第20話 冠の縁(ふち)を結べ
夜の折り目が明けるより少し早く、北の丘のさらに向こう――王家の冠を安置する小高い台地に立った。
石を薄く重ねた輪が地面に埋まり、その中央に黒ずんだ金具。〈冠座〉。王家の糊が最後に触れる“端”の、そのさらに先。
風はまだ眠たげで、冷えは骨の奥の“拍子”を素直にさせる。
「裂け目は、ここから下へ」
リゼルがしゃがみ込み、指で風を撫でた。「耳じゃない。喉でもない。“襟”だ。布を首で支える場所」
「襟が落ちれば、顔が落ちる」
アリシアが剣帯を握り直す。
ガイウスは黒竜の首を軽く叩き、ミリアは祈り台を胸に抱いた。
王妃が小さな外套でやってきた。冠は持たず、言葉だけを携えて。
宰相、老司書、繕庫の白衣。レオンは盾の刺し子を肩にかけ、若い兵を二列。
――舞台に立つ言葉と、袖の針と、支える足。
「綴官」
王妃がまっすぐ見て言う。「ここで結ぶ。あなたの“返し”に私の言葉を重ねる」
「承知しました」
冠座のリングは古い。触れれば、わずかに“返し”の痕。
初王の時代、剣と針で〈真結び〉をかけたのだろう。
けれど代を重ねる間に、剣が強く、針が薄くなり、結びは片側だけで締め固められて、糊が乾いて剥がれかけた――それが今の“裂け目”だ。
「結び直す。二つの手で」
俺は杖を地へ置いた。「〈展開:帯〉、〈展開:網代〉、〈展開:織陣・綴〉」
砦から、村から、市場から、水門から――夜のあいだ息を合わせてきた帯が、薄く、しかし確かに空を走って集まってくる。
帯は互いに上下を替え、網代で噛み合い、〈綴〉の目でほどけにくく織り込まれる。
その束ねの中心に、冠座の〈真〉の穴がぽっかり口を開けて待っている。
「カイル」
アリシアが短く呼ぶ。「切り手が来る」
梁も屋根もない、空の真上。――それでも、風の“耳”はある。
黒い影が一筋、月の残り香を切って落ちた。
セヴィア。双剣は鞘。踵の刃だけが薄く光る。
「結ぶなら、切らないとなじまない」
女はいつもの調子で、静かに言う。「“覚えるため”に」
「覚えるために切るなら、縫うために覚えろ」
俺は返し、杖を軽く回す。「〈展開:刺し子・節〉」
帯に細かい節を置き、節ごとに〈返し〉を回す。
女の踵が節に触れるたび、半足だけ柔らかい“戻り”を受けて、刃の勢いが布へ“馴染む”。
切られていない。だが、“切る手”が“覚える”ための、短い受け身。
その刹那、丘の裾で乾いた玉の音。
割師が算盤を肩に担いで立っていた。
「数を、合わせに来た。……帯は太ると重い。重いものは沈む。沈めば、襟が落ちる」
「数えるなら、太る場所と細る場所を前もって置け」
俺は頷く。「〈展開:綾〉・〈展開:杉綾〉・〈展開:縫〉」
帯の要所を斜めで支え、交点に薄い“縫い”の留めを入れる。
割師の玉が二つ、三つ。帯の重みが左右へ流れ、冠座の真下に“沈み”ができないよう散らばる。
「……良い帯だ」
割師は目だけで笑い、「今日は切らない。数える」と言った。
指ぬきが陽炎みたいに揺れた。
ノエラが冠座の縁にぶら下がり、針を一本、二本。
「“真結び”は“固く”じゃなく“戻せる”で。結び目の裏に〈返し〉の道を必ず一本」
「怠けを生む、と言わないのか」
「舞台が言葉で歩かせるなら、針は道を残せる。今日は賭ける」
王妃が小さく息を吸い、前に出た。
言葉は短く、拍子はまっすぐ。
「結べ。――王は王冠で立つのではない。民の“帯”で立つ。帯は切れぬよう、返せ。怠ける手は止めよ。歩く足は守れ」
その言葉に合わせ、俺は杖を冠座の〈真〉に立てた。
〈展開:結〉
〈展開:真結〉
〈展開:総目〉
総目――布目を総て使う結び。縦糸も横糸も、斜交いも刺し子も、すべて少しずつ分け合う。
ひとつが切られても、結びは“落ちない”。——舞台の理だ。
「アリシア」
「はい」
彼女は剣を鞘のまま差し出し、俺は針筒から〈綴務〉の印針を一本抜いた。
剣と針。二つの手で、同じ“結び”の芯を押さえる。
レオンが“盾の刺し子”を二列、〈山〉に沿って配す。
ミリアは祈り台を冠座に軽く触れさせ、「〈聖光重奏・薄〉」――言葉の拍子だけを通す。
リゼルが風の耳を揃え、ガイウスの黒竜が温い息を地の下に回す。
結びは、あと一息で締まる。
その時だった。
冠座の陰から、薄紺の外套が現れた。副掌客。
彼は印袋を持たない代わりに、薄い板――「言葉の式」の写しを手にしている。
