第15話 白手袋の解き手
王都に戻る道すがら、風は軽かった。
砦と村を結んだ“布”の拍動が、胸の奥で確かに続いている。腰は持った。肩も揺れない。――なら、次は内側だ。
「“縫うふり”をする奴を引きずり出す」
黒竜の背で呟くと、アリシアが短く頷く。「糸端を握る手は、たいてい綺麗だ」
リゼルは口笛を飲み込み、「風は城の内側で渦を巻く。広間じゃない。細工場か、倉」と言った。
ミリアは祈り台を抱きしめ、祈りの声を低く整える。「光は強くせず、長く――“聖具の間”にもぐらせます」
城壁が見えるころ、宰相からの使いが駆けてきた。封蝋は簡略、筆は急ぎ。
〈布の通行印、偽造の兆しあり。
祈り石の一部、替え玉。
参議、至急“繕庫”へ〉
“繕庫”。城内の修繕と聖具の手入れ、文書の綴じ直し、儀礼衣の糸止めまでを担う、静かな地下の部署だ。
表向きは「縫う」場所。――なら、そこに“解く”指がいる。
*
繕庫は、石の冷気に糊の匂いがまざっていた。
長机の上で白衣の職人たちが黙々と糸を通し、浅い盆には切れ端が整然と並ぶ。
奥の小間に、白手袋の男がひとり。痩せた指が、祈り石を柔らかい布で拭う。
「補綴官ヴァレン殿だな」
俺が声をかけると、男は振り返った。細い頬に薄い笑み。
「参議殿。お噂はかねがね。“布”の比喩は美しい。実務に寄り添う」
「美辞はいい。印の偽造、祈り石の替え。――どこで“解いた”」
白手袋がゆっくり外される。指先は針仕事の者らしく綺麗で、爪の縁に僅かな黒。煤ではない。銀粉の跡だ。
ミリアが目を細める。「祈り石の『息』を盗んでいる……?」
「盗むとは心外。息は“移す”ものだ」
ヴァレンは小さく肩をすくめ、布包みを開いた。そこには見慣れた祈り石――だが、光が浅い。
「巡礼路の石をここに。ここで王都の『印』を重ね直し、無害化するだけです」
「無害化?」
アリシアの声が硬くなる。
ヴァレンは首を傾げ、手際よく石の“息”を拭い取って、別の石に上塗りした。
「祈りは、時に人を昂ぶらせる。市場の波を揺らす。私は“揺れ”を解き、静める。――布の皺を伸ばす、つもりでね」
いい言葉で包む。だが“移す”先が、王都の枠の外だとしたら?
俺は机に指を置き、石の表面の“目”を覗いた。
〈支援:視〉〈展開:循〉――微かに、外向きの流れ。
砦と村を繋ぐ布から、息が薄く抜けている。
「伸ばすどころか、解いてる」
低く言うと、ヴァレンの頬の笑みがほんの少し深くなった。「参議殿は耳がいい。……だが、これは王都の“平穏”のためだ」
「誰の平穏だ。民か、帳簿か」
リゼルが壁にもたれ、「風は帳簿のほうへ吹く」とぽつり。
ガイウスが槍の石突きを軽く床に当て、アリシアは半歩前に出た。
ミリアが祈り台に手を置く。光は浅く、長い。――嘘を急かさない光。
「宰相の命か」
「命なら、どれほど楽か」
ヴァレンが白手袋を畳む。指が、糸を操る癖で小さく動いた。
「王都には“布の保守派”がいる。祈りや路より、金の目盛りで安心したい人々だ。私は彼らの『手』だよ」
「名を」
アリシアの声が冷えた。
「名は流れる。肩書は残る」
ヴァレンは笑って、引き出しから細い木筒を取り出した。
“針”。直径の太い、空洞の針。――糸ではなく“息”を抜くための針。
「〈解紋・抜〉」
針先が祈り石に触れた瞬間、石の“息”が細い糸になって吸い上げられる。
机の上の布に移された“息”は、形だけ祈りに見え、実は空洞。
