第19話 折り目(おりめ)を決めろ
貼殿の釜が落ち着き、王家の糊に今日の“拍子”を刻んだその足で、俺たちは王城の謁見の間へ呼ばれた。
昼の光が高窓から斜めに差し、石床に薄い帯を作っている。両側に侍従、奥に宰相、そして王妃が立っていた。王冠は被らず、薄青の肩衣に指だけの装飾。視線はまっすぐで、礼は短い。
「参議。――いいえ、“綴官”カイル。王家の糊が戻ったと聞く」
「〈返し〉と〈標〉は帯に載せました。明日も同じ“息”で貼れます。ただし――今日決めたいことが一つあります」
「申せ」
「折り目です。布を大きくした。なら、振動と荷重を受ける“折り目”を先に決める。山折りは防陣、谷折りは避難の通り道。王都の内と外、砦と村、さらに市場と水門――全部、同じ拍子で」
宰相が頷く。「『畳綴』だな。古い式で前例があるが、これほど広域では初めてだ」
王妃の横で、薄紺の外套――“副掌客”が肩をすくめる。「民は“折り目”を境に怠け、境界を越えなくなる危険がある」
「だから舞台の言葉で止めます」
俺は王妃を見る。「“戻るための返し”は怠けのためではない。折り目は逃げる線じゃない。歩くための筋です、と。王妃殿下の口から」
短い沈黙。王妃は薄く頷いた。「私が言おう。――舞台に立つ言葉は、私の務めだ」
レオンが壁から離れてひとつ敬礼した。「兵は“山折り”に展開させる。盾の刺し子を点に打つ」
ミリアは祈り台を抱き、柔らかく言う。「谷折りには〈聖光〉を薄く、長く。“逃げの祈り”ではなく“渡りの祈り”にします」
ガイウスが槍を立て、「水門と外郭の折りは俺と竜で押さえる。風はリゼルが読む」と言った。
窓辺で風を舐めていたリゼルが口笛をひとつ。「夕刻、北東から冷たい耳。女の刃は“喉”を狙う。夜半、割師は数を崩さない。代わりに“静かに太らせて、静かに細らせる”ほうへ回すだろう」
副掌客は黙したままだった。王妃が短く目だけでそれを止め、「始めよ」と言った。
*
綴務の仮詰所は蜂の巣になった。
地図の上に新しい線が現れ、帯と帯の上に折りの記号――〈山〉〈谷〉――が刻まれていく。
「〈展開:山〉」「〈展開:谷〉」「〈展開:蛇腹〉」
蛇腹――山と谷を交互に細かく刻むやり方だ。路の曲がり、家々の隙間、水門の水位。
“山”には盾の刺し子を濃く、“谷”には祈り石の“息”を通す。
札の帯は折りに沿って“返し”を増やす。解きや抜きが入っても、すぐ戻るように。
「北門から王都中央へ“山”を二本。南門市場は“谷”を蛇腹で。東外郭の水門は“山”を低く、二重」
口にしたそばから、手が動く。
アリシアは〈刺し子〉の点を間口に落とし、繕庫の白衣は帯の端に〈返し〉を縫う。
レオンの兵が“盾の刺し子”で街角を留め、ミリアの祈りが“谷”を細く結ぶ。
ガイウスと黒竜は水門へ、リゼルは塔の上で風を数える。
ノエラは――黙って屋根の継ぎに針を一本ずつ置き、“谷”の拍子を微調整していた。
「怠けは止める。――言葉で」
俺は王城前の広場に立ち、布の札を高く掲げた。
王妃が隣に立ち、簡潔な言葉で告げる。「折れ」
人々の視線が揃う。俺は息を吸い、杖を地に置き、声を張った。
「聞いてくれ。折り目は逃げ道じゃない。明日もここで暮らすための“筋”だ。谷は“渡る道”、山は“支える壁”。――怠けた足取りは折り目で止まる。歩く足取りは折り目で守られる」
短い沈黙のあと、市場の女将が叫んだ。「どこを通ればいい!」
俺は指で蛇腹の節を示す。「屋台の間、白い札の点が“谷”だ。そこを辿れ。家の角の刺し子は“山”だ。そこに寄りかかって息を整えろ」
老婆が杖を掲げる。「逃げるのかい」
俺は首を振る。「渡る。落ちないように」
王妃が最後にひと言だけ重ねる。「陛下の名において命ずる。――歩け」
ざわめきが動きに変わり、綴務の袖向きが点を増やす。
“舞台の言葉”は、怠けを許さない調子で街に下りた。
*
夕刻。
北東の空がわずかに濃くなり、風が耳を立てた。
塔の梁に黒い影。セヴィアだ。
双剣は納めたまま、踵に刃。狙いは塔の“喉”。――風の柱を折り、拍子を乱すつもりだ。
アリシアが屋根の影から出る。剣は鞘に、肩に針。
俺は下から〈蛇腹〉の節に〈刺し子・返〉を重ね、リゼルは耳の形を風で描く。
ガイウスは下の“山”に槍を据え、黒竜は高く声を殺す。
ミリアの祈りは“谷”の流れに薄く乗る。
「“喉”を切るのか」
「切る」
セヴィアは素直に笑う。「切れなければ、覚える」
