第12話 土手を編め、畑を守れ
伝令の短い文を握りしめたまま、俺は回廊を駆けた。
北東の砦が落ちる。辺境の小村が連続して襲撃。――二つの狼煙。わざとだ。こちらを分断させるために。
「順序を決める」
階段を降りる途中でアリシアが追いつき、肩を並べる。
「砦か、村か」
「村だ」
迷いなく答えた。
「砦は王都の軍が動ける。だが村は“顔と名前”でしか守れない。俺たちが行く」
ミリアが頷く。「避難と導線は私が」
ガイウスが槍を担ぎ直す。「竜を出そう。外郭を越えたら、最短で」
石段の陰でリゼルが壁にもたれていた。「じゃあ俺は砦。――言っとくが、一人で派手はやらん。風の通りを数えるだけだ」
「十分だ。風が読めれば、次に水を流せる」
王都の門を抜けると、待っていた黒竜が首を垂れた。
鞍に跨る瞬間、背で兵の足音が止まる。振り向けば、教練場の若い兵士たちが整列していた。先頭に、聖剣なしのレオン。
「……何しに来た」
「講師の最初の課題だ」
レオンの目は、あの傲慢さを湛えながらも、今は少し違う色をしていた。
「俺は王城を離れられない。だが教えた連中を“送り出す”くらいはできる。二十名。盾と槍、混成。——命令だと思うな。頼みだと思え」
彼の後ろで、若い兵がぎこちなく敬礼した。
俺は短く息を吐き、首だけで頷く。
「なら条件。俺が指示した陣形から外れないこと。引くと言ったら引け。勝ちより、残ることを選べ」
「承知」
レオンは背を向けた。「帰ったら、感想を聞かせろ」
黒竜が翼を開く。石畳が震え、城壁が遠ざかる。
冷たい風が顔に刺さった。俺は杖を抱え、胸の鼓動を〈支援:心〉で落ち着ける。
――畑に、そして戦場に。
*
ハウラ村は、煙の匂いを空に積み上げていた。
柵の外には折れた槍、焦げた草、引きずられた血の線。だが村の中心はまだ生きている。
鍛冶屋の頑固爺と、草刈り鎌を持った女たち。守るべきものの顔がそこにあった。
「戻ったぞ!」
黒竜の影に気づいた少年が最初に叫び、残りの村人がわっと群がる。
泣きながら笑う顔に、胸が痛くなり、少しあたたかくなる。
「報告を」
俺は一歩前へ。村長が息を切らして駆け寄ってきた。
「森の向こうから、三度。どれも小さな群れだが、動きがいやに揃ってて……柵を叩いては引く。人の動き方だ」
「囮と攪乱。夜を待って大きいのをぶつける気だな」
アリシアが広場を一巡して頷く。「地形を使う。柵のここ、ここ、それと用水の堰。逆に“詰まる口”を作ってやれば、刈れる」
「祈りは村環を重ねます」
ミリアが祈り台を掲げる。「怖がりの波が広がらないように、家々の間に〈聖光〉を薄く通す。逃げ道は南の畑。——畑を通るのが嫌なら、ごめんなさい」
「畑を通せ」
俺は即答した。「畑は戻せる。人は戻らない」
ガイウスが竜の首を撫でる。「上から見たが、森際に古い石。祭祀の跡だ。そこを起点に攻めの線を引いてる」
「……地脈を握ろうとしてる」
俺は土を一握り。しっとりと弾力のある土。
王都を出る前、鍛冶屋の爺に教わった。ここは古い時代に灌漑の輪を引いた土地だと。畑の“目”は網のように広がり、土を繋いでいる。
(俺がやった“循”の補助も、きっとこの目に乗ってる)
つまり、連中は俺の補助ごと断って村を潰すつもりだ。
なら、逆だ。目を編み直す。土手を編む。