印は残る。中身は抜ける。――“縫うふり”だ。
「やめろ」
俺は杖を立て、机の脚に〈展開:流〉をかけた。
空気の流れを逆にして、針から“息”が戻るよう傾ける。
だがヴァレンの指は軽やかで、針の角度をすぐさま変え、流れを巻き込んだ。
「針は指の延長だ。あなたの畝と同じ。半足の差で、結果が変わる」
アリシアが踏み込み、剣の平で針を叩く。
ヴァレンは身を捻って受け流し、反対の手から細い“返し針”を出した。
ガイウスの槍が入り、白手袋が裂ける。指が露わになっても、動きは止まらない。
「ミリア、光を“浅く”入れ続けて」
「はい」
祈りは深く刺さない。“息”の路を見えるままにしておく。
俺は机の端に銀粉を少し撒き、〈支援:偏〉で空気の層を傾ける。銀が細い筋になって、ヴァレンの針先の流れを描いた。
「見えた」
針が“息”の結節を狙っている。祈り石の“目”のうち、結びの手前――そこを抜けば、印は残したまま中身だけ奪える。
「〈展開:返し縫い〉」
俺は祈り石の“裏”へ針を通す。
目に見えない針。土の針。
結びの手前に“返し”を作っておけば、抜かれても戻る。――砦で女の踵を弾いた、あの要領だ。
ヴァレンの針が石に刺さり、“息”が細く吸われる。
だが次の瞬間、石の裏で“返し”が効いて、息が跳ね返った。
逆流がヴァレンの針を震わせ、彼自身の袖口へ“空の祈り”が戻る。
「っ……」
白手袋が内側から膨らみ、ふわりと萎んだ。
ヴァレンの目が僅かに揺れる。
アリシアの柄打ちがすかさず入り、針が床に転がった。
「終わりだ、ヴァレン」
俺が言うと、彼は肩をすくめた。「終わり? あなたは舞台袖の人間だろう。袖での仕事に終わりはない」
「だから続ける。君の“仕事”はここで止める」
ミリアの光が薄く強まり、リゼルの指先が微風を作る。
ガイウスが槍を横にし、退路を塞いだ。
ヴァレンは短く笑い、静かに両手を上げた。「参ったよ。……名を出す」
彼は幾つかの肩書を並べた。
財務院の古い部局“算用房”、市参事“利札会”、聖務庁の一支線“儀礼監”。
どれも名が流れ、肩書だけが残る場所――書類の“裏道”だ。
「宰相の名はない」
「彼は“表”だ。私は“裏”。――君も同じ位置に来たのでは?」
「俺は裏で人を生かす。君は裏で息を抜いた」
宰相の兵が繕庫へ入り、ヴァレンは拘束された。
祈り石の替え玉は押収。白手袋は証拠に。
宰相が駆けつけ、短く言う。「礼を言う。鍵は替え、印は布の札に統合する。――裏道は、塞ぐ」
「塞ぎすぎれば、またどこかが膨らむ」
俺は言った。「“返し縫い”で頼む。抜かれても戻るように」
宰相は薄く笑い、頷いた。「君が袖の仕事を言うとは思わなかった」
*
繕庫を出ると、王都の空は薄曇りだった。
アリシアが横目で俺を見、「指、血がにじんでる」と囁く。
見ると、返し縫いの負担が遅く来ていた。ミリアが手を包み、短い祈りで痛みを流す。
「無理をする」
「針は、少しだけ自分の血を食う」
俺は笑って、杖を握り直した。
廊下の角で、勇者レオンと鉢合わせた。
彼は聖剣のない腰で、教練帰りの鎧の隙間を汗が走っていた。
「参議。兵の“歩調”がよくなった。布の札も街に回る。……俺も、いくらか“袖”を学んでいるらしい」
「紙は剣より重い時がある」
「知ってるつもりで、知らなかった」
彼の目には以前の傲慢だけでなく、焦りと、わずかな尊敬が混じっていた。