舞台で言葉を潰す準備だ。
「王妃の言葉は美しい。……だが、言葉は印で裏打ちされねば滑る」
副掌客は板を掲げ、口を開いた。「王家の名において――」
「名は流れる」
俺は遮った。「肩書は残る。……だが、舞台の言葉は“名”では立たない。拍子で立つ」
王妃は一歩進み、板と俺の間に立った。
彼女は印を見せず、冠を掲げず、ただ短く言った。
「下がれ。あなたの言葉は“袖の陰”でしか響かない」
副掌客の舌が止まる。
板に刻まれた式は正しい。だが、拍子が合わない。
〈畳綴〉で整えた山と谷、〈網代〉で組んだ帯、〈綾〉で散らした重み――この“場”の拍子に、彼の式は乗らない。
俺は〈展開:索〉で“言葉の路”を立て、彼の板から出る“声”を、そっと谷へ流した。
――紙の上で正しくても、舞台の上で間違えば、響かない。
「参議」
副掌客は目だけ笑っていた。「勝った顔をするな。……『切り』『割り』『解き』が無い布は、すぐに澱む」
「だから、在る。全部。どれも“長持ち”のために」
俺は言う。「君は“舞台の言葉”を、長持ちのために使わなかった」
ノエラの針が、かすかに鳴った。
セヴィアの踵が、結びの外を小さく撫でた。
割師の玉が、静かに止まった。
「――結ぶ」
俺は最後の呼吸で、〈総目〉に〈返し〉を一本通した。
王妃の言葉が重なり、レオンの“盾の刺し子”が“山”で受け、ミリアの祈りが“谷”で渡し、リゼルの風が耳を撫で、ガイウスの黒竜が下支えする。
結び目が、すとん、と座った。
冠座の金具が低く鳴り、丘の下――王都の帯が一斉に息を合わせる。
裂け目は、閉じた。
副掌客は肩を竦め、外套を翻した。
宰相の兵が静かに進み出る。
逃げはしない。彼はただ、薄く笑うだけだ。「舞台は、言葉で立った。……袖が落とさなかったから」
「袖は舞台のためにある」
俺は答えた。「君にも袖を与える。“綴務”の机だ。解きも割りも切りも、舞台のために使えるなら」
副掌客は意外そうに目を細め、そしてゆっくり首を振った。「私は『前室』の人間だ。舞台に立つと、死ぬ」
「袖で生きろ。落ちない袖は、舞台と同じくらい重い」
彼は何も言わず、兵に連れられていった。
*
冠座の結びを確かめ、〈返し〉の路を二重に置く。
ノエラが近づき、指ぬきで俺の胸をこつんと叩く。「“総目”、綺麗。……戻す道、忘れなかったね」
「お前の針、借りたからな」
ノエラは片目だけつむり、針を一つ置いて消えた。針頭の刻印は〈結〉。
セヴィアは踵で結びの外輪を一度なぞり、「覚えた」とだけ言って去った。
割師は算盤の玉を一つ、静かに弾き、「数は合った」と呟いて背を向けた。
王妃が小さく息を吐いた。「言葉を、舞台に置けた」
宰相が膝を折り、「綴務を正式に置く。袖を官に。――縫い、返し、結び、撚り、貼る。『綴務』は舞台の下で舞台を支える」と宣言した。
レオンは兵の列を解きながら俺に歩み寄る。「剣より、針の夜が多かった。……だが、悪くない戦だった」
「剣は“山”で支え、針は“谷”で渡す。両方なきゃ、落ちる」
俺が言うと、彼は笑って小さく拳を当てた。
ガイウスは黒竜の首を抱き、リゼルは風を舌で味わう。
ミリアは祈り台を抱いて目を閉じ、長い祈りを――“渡り続ける祈り”を――一度だけ通した。
丘から見下ろす王都は、朝の薄い光の中で、折り目も帯も見えない。
けれど胸の奥では、確かな拍子で息をしている。
砦の“山”、村の“畝陣”、市場の“蛇腹”、水門の“綾”、王家の“糊”。
全部が、同じ布の上で“総目”に結ばれている。
「……終わったな」
アリシアが肩で息をして笑う。「剣を抜いたの、数えるほど」
「舞台が落ちなかったなら、それでいい」
俺も笑う。「袖は、派手じゃない」
「けど、誇らしい」
彼女が言い、俺は頷いた。
宰相が最後に俺を振り返る。「綴官、最初の“仕事”は?」
「舞台の“片付け”です」
俺は杖を肩に、針筒を背に回した。「帯の“返し”の点検、綴務の机の配置、札の“写し”の分配。――それから、朝飯」
リゼルが吹き出し、ガイウスが黒竜の翼で軽く風を送る。
ミリアが微笑んで、「卵を四つ」と囁き、レオンが「俺の分も」と笑った。
「舞台は、落とさない」
きっぱりと言って、俺たちは丘を降りた。
袖の手で、明日へ。
結び目は見えない。けれど、確かにそこにある。
――完。