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第18話 王家の糊(のり)、布の端で

 北の丘は、王都から半刻。

 風が乾いていて、草は短く刈りそろえられ、丘の腹に石造りの低い棟が口を開けていた。

 扁額には薄れて読みにくい古文字――〈貼殿はりどの〉。王家の糊を煮て、くにを目張りするための工房だ。


「……ここが“端”か」

 アリシアが剣帯を握り直す。

 リゼルが指で風をすくい、「糊と骨の匂い。鹿か、魚か。どちらも古い配合だ」と呟いた。

 ガイウスは扉を槍の石突きで軽く叩き、黒竜は丘の背で伏せて息を殺す。

 ミリアは祈り台を胸に、静かに目を伏せた。「ここには、王の誓いの“拍子”が沈んでいます」


 扉は鍵が外れていた。だが、破られたのではない。――内側から「抜かれて」いる。

 俺は杖先で蝶番に〈支援:視〉を薄く通し、粉の筋を読む。銀の粉。針の名残。


「……ノエラの手?」

「似せようと思えば、似せられる」アリシアが小声で返す。「本物ほど、心がないが」


 中は広い一室で、低い釜がいくつも据えられ、鉄の梁に吊られた布が風を待っていた。

 釜の縁にはにかわの縁が白く固まり、表面には不自然な亀裂。

 指で撫でると、粉を含んだように“剥がれる”。――糊に“剥離”の仕掛けが入っている。


「〈展開:循〉」「〈支援:流〉」

 俺は釜の“息”を起こし、糊の水脈を探った。

 古い骨の匂い。魚の皮の甘さ。そこへ混ぜられた、さらさらと乾く粉。“離水粉”。

 割師の匂いがする。重さで“割る”のではなく、時間で“細らせる”。


「外から刃で切るより、“内から剥がす”。嫌なやり方だ」

 アリシアが釜の縁に手を置き、眉根を寄せる。

「直せるか?」とガイウス。

「直す」俺は頷いた。「――舞台を落とさないために」


 釜の下に風穴が二つ。片方は塞がれ、もう片方だけが細く生きている。

 リゼルがしゃがみ込み、風穴に口笛を流す。「風は弱い。竜の“温い息”を借りるか?」


「頼む」

 黒竜が低く喉を鳴らし、口から温い風を送り込む。

 俺は〈展開:にじ〉で水を糊に薄くしみ込ませ、〈展開:貼〉で“剥離”の粉だけを外へ追い出した。

 ミリアが祈り台を釜の縁に置き、〈聖光〉を浅く長く。拍子だけを揃える祈り。

 固くなりかけた糊が、息を取り戻す。――糊は、呼吸で張りつく。


「一つ目、戻った。二つ目は……」

 奥の釜の縁に、細い針穴。

 銀の糸がまだ残っていて、触れればたちまち“解き”が走る仕掛けだ。

 俺は指先に〈支援:偏〉を乗せ、銀糸の重さを半足“横”へずらす。

 〈展開:返し縫い〉で穴の裏を先に塞ぎ、〈展開:貼〉で上から薄く糊を重ねた。


 息を吐く。

「二つ目も――」


 その時、天井梁で小さな音が跳ねた。

 爪先で木を弾く、軽い合図。

 アリシアが顔を上げ、柄に手を置く。「……上だ」


 梁の上を、影が滑った。

 黒い外套。双剣は見えない。踵の刃。

 セヴィアが梁の“耳”に足をかけ、うっすら笑った。


「“端”に触るのは、楽しい。――切れば、全部がほどける」


「切らせない」

 俺は釜の縁から手を離さず、視線だけで返す。「糊を戻した。張りは蘇る」


「張りほど、切ると快いものはない」

 女は踵を降ろす――刹那、横から銀の点が弧を描いた。

 指ぬきの小さな影。

 ノエラだ。梁の柱と柱の間にぶら下がり、細い“返し”をセヴィアの踵の前にちょい、と置く。


 踵が半足、空を踏む。

 セヴィアは外套の裾で体重を流して落下を受け流し、ふわりと梁へ戻る。

 顔だけで笑った。「袖が二人。……今日の舞台は、針の歌だね」


「歌わせない」

 アリシアが梁に跳び、剣の平で外套の角を叩く。

 金属の嫌な音。梁の木が“泣く”。

 ガイウスは下から槍を添え、黒竜の息は釜をあたため続ける。

 俺は釜の“張り”を見失わないよう、〈展開:循〉を切らずに、糊の息を保つ。


「セヴィア、好きなだけ切って覚えていきな」

 ノエラが指ぬきで額をこつん。「でも今日は“端”は貸さない」


「貸すのか、返すのか、いつも曖昧だな」

 リゼルが呟く。風は笑っていない。


 女の踵と針が梁の上で“刺し子”のように鳴り、〈網代〉で組んだ拍子が微かに震える。

 ミリアは祈りを薄く滑らせ、張りの呼吸を乱さない。

