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第16話 文庫を縫い戻せ

 札所の裏口をくぐると、石段はすぐ湿り、糊と紙灰の甘い匂いが濃くなった。

 灯りは抑えられ、壁には古い目録札が釘で打たれている。〈解紋・返〉の針跡が、その札の端々に微かな裂け目を作っていた。


「地下は二層。上が文庫、下が旧貨幣庫」

 リゼルが風を指先で弾く。「風は右に巻く。火の抜け道が左。——狙いは、縫い目の多いほうだ」


「文庫だな」

 俺は〈支援:視〉で暗がりの層を薄く剥ぎ、柱と棚の隙間を地図のように結ぶ。

 アリシアが一歩先に出る。ミリアは祈り台を胸元で抱き、ガイウスは槍の石突きで段の強度を確かめながら降りた。


 曲がり角、石の床に銀のきらめき。指ぬきの先から落ちた、糸留めの粉だ。

 ノエラは、急いでいない。走らず、踊る。音がそう言っている。


「“袖の最奥”って感じだな」

 アリシアが小声で笑った。

「袖ほど厄介だ」

 俺は答え、棚と棚の狭間に指を当てる。木が乾いている。綴じ紐の節、背表紙の糊の層。——ここ全体が「本」だ。


「〈展開:索〉」


 さく。文庫の“目次”を立ち上げる式。

 この棚の何段目に何があるか、空気に細い糸で見取り図を描く。

 同時に、〈支援:連〉を薄く張って、仲間と索の糸を共有する。


「右手の三段目、儀礼書。左手奥、帳合と印影台帳。——ノエラは奥へ」


「行く」


 アリシアが滑るように進み、ガイウスが肩で棚を押して通路幅を確保。ミリアの祈りが“埃の息”を沈め、咳を誘わないように整える。

 風が、紙の隙間で舌打ちした。リゼルが足を止める。


「縫い目だ。——解きに来るぞ」


 次の瞬間、棚の奥から細い光。銀の針が、まるで頁をめくるみたいに通路の空気を“解いて”きた。

 通路の壁が半足分よじれ、足場がずれる。アリシアの踵がかすめ、ガイウスの槍が棚板に触れて響いた。


「〈展開:返し綴じ〉!」

 俺は通路の“背”に針を通す。

 返し縫いの応用。書物の背綴じみたいに、板と板を裏からつなぐ。

 空気のよじれが半拍遅れて戻り、通路が真っ直ぐに“綴じ直る”。


「ふふ。やっぱり見てた」

 薄暗がりの向こうで、指ぬきが二度、三度、壁を叩く。

 ノエラの声だ。煤で低く歪んでいるが、軽さを隠せない。


「君の返し、よく出来てる。でも“返しの返し”は、もっと好きだ」


「〈解紋・返返〉……!」


 銀の針が空で弧を描き、俺の返し綴じの“返し目”だけを器用にすくい取った。

 通路がまた半足よじれる。今度は逆向き。

 ミリアの祈りが揺れ、アリシアの足が滑る——直前、俺は床の“目”に杖を突いた。


「〈展開:杉綾・歩〉!」


 稜線で使った“綾の綾”を、床へ。

 足場が半足だけ“前へ歩き”、滑りを受け流す。

 アリシアは体勢を崩さず、二枚の棚の隙間へ剣を差し入れ、銀の針先を弾いた。


 乾いた音。細い笑い。


「袖の剣、嫌いじゃない」


「舞台に出なよ。袖で火をつけるの、趣味が悪い」


「舞台は綺麗すぎる。私は“ほころび”が好き」


 ノエラはひらりと柱の陰へ消える。

 追いすがると、文庫の間取りが急に広がった。低い天井、上から吊られた大きな枠——製版台だ。

 布の札の原版を摺るための台。——ここで“返し縫い”を逆回しにされれば、布の札が空洞になる。


「止める」

 俺は製版台の脚に触れた。木が古い。だが柱の根元はまだ息をしている。

 〈展開:流〉で空気を板の“繊維”に沿わせ、〈支援:循〉で木の水脈を起こす。

 木がきしみ、セヴィアが好みそうな“耳”が鳴った。いや、今日は彼女はいない。いるのは解き手。


「アリシア、右。ガイウス、上。ミリア、灯を落とさないで」

「了解」


 その刹那、銀の閃き。

 ノエラが製版台の裏から滑り出て、肩の針山から三本、流れるように放つ。

 一本は明かり、二本は綴じ紐、残る一本は——俺の杖の影。影の“結び”を切るつもりだ。


「〈投射:衝〉・〈支援:偏〉!」

 俺は空気の層を少し傾け、針の“重さ”を棚の角へ逃がす。

 三本のうち二本が木に刺さり、残る一本が床にカン、と跳ねた。

 ガイウスの槍が横から入り、反射で戻ってきた針を払う。アリシアはノエラの手首を狙い、剣の平で“針袋”を叩く。


