怖がる』

『逃げる』


影の輪郭が一瞬、乱れた。


『逃げると』

『落ちる』


その言葉のあと、しばらく沈黙が続く。


千景が小さく息を吐く。


「……なるほどな」

「逃げて、足滑らせて」

「手すり越えたってわけか」


彼女は視線を三階スロープへ向ける。


「パニック事故」

「幽玄が直接殺してるわけじゃない」


千景は再び影を見る。


「ただ――」

「噂のせいで“踏んだら死ぬ”って認識が固定してる」

「だから見た瞬間、みんな全力で逃げる」


彼女は少し眉をひそめた。


「……最悪の組み合わせだな」


そのとき。


影がゆっくり余白の足元へ戻る。


『あなた』

『逃げない』

『どうして』


一拍。


『わたし』

『怖くない?』


「うん。怖くないよ。

千景、この幽玄は悪くないんじゃない?」


影はその言葉を聞いて、すぐには反応しなかった。


床の黒い輪郭が、わずかに広がり、また静かに縮む。

まるで考えているような揺れ方だった。


千景は腕を組んだまま、影を見下ろしている。


「……まあな」

「少なくとも“悪意型”じゃない」


彼女は視線を三階の手すりへ向ける。


「人を落としてるのは事実だけど」

「本人はやってる自覚すら薄そうだ」


少しだけ肩をすくめる。


「むしろ――」

「構ってほしい系」


影が、ぴくりと揺れた。


『……構う』

『それ』

『近い』

『でも』

『わたし』

『待ってるだけ』


影がゆっくりと余白の影の縁に触れる。

黒と黒が重なる。


『踏まれると』

『見える』

『見えると』

『嬉しい』

『でも』


影の輪郭が少しだけ歪む。


『最近』

『怖い』


沈黙。


『みんな』

『知ってる』

『影』

『踏むと』

『死ぬ』

『そう言う』


影が、わずかに揺れる。


『わたし』

『そんなこと』

『言ってない』


遠くで車のクラクションが鳴り、すぐ消える。


千景が低く呟く。


「……噂の自己増殖か」

「ネットで“死ぬ”って話が広がって」

「それに引きずられて事故が増えた」


彼女は影を見ながら言う。


「都市伝説が幽玄を育ててるパターンだ」


影は少しだけ声を落とした。


『わたし』

『怖い』

『このままだと』

『本当に』

『死ぬ』


わずかな間。


『踏んだ人』

『落とす』

『わたし』

『そうなる』


「都市伝説が怖がっちゃって……。

人間側だろ、やらかしてんの」


影は、静かに揺れた。


床に貼りついた黒が、ほんの少し波打つ。

言葉を受け止めるように、輪郭がゆっくり歪む。


『……人間』

『怖い』

『言葉』

『増える』

『本当じゃない』

『こと』

『増える』


影が少しだけ後ろへ滑る。

駐車場の柱の影と重なり、また離れる。


『最初』

『違う』

『ただ』

『踏まれて』

『見てもらう』

『それだけ』


一拍。


『でも』

『いま』

『みんな』

『知ってる』

『影』

『踏むと』

『死ぬ』


影の輪郭が、少し崩れる。


肩だった部分が伸び、また人の形に戻る。


『みんな』

『怖がる』

『逃げる』

『落ちる』


沈黙。


『それ』

『わたしの』

『せいになる』


その声は、ほんの少し小さくなった。


千景がゆっくり息を吐く。


「……典型的な認識型だな」

「都市伝説が存在を作ってる」


彼女は駐車場の暗い天井を見上げた。


「最初は“影踏んだら気づく”くらいの怪談」

「そこに“死ぬ”が乗った」

「ネットで拡散」

「事故が起きる」

「噂が確信に変わる」


千景は視線を影へ戻す。


「その結果」

「幽玄本人まで引きずられてる」


影は静かに言った。


『わたし』

『変わる』

『そうなる』

『嫌』


蛍光灯がまた一度、チカッと明滅する。


その瞬間。


駐車場の奥の柱の影が――


一斉に、わずかに動いた。


まるで、他の影たちがこちらを見たように。


千景の目が細くなる。


「……先生」

「これ」

「ちょっとマズいかもな」


彼女は低く言う。


「都市伝説、もう広がりすぎてる」

「影が増え始めてる」


「もう、踏まれんのやめときな。

普通に見えたら良くない?」


駐車場の風が一度、強く吹き抜ける。


コンクリートの床に広がる影が、わずかに揺れた。

余白の足元に重なっていた黒が、少しだけ離れていく。


影はしばらく何も言わない。


柱の影、車止めの影、手すりの影。

そのすべてが静止しているはずなのに、どこか落ち着かない空気が漂っている。


やがて。


『……普通』

『見える』

『それ』

『できる?』


影がゆっくり形を変える。


人の輪郭が一瞬立体になりかけて、また床に崩れる。


『わたし』

『影』

『光がないと』

『いない』


少しだけ声が歪む。


『踏まれる』

『ときだけ』

『人』

『わたしを見る』


沈黙。


『普通に』

『見える』

『それ』

『どうやるの』


千景が静かに息を吐く。


「……そこなんだよな」

「こいつの媒体」


彼女は足元の影を見下ろす。


「“影”そのもの」

「光が作る副産物」


彼女は駐車場の照明を見上げる。


「だから存在条件が弱い」

「踏まれる=人の認識が集中する」

「その瞬間だけ存在が強くなる」


千景は少し眉を寄せた。


「つまり」

「“踏まれ待ち”は」

「存在維持行動だ」


影は静かに言った。


『わたし』

『消える』

『怖い』


遠くで、また波の音がする。


そのとき。


奥の柱の影が、またゆっくり動いた。


一つではない。


二つ。三つ。四つ。


床の影が、わずかに長く伸びる。


まるで。


この駐車場の影そのものが、耳を傾けているように。


影の声が小さく続く。


『でも』

『落ちる』

『それ』

『もっと』

『嫌』


沈黙。


『わたし』

『どうしたらいい』



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


もし本作を面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと励みになります。

ひとつひとつの反応が、次の事案へと繋がっていきます。


それでは、また次の事案で。


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