「覚えるために切るなら、縫うために覚えろ」
アリシアの声は静かだった。
踵が落ちる。
〈蛇腹〉の節が一つ、二つ切れ――すぐ下の“返し”が受ける。
女は足を入れ替え、今度は“谷”の間を狙う。
俺は〈展開:谷返し〉を半足ずらし、戻る道を短く置く。
「……細かい」
セヴィアの息がほんの少しだけ熱を帯びた。
双剣が抜かれ、月光で薄く光る。
アリシアは鞘で受け、針で節を留め続ける。
刃は“切る”。しかし折り目は“戻る”。
女が三度目の刃を喉に入れようとしたとき、下から短い笛。――リゼルだ。
「喉じゃない。今日の“脳”は南の蛇腹」
セヴィアの目がわずかに動く。
南門市場――蛇腹の“谷”。
同時に、綴務の詰所へ駆け込む使い。「南門、偽札と火の手――“谷”を逆流させる仕掛けあり!」
割師の手でもノエラの手でもない。もっと粗い、だが速い手口だ。
副掌客か、その手の者。
「分かれ!」
俺は叫び、アリシアはセヴィアに一礼だけ残して屋根の縁を飛んだ。
女は双剣を納め、踵で梁を二度、軽く叩く。――“覚えた”の合図。
喉は持った。次は“脳”。
*
南門市場。
夕餉の湯気が上がる時刻に火は最悪だ。人は動き、荷車は詰まり、子どもが泣く。
だが蛇腹は“谷”の節ごとに〈返し〉が打ってある。
レオンの兵が“盾の刺し子”で屋台の間を縫い、繕庫の白衣が燃えやすい布を先に“山”に寄せる。
ミリアの祈りは“谷”の温度をほんの少し下げ、人の息を揃える。
“逆流”の仕掛けは、路の谷に薄く撒かれた油と、祈り石の“息抜き”。
ノエラが針を二本、三本。油の“筋”に〈返し〉を打って“溜まり”を作り、火の舌をそこで疲れさせる。
俺は〈展開:谷返し〉で祈り石の抜け道に小さな鎹を打ち、〈展開:蛇腹・継〉で谷の拍子をもう一段細かくした。
「“返し”が多すぎると怠ける、だったな」
ノエラが横目で笑う。
「だから、言葉で止める」
俺は通りの角に立ち、また声を張る。「息を止めるな。歩け。谷は“渡る道”。立ち止まるな」
老婆が子の手を引き、男が荷車を“山”に寄せる。
レオンが短く指示を飛ばす。「斬るな。留めろ。盾を点に!」
火は蛇腹で疲れ、偽札は“返し”で戻る。
そのとき、市場の屋根から、あの薄紺の外套が滑った。副掌客。
印袋ではなく、今度は“言葉”を携えて。
「民よ、火から逃げよ! 王都の財は王城へ! 市場は捨て――」
「黙れ」
王妃の声が広場の鐘楼から落ちた。
短く、冷たく、しかし温度がある。
人の視線が一斉に鐘楼へ向く。王妃は肩衣だけで立ち、印も冠も掲げない。
「捨てるな。渡れ。――明日のために」
副掌客の口が閉じた。
彼は舞台の言葉に勝てない。
俺は心の中でノエラに礼を言い、〈展開:刺し子〉の点を最後の谷に打ち込んだ。
火が落ち、偽札は“返し”で戻る。
蛇腹は持ちこたえ、南門は“渡り”きった。
*
夜半。
王都の折り目は山も谷も息をしていた。
砦からの帯は“腰”で拍子を伝え、村の畝陣は“網代”の下で呼吸する。
王妃は鐘楼を降り、俺に短く言った。「言葉は届いた。……袖の手に、私の言葉が支えられた」
「袖は舞台のためにあります」
副掌客は姿を消していた。
宰相が肩で息をして近づき、「王妃と共に“貼印路”を洗う。副掌客の線は追える」とだけ言った。
割師は影から軽く会釈して去り、セヴィアは梁で踵を研ぎ、ノエラは針を一本だけ置いて消えた。
リゼルの風は満足げに低く鳴り、ガイウスは竜の首を撫で、レオンは兵の肩を叩いた。
ミリアは祈り台の灯を半分だけ落とし、折り目の“谷”に長く薄い光を残した。
王城前の広場で、俺は土に膝をつき、指先で折り目の図をなぞった。
〈展開:畳綴〉――王都の布全体に、畳のような大きな折りを一枚、静かに重ねる。
“山”は緩く、“谷”は深く。
怠けの足取りは狭く、歩く足取りは広く。
――舞台は落ちない。
「……持ったな」
アリシアが隣に腰を落とし、小さく笑う。「剣を抜かない夜ばかり続くと、刃が鈍る」
「磨けばいい。袖の針も同じだ」
ガイウスが空を見上げる。「風が、北の丘のさらに向こうで渦を巻く。……“端”の先、“冠”の縁だ」
王冠の内側――王家の“糊”が最後に触れる場所。
そこに、まだ“裂け目”がある。
「最終話で、結ぶ」
自分に言うように呟き、指先の小さな痛みを確かめた。
袖の手は、舞台を落とさないために、最後の結びを待っている。
夜風が折り目を撫で、祈り石が遠くで小さく鳴った。
折り目は決まった。
なら――結び目だ。