第17話 綴務、袖から舞台へ
文庫と貨幣庫の“返し”を縫い戻した翌朝、王都の空は薄く冴えていた。
砦と村からの布の拍動は胸の奥で息を続け、札の帯は弱いが確かに回っている。――ここで、袖を表に出す。
「『綴務』を置きたい」
宰相の前で、俺ははっきり言った。
会議室の楕円卓には、財務、聖務、市参事、兵部、そして文庫の老司書と繕庫の白衣たち。
レオンは教練帰りの鎧のまま、壁際で黙って耳を傾けている。
「袖の仕事を袖のまま承認する。縫う、返す、結ぶ、撚る。舞台の下で落ちない仕掛けをやり続ける部局だ。繕庫と文庫の一部、札所、そして砦と村の“布”を、一本の管に通す」
財務が眉をひそめた。「新たな官を増やせば、予算が――」
老司書が静かに口を開く。「落ちた舞台は、もっと高くつく」
繕庫の白衣が白手袋を外し、隠さず黒ずんだ指先を示した。「縫い目は、見えないまま残るべきです」
宰相は短く息を吐き、王の印を机に置く。「『綴務』、暫定発足。参議カイルを初代“綴官”に任ず」
机上がざわめく。レオンが薄く笑って、俺に一度だけ頷いた。
「人を寄越す。俺が鍛えた若い兵の中に“袖向き”がいる」
「剣の代わりに針を持てるか?」
「持てるよう、叩き込む」
そのやり取りを切るように、宰相室へ灰を帯びた伝令が飛び込んだ。
「綴官! 王都北東の路地で“布割れ”。帯の拍子、四箇所で乱れ! 小火、札の偽、祈り石の“息抜き”――同時に!」
同時。
割師の手、解き手の手、そして切り手の手。三つが同時に来る“布嵐”だ。
「綴務、動かす」
俺は立ち上がった。「袖をここへ集めろ。文庫、繕庫、札所、聖務、兵部の“袖向き”。――舞台へ出る時間だ」
*
綴務の仮詰所は、札所裏の広間。
長机に地図を広げ、王都を“布”として見立てる。帯の回り、祈り石の環、路の綾、用水の横糸。
老司書が「索」を、繕庫の白衣が「縫い」を、聖務が「祈りの拍子」を、兵が「走り」を担う。
リゼルは窓枠に腰掛け、風を舌で数え、ガイウスは槍を壁に立てて低い声で“息”を揃える。
アリシアは剣を帯びたまま、針と紐の束を受け取り、手早く肩に掛けた。
「三の手。北東路地、南門市場、東外郭の水門、王城下の貯蔵路」
俺は杖先で四点に印をつける。「……『切り』『割り』『解き』『抜き』が揃ってる」
「全部に行くには、人が足りない」
レオンが短く言う。「兵は二十、袖向きも十が限界だ」
「だから“刺し子”で行く」
俺は指に糸を絡め、布の図に細かな点を打つ。「面で塞がず、点で留める。〈展開:刺し子〉。小さな“返し”を密に散らして、切り、割り、解き、抜き――全部、深くならないうちに潰す」
「隊を四つに」
アリシアが即答する。「私が北東路地。ガイウスは水門。レオンの兵は南門市場へ。王城下は……カイル、お前だ」
「了解」
リゼルが口笛を短く。「風は午後に逆転。東外郭はそれまでに片を付けろ」
「ミリア、各隊に“薄い祈り”を一本ずつ。深く刺すな。刺し子の『返し』を邪魔する」
「はい」
繕庫の白衣が針筒を差し出す。「綴官、袖の印」
取り出したのは、細い銀の針に小さな輪――ノエラの置いていった“返”針とよく似た、だが綴務の刻印がある。
胸が一度だけ熱くなった。
袖の手を、表で持つ。
舞台のために、堂々と。
「行くぞ。――舞台は落とさない」
*
【北東路地】
狭い路地で、黒い外套が踊った。
セヴィア。双剣。外套の裾が“切り筋”を描き、路地の結び目だけを狙ってくる。
アリシアは剣と針を両肩にかけ、走り針のように路地を縫っていく。
「〈展開:刺し子〉!」
石畳に細い“返し”が連ねられ、路地の角ごとに小さな留めが生まれる。
