第13話 砦を縫う
北東の砦は、想像以上に痩せていた。
石垣の継ぎ目が乾き、風を受ける角が欠けている。中庭の井戸は息を切らし、兵たちの鎧は磨きが落ちていた。
「参議殿、ようこそ」
迎えに出た砦長は、傷だらけの古兵――マルクと名乗った。目は疑い深いが、手はまっすぐ差し出される。
「余計な口は利かない。助かるかどうかだけ言ってくれ」
「助かる。――ただし、やり方は派手じゃない」
「派手である必要はない。落ちねばいい」
いい砦長だ。俺は頷き、城壁の上に立った。
風は乾いている。石の隙間で渦を巻き、土手の線がところどころ途切れていた。
リゼルが胸壁にもたれ、空を見ている。「遅い」
「畑を結んでから来た」
「なら、ここも畑にしろ」
無茶を言う。だが、やることは同じだ。
俺は城壁の外周と内庭、井戸、排水溝、土手の浅い盛り――“目”になりえそうなものを次々に指でなぞった。
「砦長。土嚢を十、縄を百、濡れ布を二十。井戸の桶は全部出して水を張る。――この順で並べる」
土嚢は切れ目を埋める“結び目”、縄は“撚り”、濡れ布は石の“呼吸”を整える肺だ。
「〈展開:循〉」「〈展開:結〉」「〈支援:流〉」
目に見えない線が砦の内外に伸びていく。
ミリアが祈りの“環”を城門と物見台にくぐらせ、アリシアは兵の剣帯を点検して回った。
ガイウスは壁外の土手の高さを竜の背から見て、低いところに赤布を立てる。
リゼルは……壁の影で、風を数えている。
「来るぞ」
彼の低い声。空気が一段冷えた。
森の稜線から、黒い筋が滑り出す。
最初は雑兵。次に、盾を持った突撃。最後に――“切り手”。
骨の仮面の若造とは違う。
外套の裾が刃のように軽い。左肩の黒い羽根飾り。双剣。翼骨。
昨日、畑で“結び”を狙ってきた女が、砦の“結び”を見抜いて笑った。
「また会ったな、土の術師」
「名前を聞いてない」
「要らない。君が切られる側なら。それでも聞くなら――“縫目断ちのセヴィア”」
縫目断ち。
つまり、俺の“結び”を獲物にしている。
「切らせない」
「切る」
セヴィアが指先で空を払うと、黒い糸のような“冷気”が砦を撫でた。
石の継ぎ目が軋み、土嚢の結び目が鳴る。――線を切る感覚。
俺は杖を胸壁に当て、式を重ねた。
「〈展開:撚〉」
一本の線を、二本に。二本を、三本に。
撚り合わせるほど、切られてもほどけにくい。
「〈支援:連〉」「〈支援:心〉」
兵たちの呼吸が揃い、槍の列が“布”になる。
突撃がぶつかり、布が波のようにたわんで押し返す。
ミリアの光が目に見えない“縦糸”として砦を貫き、井戸の水が“横糸”として通う。
「〈展開:織陣〉」
俺の声と同時に、砦全体に薄い紋が走った。
織り機だ。縦と横。祈りと水。石と土。人と息。
セヴィアの黒い線が表面を切るたび、紋は“裏”へ逃げ、別の線が表に躍り出る。
「……ほう」
セヴィアの口角が上がった。「編んだか。土手を“織る”か。悪くない」
「糸は切れる。布は、裂けても全ては落ちない」
アリシアが城門内で構え、ガイウスが矢狭間越しに槍身を閃かせる。
黒竜の咆哮が風の“通り道”を作り、矢の雨を逸らす。
突撃の足が畦のような“段差”で揃わず、兵の槍が呼吸を合わせて出入りする。
「前へ!」砦長マルクの声が枯れる。「押すな、押すな、保て!」
セヴィアは中央を狙わない。
切れる場所――“結び目”と“耳”だけを刺すように狙ってくる。
俺は次々に“捨て結び”を置いた。切られても痛くない、偽の結び。