 俺は釜の縁に〈展開:鎹〉を一つ、二つ。――張りが、くにへ伝わる。


 セヴィアがふっと息を吐いた。「今日は刃を研ぎに来ただけ。……端の“喉”は、次に」


「次は切るな」

「仕事だから」

 言い残し、梁の影に溶けた。


 釜の音が落ち着く。

 ノエラは逆さのままぶら下がり、俺を見下ろした。「参議。糊は戻った。けど――“配合帳”がないと、明日以降は同じ拍子にならない」


「配合帳?」

 老練な糊匠の顔が影から覗いた。やつれている。縄で手首を縛られ、口には布。

 アリシアが即座に近寄って縛りを切り、布を外すと、男は乾いた声で言った。


「すまん……“糊司こし”の帳面が、昨夜、奪われた。配合の“拍子”、季節の“息”、骨と魚の“縦横”――あれがなければ王家の糊は“王家”ではなくなる」


「誰が」

「顔は見ていない。だが、白手袋じゃない。指ぬきでもない。……“印手形”の匂いがした。王印の“副印”を持つ者の匂いだ」


 王印の副印――王の印を押す前に、紙に“拍子”をつけるための補助印。

 俺は舌の奥が冷えるのを感じた。

 袖の針ではなく、舞台の印の側から“解き”が入った。


「宰相へ報せる。綴務の印で“仮配合”を今日だけ回す。明日以降は……配合帳を取り返す」

 言いながら、俺は釜の縁で指を走らせた。

 骨に“心”、魚に“息”。季節に“返し”。――今、この時の拍子を“帯”に刻む。


「〈展開:貼・標〉」

 糊そのものに、今日の“拍子”の印を薄く残す術だ。

 これで“仮”は保つ。けれど、配合帳は戻さないと続かない。


「どこに逃がす」

 ガイウスが短く問う。

 リゼルが風を嗅ぎ、「丘の北側、風の折り返し。――旧道の隧道。王家の車しか通らなかった“貼印路”だ」と答えた。


「行く」

 俺は頷き、針筒を肩に掛け直す。「糊匠、ここは任せる。張りの“息”は保ってくれ」


「任された」

 男は釜を撫で、顔を少し上げた。「……お前さんの“返し”、いい針だ」


 *


 旧道の隧道は、丘を半ば穿つように走っていた。

 石壁に刻まれた浅い文様は、帯の“節”。王家の使いが通るたびに、糊の拍子がここをくぐったのだろう。

 だが今は、節が乾いて白く浮いている。――糊が“剥がされた”跡だ。


「〈展開:索〉」

 俺は通路の目録を立ち上げ、節と節を糸で結ぶ。

 先に走る足音は軽くない。二人。どちらも、歩幅が“官の訓練”だ。

 アリシアが頷き、先へ。ガイウスが後ろへ目を配る。リゼルは風を低く、ミリアは祈りを薄く。

 ノエラは天井の梁に指を引っかけ、黙ってついてくる。


 曲がり角。

 白い外套に金の縁取り。肩章は薄青――“貼印官”の色。

 その横で、濃紺の外套が裾を曳く。腰の印袋の膨らみ。

 どちらも振り向き、目だけで驚きを表した。


「参議殿……!?」

 貼印官の男はアリシアの剣先を見てすぐ手を上げた。「違う、我らは“護送”だ。『糊司長より預かり』――」


「預かった相手の名は」

 アリシアが鋭く切る。

 濃紺の外套のほうが一歩出て、唇の端に薄い笑い。「名は流れる。肩書は残る。――『王印前室・副掌客ふくしょうかく』だ」


 耳慣れた言い回しに、俺の背に冷たいものが走る。

 ヴァレンが口にした調子。利札会や算用房の“裏道”に通じる者の匂いだ。


「配合帳はどこだ」

「ここに」

 副掌客は印袋から布包みを少し出し、すぐ引っ込めた。「だが、これは“王家のもの”。参議といえど、直接は触れられない」


「その舌で、糊を剥がしただろう」

 リゼルが床の埃を指で撫でる。指が黒く、銀くなる。「離水粉の跡。お前の靴の踵」


 副掌客の笑みは崩れない。

 アリシアが一歩詰めようとした瞬間、通路の両側から細い“解き”が走った。

 銀の針――四方から。

 ノエラが指ぬきを弾き、二本を空で弾く。俺は〈展開:返し綴じ〉を足元に打ち、ガイウスは槍で天井の小窓を叩いた。

 薄い光と風。――仕掛けは解除されない。逆に“返しの返し”で、通路全体が半足“よじれる”。


「〈展開:杉綾・歩〉!」

 床が半足、前へ“歩き”、よじれの向きを逃がす。

 アリシアの剣が副掌客の印袋へ届く――寸前、貼印官の男が身を差し出し、剣の平を肩で受けた。


「やめろ!」貼印官が叫ぶ。「俺は“預かった”だけだ! 離水粉は知らない! 配合帳は王城へ戻す途中だ!」


「誰の命で預かった」

