第14話 腰を縫う
夜明け前、砦の石が冷たく息を吐いていた。
北からの風がわずかに湿り、空の色が墨から薄藍へと変わる。リゼルが胸壁の上で風を舌で味わう。
「変わる。夜風から朝風へ。布を張るなら、いま」
「腰を縫う」
自分に言い聞かせて、俺は指先で砦の地図を撫でた。
村と砦を結ぶ一本目の布はできた。だが布は端だけ強くても、腰が抜ければ裂ける。王都から北へ伸びる路と金と祈り――“縦糸”をもう一本。これを布の腰として重ねる。
「砦長、門前に荷車を十。空でいい、走らせるだけだ」
「空車を走らせるのか」
「布は、人に踏まれて強くなる。荷台の重みで“緯糸”を押し込む」
砦長マルクが頷き、古兵の声が中庭を駆けた。
「ミリア、祈り石を路の節に。井戸水で濡らして『息』を通してくれ」
「はい。〈聖光〉は薄く、長く」
「ガイウス、道中の浅い堰と小橋を洗う。埋もれた“目”を起こす。竜の風で泥を飛ばしてから、兵に踏ませろ」
「了解」
アリシアが剣帯を締め、俺を見た。「切り手は来る。畑で見せた女が、今度は布の腰を狙う」
「来る前に縫い上げる。来たら――“切られてもいい線”を差し出す」
リゼルが口笛を短く鳴らす。「もう一手、北に“算盤の匂い”。切るのではなく“割る”やつだ。流れを分け、細らせ、最後は枯らす」
「金の流れか」
宰相の文にあった“金が北へ流れる”。鍵番が逃げ、偽印が動く。
切る女と、割る男。二つの手。布の腰を狙うなら、路だけじゃない。市の“勘定”も切り口になる。
「行こう。路と市を、いっぺんに縫う」
*
砦から半刻北、段丘の縁に古い渡河場がある。
昔は橋があったが、洪水で流され、いまは浅瀬を人と荷車が渡る。ここが“腰”になる。
朝霧に煙る河原へ降り立つと、先客がいた。
布地のように薄い灰の外套。
手には箸のように細い棒――先端に玉の連なる木組み。算盤。
背後には軽装の傭兵が十。盾は持たない。走って寄って、走って逃げる“細らせる”戦術。
「はじめまして」
俺が声をかけると、男は目だけで笑った。痩せているが、目の奥が濡れていない。
「“参議”殿。噂の土方魔術師。……名乗りは要るかな?」
「君らはあまり名乗りたがらない。俺だけ名乗るのは不公平だろ」
「では便宜上、“割師”とでも。名は流れる。肩書は残る」
算盤がひとつ鳴った。軽い音なのに、足元の砂利が微かに流れる。
河の上流の、目に見えない水筋が“分かれ”たのが分かった。用水で何年も耳を澄ました身には、わずかな偏りが分かる。
「路を太くするのか、参議殿。太いものは、割ればいい」
「割られて困る線は、作らない」
「強情だね」
男が算盤の玉を弾く。
傭兵が左右に散り、河原の小石を蹴る。
小石が跳ねた場所に薄い墨色の輪が広がり、路の“線”が細る。
アリシアが一歩出る。
俺は杖を河砂に立てた。
「〈展開:綾〉」
綾――斜めに織る。
路の線をまっすぐに通すのではなく、半足分ずつ斜交いにずらしながら重ねる。
割られても、次の斜めが受ける。細らせても、別の斜めが太る。
割師が、わずかに首を傾げる。「面倒くさい布だ」
「割りたいなら、割ってもいい線を渡す」
俺は河原の一角に、わざと濃い線を通す。
割師の算盤がそこを狙い、二度、三度、玉が鳴る。
濃い線が綺麗に“割られ”、流れが二つに分かれた――が、どちらも小さな“綾”に吸い込まれて、元の腰に戻っていく。
「……戻るのか」
「戻るように編んだ」
アリシアが傭兵の前に立ち、剣の平で槍を払う。「乱暴しないで。路は皆のものだ」
傭兵は怯えない。斬り合いが目的ではないからだ。
彼らの足は動き続け、河原の砂に細い“割れ目”を刻む。
ガイウスが低く唸り、黒竜を低空で走らせる。風が砂の“割れ目”を埋め、〈綾〉の紋が上から押さえる。
「参議殿。良い布だ。だが布は、値がつく」
割師が算盤の玉をはじき、俺の背後――砦の方向に小さく顎をしゃくる。
「金は北へ流れる。市場は“こっち側”に開く。路が太っても、値札が違えば、そっちから痩せる」
「値札を、こっちに付け替える」
「口で言うのは簡単だ」