「配置を言う。レオンの部隊は北。槍と盾で“詰まる口”を作れ。ミリアは家屋の間に〈聖光〉と退避線。ガイウスは上から押さえ。アリシアは機動。——俺は畑だ」
「畑?」
アリシアが目を丸くする。
「土を結ぶ。用水と畝を“ひとつ”にして、陣にする。——〈展開:畝陣〉」
意味が分かったのか分からないのか、村長はとりあえず頷いた。「畑なら好きにしてくれ」
俺は外套を脱ぎ、畝に膝をつく。
土の粒の流れを指の腹で探る。水が通る道、根が張る向き。
そこに、俺の“補助”を薄く通す。
〈展開:循〉
〈展開:結〉
〈支援:流〉
畝の列が見えない糸で結ばれ、用水の縁が薄く光る。
畑全体が、一枚の大きな“盾”になっていく。
「……視える」
ミリアが息を呑む。「土の上に、温かい網が」
「俺のやり方だ。目に見えなくて派手じゃない。けど、舞台を落とさない」
黒竜が低く鳴いた。ガイウスが口角を上げる。「上から見ても分かる。畑が呼吸してる」
夕陽が森に沈み、空気が冷える。
森の中で、枝の弾ける音が揃った。
「来る」
アリシアが剣を抜き、レオンの若い兵たちが槍を構える。
村人は子どもを抱え、南へ退避線を流れるように移動。ミリアの祈りが震えを滑らせていく。
最初の波は、獣型の下級魔族。十、二十。
北の柵に殺到した瞬間、俺は畝に杖先を落とす。
〈展開:畝陣・起〉
用水の堰が“逆流”し、泥が弾けて防壁になった。
獣の足が取られ、槍の間隔に吸い込まれる。
「突け!」
レオンの兵が声を合わせる。槍の穂先が一斉に出て、引く。
練度は荒いが、声は揃っていた。誰かが、剣の代わりに言葉で陣形を切っている。——王都の講師の顔が脳裏を掠め、苦笑が漏れそうになった。
第二波。
今度は人型。鎧を着込み、火矢と小型の投槍。
アリシアが前に出る。俺は〈支援:脚〉〈支援:視〉〈支援:腕〉を薄く重ね、ミリアは家屋の間に〈聖光〉の帯を通す。
火矢が〈畝陣〉の縁で逸れ、投槍が泥に呑まれる。
アリシアの剣が閃き、敵の膝を浅く斬る。深追いしない。切って、離れる。
ガイウスの合図で黒竜が低空を一閃し、風圧だけで敵列を崩した。
「……いい呼吸だ」
俺は畝の上で小さく呟く。〈支援:連〉を全体に薄く通し、呼吸の波を同期させる。
村全体が、一つの生き物みたいに“吸って、吐く”。
第三波。
森の影から、骨の仮面を被った魔族が現れた。手に持つ杖には、黒い呪具。
ミリアの光がざわり、と退いた。空気が重い。——〈聖〉を嫌う線。呪曲だ。
「ミリア、無理はするな。これは“流し方”の問題だ」
「わかっています」
骨仮面が杖を振る。黒いもやが地を這い、家屋の壁に貼り付く。祈りを黴のように侵す呪い。
俺は畝の“目”に杖を立てた。
「〈展開:偏〉」
空気の層を傾け、呪いの“重さ”を畑の外に落とす。
黒いもやが畝に乗った瞬間、〈循〉が呪を解いて流す。用水に落ち、泥に吸われ、光る。
「……浄め、られていく」
ミリアが微笑む。「土は、優しい」
骨仮面がわずかに首を傾げた。
呪の方向を変え、今度はレオンの兵列へ。若い兵が一瞬たじろいだ。
「下がるな!」
アリシアが駆け込み、剣の背で呪杖をはじく。
ガイウスが上から槍を落とす——が、骨の杖の先で弾かれた。硬い。
黒竜が咆哮するも、骨仮面はほとんど動かない。
(核がある。杖じゃない。足……いや、背?)