 俺は問う。

 男は迷いなく答えた。「王妃殿下の印で」


 空気が変わった。

 ミリアの祈りがわずかに揺れ、リゼルの風が一拍だけ止まる。

 アリシアの剣先がほんの少し沈み、ガイウスの槍が下がった。


「王妃……?」

 俺は副掌客を見た。

 彼は薄く笑い、「“王家の糊”は王家のもの。民のものではない」と言った。「端を固めるのは“王のため”。君の“布”が民のために広がるのは、美しいが、脆い」


「脆いから、縫っている」

 俺は返す。「剥がして固め直すのは、もっと脆い」


「では、勝負だ。袖の針と、舞台の印で」

 副掌客は布包みをわずかに掲げ、通路の奥へ投げる素振りを見せ――掌返しで自分の背に隠した。

 ノエラが天井から滑り降り、指ぬきで副掌客の袖を軽く刺す。「舞台でやれ」


 貼印官の男が庇い、アリシアが半足ずらして剣の平で印袋を叩く。

 袋が緩み、布包みが床へ落ちた。

 俺は〈展開:刺し子・返〉を包み紙に打ち、床の“返し”へ縫い付ける。

 副掌客は即座に〈解紋・返〉で逆回しを掛け――たが、包み紙の“返し”は俺の返しの“返し”。

 ほどけず、戻る。


「……袖の手は厄介だ」

 副掌客が息を吐く。「だが、舞台は袖では決まらない」


「舞台は、袖が落とさないからこそ立つ」


 リゼルの風が通路の埃を攫い、ミリアの祈りが拍子を揃える。

 ガイウスが槍で副掌客の足元を払う。アリシアが印袋を剣の平で押さえ、貼印官の男は両手を上げて道を空けた。


「……持っていけ。俺は王妃殿下の命で“護送”を請けた。だが、剥離の粉までは知らん」

 男の目は迷いなく、苦い。

 副掌客が冷笑を浮かべる。「裏切るのか」


「舞台は落としたくない」

 貼印官の男は言い切った。「殿下も、落ちる舞台は望まれない」


 副掌客は肩をすくめ、印袋を捨てて後ろへ退いた。

 ノエラが包み紙を拾い上げ、俺に手渡す。

 包みの内側には、骨と魚の比率、季節の“返し”、風の“耳”に塗る薄糊――王家の糊の全てが、丁寧な手で記されていた。


「返すべき場所へ返す」

 俺は包みを抱き、貼殿へ踵を返す。「――宰相の印で“公開”する。王家の糊は王家のもの。けれど、『綴務』の帯で、拍子を皆に渡す」


「秘密を、公開に?」

 アリシアが小声で問う。

「全部ではない。『返し』と『標』だけだ。剥がすために使えないよう、帯で“外側”を増やす」


 隧道を戻る間、副掌客は何も言わずにこちらを見ていた。

 別れ際、彼は一言だけ置いた。


「君の“返し”は、怠けを生む。――舞台の言葉で、止められるといいな」


「止める」

 俺は短く返す。「止めて、歩かせる」


 *


 貼殿に戻ると、糊匠が釜を守っていた。

 配合帳を渡すと、男は無言で受け取り、頁を撫でた。

 涙で、指先が濡れているのが見えた。


「……拍子が、戻る」

 彼は息を吐き、顔を上げた。「参議殿。王家の糊を、王家のまま、皆へ渡してくれ」


「綴務の札で、帯にする。――返しは戻るために。貼りは、歩くために」


 ミリアの祈りが釜の縁を滑り、リゼルの風が火の息を調える。

 アリシアは梁の上を確認し、ノエラは天井の針を一本だけ残して消えた。

 ガイウスは黒竜の首を撫で、外の風を見た。「風は北東へ抜ける。……砦と村の帯が、少し太くなった」


 釜の糊は静かに呼吸し、くにの端へ薄く広がっていく。

 “端”は、剥がれない。

 王家の糊は、王家のまま、帯で民の歩みに重なる。


 宰相へ戻る前に、丘の上で一息ついた。

 レオンが兵を連れて合流し、「市場は持った。綴務の札が、驚くほど効いた」と報告する。

 俺は頷き、遠くの北の稜線を見た。


「次は――“折り目”だ」

 布が大きくなれば、折り目が要る。

 戦が来る。舞台が揺れる。

 折り目を間違えれば、そこで裂ける。


「十九話で、折る。――落ちない折り方で」


 アリシアが笑い、ミリアが祈り、ガイウスが空を見上げ、リゼルが風を鳴らした。

 レオンは肩を回し、「剣の打ち合わせより、針の打ち合わせが多いな」と苦笑する。


「舞台は、袖が落とさない」

 俺は杖を握り、丘を下りた。

 王家の糊は息をしている。布の端は張り直された。

 ――なら、折り目を決めに行こう。

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