セヴィアの踵が結び目に触れるたび、半足だけ力を吸われ、斬撃の軌が鈍る。
「袖の剣」
セヴィアが笑い、双剣のひとつを捨てて、踵の刃で“返し”を断つ。「今日は足で切る」
「なら、足で縫う」
アリシアは踏み石を半足ずらし、膝で“返し”を押さえる。
剣筋は浅く、速く。切るのではなく、留める。
刺し子の点が彼女の足音に合わせて生まれ、セヴィアの双剣が一歩ずつ居場所を失っていく。
「……上出来」
女が呟いたその瞬間、路地の屋根から黒い影がひとつ滑り降りた。
指ぬき。ノエラだ。
アリシアと目が合い、ノエラは片眉だけ上げる。「続きは後で。今日は借りる」
銀の針が二、三、空で弧を描き、セヴィアの“切り筋”へ“刺し子”を重ねて留めた。
セヴィアは双剣を納め、珍しく楽しそうに笑う。「袖が二人。舞台が、騒がしくなる」
*
【東外郭・水門】
黒竜が低空を走り、風が水面を剃った。
ガイウスは槍で水門の“耳”を叩き、古い板の呼吸を探る。
外から〈割紋〉が走り、用水の流れを二手に細らせる。――割師だ。
「〈展開:綾〉・〈縫〉!」
ガイウスは槍の柄を“針”のように使い、水の綾の交点に短い留めを落としていく。
黒竜の風が濁りを軽くし、綾の谷に乗せる。
割師が岸辺で算盤を鳴らした。「君、槍で縫うのか」
「槍は伸びる針だ」
リゼルの風が割師の“黒板”の線だけを撫で、数をわずかにずらす。
割師は肩をすくめた。「今日は数える。……面白い」
*
【南門市場】
市場の喧噪が火の舌を隠す。
レオンは兵を“盾の刺し子”に編み替え、屋台の間に小さな“返し”を連打することだけを命じた。
「斬るな。留めろ。動きを止める“点”を打て」
教練で叩き込んだ声が、兵の踵を揃える。
偽札を撒く輩の手元へ、繕庫の白衣が走り針で“返し”の札を打ち込む。
札は空洞にならず、逆に“返し”を返す。
「勇者、袖向き」
市場の老婆が笑い、レオンは苦く笑い返した。「剣より、重いな」
*
【王城下・貯蔵路】
貯蔵路は薄暗い。糊の匂いが残り、床の石は古い“耳”を持っている。
俺は〈索〉を張って通路の目録を立て、〈刺し子〉で点を落とす。
薄い“解き”が壁の布の裏を走り、〈抜〉が祈り石の“息”を細く拐う。――ノエラの弟子筋か、あるいは模倣者だ。
「〈展開:刺し子・返〉」
俺は“返し”の向きを半拍ずらし、点と点の間に“返す路”を短く繋ぐ。
解きの針が入っても、すぐに戻る。抜きの針が息を引いても、短く跳ねて返る。
薄暗がりで、指ぬきの影が一つだけ踊った。――ノエラではない。荒い。
俺は床に杖を突き、低く告げる。「模倣で袖を汚すな」
影は舌打ちして逃げた。追わない。刺し子の“返し”が回っている限り、深手にならない。
*
午後。
四つの点は持ちこたえ、帯は少し太った。
綴務の詰所へ戻ると、机の上の王都の布図が薄く光を帯びている。祈り石の“息”と、帯の拍子が、点で綴じ合っている。
「……持ったな」
レオンが額の汗を拭い、鎧を鳴らして椅子に腰を落とした。「斬らずに、勝った気がする」
「勝ってない。落ちなかっただけだ」
俺は水を飲み、指先の針の痛みをさすった。
ミリアが手を包み、小さく祈る。「まだ熱い。……でも、よく動いています」
その時、窓枠からひょいと指ぬきが覗いた。
ノエラ。煤の顔のまま、目だけ明るい。
「袖の印、似合う」
「お前の“返”をまねた」
「知ってる。お土産、もう一つ」
指から滑り出たのは、小さな布切れに刺した銀の針。
頭に刻まれた文字は“綾”。
「切り女が、次に狙うのは“綾の腰”。北塔の屋根の梁。風の耳を切って、帯の拍子を一気に乱す。夜」
「なぜ教える」
アリシアが目を細める。
ノエラは肩をすくめた。「長持ちが好き。今日は、縫う側に賭ける」