視界を〈支援:視〉で浅く広げ、骨仮面の肩甲の下に違和感を掴む。
背負っている。硬い“板”。呪の“型”。
俺は畝の隅の石を拾い、指でなぞる。
「〈投射:衝〉、〈支援:偏〉、〈展開:流〉——」
石はただの石。だけど、流れを掴む手の延長だ。
軽く放った石が、空気の層を滑って骨仮面の肩甲の“隙間”に吸い込まれる。
鈍い音。骨仮面の動きが一瞬止まった。
「今だ!」
アリシアが踏み込み、膝を抜き、喉ではなく“杖を握る指”だけを斬る。
ガイウスの槍が杖を叩き折り、黒竜の風が仮面を吹き飛ばした。
露わになった顔はまだ若い。瞳に虚が宿っている。
ミリアが祈りで意識を落とし、兵が縄をかけた。
「核を外した。——次」
俺は畝の上で振り返る。
森が、静かになった。
夜風が流れ、〈畝陣〉の光が細くなる。まずい。長く持たせすぎた。
「交代だ。前列、後退。二列目、受け!」
レオンの兵が教練通りに入れ替わる。
アリシアは一度だけ俺を振り返り、短く頷いた。——信頼の短い合図。胸が少し軽くなる。
第四波は、来なかった。
代わりに、森のさらに奥——古い石の祭祀場の暗がりに、細い影が立った。
「ようやく、糸の先へ」
冷たい声。耳に覚えがある。
四天王を名乗ったリゼルとは違う、もう一人。
黒い羽根飾りを左肩に、双剣を下げた女の魔族。翼は畳まれているが、翼骨の形が外套越しに分かる。
「……誰だ」
「名は要らない。君らの地を“切る者”だ」
女は一歩踏み出し、足元の石を爪先で弾いた。
石が跳ねた瞬間、畑の“目”が弾かれた。〈畝陣〉の糸がひと筋切れる。
「地を編んだか。器用だが、甘い。——編み目は、切れる」
空気の温度が一段下がった。
アリシアが前へ出る。
俺はとっさに〈支援:心〉を彼女に重ね、胸の波を穏やかにする。
「切らせない」
「切る」
女が地面を蹴った。視線から消えた——のではない。目が追いつかないほど軽い。
アリシアの剣が火花を散らし、ガイウスが横から槍を入れる。しかし、空を切る。
黒竜が上から風を叩きつける。女はひらりと石の上へ。
〈畝陣〉の“結”の石——そこへ、踵の刃を落とす。
「させるか!」
俺は畝に両手を突き、怒鳴り声とともに式を反転させた。
〈展開:畝陣・反〉
編み目の“結び”を、外からではなく、内から固める。
畝の土が一瞬だけ固くなり、石が沈んだ。女の踵が空を踏む。
アリシアがその跳ねを追って横薙ぎ。女は外套で刃を受け、後ろへ滑る。
双剣が抜かれた。薄く黒い刃。——どちらも“切るためだけ”の形だ。
「土を好きにする。面白い術師だ。……殺すのは先にしよう」
女が笑った。
俺も笑い返す。「俺も、今はお前を殺さない。——土が先だ」
すれ違う言葉。だが、互いに嘘は言っていない。
女は地を切り、俺は地を編む。
その争いは、剣よりも深く長い。
「時間を稼ぐ」
アリシアが短く吐き、間合いを保ちながら女の足の自由を奪う剣筋を織る。
ガイウスが斜め上から圧をかけ、黒竜は風で“切る線”を鈍らせる。
ミリアは逃げる村人の背を押し、震えを鎮める光を通す。
レオンの兵は盾の壁を維持し、間口を“詰まらせる口”に保つ。
俺は畝の上で、両手を土に。
〈展開:畝陣・継〉
〈支援:連〉
〈支援:循〉
切られた糸は結べばいい。
結び目は太くなるが、太いほど踏ん張る。
用水の曲がり角に小石を足し、畝の向きを半刻だけ変える。