 針が床に散り、ノエラの口角が上がる。「上手」


「お前もな」

 アリシアが低く返す。


 ミリアの祈りが製版台の“息”を包む。「〈聖光重奏・薄〉……!」

 光は弱く長く、紙の糊の層を揺らさない。祈りの“息”が、台の上で細い網になった。


「参議殿」

 文庫の管理をしている老司書が、控えめに顔を覗かせる。「奥の“じゅ紐”も、狙われているようで」


 綬紐——儀礼衣の肩に渡す広い紐。札の原版と同じ糊で固められ、王都の式と“拍子”を合わせるためのもの。

 それを抜かれたら、布の札に押す王印が“空の拍子”になる。


「リゼル、風で綬紐の埃を落とせ。埃の“息”で偽物が浮く」

「了解」


 風が綬紐の上を撫で、埃が細い小径を描く。——一箇所だけ、埃が溜まらない。

 ノエラの針がそこへ入っていたのだ。糊の下で“返し”が逆回転になり、埃が“戻る”前に抜ける。


「〈展開:返し綴じ・逆〉」

 俺は自分の返しを、さらに“逆”へ。

 返しの返しの、返し。

 針を深くしすぎないよう、呼吸の拍子と合わせる。

 綬紐が小さく鳴り、戻る場所が生き返った。


「……ほんと、好き」

 ノエラが呟き、指ぬきの背で額を軽く叩く。「こういうの、心臓が跳ねる」


「なら、袖じゃなくて舞台にいろ」

 俺は言い返す。「袖は落とさないためにある。落とすための袖は、要らない」


「落としたいわけじゃない」

 珍しく、ノエラの声に熱が混じった。「長持ちさせたい。——ほころびは、早いうちに取るほどいい。目に見えないほど小さな糸の乱れが、大穴になる前に。私は、それだけ」


「わかる」

 俺は頷く。「でも“返し”まで抜くな。返しは戻る道だ」


「戻る道が多いと、人は怠ける。私は、それが嫌い」


「怠けを裁くのは、袖の針じゃない。舞台の言葉だ」


 沈黙。

 次の瞬間、床下。旧貨幣庫の方向から、乾いた破裂音が響いた。

 空気が“浮いた”。足元の石が半足、沈む。


「下だ!」

 ガイウスが叫ぶ。

 ノエラが肩を竦めた。「話はまた今度。——舞台で」


 指ぬきが閃き、壁布の隙間に“返し”を逆回す一刺し。

 通路が一瞬だけ開き、ノエラは闇へ消えた。


「追う!」

 アリシアが飛び込み、俺とガイウスとリゼルが続く。ミリアは老司書と目を合わせ、祈りの“写し”を手早く配り、原版の半分を〈返し縫い〉の核に据える。


 階段を駆け下りる。

 旧貨幣庫は広い円形の空間で、柱に“貨幣紋”が刻まれている。

 中央の台座に、割れた金属の型——古い鋳型だ。

 そこに、銀の針が一本、深く刺さっていた。


「悪い音だな」

 リゼルが唇を歪める。

 型の“返し”が逆回しにされ、金属の“拍子”が狂い始めている。

 このまま走らせれば、王都の“税の拍子”がずれ、布の札の価値(拍子)も揺らぐ。


「止める」

 俺は台座に膝をつき、目を閉じた。

 金属は土と違う。硬いが、音がある。

 〈支援:心〉で自分の鼓動を落とし、〈展開:流〉を“音”へ合わせる。

 金属の中を回る昔の“火の息”。それに軽く触れる。


「〈展開:かすがい〉」


 木と木をつなぐ鎹じゃない。音と音の鎹。

 狂い始めた拍子の隙間に、小さな“留め”を打つ。

 ズレが伝搬する前に、詰め木のように差し込む。


 アリシアが俺の肩に手を置いた。「深くいくな」

「いかない。……いきたいけど」


 苦笑が漏れ、ノエラの笑い声が遠くで応じたような気がした。


 ガイウスが槍で天井の梁を軽く叩く。「足音、二。軽いほうがノエラ。重いほうは——」


「“割師”だ」

 リゼルが風を嗅ぐ。「算盤の匂い」


 通路の向こう、二つの影が重なった。

 算盤を肩に担ぐ痩せた男と、指ぬきをはめた顔の煤けた影。

 ノエラが片手を挙げる。「舞台、揃ったね」


「舞台は火事場だ。帰れ」

 アリシアが剣を構える。


「火事場だからこそ、“拍子”を合わせる」

 割師が算盤の玉を一つ弾く。「参議殿。あなたの布は良い。私の数も良い。なら——彼女の解きが、必要だ」


「三つ巴にする気か」


「布は、糸が多いほど面白い」


 ノエラが半歩進み、指ぬきで額をこつり。「私は、ほころびを取る。あなたは、返しを作る。彼は、拍子を数える。……どれも“長持ち”のため」


「長持ちのために、いま落ちる」