ミリアが祈り台を濡らしながら、柔らかく口を挟んだ。「“市の祈り”を通します。安くする祈りではありません。正しく巡る祈りです」
割師の目が、ほんの少しだけ細くなる。「神学には疎い」
「神学ではありません。——台所です」
ミリアは微笑んで、祈り石をひとつ打ち合わせた。
乾いた小さな音。同じ音が砦側と村側の“市”から返ってくる。
鍛冶屋の爺が打つ鉄槌、粉屋の石臼、牛の鳴き声、パンの裂ける音。生活の音が薄く、細い糸になって路に乗る。
「〈聖光重奏・市〉」
祈りは値札を勝手に変えない。
ただ、手から手へ渡る物の“音”を揃える。
揃えば、恐れは減り、価格は揺れにくい。布の“腰”が、内側から太る。
「市場布、か」割師が唇を歪める。「趣味がいい」
「布は見た目じゃない。落ちないことが仕事だ」
割師は算盤の玉をひとつ強く弾いた。
上流から一挙に濁りが走る。誰かが堰を崩したのだ。
濁りは重い。〈綾〉の斜めは強いが、重さには弱い。
「ガイウス!」
「わかっている!」
黒竜が河面すれすれで逆風を吐く。
濁りの“重さ”を空に散らせ、〈綾〉の谷に“軽さ”を足す。
アリシアは傭兵の足を正確に打ち、ミリアは子ども連れの荷車を導いて浅瀬の“太いところ”へ誘導する。
俺は杖を一度強く突いた。
「〈展開:縫〉」
布を“縫う”式。
見えない針で〈綾〉の交点に“留め”を入れ、〈縦糸〉と〈横糸〉を数歩だけ固定する。
縫いは固くなるかわりに、動きが鈍る。長くかける術じゃない。いまだけ、ここだけ。
割師の眉が初めて動いた。「……針を持つのか、土の術師」
「土にも針は要る」
「なら、こちらも」
割師は算盤を裏返した。
裏には黒い薄板。細い線が幾何学に刻まれている。
指で線をなぞる。数字ではなく、線で“勘定”を結ぶ板。
「〈割紋・流〉」
細い黒の線が、河原から路へ、そして砦の内へ伸びた。
耳の奥で、鉄の鳴る音が揺れる。砦の倉の錠前。鍵の穴。…“鍵番”が逃げた穴と同じ匂い。
「やめろ」
俺の声は低かった。
割師は肩をすくめる。「やめる? なら縫うのをやめてくれ」
リゼルが壁の陰から歩み出る。「十分遊んだろ、算盤男。風が飽きたと言っている」
「風は勝手に言う」
「だから、俺が勝手に返す」
リゼルの外套がひと揺れした。
風が割師の黒板の線だけを、すっと引き剥がす。
線は板から離れて、空気の中でほどけた。ほどけた線は、リゼルの指先で“輪”になって消える。
割師が初めて目を瞠る。「……風に“勘定”を触らせるのか」
「触らない。撫でる」
リゼルが片目をつむった。「硬い線より、柔い線の方が好きでな」
割師は息を吐き、算盤を肩に担いだ。「参議殿。君の布は良い。……だから、今日は退く。私は切らない。割らない。ただ、数える」
「数えれば見える。人の汗と息が、どこに落ちるべきか」
「見えるからこそ、切りたくなることもある」
割師は踵を返し、浅瀬の向こうへ消えた。
傭兵たちも散り流れ、河原に朝の光が落ちる。
ミリアが胸に祈り台を抱き、そっと息を吐いた。「値札の祈り、通りました」
砦側から荷車が往復し、空車の車輪が〈綾〉の上を何度も撫でる。
布の腰が、息をする。
「……持ったな」アリシアが肩の力を解いた。「女は?」
リゼルが首を振った。「今日は“割”の手を前に出した。切りは森の奥で舌なめずりをしてるだけだ」
「なら、こちらも先に縫う」
俺は布の“腰”に〈縫〉をもう一度、浅く。針を深く刺さないよう、呼吸の邪魔をしない程度に。
ガイウスが黒竜の首を撫でた。「風はよい。だが、北の稜線に“冷え”がある。……切る女が、刃を研いでいる」
「来るな」
そう言いながら、俺は土の上に座り込んだ。
膝の裏が重い。縫いは体に負担がかかる。針を持つのは、いつだって少しだけ血がいる。
掌を見れば、指の腹に小さな赤。ミリアがそっと手を取って祈りを置く。
「無理をしないで」
「しない。……いや、少しした」
ふ、と笑うと、アリシアが呆れ顔になり、ガイウスが苦笑し、リゼルが肩を竦めた。
「参議殿」
砦長マルクが駆けてくる。「王都から伝令! “市場の鍵”改め、『布の通行印』を発行するってよ!」