——畑全体が、女の歩幅から半足分だけずれる。
「……っ」
女の目が僅かに細くなる。
剣の先が、狙った“結び”の石に届かない。半足分、遅い。
アリシアの刃が女の外套を裂き、ガイウスの槍が肩を掠める。
黒竜の風が女の髪飾りを飛ばした。黒い羽根が畑に落ちる。
「覚えた。——次は切る」
女は踵を返し、森の暗に溶けた。
追おうとしたアリシアの肩を、俺は短く掴む。
「追うな。畑を守る方が先だ」
息を整える。
森は静か。獣も人も、いない。
今夜は、ここまでだ。
*
夜明け前。
焚き火の縁で、疲れた兵が干し肉を噛んでいる。
膝に剣を横たえたアリシアは目を閉じ、ミリアは静かに祈り、ガイウスは竜の鱗の割れ目を指で探る。
俺は畝の端に腰を下ろし、土を弄んだ。土の匂いは、まだ生きている。
「……守ったな」
村長が湯飲みを差し出す。
俺は受け取り、一口。熱い。うまい。
「守った。けど、切り手が来た。次は、畑だけじゃ足りない」
「何が要る」
「“周り”だ。畑の外。森と路と、風の通り。——土手を編む」
村長が首を傾げる。
俺は指で土に図を描いた。村の輪、森の縁、用水の線。そこに、細い土手の線を幾重にも重ねる。
「畑の目を村の外まで延ばして、あの女が“切りたい線”を先に決める。切りに来たら、切られてもいい線を切らせる。太いところは太く、細いところは捨てる」
「……わかるような、わからんような」
「畑の話だ。——大丈夫、やって見せる」
そこへ、北の空から黒い点。
竜ではない。鷹だ。王都の印を足につけ、俺の肩に止まる。
筒を外し、紙を広げる。
〈北東砦、持ちこたえ。
ただし、敵将――“切り手”の気配あり。
参議、土手を知るなら、早急に来られたし。〉
文字の癖。——リゼル。
やはり、同じ“切り手”が向こうにも出ている。
「二つの土手を繋げ」
自分に言うように呟き、立ち上がる。
「ミリア、村に“祈りの環”を残してくれ。アリシア、ガイウス——森と用水の“捨て線”を一緒に作る。レオンの兵は、明日まで村に残れ。退避の訓練を続けるんだ。俺は——」
「砦だな」
アリシアが肩を竦める。「行ってこい。ここは任せろ」
ミリアが微笑み、手を握る。「神は道の上にいます」
ガイウスが槍で地面を軽く突く。「竜は、風の匂いを覚えた」
黒竜が翼を広げる。
俺は畝陣の“結び”に指を埋め、静かに息を吐いた。
土に、声が通る。
「——落とさない」
空へ。
畑の緑が遠ざかり、森が帯のように流れ、空が広がる。
北東の地平に、古い砦の影。その周りに、細い線のような土手。——切られかけている。
リゼルの黒い外套が砦の上でひらりと翻った。
彼がこちらを見上げ、口だけで「遅い」と言った気がした。
「遅れてない」俺は風に叫ぶ。「間に合う。土手を編む」
黒竜が一声、雲を割るように咆哮した。
俺の胸の中で、鼓動が“畑の拍動”と重なる。
〈支援:連〉を、自分にも通す。
——舞台袖から、舞台へ。
俺は“落ちない舞台”を、二つ繋ぐ。
補助術師の戦いは、派手じゃない。
だけど、こういう時のために、俺は追放されたんじゃない。
俺を必要とする場所が、いま確かにある。
「耕そう。砦も、畑も、国も」
黒竜が頷いたように見えた。
風が、土の匂いを連れて、顔にぶつかった。
空は高く、遠く、夜明けの色に近づいていた。