そこへ黒い刃が落ちる。軽い手応え。彼女の目がわずかに細くなる。
「捨て糸か。嫌いじゃない」
「なら、もっとやる」
〈展開:結〉をわざと濃く、見えるほどに。
セヴィアが躊躇なく切り落とす――その裏で、薄く本当の“撚り”を走らせる。
布の表と裏。表は切られても、裏は生きる。
「ガイウス、上から“息”!」
「応!」
黒竜が低空を掠め、熱のない風が城壁に沿って流れた。
風は“緯糸”を乾かし、祈りは“経糸”を濃くする。
砦が呼吸している。
俺は胸の中で、その呼吸に自分の息を重ねた。
「〈支援:心〉、全域――〈薄〉」
全員の脈をほんの少しだけ落とす。焦りが薄れ、動きが几帳面になる。
レオンが鍛えた若い兵たちの“声”も、ラインに乗ってきた。
「いい呼吸だ」
リゼルが壁際で笑った。「風が、布に変わった」
セヴィアは楽しげに双剣を組み替え、城壁の“耳”を踏む。
耳――布の端。ほどけば全体が緩む。
左の耳を狙って跳躍、右の耳に体を翻す。
アリシアがそこに入り、刃を受け、滑らせる。
彼女の剣は“切る”のではなく“留める”。耳の縫い目を守る針だ。
「遅い」
セヴィアが囁く。刃が踵から出て、アリシアの脛を狙う。
俺は地面に杖を落とし、土手の線を半足分だけ“ずらす”。
「〈展開:偏〉、〈畝陣:歩〉」
足場が半足、奥へ“移動”した。
セヴィアの踵が空を掴み、剣の刃が石にわずかに触れて跳ねた。
アリシアの一撃が“受け”から“押し”に変わる。セヴィアは外套を切らせ、ひらりと退く。
「学習が早い。――だから、君は優先だ」
「それは誉め言葉として受け取る」
笑い合いながら、刃は本気だ。
彼女は“切れる場所”しか狙わない。俺は“切らせてもいい場所”しか差し出さない。
その差し合いが、砦の呼吸を保たせる。
突撃が弱まる。
ミリアの祈りが城内を一巡し、傷の呻き声が引いていく。
砦長が肩で大きく息をした。「持ったぞ……!」
「まだ」俺は首を振る。「切り番が一つ残ってる」
セヴィアは双剣をおろし、糸を結ぶように指を動かした。
黒い線が空に“結び目”を作る。――逆に、こちらの線を“引っ張る”ための結びだ。
「引けば、ほどける」
危ない。
俺は城内の“糸”に手をかけ、結びを“回す”。
「〈展開:結・回〉」
結び目を、真上ではなく、半歩“横へ”回す。引かれても、ほどけず“泳ぐ”。
セヴィアの指が一瞬止まった。
すぐに笑う。「なるほど。布の上で、結びを“歩かせる”か」
「土は固いようで、歩く」
リゼルが口笛を短く鳴らした。「引き際だ、斬紋の女。風が変わる」
セヴィアは首だけでリゼルを見やる。「風の男。――主は見つけたか?」
「探してる最中だ」
「そうか」
セヴィアは双剣を納め、黒い羽根飾りの付け根を指で撫でた。
血が少し滲んでいる。アリシアとガイウスの“半足のずれ”が、僅かな傷を刻んだのだ。
「次は、切る」
それだけ言って、森へ消えた。
残った魔族は散り散りに退く。砦の上に、朝の風。
兵が座り込み、笑いと泣き声が混じった吐息が石にしみた。
砦長が俺の肩を掴む。「助かった。言葉では足りん」
「足りる。続きがある」
俺は胸壁から外を見下ろす。北東の丘陵、その先――畑の方角。
俺の“織り”は砦を守ったが、畑と繋がっていない。ここで守れても、あちらが切られれば、国は“裂け目”を広げる。
「砦長。土手を延ばす。砦と村を“同じ布”にする」
「どうやる」
「祈りを“縦糸”に、水を“横糸”に。――道を布にする」
ミリアが祈り台を抱え、頷いた。「巡礼路でやるように、祈りの石を間に置きます」