宰相が動いたのだ。
金の“鍵”を、布の“印”に替える。
通る者に印を。印は利権ではなく、祈りと路と税の“拍子”を揃える札だ。
「……いい。縫い目が、制度になる」
胸の中で何かが軽くなるのを感じた。
土から始めた線が、人の言葉になっていく。舞台袖の針が、表の幕を支える。
「戻るか?」
アリシアが問う。
「いいや、まだ。腰は縫えた。次は“肩”だ。森の稜線――女が狙う“耳”と“肩”を、先に打つ」
「追うのか」
リゼルが目だけで笑う。「風は北東へ流れる。……悪くない散歩だ」
「散歩じゃない。針仕事だ」
俺たちは再び塵立つ路へ上がった。
〈綾〉の上を荷車が往復し、祈り石が静かに光る。
砦から村へ、村から砦へ。金と汗と祈りが、同じ拍子で行き来する。
腰は、もう抜けない。
切り手が来ても、割り手が来ても、ここは落ちない。
――だからこそ、次へ行ける。
*
稜線は薄い雲で縁取られていた。
森の中、古い祭祀の石が幾つか、半ば土に埋もれている。
セヴィアの黒い羽根が一枚、石の上に落ちていた。拾い上げると、刃のように固い。
「来る」
アリシアが剣を少し傾ける。
枝の揺れはない。音もない。
けれど、空気が“切られる予告”をしている。
俺は土に膝をつき、短く息を吐いた。
腰を縫った余韻がまだ体に残る。針は重い。
だが、布の肩は繊細だ。新しい技が要る。
「〈展開:杉綾〉」
綾の綾。斜めをさらに逆斜めで重ねる、骨の強い織り方。
足場の草の向き、石の面の傾き、木の根の張りを一つずつ合わせる。
セヴィアの踵が“切りたい線”に乗った瞬間、足場が半足だけ“よじれて”受け流す。
黒い影が、風の芯に生まれた。
セヴィア。双剣。笑みは薄いが、目だけが愉しげだ。
「腰を縫った。……見事。なら、肩を切るまで」
「肩は、落ちると骨が折れる。やめろ」
「優しい」
女は一歩で間合いを詰めた。
アリシアが合わせ、剣と双剣が三度鳴る。
ガイウスの槍が低い角度から入るが、セヴィアは石を踏んで身を起こし、爪先で“結び”の石を狙ってきた。
「嫌いだ、その足技」
「好きにさせて」
俺は〈杉綾〉の“節”に指を落とし、半拍だけ遅らせた。
女の足は“切る”ための速さで運ばれている。半拍遅れれば、切る線に“間”ができる。
アリシアの刃が、その“間”に差し込まれた。
セヴィアの外套が裂け、血が一筋、石に落ちる。
「……学ぶのが早い。やはり、優先対象」
「誉め言葉でよかった」
女は双剣を入れ替え、風の“耳”を切った。
風が一瞬だけ途切れる。黒竜が唸り、リゼルが舌打ちする。
「風の耳を切るな。痛い」
「ごめん」
謝る声で、謝っていない。
セヴィアは刃先で石の角をひと舐めし、踵で〈杉綾〉の要を突こうとする。
「〈縫・返〉」
針を返す。
俺は短く針の糸を逆向きに引いた。
〈杉綾〉の要が“返し縫い”になり、女の踵が浅く弾かれる。
アリシアの剣がさらに深く食い込み、ガイウスの槍が双剣の片方を叩き落とした。
セヴィアは息を吐いた。「今日はここまで。布は、思ったより好きになった」
「次は、切らないでくれると助かる」
「仕事だから」
女は森へ消えながら、肩越しに短く言った。
「割師は数える。私は切る。……そして、もう一つ。縫うふりをして、解く者がいる」
リゼルが眉を上げる。「縫うふり?」
「参議の仕事の真似。指は綺麗。心は汚い。——王都のどこかで」
空気がひやりとした。
宰相は鍵を替え、印を出す。レオンは兵を出し、砦は布を張る。
その裏で、“縫うふり”の誰かが、糸端を静かに抜こうとしている。
俺は土から手を離し、立ち上がった。
指の腹の小さな赤は、もう乾いている。針の跡。
それでも、縫う。
「戻る。王都へ」
アリシアが頷き、ガイウスが槍を肩に、リゼルが風を指で弾く。
黒竜が翼を広げ、空の色は藍から金へ。
腰は縫えた。肩も、持った。
残るは、内側――“縫うふり”の手。
「舞台は、落とさない。袖の手を、見せてやる」
風が布の上を撫で、祈り石が小さく鳴った。
土の匂いが、王都の方角へ、確かに流れていく。