 俺は台座から立ち、杖を前に出す。「ここで“返し”を逆に回されたら、道が消える。——それは長持ちじゃない」


 ミリアが階段を駆け下りてきた。息は上がっているのに、目は澄んでいる。「原版の“返し”を核に据えました。戻る道は——できます」


「ありがとう」

 俺は短く頷き、三人(と一人の風)を見渡した。

 アリシアがわずかに剣先を下げ、ガイウスが槍を左右にわずかに開く。リゼルは外套の縁を指でつまんでいる。

 ——これで、いい。


「〈展開:織陣・綴〉!」


 文庫の“背”から貨幣庫の“型”まで、見えない帯を通す。

 祈りと税と路。札と型と目録。

 袖でしか見えない“綴じ”を、舞台の下でつなぐ。


 割師の目が初めて驚きに揺れた。「……帯で綴じるのか」


「帯は、外から外へ回す。内側で解いても、外回りが戻す」

 俺は笑う。「君たちの“解き”と“割り”は、内側が得意だ。——外側を増やす」


「外側が増えると、内側は窮屈になる」

 ノエラが指ぬきで帯の端を軽く弾く。ぱし、と小さな音。


「窮屈にしてやる。——落ちないために」


 空気が一拍だけ止まり、次の拍で動いた。

 割師の算盤の玉が弾け、ノエラの針が閃く。

 アリシアの剣が平で針を払い、ガイウスの槍が算盤の“玉糸”を横から叩く。

 リゼルが風で帯の皺を伸ばし、ミリアの祈りが帯の“拍子”を一定にする。


 台座の型に刺さった針が微かに浮き、俺の〈鎹〉がもう一段、奥へ入った。

 金属の拍子が“戻る”。

 ノエラの目が細くなり、割師が息を吐く。


「今日は——引く」

 割師が算盤を肩に戻す。「帯は、趣味がいい」


 ノエラが肩をすくめ、指ぬきをくるりと回した。「舞台の針、悪くない」


「袖に戻れ」

 アリシアが冷ややかに告げる。

「戻るよ。また来る」

 ノエラは壁布の影に滑り、割師は逆方向——上ではなく横の換気溝へ、風に乗って消えた。

 追える。だが、帯を今離せば、また解かれる。


「カイル」

 アリシアが低く呼ぶ。

「追わない」

 俺は台座に手を置き、ゆっくり針を抜いた。

 〈返し綴じ〉で止め、〈鎹〉で座を支え、〈織陣・綴〉で外回りを固定する。

 深呼吸。金属の“息”が落ち着く。祈りの“息”と重なる。


「——持った」


 ミリアが微笑み、祈り台をそっと下ろす。「戻る“場所”は、残りました」


 リゼルが空気を味わい、口笛をひとつ。「風も満足してる」


 ガイウスが槍を肩に担ぎ直し、アリシアが剣をおさめた。

 俺は指ぬきが弾いた小さな帯の端を拾い上げ、掌で確かめる。

 硬く、でも柔い。——布の本性だ。


「宰相に報せ。札の印は“帯”で運用する。元の“鍵”は使わない。帯の“返し”を多重に。戻る場所を増やす」


「了解」

 階段の上から、宰相の書記が顔を出した。煤で黒いが、目はまだ光っている。


「それと——」

 俺は言葉を選び、口に出す。「“袖の官”を作る。繕庫を、袖のまま表に出す。名前は……『綴務ていむ』だ」


「綴務」

 アリシアが復唱し、ミリアが嬉しそうに微笑む。リゼルは肩を竦め、ガイウスは短く頷いた。


「袖の仕事を、袖のまま認める。縫う、返す、結ぶ、撚る。——落とさないために」


 宰相へ通す段取りを考えながら、俺は文庫の階へ戻る。

 階段の踊り場、壁布の陰に、小さな銀の針が一本、静かに置かれていた。

 頭に細い刻印——“返”。ノエラの癖だ。


「お土産、か」

 リゼルが肩越しに覗き込み、笑う。「悪くない恋文だ」


「恋じゃない」

 アリシアが呆れ、俺は針を布に刺して胸元に留めた。


「返しは、返すためにある」


 地上へ出ると、王都の空は薄く晴れていた。

 砦と村からの布の拍動が、また胸に戻ってくる。

 あのセヴィアは刃を研ぎ、割師は数え、ノエラは解く。

 俺たちは——縫う。戻す。結ぶ。撚る。帯で綴じる。


「残り——五話で、終わらせる」

 自分に言い聞かせるように呟くと、アリシアが頷いた。「落とさない」


「落とさない」

 ミリアが祈り台に手を添え、ガイウスが空を見上げ、リゼルが風を口笛で転がした。


 袖の仕事は続く。

 派手じゃない。

 でも、舞台は——落ちない。絶対に。

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