ガイウスが地図を広げる。「用水は途中で二度切れている。古い堰が土に埋もれてるはずだ。掘り出せば繋がる」
リゼルが口を尖らせる。「風は昼に逆転する。布を張るのは朝夕がいい」
「じゃあ今からやる」
砦長が目を瞬いた。「……今?」
「今だ。切り手は一度引いた。次の“切り筋”を読む前に、こっちが“縫う”」
俺は掌を石に、膝を土に。
砦の“耳”に、新しい“縫い”をかける。
「〈展開:織陣・路〉」
城門から外へ、細い糸が一本、伸びた。
目に見えないが、手で探せば分かる。空気の密度がわずかに濃い“通り道”。
祈りの石を等間隔に、用水の溝を薄く掃いて水を通す。
兵の足で土を踏み固め、民の荷車で“緯糸”を乗せる。
午後。
道は布になった。砦から村へ、細いが確かな“布”。
俺はその上に〈支援:連〉を薄く敷き、呼吸を重ねる。――繋がった。畑の“拍動”が指先に戻ってくる。
遠くで黒竜が短く鳴き、アリシアが肩の力を解いた。ミリアの祈りが長い息を吐き、砦長が笑いながら涙を拭う。
「一本の布だ」
リゼルが空を見上げる。「切り手は嫌がる。布は、切りにくい」
「切りにくいけど、切れる」
俺は言う。「だから、縫い続ける」
夕刻。
村から鷹が来た。足に小さな包み。開くと、鍛冶屋の爺の字。
〈畑、呼吸している。
子どもら、布の上を走る。
夕飯、待ってる。〉
胸の奥が、温かくなった。
砦は落ちない。村も落ちない。二つの間に、布が張れた。
「夜の“見回り布”を二重に。祈りの石は濡らしておけ。火を近づけるな。布は燃える」
俺の指示に砦長が頷き、兵が散る。
ガイウスが槍の石突きを土に押し当て、黒竜の背にひと撫で。「風は、良い」
「セヴィアはまた来る」
リゼルが言う。「切り目を見つける天才だ。次は布の“耳”ではなく“腰”を狙う」
「腰に結びを増やす。捨て糸も」
「……参議」
砦長がためらいがちに俺を呼んだ。「王都から書状が来た。お前宛てだ」
開く。宰相の筆致。簡潔な文。
〈鍵番の一部、逃亡。
市場の金、北へ流れる。
切り手、二手あり。〉
北へ――金と、人と、噂。
セヴィアは一手。もう一手が、北で布の“腰”を狙っている。
「二つの布を、もう一枚で“重ね”る」
俺は地図を指で叩いた。「砦と村の布の上に、もう一枚。王都から北へ走る“縦糸”。――それで三層。切れにくい」
「糸が増えるほど、手は足りなくなる」
リゼルの目が笑う。「どうする」
「借りる」
俺は迷わず答える。「王都の若い兵、村の狩人、砦の古兵。祈りと竜の風。――そして、お前の“風読み”」
「報酬は」
「明日の朝飯。卵を四つ」
「さっきより増えたな」
「布も増えたからな」
リゼルが肩を震わせ、笑いを飲み込んだ。
夜が落ちる。
砦と村を繋ぐ細い布が、月光で白く浮いた。
アリシアがその上を、音を立てずに歩く。ミリアの祈りが布に落ち、黒竜の風が皺を伸ばす。
俺は胸壁に杖を立て、目を閉じて布の“拍動”を数えた。
――落とさない。
どれだけ切り手が来ても、縫い直す。
派手ではない。だが、舞台は落とさない。
土の匂いが、風に乗って上ってきた。
遠くで、子どもの笑い声が、一瞬だけ聞こえた気がした。
それだけで、十分だと思えた。
「続きだ」
目を開ける。「次は、布の“腰”だ」
リゼルが指で北を指した。「夜明け。風が変わる。――その時が、縫い時だ」
俺は頷き、杖を握り直した。
まだ終わらない。むしろ、ここからだ。
畑も、砦も、王都も。
全部、同じ布にする。