レオンは躊躇い、言葉を替えた。「辺境は持つか」
「持たせる。腰は縫った。肩も。――そして、内側の“解き手”は一人、外した」
「一人?」
「まだいる。切る女、割る男。……それから、縫うふりの別の手が」
ちょうどその時、回廊を走る足音。宰相の書記が青い顔で走り寄る。
「参議、報! 布の札所に火! 市場の一角が焼け落ち――札の原版が、半分……!」
胸が冷たくなる。
“返し縫い”で戻るはずだ。戻るには“戻る先”が要る。原版が落ちれば、戻りきらない。
「場所は」
「旧貨幣庫の上、北市の角……!」
リゼルが目を細める。「風の抜けが悪い角だ。火は、走る」
アリシアが剣に手を置き、ガイウスが槍を担ぎ直す。ミリアは祈り台を胸に。
俺は宰相に短く言った。「“札の写し”を、すぐに各所へ。原版が半分でも、返し縫いで“戻れる場所”を増やす」
「分かった。王印は後から押す。先に回せ」
走る。
階段を二段飛ばしで降り、札所へ向かう回廊に入った瞬間、鼻を刺す焦げ臭。
火の色は薄いが、煤の粒が細い。油ではない。――紙と糊だ。
「〈展開:静〉」
音を殺し、〈支援:偏〉で風の層を傾ける。炎の舌を“布の外”へ押しやる。
アリシアが布を濡らし、ガイウスが窓を割って煙の抜け道を作る。ミリアの祈りが熱の“息”をゆっくり下げる。
札室の奥で、白手袋――ではない。
灰色の指ぬき手袋。糸巻きを腰に下げ、針山を肩に。
手際よく紙束を抱え、火中から踊るように出てくる影がひとつ。
「止まれ!」
叫ぶ前に、影が笑って振り返った。
顔は煤で汚れ、目だけが明るい。女でも男でもない骨格。声は低い。
「縫うのは好きだよ。だから、解くのも上手い」
指ぬきの人差し指で額に触れ、にやりと笑う。「“ほころび取り”のノエラ」
ほころび取り。――繕いの名。
ノエラは抱えた紙束の中から、わざと一枚を落とした。風に乗って、俺の足元へ。
拾い上げる。布の札の原版――半分。
見覚えのある“返し縫い”の痕。……俺の式の癖だ。
「真似したのか」
「見てたからね。袖で」
ノエラは指で唇に“しー”と当てる。「続きは、舞台で」
リゼルの風が走り、アリシアが踏み込む。
だがノエラは壁布の裏へ体を滑らせ、針山から一本、銀の針を抜いた。
〈解紋・返〉――俺の“返し縫い”に逆回転を掛ける式。
布の札の棚板が一枚、軋んで“抜け”の路を作る。ノエラはそこへ消えた。
「……“縫うふり”の本命だ」
息を吐く。
ミリアが頷き、祈り台を強く抱き直す。「祈りの『返し』が逆手に取られています。けれど――戻る“場所”は残っている」
「追う」
アリシアが目だけで言い、ガイウスが槍を傾ける。
リゼルは指で風を弾き、「風は地下へ。――文庫と、古い貨幣庫だ」と囁いた。
俺は布の札の原版“半分”をミリアに渡す。「これを“返し縫い”の核に。焼けた分は“写し”で繋ぐ。――戻る場所は、俺たちが作る」
「はい」
階段の先、煤の匂いと糊の甘さ。
針が床石をわずかに叩く音。ノエラの足音。
舞台袖の最奥――文庫の迷路へ。
杖を握る手に、まだ針の痛みが残っていた。
いい。痛みは、落とさない印だ。
舞台は――落とさない。
「行くぞ」
俺たちは、布の隙間へ滑り込んだ。
火は背で小さくなり、前方の闇は針の光で細く裂けていく。
“縫うふり”の解き手を、針で、風で、祈りで、押し返す。
袖の手で、舞台を守る。