「条件は?」
「私を捕まえないこと。……それと、参議」
ノエラは指ぬきで自分の額をこつんと叩き、わずかに真顔になった。「“返し”が多すぎると、人は怠ける。君は、それを舞台の言葉で止められる?」
「止める。袖の針で人を裁かない。舞台の言葉で、歩かせる」
ノエラは満足げに片手を挙げ、風に乗って消えた。
リゼルが口笛を短く。「風は北塔へ集まる。……夜半、耳を切られる」
「行く」
俺は机の布図に指を滑らせ、帯の“返し”を北塔へ太く一本通した。「〈展開:網代〉」
網代――交互に編む渡し方。
帯と祈りと路を交互に重ね、切られてもすぐ下に別の帯が控えるようにする。
刺し子の点も、網代の節にだけ濃く打つ。点と帯の“拍子”を合わせる。
ガイウスが頷き、アリシアが針を肩にかけ直す。ミリアは祈りを薄く長く、レオンは兵に“静かに速い歩調”を叩き込む。
「夜半までに、網代を掛けきる」
俺は立つ。「――舞台を落とさないために」
*
夜。北塔。
屋根の梁は風の耳を立て、月の光が瓦に薄く流れている。
セヴィアの黒い影が、梁の“耳”に踵を乗せた。
アリシアが屋根の影から出る。剣は鞘のまま、肩に針。
ガイウスが梁に槍先を沿わせ、黒竜は高く声を殺して旋回。
リゼルの風が耳の形を描き、ミリアの祈りが拍子を細く繋ぐ。
「“綾の腰”を切るのか」
「切る」
セヴィアは素直に頷いた。「切れなければ、覚える」
「覚えるために切るなら、縫うために覚えろ」
「優しい」
女が踵を落とす。
〈網代〉の節が一つ切れ――すぐ下の帯が受ける。
双剣が交差し、梁の“耳”が一瞬だけ泣く。
アリシアは剣の平で刃を受け、針で節を一つ返す。
俺は〈展開:刺し子・返〉を網代の節にだけ打ち、切っても戻る“短い道”を増やす。
「……網代。嫌いじゃない」
セヴィアの笑みが、月光で薄く見えた。「じゃあ、腰ではなく“喉”を」
女の双剣が、梁の“喉”――塔の中心へ通う空気の太い柱を狙う。
一撃で落ちる場所だ。
俺は杖を梁に突き、低く告げた。
「〈展開:刺し子・刺し子〉」
刺し子の二重。
点と点の間にさらに“返し”を打つ。細かすぎるほどの留め。
切られても、切られても、戻る。戻るたび、ほんの少しだけ“固く”なる。
セヴィアの双剣が同じ場所を二度、三度、鳴らしても、喉は落ちない。
女は双剣を納め、踵で軽く耳を撫でた。「……覚えた。——今日はここまで」
「次は切らないでくれ」
「仕事だから」
いつもの答え。だが、その声の底に、わずかに“楽しみ”が混じっていた。
風が月の耳を通り、綴務の“袖向き”たちの足音が下で合流する。
王都の布は、点と帯と網代で今夜を持った。
屋根の縁で、レオンが息を吐く。「剣より、針が忙しい夜だ」
「針で舞台を落とさない。それが今夜の勇者だ」
俺が言うと、彼は苦笑して肩を竦めた。「……悪くない役だ」
ミリアが祈り台を胸に抱き、そっと目を閉じる。「拍子は揃っています。――明日へ渡せます」
渡す。
袖の仕事は、今日を明日に渡すためにある。
下へ降りる道すがら、リゼルが低く囁いた。「風が、北の丘で立ち止まる。……布の“端”に、人の匂い」
「誰だ」
「風は名を持たない。ただ、匂いは“王家の糊”だ」
王家の糊。
布を貼り合わせる最初の糊。
それが、今、布の“端”で固まり、剥がれかけている。
「十八話で、そこに行く」
自分に言うように呟く。
綴務は動き出した。袖は舞台へ出た。
切る手、割る手、解く手は、まだ踊る。
それでも――
「落とさない」
アリシアが隣で笑い、ガイウスが頷き、ミリアが祈り、レオンが肩を回し、リゼルが風を鳴らした。
月は高く、針は薄く、布は息をしている。
袖の手で、明日へ綴じる。